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みんなの「日イ関係」ブログ

タイトル 日 時
インドネシア慰安婦連帯ネットワーク(JSII)ソロ市で集会 Ianfu RI
インドネシア慰安婦連帯ネットワーク(JSII)ソロ市で集会 Ianfu RI インドネシア慰安婦連帯ネットワーク(JSII=Jaringan Solodaritas Ianfu Indonesia)が、2013年8月18日に、中部ジャワのソロ市で、8月14日の「第1回世界慰安婦の日」のインドネシア版として、日本政府を糾弾する集会を開催したとの報道を目にした。 同市のグラダグ(Gladag)円形交差点付近で行われた集会では、道行く通行人に、黄色の蝶の形の小旗が配られたという。蝶は平和のシンボル、黄色は希望のシンボルと記事にはある。 ...続きを見る

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2013/08/24 00:00
秋田県横手市「国際交流かまくら」説明会を東京で実施 International Kamakura
秋田県横手市「国際交流かまくら」説明会を東京で実施 International Kamakura 秋田県横手市は、2014年2月中旬に開催される「かまくら祭り」に世界各国の参加を呼び掛けている。2013年7月3日、東京・千代田区の都道府県会館で行われた市主催の説明会。参加希望各国は、その魅力と条件に聞き入った。400年以上もの歴史を有する「かまくら祭り」。2013年2月、インドネシア共和国は史上初、独自のかまくらを設置し、同国の観光・物産PRで大成功を収めた。 ...続きを見る

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2013/07/05 00:00
秋田県横手市の「国際交流かまくら」実現へ向けて説明会を実施
秋田県横手市の「国際交流かまくら」実現へ向けて説明会を実施 まだ八ヶ月も先の話だが、来年2014年2月中旬に秋田県横手市で開催される「かまくら祭り」は、同県・同市の国際化を急加速させるかもしれない。去る4月初旬に、このブログを通じてインドネシア文化宮(GBI)が提案した『国際かまくら博(Kamakura Int'l Festival)』が実現の方向に向かっている。 ...続きを見る

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2013/06/26 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する15 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する15 Akita & SE Asia 秋田県内での報道はないようだが、2013年5月15日、インドネシアの首都ジャカルタで西パプア州民族評議会(MRPB)のユムテ議長を始め、計5名の同評議会議員と昼食懇談会の場を持った秋田県知事。その席で、MRPB議長名で記された秋田県民に向けた“親書”が手渡されたそうだが、筆者が知る限り、その親書の内容はなぜか公表されていない(と思う)。筆者は、そのコピーをMRPB側から入手している。「文化面での交流」を行いとする西パプア州の“上院”の思いは純粋だ。 ...続きを見る

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2013/06/11 00:00
再録『GBIニュース』2002.9.28【豪州〜台湾縦断計画・No.2】シーカヤックが流された
再録『GBIニュース』2002.9.28【豪州〜台湾縦断計画・No.2】シーカヤックが流された 大川誠一のGBIニュース(2002年9月28日)(Berita GBI: 28 Sept,.2002) 【オーストラリア〜台湾縦断計画・No.2】シーカヤックが流された! 大失敗の顛末を八幡氏が報告。 再挑戦に向け国産カヤックが年内にも完成。 日本のH-IIロケットだってそうだ。アメリカのスペースシャトルだってそうだった。壮大な探検・冒険には予期せぬミスが付きまとうものだ。幸運の女神がいつも現れるとは限らない。GBIニュース(2002/6/18)号で報じた、八幡氏と関口氏両名に... ...続きを見る

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2013/05/31 00:00
再録『GBIニュース』2002.6.18【オーストラリア〜台湾縦断計画:シーカヤックで3年間の大冒険
再録『GBIニュース』2002.6.18【オーストラリア〜台湾縦断計画:シーカヤックで3年間の大冒険 大川誠一のGBIニュース(2002年6月18日)(Berita GBI: 18 Juni .2002) 【オーストラリア〜台湾縦断計画】 シーカヤックで3年間の大冒険 『かつて東南アジアを航海していた人々の偉大さを確認する旅です』と関口さんと八幡さん こういう発想は、おそらく普通ではない。しかし、27歳と31歳の茶髪の“普通の”日本男児は、『ほら、山にこもる登山家っていますよね。僕らは海を這いずる人種なんですね』と、壮大な大冒険計画を、さらっと言ってのける。八幡暁(やはた さとる)... ...続きを見る

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2013/05/30 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する14 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する14 Akita & SE Asia 2014年2月、秋田県横手市で実施する方向で検討されている『国際かまくら博』。提案者として幾つかの小提唱を述べてみたい。まず、伝統かまくら(例えば横手市内の二葉町や羽黒町のかまくら通りなど)との“すみわけ”だが、これは当然至極であって、言い換えれば、伝統かまくら文化を、そのままの形で後世に残すためにも、その400年以上もの歴史を持つその風物詩を邪魔するようなことがあってはいけない。木戸五郎兵衛村のかまくらもしかり。浮世絵のような、あの世界自然遺産クラスの光景は、永久保存の価値がある。 ... ...続きを見る

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2013/05/27 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する13 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する13 Akita & SE Asia 9ヶ月も未来(2014年2月中旬)の話だが、秋田県横手市は、インドネシア文化宮(GBI)提案の『国際かまくら博』を、秋田県庁と協力して実施する方向で協議を続けている、と聞く。当面、5〜6基(5〜6ヵ国)の参加を想定しているようだが、提案者として許されるのであれば、最初の参加国候補について提案してみたい。 ...続きを見る

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2013/05/25 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する12 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する12 Akita & SE Asia 秋田県が世界に誇るべき「文化遺産」である横手市のかまくら文化。たかが雪室・雪家・雪屋ではない。400年以上もの歴史を刻む。為政者の主導による“保護文化”とはわけが違う。まさしく一般庶民が育んできた冬の風物詩だ。余りにも詩的な雪文化だ。最近では、日本各地の豪雪地帯で、疑似かまくら文化が観光振興の名の下、あたかもその昔からあったかのように喧伝されているが、横手市のそれとは比較する必要もない。 ...続きを見る

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2013/05/24 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する11 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する11 Akita & SE Asia 秋田県の観光国際化に関して、何号か前に、寒い冬、そして豪雪を海外からの誘客に活かせと書いた。さらに東南アジアの“セレブ層”向けに“超”高額ツアーの企画も提案した。プラス、秋田が誇る発酵文化を応用した“長寿ツアー”についても。今のところ、全く反応はない(笑)。名刺交換したことのある、秋田県庁の観光文化スポーツ部の面々の目に触れてくれたら幸いなのだが。まあ、秋田の朴訥ながらも“超保守的”な文化に鑑みれば、期待するほうが間違いなのかもしれない。 ...続きを見る

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2013/05/20 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する10 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する10 Akita & SE Asia 昨日に続いて、秋田県の佐竹敬久(さたけ のりひさ)知事率いるインドネシア経済交流ミッション団の話題に触れる。2013年5月15日、首都ジャカルタのサリ・パン・パシフィック・ホテル内の日本レストラン「Keyaki」で行われた雪国「秋田」と赤道直下の熱帯「西パプア」の対面・会談。秋田県の有力地方紙にも掲載されていない“歴史的”な出会い。 佐竹秋田県知事&ユムテ議長らMRPBメンバー(画像:じゃかるた新聞) ...続きを見る

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2013/05/17 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する9 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する9 Akita & SE Asia 2013年5月15日、インドネシア文化宮(GBI)は、創立15周年を迎えた。しかし、高田馬場から練馬区への引っ越しは終えたものの、再オープンの具体的日程は未だ定まらない。あれやこれや、色々とこなさなければいけない作業が山積みだ。 MRPBからパプアの“親愛の印”である砂時計型太鼓を受け取る佐竹秋田県知事(画像:じゃかるた新聞) ...続きを見る

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2013/05/16 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する8 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する8 Akita & SE Asia 昨日付の『秋田魁新報』によれば、ジャカルタ訪問中の秋田県インドネシア・ベトナム経済交流ミッションの中核をなす秋田銀行は、投資調整庁との間で業務提携に関する覚書に調印した。なんでも日本の地方銀行が業務提携するのは、百五銀行(三重県)に次いで二番目だそうで、東北の地銀としては初めてとか。業務提携を結んだからといって、直ちに秋田県とインドネシアの間に大型案件が動き出すとは限らないが、東北の一角が、インドネシアとの間で未来志向の締結に至ったことは素直に喜びたい。 ...続きを見る

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2013/05/15 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する7 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する7 Akita & SE Asia 秋田県の佐竹 敬久(さたけ のりひさ)知事率いる「秋田県インドネシア・ベトナム経済交流ミッション」は、現在インドネシアの首都ジャカルタ滞在中だ。総勢51名とか。“大規模”ミッションだ。経済発展が著しいインドネシアとベトナム訪問。世界各国、そして日本の他県も強い関心を寄せる新興国。出遅れ感は否めないが、秋田の国際化が、これまでの環日本海エリアから東南アジア地域にまで広がったことは、それなりに評価したい。 ...続きを見る

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2013/05/14 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する6 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する6 Akita & SE Asia 秋田県の佐竹 敬久(さたけ のりひさ)知事が昨日(2013年5月11日)、テレビドラマ『IRIS(アイリス)』のロケ地として関係を深める韓国のソウルへ向かった。とは言ってもソウルはトランジット。最終目的地はインドネシアの首都ジャカルタ。目的は、以下の秋田放送の記事を参照。秋田銀行がアレンジするとされるこの経済ミッションは、主に県内企業による同国への投資案件に力点を置くそうだ。 ...続きを見る

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2013/05/12 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する5 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する5 Akita & SE Asia 秋田の“超セレブツアー”は、やがて東アジア諸国からの参加の可能性も否定できないが、戦略としてはまず東南アジア諸国、例えばタイ、マレーシア、シンガポール、そしてインドネシアなどからの来秋を想定したい。季節的には、メインはずばり冬季。寒さと雪は、ロシアのセレブ層が豪奢なクリスマスをバリ島で過ごしたいと思う気持ちとよく似て、熱帯地域のセレブ層の憧憬だ。 ...続きを見る

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2013/05/06 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する4 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する4 Akita & SE Asia ゴルデンウィークの真っ只中。ネット上には、東南アジアからの観光客の増加を歓迎する記事が目立つ。中国人旅行客の落ち込みを、経 済発展著しい東南アジア、ことにタイとインドネシアからの観光客が補っている、との趣旨のニュースだ。スカイツリーと浅草寺の東京ばかりか、京都でもその傾向が見受けられるそうだ。“中国だめなら東南アジア”の図か。 ...続きを見る

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2013/05/03 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する3 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する3 Akita & SE Asia 「富士山」の世界文化遺産登録を勧告したユネスコ(国連教育科学文化機関)の発表は、遅すぎた感も否めないが、「日本」を象徴するに相応しい、その霊峰の姿は、国内ばかりか海外からも日本のイメージと重なってきた。富士を常に仰ぎ見て育った、静岡県伊豆生まれの筆者は、二度ほどの登頂経験しか持たないが、それでもその山容を遠くから見るにつけ、神話に登場する「木花咲耶姫」の名を思い浮かべ、同時に「故郷」を愛おしく想う。 ...続きを見る

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2013/05/02 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する2 Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する2 Akita & SE Asia ロシアや韓国そして中国など、日本海の“向こう”に位置する、いわゆる環日本海沿岸諸国との関係強化は、確かに地政学的、経済貿易面の視点にたてば、確かに有望で、そのポテンシャルは巨大だろう。しかし、余りにも(個人的印象だが)東南アジア地域を勘案しない“戦略”は、もはや“井の中の蛙”で、長期戦略とは呼べない。秋田県の話だ。 ...続きを見る

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2013/04/26 00:00
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する Akita & SE Asia
秋田にしました!『東南アジアからの誘客』を提案する Akita & SE Asia 先日の「秋田にしました!『国際かまくら博』を提案する Kamakura Int'l Festival」(2013年4月9日付)に続いて、秋田県国際観光客誘致策の別提案をしてみたい。それは東南アジア地域からの誘客活動だ。というのも、これまで同県はその誘客面において“環日本海諸国”特に、韓国人観光客に過剰に依存してきたと感じるからだ。“アイリス効果”に再度期待するのもよかろう。しかし、それはあくまでも短期的な波及効果である。 ...続きを見る

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2013/04/16 00:00
秋田にしました!『国際かまくら博』を提案する Kamakura Int'l Festival
秋田にしました!『国際かまくら博』を提案する Kamakura Int'l Festival 秋田県がJRグループと提携して今年10月1日〜12月31日、秋田デスティネーションキャンペーン『秋田にしました』を実施することはすでに書いた。また秋田県が2011年3月に策定した「あきた国際化戦略」や2012年7月に策定した『総合戦略産業としての観光の重点推進方針』についても、このブログで少し触れた。さらに観光庁のデータが、秋田県の観光宿泊者数が前年・前々年比で急減していることについても言及した。秋田県知事の佐竹敬久氏が去る3月21日、無投票で再選を決めたことも報じた。 ...続きを見る

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2013/04/09 00:00
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート4 Konser Sasandu di AIU, Akita
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート4 Konser Sasandu di AIU, Akita 2013年2月15日、秋田県横手市の「かまくら祭り」初日。インドネシアの東部、NTT(東ヌサトゥンガラ)州の州都クーパンからやってくた、ロテ島の弦楽器ササンドゥ(Sasandu)の名奏者であるザカリアス・ンダオンさん(34歳)は、公立大学法人・国際教養大学(AIU=Akita International University)に招かれ、学生ホールでミニ演奏会を開いた。 ...続きを見る

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2013/04/08 00:00
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート3 Konser Sasandu di AIU, Akita
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート3 Konser Sasandu di AIU, Akita 2013年2月15日、秋田県横手市の「かまくら祭り」初日。インドネシアの東部、NTT(東ヌサトゥンガラ)州の州都クーパンからやってくた、ロテ島の弦楽器ササンドゥ(Sasandu)の名奏者であるザカリアス・ンダオンさん(34歳)は、公立大学法人・国際教養大学(AIU=Akita International University)に招かれ、学生ホールでミニ演奏会を開いた。 ...続きを見る

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2013/04/07 00:00
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート2 Konser Sasandu di AIU, Akita
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート2 Konser Sasandu di AIU, Akita 2013年2月15日、秋田県横手市の「かまくら祭り」初日。インドネシアの東部、NTT(東ヌサトゥンガラ)州の州都クーパンからやってくた、ロテ島の弦楽器ササンドゥ(Sasandu)の名奏者であるザカリアス・ンダオンさん(34歳)は、公立大学法人・国際教養大学(AIU=Akita International University)に招かれ、学生ホールでミニ演奏会を開いた。 ...続きを見る

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2013/04/06 00:00
WTO次期事務局長ポストを窺うマリ・パンゲストゥ観光創造経済相 Mari Pangestu
WTO次期事務局長ポストを窺うマリ・パンゲストゥ観光創造経済相 Mari Pangestu 15年と6ヶ月前に、インドネシア最東端に位置する西部ニューギニア(現パプア州)の秘境アスマット(Asmat)で会った女性と昨日(2013年3月29日)東京・内幸町の日本記者クラブ(JNPC)で再会した。当時、彼女はインドネシアのシンクタンクであるCSIS(国際戦略問題研究所)の研究員を務める傍ら、仲間と共に「Yayasan Sejati(真実の財団)」を立ち上げ、西部ニューギニアの南西部の大湿地帯に暮らすアスマット民族の文化・環境問題に取り組んでいた。1997年10月、原始美術で世界的に知... ...続きを見る

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2013/03/30 00:00
再録『GBIニュース』2000.5.10 【人】 サヨリ夫妻----イリアンジャヤからやってきた花婿
再録『GBIニュース』2000.5.10 【人】 サヨリ夫妻----イリアンジャヤからやってきた花婿 大川誠一のGBIニュース(2000年5月10日)(Berita GBI: 10 Mei.2000) 【人】 サヨリ夫妻----イリアンジャヤからやってきた花婿。 『夫ジョンの故郷を訪ねたい』と、由紀子夫人 バリ島に嫁いだ多くの日本人女性に関する話題は、今や週刊誌やテレビ局も興味を示さない。以前、その増加傾向はまだまだ珍しい存在で、否定的そして肯定的な双方のニュアンスを込めて多くのメデジアが報じた。今日では話題にもならないほど"定着"した現象となったのかもしれない。どこで暮らそうが、誰... ...続きを見る

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2013/03/25 00:00
再録『GBIニュース』2000.4.21 【人】 歌手デシー・ラトゥナサリ
再録『GBIニュース』2000.4.21 【人】 歌手デシー・ラトゥナサリ 大川誠一のGBIニュース(2000年4月21日)(Berita GBI: 21 Mar.2000) 【人】 歌手デシー・ラトゥナサリ・Desy Ratnasari 『インドネシアのイメージアップに貢献』とスマディ駐日大使 レフォールマシ(Reformasi=改革)の波は、確実にインドネシア官僚社会をも洗っている。それは遠く海外にあるインドネシア大使館にも波及している。在日インドネシア大使館もしかりだ。特にスマディ・DM・ブロトディニングラット(Seomadi D.M.Brotod... ...続きを見る

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2013/03/24 00:00
秋田にしました?東北観光の現状3: Mari ke Prefektur Akita, Jepang!
秋田にしました?東北観光の現状3: Mari ke Prefektur Akita, Jepang! 文部科学省の全国学力テストで全国一位の秋田県。一方で、自殺率全国一位というありがたくない統計も有する同県。人口およそ105万人の“美の国”秋田県の県知事選は、2013年3月21日、他に立候補者がいないため、現職の佐竹敬久氏が無投票再選を決めた。「私の一票 あなたの一票 秋田を支えるこの一票」と謳った秋田県知事選挙は、同日の告示日に現職以外に立候補者が出ず、自動的に再選が確定した。なんとも温厚、寛大なデモクラシーが息づいている。 2013年2月18日、県庁を訪問したインドネシア観光クリエ... ...続きを見る

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2013/03/22 00:00
再録『GBIニュース』2000.3.27【映画パチンコ6】  3月27日、ついにクランク・アップ!
再録『GBIニュース』2000.3.27【映画パチンコ6】  3月27日、ついにクランク・アップ! 大川誠一のGBIニュース(2000年3月27日)(Berita GBI: 27 Mar.2000) 【映画パチンコ】  3月27日、ついにクランク・アップ! ハリー監督、月末に離日、ジャカルタでの撮影開始。 2000年3月13日(月)にスタートした映画『パチンコ』の撮影が、3月27日(月)、ちょうど2週間でクランクアップにこぎつけた。 出演者と撮影スタッフ(3月25日・東京下落合の山楽ホテルにて) ...続きを見る

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2013/03/21 00:00
再録『GBIニュース』2000.3.17 【映画パチンコ5】日イの文化衝突を乗り越えて
再録『GBIニュース』2000.3.17 【映画パチンコ5】日イの文化衝突を乗り越えて 大川誠一のGBIニュース(2000年3月17日)(Berita GBI: 17 Mar.2000) 【映画パチンコ】  クランクインから5日目。日イの文化衝突を乗り越えて 『今度キレたらマズイすよ』と小川美術担当 映画の宣伝文句風に言えば、『かつてこのような映画作りがあったのだろうか?』ということになるだろう。GBIニュースで再三お伝えしてきた映画『パチンコ』が本格的に動き出している。3月13日(月)に強行クランクイン。撮影も5日目を迎えた。しかし、十分な制作資金が確保されていない... ...続きを見る

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2013/03/20 00:00
再録『GBIニュース』2000.3.9 【映画パチンコ4】 3月13日(月)クランクイン敢行!
再録『GBIニュース』2000.3.9 【映画パチンコ4】 3月13日(月)クランクイン敢行! 大川誠一のGBIニュース(2000年3月9日)(Berita GBI: 9 Mar.2000) 【映画パチンコ---4】 3月13日(月)クランクイン敢行! 撮影スタッフと出演者がGBIで初顔合わせ 『大きな情熱と、小さな資金で、大きな実験に挑戦』 映画『PACHINKO』が動き始めた。3月9日(木)、ハリー・スハルヤディ監督と並んで同映画の共同製作者であるインドネシア文化宮(GBI)で、撮影クルーと出演者の皆さんが集う、いわゆる「初顔合わせ」が行われた。総勢およそ40名。資金的... ...続きを見る

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2013/03/19 00:00
秋田にしました?東北観光の現状2: Mari ke Prefektur Akita, Jepang!
秋田にしました?東北観光の現状2: Mari ke Prefektur Akita, Jepang! 秋田県が2011年3月に策定した「あきた国際化戦略」を読むと、全体的に“環日本海沿岸諸国”が重点対象地域となっている。つまり、中国、韓国、ロシア極東地域などの日本海の向こうに位置する諸国との交流が“戦略”の基軸となっている。もちろん、第一章の『計画策定の趣旨』の項で「BRICsや中東、東南アジアなど新興国の活力と本県を結びつけることができれば。本県の潜在的な力を大きく引き出すことができると考えます」と、東南アジアについても、さらりと触れてはいる。策定当時には想定外だったのであろうが、これら... ...続きを見る

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2013/03/18 00:00
秋田にしました?東北観光の現状 Mari ke Prefektur Akita, Jepang!
秋田にしました?東北観光の現状 Mari ke Prefektur Akita, Jepang! 東京でソメイヨシノが開花した2013年3月16日、東北エリアで鉄路が新たな歴史を歩み始めた。東北新幹線では「はやぶさ」が国内最高速度の時速320kmで、東京・青森間を3時間を切って結んだ。その昔の♪上野発の夜行列車降りた時から....♪時代をから考えると隔世の感。そして、秋田新幹線では“赤い新幹線”こと「スーパーこまち」がデビュー。竿燈やなまはげなどの“秋田レッド”をイメージしたロングノーズの新型車両。スーパーこまちは、秋田・東京間を最短3時間45分で結ぶ。 ...続きを見る

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2013/03/17 00:00
再録『GBIニュース』2000.2.27 【映画パチンコ】 クランクインまであと一週間
再録『GBIニュース』2000.2.27 【映画パチンコ】 クランクインまであと一週間 大川誠一のGBIニュース(2000年2月24日)(Berita GBI: 24 Feb.2000) 【映画パチンコ】 クランクインまであと一週間。撮影クルーと打ち合わせ 『制作資金にご協力を!』とハリー・スハリヤディ監督 インドネシア人映画監督ハリー・スハルヤディさん(GBIニュース:2000年2月13日号&2月20日号参照)が、インドネシア文化宮(GBI)並びに日本映画学校(新百合丘)の学生ボランティアらの協力で、3月初旬に撮影開始を予定している映画『パチンコ』が、多くのメディア... ...続きを見る

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2013/03/16 00:00
再録『GBIニュース』2000.2.13 【人】 映画監督ハリー・スハルヤディ
再録『GBIニュース』2000.2.13 【人】 映画監督ハリー・スハルヤディ 大川誠一のGBIニュース(2000年2月13日)(Berita GBI: 13 Feb.2000) 【人】 映画監督ハリー・スハルヤディ(Harry Suharyadi) 日イ合作自主映画『PACHINKO(パチンコ)』が3月4日クランクイン! 『第2回ジャカルタ国際映画祭への参加を目指します』 2年前の1998年暮れ、スハルト退陣に伴う『レフォールマシ(改革)』の余韻が覚めやらぬ首都ジャカルタで一本の映画が話題をさらった。題名は『Kuldesak(袋小路)』(GBIニュース19... ...続きを見る

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2013/03/12 00:00
再録『GBIニュース』2000.1.30【ライブ】 『インドネシアン・ロック日本初公演』
再録『GBIニュース』2000.1.30【ライブ】 『インドネシアン・ロック日本初公演』 大川誠一のGBIニュース(2000年01月30日)(Berita GBI: 30 Jan.2000) 【ライブ】 『インドネシアン・ロック日本初公演』 愛と平和のメッセンジャー・SLANKが200年2月11日渋谷で ...続きを見る

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2013/03/09 00:00
箱根で思う深津信義氏の西部ニューギニア戦線 Papua dan Hakone 
箱根で思う深津信義氏の西部ニューギニア戦線 Papua dan Hakone  去る1月18日以降、今日まで神奈川県箱根の駒ケ岳から仙石原付近で、ほとんど体に感じない揺れだが、群発地震が続いている。その数、1,700回以上。箱根山噴火の前触れか、それとも富士山噴火の前兆か、と地元を含め、女性週刊誌などで喧しい。2月10日には震度5の地震で、あの有名な大涌谷の真上を通るロープウエーが停止を余儀なくされた。 大涌谷 ...続きを見る

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2013/03/06 00:00
五十嵐横手市長インドネシアを語るWalikota Yokote singgung Indonesia
五十嵐横手市長インドネシアを語るWalikota Yokote singgung Indonesia 去る3月1日、秋田県横手市のホームページ中にある「市長コラム」に、インドネシアによるかまくら祭り参加に関する五十嵐忠悦市長のコメントが掲載された。ササンドゥの音色を“何とも言えない優しい響き”と記している。インドネシアの最南端の島・ロテ島(Pulau Rote)で生まれ育まれた、世界で唯一の弦楽器文化は、演奏“北限地”を塗り替えた。 インドネシアンかまくらを訪れた五十嵐市長(2013年2月16日)。 ...続きを見る

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2013/03/05 00:00
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート Konser Sasandu di AIU, Akita
秋田・国際教養大学ササンドゥコンサート Konser Sasandu di AIU, Akita 2013年2月15日、秋田県横手市の「かまくら祭り」初日。インドネシアの東部、NTT(東ヌサトゥンガラ)州の州都クーパンからやってくた、ロテ島の弦楽器ササンドゥ(Sasandu)の名奏者であるザカリアス・ンダオンさん(34歳)は、公立大学法人・国際教養大学(AIU=Akita International University)に招かれ、学生ホールでミニ演奏会を開いた。 ...続きを見る

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2013/03/04 00:00
秋田県が経済ミッションをインドネシアへ派遣Misi Akita ke Indonesia
秋田県が経済ミッションをインドネシアへ派遣Misi Akita ke Indonesia 秋田の有力紙『秋田さきがけ新聞』によれば、秋田県は佐竹敬久知事率いる経済ミッションを、来る五月インドネシアとベトナムへ派遣する。このことは、横手市のかまくら祭りに参加したインドネシア政府・観光クリエイティブ経済省一行が、秋田県庁で同知事を表敬訪問した際(2013年2月18日)に、佐竹知事自身が表明している。 ...続きを見る

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2013/03/01 00:00
秋田にしました&秋田美人Akhirnya Akita dimana wanitanya cantik
秋田にしました&秋田美人Akhirnya Akita dimana wanitanya cantik 秋田県は、全国のJRと提携して大型観光キャンペーンを展開する。名付けて“秋田にしました”。平成25年10月1日〜12月31日、秋田デスティネーションキャンペーンを実施する。秋から冬の始めのキャンペーンで、四季を通じてのものでないことは残念だ。 ...続きを見る

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2013/02/28 00:00
巨大津波に耐えたアチェの一本海松(2) Cemara yg tahan Tsunami, Aceh
巨大津波に耐えたアチェの一本海松(2) Cemara yg tahan Tsunami, Aceh 2004年12月26日。スマトラ島沖大地震&巨大津波。 アチェの州都バンダアチェ。 ウレレ海岸で唯一生き抜いた一本の海松(木麻黄)。 今でも元気に成長を続けている。 一方、市内では津波に耐えた多くの樹木が復興計画で 伐採されていった。 Bencana Tsunami Aceh. 2004.12.26 Sebatang pohon cemara laut yang terselamat di Pantai Ulee Lheu. Saksi sejarah tragedi it... ...続きを見る

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2012/07/11 00:00
巨大津波に耐えたアチェの一本海松 Cemara yg tahan Tsunami, Aceh
巨大津波に耐えたアチェの一本海松 Cemara yg tahan Tsunami, Aceh 2004年12月26日。スマトラ島沖大地震&巨大津波。 アチェの州都バンダアチェ。 ウレレ海岸で唯一生き抜いた一本の海松(木麻黄)。 今でも元気に成長を続けている。 一方、市内では津波に耐えた多くの樹木が復興計画で 伐採されていった。 2004年12月26日のスマトラ島沖大地震&巨大津波に遭遇するも、ウレレ海岸で唯一生き残った海松(木麻黄)の大木(撮影:2005年8月)。 ...続きを見る

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2012/07/10 00:00
ディーバが初めて語るアチェの津波体験 Ceramah Diva ttg Tsunami
ディーバが初めて語るアチェの津波体験 Ceramah Diva ttg Tsunami インドネシア文化宮(GBI)で、2012年6月30日(土)に行われた「第106期インドネシア理解講座」。アチェから来日したサクラ・ナルカヤさん(66歳)の孫のディーバちゃん(16歳)。2004年12月26日、スマトラ島沖で起きた大地震、そして巨大津波。津波に巻き込まれながら生還を果たした、当時9歳のディーバちゃん。8年間のトラウマを乗り越え、初めて語った“津波の瞬間、そして家族”。 ...続きを見る

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2012/07/08 00:00
アチェ海松寄贈の動機を語るサクラさん講演 Ceramah ttg Cemara
アチェ海松寄贈の動機を語るサクラさん講演 Ceramah ttg Cemara インドネシア文化宮(GBI)で、2012年6月30日(土)に行われた「第106期インドネシア理解講座」。アチェから来日したサクラ・ナルカヤさん(66歳)のミニ講演。岩手県陸前高田市へ寄贈するアチェの海松(木麻黄・モクマオウ)について、その動機などを語った。 ...続きを見る

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2012/07/07 00:00
アチェ海松の陸前高田市への贈呈式動画 Cemara Aceh untuk Rikuzentakata
アチェ海松の陸前高田市への贈呈式動画 Cemara Aceh untuk Rikuzentakata 京都の初夏を堪能しているサクラさん、そして二人の好奇心旺盛な孫たち。昨日(2012年7月5日)は京都御所を見学したそうだ。そして帰国前日の今日は、サクラさんの実姉の家に泊まる予定。離日は明日。関空からマレーシアのKL経由でアチェに帰る。13日間の第二の祖国“日本”訪問が終わる。 ...続きを見る

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2012/07/06 00:00
アチェのサクラさん京都へ。姉と再会。Sakura jumpa dgn kakak di Kyoto.
アチェのサクラさん京都へ。姉と再会。Sakura jumpa dgn kakak di Kyoto. 父が生まれた“桜の国”日本へ四年ぶり、四度目の訪問。スマトラ島北端のアチェ州からやってきたサクラ・ゾフラ・ナルカヤ(Sakura Zohra Narukaya)さん(66歳)は、孫のディーバちゃん(16歳)とラディヤン君(19歳)と共に、昨日(2012年7月4日)、東京から京都へ向かった。東京駅新幹線ホーム。仙台への出張を終え、京都へ移動する、州都バンダアチェにある国立シーアクアラ大学津波防災研究センターのディルハムシャさんとも合流。ディルハムシャさんはディーバの父。かつて名古屋の大学に留... ...続きを見る

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2012/07/05 00:00
一本松が結ぶアチェと陸前高田の絆 Cemara Laut Aceh & Lagu Soshunfu
一本松が結ぶアチェと陸前高田の絆 Cemara Laut Aceh & Lagu Soshunfu アチェから遥々持ってきた海松(木麻黄・モクマオウ)の苗木を岩手県陸前高田市へ寄贈した翌日曜日(2012年7月1日)、サクラさんと二人のお孫さんは、バスツアーで東京見物に出かけた。その朝、『東京新聞』は「陸前高田に“勇気”の輪」、「スマトラ沖津波に耐えた“一本松”」、「インドネシア女性苗木寄贈」との見出しで、写真を二枚使用する大きな記事を掲載した。 ...続きを見る

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2012/07/02 00:00
アチェの海松、岩手県陸前高田市民となる Cemara Aceh jadi warga Jepang
アチェの海松、岩手県陸前高田市民となる Cemara Aceh jadi warga Jepang アチェから陸前高田へ。長い長い旅だった。インド洋に面したアチェ州の州都バンダアチェ(Banda Aceh)で生まれた、身長わずか40cm足らずで、とてもスリムな海松(Cemara Laut・木麻黄=モクマオウ)が、2012年6月30日、東京・高田馬場にあるインドネシア文化宮(GBI)で、岩手県陸前高田市へ贈呈された。 ...続きを見る

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2012/07/01 00:00
響け早春賦、届け海松 アチェから東北被災地へ Cemara Aceh untuk Jepang
響け早春賦、届け海松 アチェから東北被災地へ Cemara Aceh untuk Jepang 「アチェで津波を受けた被災者の一人として、陸前高田市の“奇跡の一本松”が、市民の希望の光のままでいられないことを知り、とても悲しくなりました。でも私に何ができるのでしょう?そう考えた時、私が住むバンダアチェ市のウレレ海岸で、今も市民を勇気づけている唯一生き残った海松の気持ちを届けようと思ったのです」---6月27日に来日したサクラさんがそう話す。 ...続きを見る

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2012/06/30 00:00
サクラ+アチェ海松来日 Bibit Cemara Laut Aceh tiba di Tokyo
アチェ州の州都バンダアチェ在住のサクラ・ナルカヤさん(66歳)が、岩手県陸前高田市へ寄贈する海松の苗木を携えて、2012年6月27日深夜、無事羽田空港に到着した。翌日、サクラさんは孫のディーバちゃんとラディアン君、そしていとこにあたる映像プロデューサーの吉丸昌昭氏と共に、文京区の龍光寺を訪れた。そこには、サクラさんの実父・池尻正信(まさのぶ)氏と祖父で『早春賦』の作詞者である吉丸一昌氏が眠る。 龍光寺に建つ『早春賦』の歌碑の前で。サクラさんと二人の孫たち(2012年6月28日撮影) ... ...続きを見る

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2012/06/29 00:00
サクラさん木麻黄の苗木と共に今夜来日 Sakura dari Aceh tiba di Tokyo
今日(2012年6月27日)深夜、アチェから木麻黄(モクマオウ)を携えてサクラさんと二人の孫が来日する。サクラさんのいとこにあたり同じ祖父(『早春賦』の作詞家・故吉丸一昌)を持つ、映像プロデューサーの吉丸昌昭氏が羽田空港で出迎える。四年ぶりの再会とのことだ。 左からディーバちゃん、サクラさん、ラディヤン君(2012年6月26日、マレーシアのクアラルンプールで)。 ...続きを見る

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2012/06/27 00:00
サクラさん木麻黄の苗木と共にアチェを出発マレーシアへ Cemara Aceh ke Jepang  
『早春賦』(作詞:吉丸一昌)の孫にあたるアチェ在住のサクラさん(66歳)が、昨日(2012年6月25日)、孫のディーバちゃん(16歳)と共に、マレーシアのクアラルンプール(KL)に向けて飛び立った。KLで孫のラディヤン君(19歳)と合流して、6月27日(水)羽田空港に到着する。 ムルダニさんから苗木を受け取るサクラさん ...続きを見る

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2012/06/26 00:00
6月30日(土)岩手県陸前高田市がサクラさんからアチェの海松を受領(2)
アチェはインドネシアで最後に日没を迎える最西端に位置する。州都バンダアチェのウレレ海岸。“メッカの前庭(Serambi Indonesia)”とも呼ばれるアチェは、今や世界最大のイスラム人口を抱えるインドネシア共和国にとってイスラム教伝播の最初の地だった。 バンダアチェのウレレ海岸で津波襲撃から唯一生き残った海松、そしてサクラさん。海松の姿が見えないほどに、周囲に菩提樹の根が張り付いている(撮影:2012年6月22日) ...続きを見る

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2012/06/23 00:00
6月30日(土)岩手県陸前高田市がサクラさんからアチェの海松を受領
不動の名曲『早春賦』(作詞者:吉丸一昌)の孫にあたるインドネシア国籍を持つアチェ人のサクラ・ゾフラ・ナルカヤ(Sakura Zohra Narukaya)さん(66歳)が、五日後に来日する。二人の孫(19歳で現在マレーシアのクアラルンプールに学ぶラディアン君、そして州都バンダアチェの女子高生で16歳のディーバさん)を連れてくる。ディーバは四年前にも祖母のサクラさんと来日している。 バンダアチェのウレレ海岸の海松とサクラさん(撮影:2012年6月16日) アチェのサクラさん&ディーヴァ... ...続きを見る

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2012/06/22 00:00
第106期インドネシア理解講座のお知らせ:アチェのサクラさんを迎えて懇親会
インドネシア文化宮(GBI)では、第106期『インドネシア理解講座』として来る6月30日(土)、アチェから来日するサクラ(Sakura Zohra Narukaya)さん(66歳)と、孫の女子高生ディーバさん(16歳)、そして同じく孫の大学生ラディヤン君(19歳)をお迎えしてミニ講座を開催します。既報の通り、今回の訪日を通じて、サクラさんは、岩手県陸前高田市へアチェの“海松(木麻黄・モクマオウ)”の苗木を寄贈する計画を持っています。 バンダアチェのウレレ海岸の海松とサクラさん(撮影:2... ...続きを見る

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2012/06/20 00:00
第106期インドネシア理解講座のお知らせ:アチェのサクラさんを迎えて懇親会
インドネシア文化宮(GBI)では、第106期『インドネシア理解講座』として来る6月30日(土)、アチェから来日するサクラ(Sakura Zohra Narukaya)さん(66歳)と、孫の女子高生ディーバさん(16歳)、そして同じく孫の大学生ラディヤン君(19歳)をお迎えしてミニ講座を開催します。既報の通り、今回の訪日を通じて、サクラさんは、岩手県陸前高田市へアチェの“海松(木麻黄・モクマオウ)”の苗木を寄贈する計画を持っています。 バンダアチェのウレレ海岸の海松とサクラさん(撮影:2... ...続きを見る

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2012/06/18 00:00
アチェから陸前高田市へやってくる海松 Dari Aceh ke Rikuzentakada
アチェ市民から陸前高田市へ寄贈される予定の“木麻黄(モクマオウ)・インドネシア語では海松”の苗木。日本へ持ってくるのは父を日本人に持つサクラさん(66歳)だが、その苗木や種子を調達・選別しているのは、現在アメリカ赤十字のアチェ支部で働くムルダニさん(Murdhani S.Hut)。 日本にやってくるアチェの木麻黄の苗木。これらの中から成長が期待される苗木が選ばれる。 ...続きを見る

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2012/06/17 00:00
陸前高田市へアチェから海松贈呈計画 Dari Aceh ke Rikuzentakada
岩手県陸前高田市の“奇跡の一本松”。復興のシンボルとして熱い期待を背負いながらも、海水により根が腐り、その保存は絶望的との報道があった。あの巨大津波に耐え、凄まじいまでもの“生命力”を私たちに見せてくれた一本松。今後は、枝から採取した遺伝子による次世代の誕生に期待したい。 ...続きを見る

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2012/06/13 00:00
パプアの日本語教育頑張る Belajar Bahasa Jepang di Tanah Papua
昨年(2011)7〜9月に再々来日し、埼玉県浦和市で日本語教育研修に参加した、パプア州の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa, S.Pd)さん。来日中、ダンチェさんはインドネシア文化宮(GBI)で行なわれた二度の「インドネシア理解講座」の講師役に。 日本語技能コンテストに出場した女子高生 ...続きを見る

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2012/04/15 00:00
日本軍パプアの軌跡(動画:総集編) Jejak Militer Jepang di Papua
2011年10月22日、ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。 ...続きを見る

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2012/01/03 00:00
日本軍パプアの軌跡(動画No.5) Jejak Militer Jepang di Papua
2011年10月22日、ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。 ...続きを見る

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2012/01/02 00:00
日本軍パプアの軌跡(動画No.4) Jejak Militer Jepang di Papua
2011年10月22日、ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。 ...続きを見る

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2011/12/31 00:00
日本軍パプアの軌跡(動画No.3) Jejak Militer Jepang di Papua
2011年10月22日、ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。 ...続きを見る

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2011/12/30 00:00
日本軍パプアの軌跡(動画No.2) Jejak Militer Jepang di Papua
2011年10月22日、ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。 ...続きを見る

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2011/12/29 00:00
日本軍パプアの軌跡(動画No.1) Jejak Militer Jepang di Papua
2011年10月22日、ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。 ...続きを見る

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2011/12/28 00:00
『日本軍パプアの軌跡・Jejak Militer Jepang di Papua』が放送される
昨夜(2011年10月22日)ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送した。オンエア中、そして番組終了後、多くの反響が同局並びにインドネシア文化宮にFB(Face Book)を通じて届けられた。 ...続きを見る

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2011/10/23 00:00
今夜放送! 『日本軍パプアの軌跡・Jejak Militer Jepang di Papua』
今夜(2011年10月22日)ジャカルタ時間の午後19:05(日本時間21:05)、メトロTVはドキュメンタリープログラムの『Metro Files』で「Jejak Militer Jepang di Papua(日本軍パプアの軌跡)」を放送する。同番組は、メトロTVのWebsiteにあるLive Streamingを通じて視聴可能だ。 ...続きを見る

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2011/10/22 00:00
福井県鯖江市の川上政記さんを再訪 Kawakami & Perang Asia Timur Raya
今年は太平洋戦争開戦70周年。つまり、当時20歳だった成年男子は現在90歳。そして今年は終戦66周年。終戦時に20歳だった者も今や86歳。厚労省によれば、2010年の日本人男性の平均寿命は79.64歳で、女性は26年連続の長寿世界一で86.39歳。 ...続きを見る

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2011/09/13 00:00
パプア州の日本語教育を応援してください Dance mohon bantuan thdp Papua
インドネシア最東端のパプア州から来日し、国際交流基金の日本語国際センター(浦和)で研修を続けていた日本語教師のダンチェ・ナウィパさんは、間もなく研修を終え、帰国の途に就く。「帰国したら今回の体験を教師仲間に伝え、そして生徒たちに最新日本事情として講義したい」とダンチェさん。 ...続きを見る

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2011/08/31 00:00
再録『GBIニュース』1998.10.5 東ティモール住民が対日戦時賠償要求 Tim2
1998年8月〜2003年1月まで、宮崎市に拠点を置く泣nラパンメディアテックのホームページを間借りして掲載された『GBI(インドネシア文化宮)ニュース』。サーバー事情により消えてしまった一連の記事をここに復刻する。10数年前の出来事、そして当時執筆した時点での情報に基づいているため、その後の展開と新たに判明した事実と相違する内容があるかもしれない。しかし、記録の重要性に鑑み、敢えて原文のまま再録することにした。  東ティモール住民が日本国総理大臣に送った書簡。 ...続きを見る

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2011/08/27 00:00
再録『GBIニュース』1998.9.29 東経141度 岩手・衣川村の太平洋戦史館
1998年8月〜2003年1月まで、宮崎市に拠点を置く泣nラパンメディアテックのホームページを間借りして掲載された『GBI(インドネシア文化宮)ニュース』。サーバー事情により消えてしまった一連の記事をここに復刻する。10数年前の出来事、そして当時執筆した時点での情報に基づいているため、その後の展開と新たに判明した事実と相違する内容があるかもしれない。しかし、記録の重要性に鑑み、敢えて原文のまま再録することにした。  岩手県奥州市衣川にある太平洋戦史館。 ...続きを見る

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2011/08/26 00:00
再録『GBIニュース』1998.9.19 東京Asian City Festival '98
1998年8月〜2003年1月まで、宮崎市に拠点を置く泣nラパンメディアテックのホームページを間借りして掲載された『GBI(インドネシア文化宮)ニュース』。サーバー事情により消えてしまった一連の記事をここに復刻する。10数年前の出来事、そして当時執筆した時点での情報に基づいているため、その後の展開と新たに判明した事実と相違する内容があるかもしれない。しかし、記録の重要性に鑑み、敢えて原文のまま再録することにした。  インドネシア大使館スタッフ。右から2番目が広報担当のファウジ氏。 ... ...続きを見る

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2011/08/25 00:00
再録『GBIニュース』1998.9.11日本の農協システムに学ぶDelegasi Mendagri
1998年8月〜2003年1月まで、宮崎市に拠点を置く泣nラパンメディアテックのホームページを間借りして掲載された『GBI(インドネシア文化宮)ニュース』。サーバー事情により消えてしまった一連の記事をここに復刻する。10数年前の出来事、そして当時執筆した時点での情報に基づいているため、その後の展開と新たに判明した事実と相違する内容があるかもしれない。しかし、記録の重要性に鑑み、敢えて原文のまま再録することにした。  JA伊豆の国農協を訪れ話を聞く左からアナス氏、ルトゥフィ氏、そして水野... ...続きを見る

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2011/08/24 00:00
東京新聞・中日新聞が報じる西部ニューギニアに放置された旧日本軍将兵の遺骨
8月22日、「東京新聞」そして「中日新聞」が『ニューギニア 旧日本兵の遺骨確認』と題して、メトロTV東京支局長&インドネシア文化宮(GBI)代表が取材した西部ニューギニアに放置されたままの旧日本軍将兵遺骨に関する記事を社会面で報じた。副題は『収集困難な西部・調査必要』。 ...続きを見る

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2011/08/23 00:00
インドネシア最東端パプア州の日本語教育を応援してくださいBahasa Jepang di Papua
70年前の事。西部ニューギニア戦線では、多くの東北健児が犠牲となった。殊に、青森県の弘前で編成された大日本帝国陸軍の第36師団(略称雪兵団)は、第2軍の指揮下に入り、西部ニューギニアのビアク島(主に第222聯隊)やサルミ(第223&224聯隊)に展開した。ビアク島の部隊は“玉砕”。サルミでも上陸日本人将兵(約12,700名)の終戦時における生存率はわずか29%であった。しかし、彼の地に瞑る遺骨は、ほとんど顧みられることなく今日でも密林奥深く横たわっている。 ...続きを見る

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2011/08/19 00:00
インドネシア共和国第66回独立記念日。Upacara HUT RI ke-66 di Tokyo
2011年8月17日。インドネシア共和国の第66回目の独立記念日。日本の66回目の終戦記念日の二日後だ。説明するまでもなく、日本の東南アジア地域に対する侵攻、そして敗戦は、同地域に劇的な歴史転換をもたらした。その歴史的評価は、思想・信条、そして立場によってまちまちだ。 ...続きを見る

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2011/08/17 00:00
インドネシア最東端パプア州の日本語教育を応援してくださいBahasa Jepang di Papua
100年に一度と言われる経済不振に見舞われ、そして1,000年に一度とも表現される巨大自然災害に襲われた日本。次に現れるのは万年に一度の何なのか?「がんばろう!日本」シールが、甲子園の球児の帽子に貼られる中、終戦66年の戦没者追悼式では、東日本大震災と戦災とを重ね合わせ、菅首相が『我が国は国民一人一人の努力で戦後の廃墟から立ち上がり、幾多の困難を乗り越えてきました。私たちは被災地を、日本を、必ず再生させます』と語った。 ...続きを見る

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2011/08/15 00:00
戦後66年・西部ニューギニアに瞑る数万の将兵 Prajurit Jepang di Papua
今春、あの忌まわしい東日本大震災が東北・関東を襲う直前、筆者は西部ニューギニア(現インドネシア領パプア州&西パプア州)を訪れていた。6万近くの日本軍将兵が斃れ、数知れぬインドネシア人、そして地元パプア人が、太平洋戦争の戦禍に巻き込まれ亡くなった激戦地だ。 ...続きを見る

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2011/08/14 00:00
パプア人日本語教師が語るパプア州の日本語教育(6) Bahasa Jepang di Papua
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/13 00:00
パプア人日本語教師が語るパプア州の日本語教育(5) Bahasa Jepang di Papua
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/12 00:00
パプア人日本語教師が語るパプア州の日本語教育(4) Bahasa Jepang di Papua
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/11 00:00
パプア人日本語教師が語るパプア州の日本語教育(3) Bahasa Jepang di Papua
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/10 00:00
パプア人日本語教師が語るパプア州の日本語教育(2) Bahasa Jepang di Papua
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/09 00:00
パプア人日本語教師が語るパプア州の日本語教育(1) Bahasa Jepang di Papua
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/08 00:00
パプア州日本語教師ダンチェさんのお願い Dance san mohon bantuan Jepang
2011年8月6日(土)、インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」が実施された。講師は、インドネシア最東端のパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラ(Jayapura)で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパ(Dance Nawipa)さん。テーマは『パプア州における日本語教育の現状と課題』。 ...続きを見る

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2011/08/07 00:00
講演会「西部ニューギニアの日本語教育の現状」第104期インドネシア理解講座のお知らせ
インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」は、前回パプア語を教えていただいた、パプア州で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパさんに再び登板願い、『パプア州の日本語教育の現状と可能性&問題点』をテーマにお話しいただきます。日本の真南およそ5,000km。赤道直下の西部ニューギニアで、どのような日本語教育が行われ、またその“日本語熱”はいかなるものか、どのような問題を抱えているのか---などに関して語っていただきます。 ...続きを見る

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2011/08/04 00:00
講演会「西部ニューギニアの日本語教育の現状」第104期インドネシア理解講座のお知らせ
インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」は、前回パプア語を教えていただいた、パプア州で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパさんに再び登板願い、『パプア州の日本語教育の現状と可能性&問題点』をテーマにお話しいただきます。日本の真南およそ5,000km。赤道直下の西部ニューギニアで、どのような日本語教育が行われ、またその“日本語熱”はいかなるものか、どのような問題を抱えているのか---などに関して語っていただきます。 ...続きを見る

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2011/08/02 00:00
第104期インドネシア理解講座のお知らせ 『西部ニューギニアの日本語教育』
インドネシア文化宮(GBI)の第104期「インドネシア理解講座」は、前回パプア語を教えていただいた、パプア州で日本語教師を務めるダンチェ・ナウィパさんに再び登板願い、『パプア州の日本語教育の現状と可能性&問題点』をテーマにお話しいただきます。日本の真南およそ5,000km。赤道直下の西部ニューギニアで、どのような日本語教育が行われ、またその“日本語熱”はいかなるものか、どのような問題を抱えているのか---などに関して語っていただきます。 ...続きを見る

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2011/07/30 00:00
再録『GBIニュース』1998年8月17日Berita GBI(17 Agu.1998)HUT RI
GBIのホームページは、もともと宮崎市に拠点を置く泣nラパンメディアテックの宇野みれさんが立ち上げてくれた。その宇野さんが、サーバーに残っていたGBIホームページのデータを復元し、送ってきてくれた。今後、機会を窺いながら、特に『GBIニュース』をこのブログ上で再録していこうと考えている。13年前の出来事、そして当時執筆した時点での情報に基づいているため、その後の展開と新たに判明した事実と相違する内容があるかもしれない。しかし、記録の重要性に鑑み、敢えて原文のまま再録することにした。  ... ...続きを見る

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2011/05/14 00:00
巨大津波:アチェの子供らが絵&詩を日本の子供たちへ Anak Aceh & Anak Jepang
“アチェの子供たちから日本の子供たちへ”---と題する文化イベントが2011年5月11日、アチェ州の州都バンダアチェのカフェ「Pentasagoe Jambo Kupi Apa Kaoy」で行われた。東日本大震災からちょうど二ヵ月目にあたるこの日、小学5〜6年生を対象とした絵画コンクール、そして中学生による詩コンクールが催された。 ...続きを見る

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2011/05/12 00:00
巨大津波:アチェの子供らが絵&詩を日本の子供たちへ Anak Aceh & Anak Jepang
日本の被災地の子供たちのことを思い、2004年12月に巨大津波による大被害を被った、スマトラ島北西端のアチェの子供たちを主人公に、絵と詩のコンクールが開催される。東日本大震災からちょうど2ヵ月目にあたる2011年5月11日、州都バンダアチェにある「Pentasagoe-Jambo Kupi Apa Kaoy」を会場に実施される。アチェ文化人のカフェとしても知られる「Jambo Kupi Apa Kaoy」。同カフェを運営するユスフ・ボンバン(Yusuf Bombang) さんの愛称は「Ap... ...続きを見る

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2011/05/09 00:00
西部ニューギニア・マノクワリ→イドレ転進作戦 モミ村まで(5)
「六月二十九日、まず先発隊約六百名が、軍命令の通り出発した。七月一日の未明から約三週間にわたって、マノクワリの海岸道を南へ南へと向う長蛇の列がつづいた」-- 『密林に相食む死の記録 ニューギニヤ』(元陸軍中佐 飛田忠廣著・昭和24年9月10日 東京民報出版社刊)は、マノクワリからイドレに至る転進作戦の始まりを“白骨行序幕”と記す。 ...続きを見る

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2011/05/08 00:00
西部ニューギニア・マノクワリ→イドレ転進作戦 モミ村まで(4)
「六月二十九日、まず先発隊約六百名が、軍命令の通り出発した。七月一日の未明から約三週間にわたって、マノクワリの海岸道を南へ南へと向う長蛇の列がつづいた」-- 『密林に相食む死の記録 ニューギニヤ』(元陸軍中佐 飛田忠廣著・昭和24年9月10日 東京民報出版社刊)は、マノクワリからイドレに至る転進作戦の始まりを“白骨行序幕”と記す。 ...続きを見る

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2011/05/06 00:00
西部ニューギニア・マノクワリ→イドレ転進作戦 モミ村まで(3) 動画
「六月二十九日、まず先発隊約六百名が、軍命令の通り出発した。七月一日の未明から約三週間にわたって、マノクワリの海岸道を南へ南へと向う長蛇の列がつづいた」-- 『密林に相食む死の記録 ニューギニヤ』(元陸軍中佐 飛田忠廣著・昭和24年9月10日 東京民報出版社刊)は、マノクワリからイドレに至る転進作戦の始まりを“白骨行序幕”と記す。 ...続きを見る

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2011/05/05 00:00
日本のためにアチェから祈る(3) Pray from Aceh for Japan(3)
もう頬を濡らす涙をぬぐい 帳を開け、微笑を 勇気を持って立ち上がり 私の祈りと共に その向こうに待ち構える 美しい愛を 涙はもういらない ...続きを見る

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2011/05/04 00:00
西部ニューギニア・マノクワリ→イドレ転進作戦 モミ村まで(2) 動画
「六月二十九日、まず先発隊約六百名が、軍命令の通り出発した。七月一日の未明から約三週間にわたって、マノクワリの海岸道を南へ南へと向う長蛇の列がつづいた」-- 『密林に相食む死の記録 ニューギニヤ』(元陸軍中佐 飛田忠廣著・昭和24年9月10日 東京民報出版社刊)は、マノクワリからイドレに至る転進作戦の始まりを“白骨行序幕”と記す。 ...続きを見る

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2011/05/03 00:00
再録『GBIニュース』1998年8月14日Berita GBI(14 Agu.1998) Tim2
今から13年前の1998年。インドネシア近代史の大転換の年だった。スハルト長期独裁政権が倒れ、民主化のうねりが一気に国中を覆った。インドネシア文化宮(GBI=Graha Budaya Indonesia)は、スハルト大統領退陣のちょうど一週間前の1998年5月15日、東京・下落合にオープンした。そして、同年8月から“インドネシア21世紀の人物像”を基本テーマに、民主化・地方自治の向上の流れの中で指導者として活躍するであろう、各界各層の人物に焦点を当てた単独インタビューを企画し、2003年初... ...続きを見る

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2011/05/01 00:00
再録『GBIニュース』1998年8月12日Berita GBI(12 Agu.1998) Tim2
今から13年前の1998年。インドネシア近代史の大転換の年だった。スハルト長期独裁政権が倒れ、民主化のうねりが一気に国中を覆った。インドネシア文化宮(GBI=Graha Budaya Indonesia)は、スハルト大統領退陣のちょうど一週間前の1998年5月15日、東京・下落合にオープンした。そして、同年8月から“インドネシア21世紀の人物像”を基本テーマに、民主化・地方自治の向上の流れの中で指導者として活躍するであろう、各界各層の人物に焦点を当てた単独インタビューを企画し、2003年初... ...続きを見る

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2011/04/30 00:00
陸前高田の“一本松”とアチェ・ウレレ海岸の“木麻黄” Pohon tahan Tsunami
岩手県陸前高田市の名勝地。7万本の松林で知られた高田松原。大津波で一掃された浜辺に残った一本の松。2011年3月11日の巨大津波の襲撃に耐えたその“一本松”が復興のシンボルとして注目を集めている。伝えられるところによれば、市民グループによる保存の動きも活発化している。囲いを作り、高潮対策として土のうが積まれるという。さらに、枝から遺伝子を取り出し、将来の植林計画もある。なんとも幸せな松だ。 ...続きを見る

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2011/04/23 00:00
アチェの津波ポール&教育Tugu Tsunami Aceh & Pendidikan Tsunami
おおよそ一年前、アチェで日本人による「津波教育」が行われていたようだ。地元最有力紙の『Serambi Indonesia』の記事を検索していて見つけた。同記事(2010年5月6日付)によれば、日本大使館と京都大学が地元のUmi Abasiah財団と共催で同年5月10日から実施する計画とか。「津波教育」が具体的にどのように行われ、どんな内容だったのかは知る由もない。 ...続きを見る

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2011/04/18 00:00
日本のためにアチェから祈る(2) Pray from Aceh for Japan(2)
もう頬を濡らす涙をぬぐい 帳を開け、微笑を 勇気を持って立ち上がり 私の祈りと共に その向こうに待ち構える 美しい愛を 涙はもういらない ...続きを見る

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2011/04/17 00:00
日本のためにアチェから祈る Pray from Aceh for Japan
ようやくといった感じもしないではないが、アチェの若者たちが、本格的に、同じく巨大津波の被災者となった日本に向けてアクションを起こし始めた。その名も『Pray from Aceh for Japan』。Tシャツやピン、スティッカーの販売などを通じて義援金集めに乗り出した。 ...続きを見る

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2011/04/16 00:00
Metro TVからプレスリリース Indonesia’s Sympathy for Japan
去る4月9日(土)、首都ジャカルタのジャカルタ・コンベンション・センター(JCC)で、インドネシア元日本留学生協会(プルサダ=PERSADA・Association of Indonesia Alumni from Japan)が主体となり、メトロTVの協力の下、『Indonesia’s Sympathy for Japan – an evening of Hope』が実施された。日イ関係者およそ1,000名が参加した日本激励・応援プロジェクト。ジャズミュージシャンの渡辺貞夫さん... ...続きを見る

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2011/04/15 00:00
災害から逃れられないアチェ Usaha Penanggulangan Bencana di Aceh
あのアチェ巨大津波から6年以上も経過したにも関わらず、スマトラ島北西端のアチェ州では自然災害の脅威から解き放されていない---とするリポートが今日付けの地元紙『Serambi Indonesia』に掲載された。災害は忘れなくてもやってくる。 ...続きを見る

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2011/04/14 00:00
パプア州の民族に学ぶ自然との共生 Belajar dari Suku Bangsa Papua
今年の流行語大賞候補になるかもしれない「想定外」。東日本大震災が起きて以来、何度このフレーズを聞いたことでしょう。地震学者、津波学者、官房長官、東電、気象庁等々、いずれもが、今回の巨大津波の襲来に対して「想定外」の言葉で、まさに批判・非難をかわしている。 ...続きを見る

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2011/04/13 00:00
東日本大震災から一ヵ月・『稲むらの火』と津波防災 Nyawa Api
2011311。東日本大震災からちょうど一ヵ月。いまだ15万もの人々が、我が家を離れ避難生活を余儀なくされている。警察庁発表で13,116人の犠牲者(2011年4月11日午前10時現在)。さらに2万を超すかもしれない行方不明者の数。そして、あの“核心”が見えない福島原発の脅威。東京では満開のサクラ。桜前線は着実に北上し、被災地からも開花の便りが届き始めた。 ...続きを見る

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2011/04/11 00:00
インドネシア国家防災庁と津波(BNPB & Bencana Alam/Tsunami)
日本人とインドネシア人のキャラクターは、俗に言うジャワ人の精神構造との類似性を除けば、筆者の40年間にわたる体験から見ると、余り相似性はない。相反すると言っても過言ではない気質や道徳観が、両民族の間に存在する。 ...続きを見る

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2011/04/09 00:00
サマリンダから日本応援メッセージ Ganbare Nippon! dari Samarinda
東カリマンタン州の州都サマリンダ(Samarinda)に暮らすシスカ・サリ・デウィ(Siska Sari Dewi)さん(25歳)から日本応援メッセージが届いた。GACKT CAMUIの大ファンを自称する彼女は、ムラワルマン大学時代(2004-2007年:Fakultas Perikanan, Universitas Mulawarman)水産学部で日本語を勉強した。そして今日まで、雑誌やインターネットを通じて日本事情をフォローし続けている。 ...続きを見る

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2011/04/08 00:00
アチェ、津波、日本、アイヌ民族 Aceh, Tshunami, Jepang, Suku Ainu
スマトラ島沖大地震で起きた巨大津波禍からすでに6年以上も経過したが、被災地のアチェでは今でもおよそ7千名の犠牲者名義の銀行預金が“凍結”状態だ。アチェの最有力紙『Serambi Indonesia』が報じるところによれば、100億ルピア(約1億円)に上るこの引受人不在の資金を、慈善事業に充てたいとする声が出ている。インドネシア中央銀行アチェ支店では、名義人リストを告示し、一定期間を経過したのち、イスラム裁判所の判断に従って処理されるだろうと述べている。 ...続きを見る

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2011/04/05 00:00
アチェでハザードマップが完成 Peta Risiko Bencana Aceh
G(Gempa・地震)に次ぐT(Tshunami・津波)、そしてR(Radiasi・放射能)と、東日本大震災は、まさに未曾有の大自然災害を、桜の開花直前の日本にもたらした。世界中の視線が日本に向けられている。6年と3ヵ月前、(2004年12月26日)スマトラ島沖合で起きたM9.3の巨大地震と巨大津波。インド洋沿岸諸国でおよそ23万の犠牲者を生み、その内アチェでは約17万が死亡・行方不明。 ...続きを見る

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2011/04/04 00:00
インドネシアから東日本大震災へ連帯ビデオ曲 Lagu Solidaritas dari RI
共に大規模自然災害“大国”の日本とインドネシア。地震と津波、そして火山噴火。アジア・太平洋地域でこれほど自然災害と運命共同体的な国はない。あのスマトラ島沖大地震と巨大津波は、6年と3ヵ月前の2004年12月26日に起きた。そして、2011年3月11日の東日本大震災。 ...続きを見る

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2011/04/03 00:00
You Tubeに見る福島県南相馬市長からのメッセージ Walikota Minamisoma
福島県南相馬市の桜井勝延市長が、動画投稿サイトである「You Tube」で“SOS”を発信している。これが日本の国内で起きていることが信じられない。福島原発の半径30km圏内に暮らす“日本国民”は“棄民”の運命に直面しているのか。このことをFB(フェースブック)を通じてインドネシアの友人らに伝えると、「どうしたら、私たちにも手助けができるか?」との反響があった。 ...続きを見る

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2011/04/02 00:00
アチェが倒産? Aceh Bangkrut Oleh Teuku Harist Muzani
17万人の命をインド洋へ持ち去った、あのアチェ巨大津波。2004年12月26日。日曜日の朝の出来事だった。そして、2011年3月11日。東日本大震災。金曜日、三時の休憩まであと僅かだった。日曜日に起きたため、スマトラ島沖大地震・巨大津波は、多くの子供たちを家族もろとも巻き込んだ。その日、学校はなかった。 ...続きを見る

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2011/04/01 00:00
福島第一原発とインドネシアのムリア原発計画 PLTN Fukushima & Muria
“放射能津波”の様相を呈し始めている福島第一原発問題。その“津波”はインドネシアにも押し寄せている。日本からの輸入品に対する放射能物質の検索厳格化の話ばかりではない。まさに、欧米で起きているように、原子力発電所そのものに対する市民の危惧の声が高まっている。 ...続きを見る

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2011/03/31 00:00
アチェ2025年に向けて Aceh Menuju 2025: Oleh Fauzi Umar
去る3月28日、アチェの有力紙『Serambi Indonesia(スランビ・インドネシア)』のオピニオン欄に、アチェ研究所(The Aceh Institute)のファウジ・ウマール(Fauzi Umar)さんの論文「アチェ2025年に向けて」と題する一文が掲載された。「より良いアチェの建設が、再び注目を集めている」---で始まる文章は、3月26〜28日、マレーシアのマレーシア民族大学で行われた国際会議『Aceh Development Internasional Conferenc... ...続きを見る

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2011/03/30 00:00
自称地震・津波学者には何も期待しない Tsunami Aceh 20041226
菅直人首相は、今日の参院予算委員会で、福島第1原子力発電所を急襲した巨大津波に関して「(原発設置)当時の津波に対する認識が大きく間違っていたのは否定しようがない」と述べた。そして津波の規模の“想定”を今後の検証対象とすると答弁した。 ...続きを見る

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2011/03/29 00:00
黙想する我々の為に Untuk Kita Renungkan(EBIET G.ADE)
首都ジャカルタ在住の友人ムティア(Meutia Anggraeni)女史から、地震・津波被災の日本国民に是非視聴していただきたい、と一本の映像がFB(フェースブック)経由で送られてきた。かつてインドネシアを代表するフォークシンガーだったエビート(Ebiet G.Ade)さんが作詞作曲した『Untuk Kita Renungkan(黙想する我々の為に)』。 ...続きを見る

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2011/03/29 00:00
アチェから日本へDari Aceh kpd Saudara Jepang: M.Y.Bombang
またまたアチェの詩人からメッセージが届いた。今度はボンバン(M.Y.Bombang)さんからだ。巨大津波の被災体験(2004年12月26日)を基に、日本の地震・津波被災者に、深い弔いの気持ちと熱い応援の声を届けたいと言う。 ...続きを見る

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2011/03/28 00:00
心から心へ・あなた方の痛みを感じるHEART2HEART ...we feel your pain
映像作家のイルサン・ワラッド(Irsan Wallad)さんが、津波被災追悼ビデオを制作した。2004年12月に起きた、スマトラ島沖大地震&巨大津波の映像記録を素材に、今回の東日本津波被災画像も取り入れて、一篇のビデオに仕上げた。タイトルは『HEART2HEART ...we feel your pain 』。アチェ、インド洋、そして東日本。世界は未曾有の津波禍を忘れない。 ...続きを見る

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2011/03/27 00:00
アチェから福島へ Dari Aceh ke Fukushima: Rahmad Sanjaya
アチェの詩人ラフマド・サンジャヤ(Rahmad Sanjaya)さんから、『福島原発』をテーマに据えた詩が届いた。同氏は、去る3月20日に州都バンダアチェで文化人が集まって開催した「“桜の国”へアチェの祈り(Doa Aceh untuk Sakura)」にも参加し、ギターを片手に、追悼の詩歌を披露した。アチェは2004年12月26日に起きた大地震と巨大津波でおよそ17万もの尊い命を失った。未曾有の大自然災害から復興を遂げたその地から、ラフマドさんが叫ぶ。「福島の悲しみは、我々アチェの姿... ...続きを見る

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2011/03/26 00:00
“桜の国”へアチェの祈り(2) Doa Aceh untuk Sakura(2)
去る3月20日(日)、スマトラ島北西端のバンダアチェ(Banda Aceh)で行われた、アチェ文化人による日本連帯の集い『“桜の国”へアチェの祈り(Doa Aceh untuk Sakura)』の模様を伝える画像第二弾。詩の朗読、そしてギター&ジャンベ太鼓の演奏。2004年12月26日、マグニチュード9.1の大地震と巨大津波でおよそ17万の犠牲者を記したアチェ州。“津波の連帯”は、アチェ人が故に説得力・同情力を持っている。 ...続きを見る

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2011/03/25 00:00
“桜の国”へアチェの祈り Doa Aceh untuk Sakura
去る3月20日(日)、スマトラ島北西端のバンダアチェ(Banda Aceh)で行われた、アチェ文化人による日本連帯の集い『“桜の国”へアチェの祈り(Doa Aceh untuk Sakura)』の模様を伝える画像が送られてきた。詩の朗読、そしてジャンベ太鼓の演奏。2004年12月26日、マグニチュード9.1の大地震と巨大津波でおよそ17万の犠牲者を記したアチェ州。“津波の連帯”は、アチェ人が故に説得力・同情力を持っている。 ...続きを見る

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2011/03/23 00:00
津波追悼の集い、そして津波デマ・パニック Ratusan Pelajar Berdoa untuk
巨大津波(2004年12月26日・M9.1の大地震)で17万もの命を奪われたアチェ。連日、日本の被災者に向けて追悼と連帯の催しが行われている。昨日(3月21日)は、州都バンダアチェの公立第11中学校で行なわれた追悼集会には、東北大学の博士課程で就学中で、東日本大震災を体験し帰国したばかりのザフルル・フアディ(Zahru Fuadi)さんとムザイリン(Muzairin)さんも参加した。ザフルルさん(39歳)は、2004年のアチェ地震も体験している。 〈世界から被災地へ〉二つの震災 生き... ...続きを見る

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2011/03/22 00:00
桜の弔い(日本へのアチェの祈り)DUKA SAKURA (DO'A ACEH UNTUK JEPAN
アチェの文化人が立ち上がった。大地震と巨大津波で未曾有の災害を被った日本に対する連帯の声が沸き起こっている。3月20日(日)午後8時30分、集い『桜の弔い(Duka Sakura)』が州都バンダアチェで催された。そして、遠くない将来、『二つの津波被災国・心から心へ・スピリチュアル復興』をスローガンに、日本へアチェ文化・芸術チームの派遣を発案した。 ...続きを見る

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2011/03/21 00:00
アチェから連帯のメッセージ・津波被災 ACEH for JAPAN
2004年12月26日(日)、東日本大震災を遥かに上回る津波犠牲者を記録した、スマトラ島北端のアチェ州。その数、およそ17万人。日本の津波被災者に対する、連帯の意思表示が波紋を広げている。昨日3月18日(金)、州都バンダアチェ(Banda Aceh)の中心部にあるブラン・パダン(Blang Padang)広場で、犠牲者を悼む市民の集いが開かれた。「ACEH December 26, 2004 FOR JAPAN March 11, 2011」。アチェは忘れない。日本からの、あの温かい支... ...続きを見る

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2011/03/19 00:00
フランスNTT州知事からお悔やみの電話 Gubernur NTT turut berdukacita
『今回の大震災、そして津波で犠牲になった全ての方々に、心からお悔やみ申し上げます。そして、家を失い、家族・親族を失い、傷ついた全ての方々に、お見舞いを申し上げます。遠くクーパンから、日本の皆様が、この試練に耐え抜き、やがて輝かしい復興・復活を遂げられることを信じ、NTT州民の名において、応援申し上げます』 ...続きを見る

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2011/03/18 00:00
津波禍のインドネシア人船員3名那智勝浦港へ Nasib ABK WNI
2004年12月のスマトラ沖大地震・巨大津波を始め、幾多の大規模自然災害の体験を持つインドネシア共和国。かつての日本からの支援へのお返しとして、同国政府は、200万ドルの見舞金と約60名の救援チームの派遣を決めた。明日にも15名規模の先遣隊が来日予定という。 ...続きを見る

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2011/03/17 00:00
Pray for Japan インドネシアからの声援・応援便り
2011年3月11日(金)東日本大震災発生。以降、連日『メトロTV(Metro TV)』にSkype経由の動画で出演し、最新情報を送り届けている。一方、フェースブック(Face Book)上でも、放送で伝えきれない詳報を発信続けている。自然災害を頻繁に被るインドネシア共和国。いわんや6年と3ヵ月前の2004年12月26日、アチェであの巨大津波を体験した国。今回の災害に対する関心は極めて高い。 ...続きを見る

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2011/03/16 00:00
日本で死にたくない Saya Tak Ingin Mati di Jepang
早稲田大学で学ぶ、アチェ生まれのミキアル・マウリタ(Mikial Maulita)さん。彼女は、インドネシア文化宮(GBI)が実施したアチェ語講座やアチェ舞踊講座で講師を務めた。スマトラ島沖地震&津波で親兄弟姉妹、計9人の命を奪われた。そして、先週の金曜日(3月11日)東京で体験した東日本大震災。2011年3月14日、彼女は、アチェの地元紙『The Atjeh Post』に「Saya Tak Ingin Mati di Jepang(私は日本で死にたくない)」と題する一文を寄せた。 ... ...続きを見る

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2011/03/15 00:00
パプア州ジャヤプラの日本語教室 Bahasa Jepang di Jayapura, Papua
東京の真南およそ4,200km。西部ニューギニアの北海岸にパプア州(Provinsi Papua)の州都ジャヤプラがある。ジャヤプラ(旧フンボルト)湾の東には、隣国PNG(パプアニューギニア)との国境線が走る。世界で二番目に大きいューギニア島の西半分は、現在インドネシア領で、パプア州と西パプア州(Provinsi Papua Barat)がある。2010年の国勢調査によれば、両州合わせた人口は3,612,854人で、豪州の学者が推計するところによれば、内パプア系民族は1,760,557... ...続きを見る

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2010/11/04 00:00
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(1) Manokwari Idore
昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る

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2010/07/15 00:00
海外残留旧日本兵遺骸と菅直人首相 ・2 Prajurit Dai Nippon & PM Kan
菅直人政権の誕生を海外で瞑る旧日本軍将兵・軍属らは、戦後65年間も果たせなかった祖国帰還を期して、興奮冷めやらぬ思いで見つめているに違いない。と言うのも、菅直人現内閣総理大臣は、野党時代の4年前、靖国神社参拝問題で隣国との間に摩擦を生んだ小泉純一郎政権に対して、戦没者遺骨収集に関して質問主意書を二度ほど提出している。国会議員として、正面から政府に対して“未帰還兵”問題を問うた、その姿勢がかつての戦場で瞑る将兵・軍属らの“英霊”にどれほど感動を持って迎えられたことだろうか。 ...続きを見る

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2010/06/20 00:00
日本軍将兵慰霊碑と駐インドネシア日本大使2Tugu DaiNippon & Dubes Jepang
2010年6月18日、西部ニューギニアのパプア州ジャヤプラ県のゲニェムで、日本軍将兵慰霊碑の完成式典が執り行われる予定だった。が、同式典は、駐ジャカルタ日本大使が出席できないことによって、取り止めとなった。 ...続きを見る

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2010/06/19 00:00
海外残留旧日本兵遺骸と菅直人首相Prajurit Dai Nippon & PM Naoto Kan
菅直人政権の誕生を海外で瞑る旧日本軍将兵・軍属らは、戦後65年間も果たせなかった祖国帰還を期して、興奮冷めやらぬ思いで見つめているに違いない。と言うのも、菅直人現内閣総理大臣は、野党時代の4年前、靖国神社参拝問題で隣国との間に摩擦を生んだ小泉純一郎政権に対して、戦没者遺骨収集に関して質問主意書を二度ほど提出している。国会議員として、正面から政府に対して“未帰還兵”問題を問うた、その姿勢がかつての戦場で瞑る将兵・軍属らの“英霊”にどれほど感動を持って迎えられたことだろうか。 ...続きを見る

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2010/06/18 00:00
日本軍将兵慰霊碑と駐インドネシア日本大使 Tugu DaiNippon & Dubes Jepang
今から70年ほど前、「赤紙」一枚で国家に召集され、日本の真南およそ5,000km、赤道直下のニューギニア島の前線に送られた数十万の兵士たち。そして20数万は「白紙(戦死公報)」一枚の祖国帰還。戦後65年経過しても、今なお、多くの将兵・軍属の遺骸が彼の地に放置されたままだ。 ...続きを見る

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2010/06/11 00:00
京都産業大学学生、玉砕のビアク島遺留品の故郷探しに着手
京都産業大学。2010年5月20日(木)。筆者は、講師として教壇に立った。一般教育科目の一つである「ふるさと論」。今回で三度目の授業だが、前回、前々回とは様相が違っていた。受講生徒数がこれまでの倍以上の約800名。『未帰還兵にとっての故郷』をテーマに、インドネシア東部の激戦地ビアク島を始め、西部ニューギニアに、戦後65年も経過したというのに、今日まで放置されたままの旧日本軍将兵の遺骸の存在に話題を絞った。 ...続きを見る

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2010/05/26 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(110) Bandara DaiNippon(110)ボルネオ島
2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニア周辺域に、現在まで“放置”されたまま... ...続きを見る

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2009/12/31 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(109) Bandara DaiNippon(109)ボルネオ島
2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニア周辺域に、現在まで“放置”されたまま... ...続きを見る

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2009/12/30 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
英領ボルネオ時代にジェッセルトン(Jesselton)と呼ばれていた、今日のコタキナバル(Kota Kinabalu)。マレーシアのサバ(Sabah)州の州都所在地だ。戦前の北ボルネオの中心地はサンダカン(Sandakan)だったが、戦後の1947年、マラヤ連邦の結成に伴って、英領北ボルネオの首都はジェッセルトンへと移された。 英領ボルネオ域は,太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941)12月、歩兵第35旅団長川口清健少将指揮下の部隊によって占拠された。12月16日、川口支隊(第... ...続きを見る

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2009/05/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(107) Bandara DaiNippon(107)ボルネオ島
日本軍のボルネオ(Borneo)島(注:インドネシアはカリマンタン=Kalimantanと表記)占領は、今日のインドネシア領域に限らず、全島にわたった。今日のマレーシアのサラワク(Sarawak)そしてサバ(Sabah)、さらにブルネイ(Brunei)も瞬く間に占拠された。 ボルネオ島の北東端に位置するサンダカンは、戦前、英国領ボルネオの中心都市として栄えていた。同地を占拠した日本軍は、戦争捕虜となったイギリス兵と豪州兵を使役して、サンダカン飛行場の建設を行った。サンダカンには日... ...続きを見る

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2009/05/18 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(106) Bandara DaiNippon(106)ボルネオ島
西カリマンタン(Kalimantan Barat=Kalbar)州にある主用空港は計8ヵ所。東部の、カプアス川源流部に近い最奥部のプツシバウ(Putussibau)には、パンスマ(Pangsuma)空港がある。滑走路の規模は1,400 X 23mでF-27型機やATR-42型機が就航。カプアス川中流域のシンタン(Sintang)には、1,300 X 30mの滑走路を持つスシロ(Susilo)空港があり、C-212型機の離着陸が可能。また、シンタン西方のサンガウ(Sanggau)付近... ...続きを見る

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2009/04/04 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(105) Bandara DaiNippon(105)ボルネオ島
13県と1都市から成る中カリマンタン州(Kalimantan Tengah=Kalteng)の主要空港は計9個。北側から、ムルン・ラヤ(Murung Raya)県の県都プルックチャフ(Purukcahu)付近にあるディルン(Dirun)空港。滑走路の規模は850 X 23mでC-212型機が県都から就航。北バリト(Barito Utara)県の県都ムアラテワ(Muaratewah)のブリンギン(Beringin)空港。900 X 23mの滑走路でC-212型機が離着陸可能。南バ... ...続きを見る

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2009/04/03 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(104) Bandara DaiNippon(104)ボルネオ島
南カリマンタン(Kalimantan Selatan=Kalsel)州には主なもので計5個の飛行場がある。州都のバンジャルマシン(Banjarmasin)のシャムスディン・ヌール(Syamuudin Noor)国際空港。北東部にタンジュン・ワルキン(Tanjung Warukin)空港(滑走路の規模は1,300 X 30m)。東部のラウト(Laut)島には二ヶ所。中心都市のコタバル(Kotabaru)近辺にスタゲン(Stagen)空港と、島中部にメカール・プティ空港。さらに、同島の... ...続きを見る

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2009/04/02 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(103) Bandara DaiNippon(103)ボルネオ島
4州から構成されるカリマンタン(ボルネオ)島の中でも、東カリマンタン州(Propinsi Kalimantan Timur=Kaltim)は天然資源の観点から最も豊かな州だ。例えばボンタン(Bontang)ガス田は、その昔から日本の液化天然ガス需要に応えてきた。日本企業による原油開発も行われ、また石炭の輸出でも知られる。大東亜戦争で蘭印(オランダ領インドネシア)に侵攻した日本軍が、まず最初に同州東北部に位置する石油基地であるタラカン(Tarakan)島を攻略し、次いで石油精製基地が... ...続きを見る

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2009/04/01 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(102) Bandara DaiNippon(102)ボルネオ島
タラカン島攻略作戦を終えた坂口支隊(混成第56歩兵団長坂口靜夫少将)は、昭和17(1942)年1月24日、日本時間午前零時四〇分、バリックパパン(Balikpapan)東方のマンガール(Manggar)飛行場付近の海岸に上陸。同日中に飛行場並びに橋梁の占拠を果たした。翌25日午前四時、戦闘を交えることなく日本軍はバリックパパン市街へ突入した。バリックパパン攻略作戦は、タラカン島同様に陸海軍協同作戦だった。バリックパパンは、近くのサマリンダ(Samarinda)やサンガサンガ(San... ...続きを見る

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2009/03/30 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(101) Bandara DaiNippon(101)タラカン島
太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦。蘭印(オランダ領インドネシア)の豊かな石油を始め、天然資源獲得を第一義に、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の成功を受け、日本軍は南方攻略作戦に着手した。すでに占領したフィリピンのミンダナオ島を根拠地に、蘭印への第一歩は、セレベス(スラウェシ)島北端のマナド(Manado・メナド)、そしてボルネオ(カリマンタン)島東岸のタラカン(Tarakan)島並びにバリックパパン(Balikpapan)に対する上陸作戦だった。 昭和17(1942)年1月11日、日本時間零時... ...続きを見る

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2009/03/29 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(100) Bandara DaiNippon(100)スラウェシ
南スラウェシ(Sulawesi Selatan)州そして南東スラウェシ(Sulawesi Tenggara)州、さらに西スラウェシ(Sulawesi Barat)州には、主用空港が計12ヵ所ある。西スラウェシ州のマムジュ(Mamuju)のタンパ・パダン(Tampa Padang)空港は、滑走路規模が長さ1,500m、幅30mでC-212型機が就航。南スラウェシ州には、北部の北ルウ県の県都マサンバ(Masamba)近辺に3ヵ所の空港がある。まず、マサンバのアンディ・ジェマ(Andi ... ...続きを見る

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2009/03/26 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(99) Bandara Dai Nippon(99)スラウェシ3
スラウェシ島の北半分に位置する北スラウェシ州、ゴロンタロ州、そして中スラウェシ州の3州で現在使用されている空港は、主なもので計8ヵ所。マナドのサムラトゥランギ(Samratulangi)飛行場は、滑走路の長さが2,650m、幅45m。B-737型機が就航。ボラアン・モンゴンドウ(Bolaang Mongondow)県にあるモパティ(Mopati)空港は、650m X 23mの滑走路規模で、C-212型機の離着陸が可能。ゴロンタロ(Gorontalo)のジャラルディン(Djalalu... ...続きを見る

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2009/03/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(98) Bandara Dai Nippon(98)スラウェシ2
北セレベス(スラウェシ)の北端のマナド(Manado・メナド)とフィリピンのミンダナオ島との間に点在するサンギヘ(Sangihe)諸島やタラウド(Talaud)諸島は、開戦当初は、海軍陸戦隊によって占拠されたが、戦況の悪化に伴い、第2軍(豊嶋房太郎中将)隷下で、ハルマヘラ(Halmahera)島の守備にあたった第32師団(石井嘉穂中将)の一部部隊が、昭和19(1944)年5月、タラウド地区隊(地区隊長は師団衛生隊長の木場茂大佐)として送り込まれた。同地区隊の構成は、歩兵第211連隊... ...続きを見る

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2009/03/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(97) Bandara Dai Nippon(97)スラウェシ島
昭和20(1945)年2月、終戦まであと半年。セレベス(スラウェシ)島の航空地区部隊は、漸次その収縮整理に動き始めた。北セレベスのマパンゲット(Mapenget)、ランゴアン(Langoan/Langowan)、アムラン(Amurang)などの飛行場は、それまで、陸軍第7飛行師団によるハルマヘラ島方面への出撃基地を担っていたが、1945年2月、第4野戦飛行場設定部(難波了三大佐)の約2,000名は、3月から南セレベスのマカッサルへと徐々に後退を始めた。最終的に合計約3,500名が三... ...続きを見る

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2009/03/23 00:00
西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
2009年3月19日、午前10時30分。メディアが、そして日本中が熱い視線でワールド・ベースボール・クラシックの日本・キューバ戦の開始を待つおよそ1時間半前、東京・霞が関の厚生労働省2階の共用第6会議室には、64年ぶりに祖国・日本へ戻る旧日本兵108人の遺骨を待つ、無言の人々がいた。この日、日本政府がパプア州(インドネシア領西部ニューギニア)へ派遣した「インドネシア戦没者遺骨収集応急派遣団(厚生労働省社会援護局援護企画課・外事室専門官山岸和司団長以下計8名)」による遺骨引渡式並びに... ...続きを見る

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2009/03/21 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(96) Bandara Dai Nippon(96)マナド2
昭和17(1942)年1月11日、日本時間午前9時52分。フィリピンのミンダナオ島ダバオを28機に分乗して南下した、海軍第11航空艦隊(塚原二四三中将)隷下の1001部隊(横須賀第1特別陸戦隊・横一特・堀内豊秋中佐)は、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島北端の要衝、メナド(Manado・マナド)南方のランゴアン(Langoan/Langowan)にパラシュート降下。堀内中佐が高度およそ150mからまず降下、これに2コ中隊計333名の“空の神兵”が続いた。これ... ...続きを見る

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2009/03/20 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(95) Bandara Dai Nippon(95)マナド
北スラウェシ(セレベス)のメナド(マナド・Manado)は、大東亜戦争の蘭印(オランダ領インドネシア)、特に西部ニューギニア方面、ハルマヘラ島、モロタイ島での“玉砕戦”に近い激戦を控え、作戦命令の“発信地”、別の言い方をすれば、帝国陸軍の“頭脳”の地だった。ここには、中部ニューギニア北岸の要衝ホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)への連合軍上陸(1944.4.22)を受け、昭和19(1944)年4月26日、第2方面軍(阿南惟幾大将)司令部が、フィリピン・ミ... ...続きを見る

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2009/03/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(94) Bandara Dai Nippon(94)マカッサル2
西部ニューギニアのホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)、そしてワクデ(Wakde)島とサルミ(Sarmi)、さらにビアク(Biak)島、ヌンホル(Numfor)島、サンサポール(Sanapor)、モロタイ(Morotai)島と、猛スピードの飛び石作戦で西進・上陸を遂げてきた連合軍。 セレベス(スラウェシ)島南部は、ある意味で、日本軍の東部蘭印における“最後の砦”となった。昭和19(1944)年9月、セレベスにあった航空基地の幾つかはまだ機能していたが、... ...続きを見る

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2009/03/18 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(93) Bandara Dai Nippon(93)マカッサル
戦中、マカッサル(Makassar)には南西方面海軍民政府が置かれ、セレベス(Celebes/スラウェシ=Sulawesi)、ボルネオ(Borneo/カリマンタン=Kalimantan)、セラム(Seram)の3地域の民政府を下部組織とした。セレベス民政府(マカッサル)は、直轄州とメナド(Manado)州知事庁に区分され、ボルネオ民政府(バンジェルマシン=Banjermasin)は、直轄州とポンティアナック(Pontianak)州知事庁、バリクパパン(Balikpapan)州知事庁... ...続きを見る

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2009/03/17 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(92) Bandara Dai Nippon(92)ケンダリ3
ムナ(Muna)島の飛行場設定は、第1野戦飛行場設定司令部(松崎今朝松大佐)が昭和18(1943)年11月に着工し、すでにあった飛行場を補修した後、別の新設飛行場の工事に取り掛かった。しかし、松崎大佐は、12月10日、スンバ島へ移動した。これは、同年年11月末に、第2方面軍(阿南惟幾大将)が第19軍(北野憲造中将)に命じたもので、第110野戦飛行場設定隊(伊藤稔中佐)を指揮し、ワイコロ(Waikolo)で“スンバ島航空要塞”の建設任務に就いた。以降、ムナ島の飛行場設定は、第16軍の... ...続きを見る

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2009/03/16 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(91) Bandara Dai Nippon(91)ケンダリ2
開戦から1年と4ヵ月。昭和18(1943)年4月上旬、大本営陸海軍部は、南太平洋方面に対する作戦の根拠地を、東部蘭印(東部インドネシア)域に求めることを計画した。つまり、フィリピン南部や、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)北部、そしてハルマヘラ(Halmahera)島を、補給並びに修理の役割を演じる飛行場群基地する発想であった。特に、東部インドネシア域を“民政(海軍の軍政)”地域とする海軍は、セレベス島のケンダリ(Kendari)と西部ニューギニアの北西端(つ... ...続きを見る

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2009/03/15 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(90) Bandara Dai Nippon(90)ケンダリ
昭和18(1943)年1月時点で、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島には、3個の日本軍飛行場があった。北端のメナド(Manado・マナド)、そして南東部のケンダリ(Kendari)、そして南西のマカッサル(Makassar)。いずれも海軍が修復・設営したものだった。同年2月16日には、蘭印(オランダ領インドネシア・現在のインドネシア共和国)のほぼ全域を作戦地域とする陸軍第7飛行師団(須藤榮之助中将)が編成され、シンガポールを本部とする陸軍第3航空軍(菅原道大... ...続きを見る

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2009/03/14 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(89) Bandara Dai Nippon(89)豪州6
終戦までおよそ1年半の昭和19(1944)年3月頃の、オーストラリア北西部における豪・連合軍航空部隊配置は、豪公刊戦史によれば、以下の通り。ダーウィン(Darwin)には豪第43飛行中隊(偵察・機雷の飛行艇カタリナ=Catalina)、そして英第54飛行中隊(戦闘機スピットファイアー・Spitfire)。ストラウス(Strauss)には豪第452中隊(スピットファイアー)。ヒューズ(Hughes・日本軍はフーヘスとも呼称)には豪第2中隊(偵察・爆撃のビューフォート/ボーフォート=B... ...続きを見る

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2009/03/07 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(88) Bandara Dai Nippon(88)豪州5
昭和18(1943)年5月、SWPA(南西太平洋方面連合軍)のダグラス・マッカーサー大将は、アラフラ海を越えて東部インドネシアに展開する日本軍部隊と対峙するよりも、その海軍力を活かして、ニューギニア北岸方面を攻略すべきとの判断に達した。この決断に基づいて、RAAF(豪空軍)は、ダーウィン方面から東部インドネシアの日本軍根拠地の空襲を強化し、日本軍の緊張と関心を豪州北部に引き寄せる心理作戦を演じた。また、偽情報を敢えて流すことによって、日本軍を牽制した。一方、日本軍は、スパイの豪州潜... ...続きを見る

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2009/03/06 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(87) Bandara Dai Nippon(87)豪州4
ティモール(Timor)島は、天然資源地帯であるインドネシア西部を確保し続けるために、日本軍にとって対連合軍守備の最前線だった。昭和17(1942)年3月、ジャワ島攻略作戦に参加後、西部ティモールの要衝クーパン(Kupang)に進出していた海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)は、同月16日から4月5日の間、ダーウィン(Darwin)を空爆し、22日にはダーウン南東約275km内陸部に位置するカセリン(Katherine)飛行場を、また3月20日には北西部のブルーム(Broome)を、... ...続きを見る

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2009/03/05 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(86) Bandara Dai Nippon(86) 豪州3
開戦から3ヵ月、昭和17(1942)年3月時点で、オーストラリア北西部に対する日本軍侵攻の可能性はあるかないか?この点に関して、米軍公刊戦史は、次のように述べている。「日本軍のトレス海峡方面一挙突進の算は少なく、まずニューギニア南岸のメラウケ付近を占領し、逐次、東進する確率が大きいとみなしていた。メラウケには、一月以来、歩兵一大隊だけであったが、四月〜五月に豪軍一コ旅団主力が増派された。豪州西部には、一機械化師団と三コ旅団が配備されていた。パース方面はあまり危険視していなかった」(... ...続きを見る

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2009/03/04 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(85) Bandara Dai Nippon(85)豪州2
真珠湾奇襲攻撃に始まる「大東亜戦争」の快進撃。アメリカ軍をフィリピンから追いだし、英蘭の降伏によるマレー半島並びに蘭印(オランダ領インドネシア)の占拠。こうして、日本軍はフィリピン・オーストラリア間を遮断し、“念願”のスマトラ島の大石油生産地帯であるパレンバン(Palembang)も制圧し、順風満帆の大東亜共栄圏構想を推し進める最初の基盤を固めた。初期の快進撃に自信を深めた海軍は、オーストラリア進攻論を謳うようになる。やがて連合軍の抗日拠点となるであろう豪州を、その芽が出る前に摘み... ...続きを見る

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2009/03/03 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(84) Bandara Dai Nippon(84) 豪州
東部インドネシアの島々に多くの飛行場を設定した日本軍は、連合軍の反撃を遅らせるために、オーストラリア北部を中心に建設された連合軍の飛行場に対する空爆を繰り返した。日本軍による初めての対豪爆撃は、艦載機約100機による昭和17(1942)年2月19日のダーウィン(Darwin)に対する攻撃だった。その翌日、日本軍は、蘭領ティモール島のクーパン(Kupang)、そしてポルトガル領のディリ(Dili)へ同日上陸を敢行した。記録によれば、大戦中、日本軍は計64回のダーウィン並びに周辺の飛行... ...続きを見る

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2009/03/02 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(83) Bandara Dai Nippon(83)モロタイ島
「珊瑚礁が突起して出来上がった南方の島々で、普通の土地のように土を掘って、艦砲射撃に対抗し得るような防禦陣地が出来ると思って居たのは、大変な不覚で、之は容易なわざでないということが、上陸早々気がついた。(中略)モロタイというハルマヘラ北方の湾内を扼して居る小さな島は、戦略的にはどうしても保有したいという部隊長としての希望と、右の事情は、私を大に煩悶せしめた。(中略)この時方面軍から、モロタイを捨てハルマヘラ本島保有に専念すべき旨の命令があったので、私はホットすると共に、指揮官は正に... ...続きを見る

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2009/02/26 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(82) Bandara Dai Nippon(82)モロタイ島
連合軍は、昭和19(1944)年9月15日、モロタイ島最南端のギラ(Gila)岬付け根付近のピトゥ(Pitoe)に上陸、17日には島東南のサンゴウォ(Sangowo)、島中西部のワヤブラ(Wajabola)、ティライ(Tilai)に上陸した。19日には、島最北端のソピ(Sopi)岬、パダンギ(Padangi)付近へ上陸、さらに21日、モロタイ島西部に浮かぶラウ(Raoe)島へも上陸を果たした。ピトゥには後に、上空から見るとあたかも星条旗のような形状の大規模な連合軍飛行場が建設された... ...続きを見る

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2009/02/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(81) Bandara Dai Nippon(81)ハルマラ島
スラウェシ島のミニ版とも映る“K”字形のハルマヘラ島。島の至るところに日本軍が飛行場を造り、大本営が略して「春(ハル)」とも呼んだ地は、まさに島全体が“戦争博物館”。モロタイ島の南部には“星条旗”にも喩えられる形の、連合軍が建設した巨大飛行場跡も残っている。そこで、北マルク州(Propinsi Maluku Utara=Malut)の各県は、これら「兵どもが夢の跡」をマリンリゾートと並んで観光の目玉に掲げている。 これはハルマヘラ島に限ったことではない。西部ニューギニア、セラム島、ア... ...続きを見る

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2009/02/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(80) Bandara Dai Nippon(80)ハルマヘラ島
ハルマヘラ島周辺部の防衛を目的に、昭和19(1944)年5月初旬上陸した第32師団(石井嘉穂中将)の地上部隊配備は、海軍第26特別根拠地隊司令部が置かれたカウ、そして第1野戦根拠地隊司令部が置かれたワシレの両湾周辺部に集中していて、モロタイ(Morotai)島には第2遊撃隊(川島威伸少佐・台湾の山地出身兵で編成・4個中隊約450名)のみが配備された。この背景には、昭和19(1944)年7月4日の第2方面軍(阿南惟幾大将)の戦略判断があった。同方面軍は「主力をもってワシレ、ガレラ、ト... ...続きを見る

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2009/02/23 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(79) Bandara Dai Nippon(79)ハルマヘラ島
昭和19(1944)年初頭、カウ(Kaoe/Kao)には、海軍の第26特別根拠地隊司令部が置かれ、前年(1943)10月10日編成の、第4南遣艦隊所属の海軍第224設営隊(大津敏春技術大尉)や第102海軍施設部などの手で飛行場1個が概成し、さらに第2滑走路の造成に着手していた。『海軍設営隊の太平洋戦争(佐用泰司著・光人社)』によれば、ハルマヘラ(Halmahera)島に派遣された海軍設営隊は以下の通り。昭和17(1942)年3月20日編成の、連合艦隊所属の臨時設営班(第一班:池内利治技... ...続きを見る

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2009/02/22 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(78) Bandara Dai Nippon(78)ハルマヘラ島
ガレラ(Galera)飛行場の一つの滑走路(長さ1,500m、幅100m)は、南方軍から派遣された第3船舶輸送司令部員の白木久雄中佐指揮下の、第7飛行師団参謀部附武松哲夫大尉指揮下の派遣班の手で昭和18(1943)年9月概成され、富臨時第1設定隊(注:第25軍から派遣され、同年12月末、第120野戦飛行場設定隊となる)の工事継続によって完成した。この設定には、地元住民千数百名が動員された。第120設定隊は、続いてガレラ第2滑走路(長さ1,500m、幅100m)の造成に着手、さらに、... ...続きを見る

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2009/02/21 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(77) Bandara Dai Nippon(77)ミチ
昭和17(1942)年中旬には、白木久雄工兵中佐指揮下の南方軍派遣隊の手で、すでにハルマヘラ島で基地建設が始まっていた。ハルマヘラ、北セレベス(スラウェシ)、サンギヘ、タラウド方面の基地建設と防衛を担った陸軍の第1野戦根拠地隊司令官(武田壽少将)は、フィリピンのマニラで第2方面軍(阿南惟幾大将)の命令を受け、昭和18(1943)年11月、ハルマヘラ島北部のガレラ(Galera)経由で、ワシレ(Wasile)に到着、同司令部を開設した。揚陸施設、道路、宿舎、物資集積場などの建設はもち... ...続きを見る

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2009/02/20 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(76) Bandara Dai Nippon(76)ハルマヘラ島
現在は北マルク州(Propinsi Maluku Utara)に属するハルマヘラ島(Pulau Halmahera)で、日本軍は判明しているだけでも計11個の飛行場を造成・設定した。昭和18(1943)年9月末に合意された中・南太平洋方面作戦陸海軍中央協定によれば、当初ハルマヘラ島では、海軍がカウ(Kaoe/Kao)に2個、陸軍がガレラ(Galera)、ワシレ(Wasile)、ジャイロロ(Djailolo)、そしてラブハ(Labuha)に計4個の飛行場を新設する計画だった。 日本... ...続きを見る

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2009/02/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島
年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第一位の誉に輝いたのは日本人。その数、359,827人。全体の18,06%を占める。この数値は、前年比で見ると、2.21%(7,789人)の増加だそうだ。ちなみに、第二位はオーストラリア人観光客で、その数313,313人(見事な並びの数値!)。これは、前年比なんと52.68%ものアップだったと... ...続きを見る

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2009/02/18 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島
小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新設飛行場を開いた。そしてスンバワ島では、海軍が2個(ビマとランバン=現スンバワ・ブサール)造成した。 ...続きを見る

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2009/02/16 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島
バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島を除く)同様に、当初は海軍の作戦・管轄エリアだった。昭和17(1942)年5月、海軍第16戦隊指揮下の部隊と共に、ジャワ島を占領していた第16軍(今村均中将)隷下の第48師団(海兵団・土橋勇逸中将)の第47連隊第3大隊(宮地育三小佐)が、10日、ロンボク島へ上陸(藤田大尉指揮の約1個中隊)、... ...続きを見る

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2009/02/14 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島
スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合軍の反撃拠点となったオーストラリアと対峙する小スンダ列島でも、日本軍による飛行場の設定が急がれた。ティモール島と同様に、スンバ島、フローレス島、スンバワ島、バリ島などで幾つもの滑走路が新設された。 昭和18(1943)年9月、大本営陸軍部の命令で、内地(日本)からジャワ島に到着した第1野戦... ...続きを見る

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2009/02/13 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島
昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前線諸島(アルー=Aru、ケイ=Kei、タニンバル=Tanimbar諸島)を陸軍の警備地域と決めると、陸上の防衛は主として陸軍が、海域・航空防衛は主として海軍が担当することになった。さらに同年12月、大本営が、ティモール(Timor)島を含めスンダ海一帯を作戦地域とする第19軍(冨永信政中将・... ...続きを見る

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2009/02/12 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satartacik)空港。滑走路の規模は長さ1,3... ...続きを見る

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2009/02/11 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島
昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表した。それによれば、小スンダ列島では、スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)に1ヵ所(海軍担当で概成)、さらにスンバ島に海軍担当で第1〜第4の計4ヵ所の新設。さらに陸軍担当でスンバ第5〜第6を新設。そしてスンバワ(Sumbawa)島では、ビマ(Bima)とランバン(現スンバワ・... ...続きを見る

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2009/02/10 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島
ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭和18(1943)年4月20日、ポルトガル領ティモールのディリからフローレス(Flores)島へ移った。そして同年5月16日、バビ(Babi)島の対岸の本島に陸軍主用の飛行場を完成させ、そして翌6月19日、マウメレ(Maumere)にも飛行場を概成させた。日本軍が造成した飛行場は、ワイ・オテ... ...続きを見る

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2009/02/09 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(67) Bandara Dai Nippon(67)東ティモール
ポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)の東部、ラウテン(Lautem)に日本軍が造成した飛行場は、いわゆる“秘密飛行場”だった。同地は、昭和17(1942)年の9月頃から第3飛行集団(菅原道大中将)隷下の第3飛行団長(塚田理喜智少将)が、指揮下の第73中隊(九九式軍偵察機)に命じて行った空からの偵察活動によって見つけた平らな高原地帯だった。そして、陸軍の第9野戦飛行場設定隊(河端融少佐)が、第4航空地区の陸上勤務隊の協力も得て、昭和18(1943)年2月頃までに“秘密飛... ...続きを見る

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2009/02/08 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール
昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ上陸。同日未明、東方支隊隷下の第38師団歩兵第228連隊(土井定七大佐)の連隊長指揮下の第2大隊基幹(木村榮次郎少佐)が、同島東半分のポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)進攻作戦を開始した。第二次世界大戦で“中立”を表明したポルトガルの主権が、日本軍の作戦を複雑にさせた。しかし... ...続きを見る

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2009/02/07 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島
日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プトン飛行場(現エルタリ空港)は海軍が修復した後(2本の滑走路があった)、昭和17(1942)年3月中旬から、まず海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)がオーストラリアのダーウィンを始めとする北部エリアに対する空爆基地として使用した。そのすぐ南には、第4飛行場設定隊によって新たに陸軍用の飛行場が造ら... ...続きを見る

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2009/02/06 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン
昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ陸軍空挺部隊(挺進第2連隊・甲村武雄少佐)を降下させ、精油所などを制圧した。翌日、第16軍(今村均中将)隷下の第38師団(沼兵団・佐野忠義中将)は、ムシ川、テラ川、などを遡上してパレンバンに上陸。2月19日、金村支隊(第48師団の台湾歩兵第1連隊第3大隊長金村亦兵衛小佐)がバリ島に上陸。そし... ...続きを見る

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2009/02/05 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン
大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分は、“中立国”であるポルトガル領だったからだ。一方、ティモール(Timor・チモール)島は、いわゆるABCD包囲網にあって、ジャワ島攻略作戦を実施する上で、蘭印と豪州とを分断・遮断するために、日本軍にとって制圧しておきたい要地だった。 当時、大本営は、やがて英領インドと並びオーストラリアが... ...続きを見る

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2009/02/04 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)クーパン
米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)。この他、英領ボルネオのミリ(Miri... ...続きを見る

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2009/02/03 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島
アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万人を超える人々が送り込まれた“監獄島”だった。B級政治犯とされた作家プラムディア・アナンタ・トゥル(Pramoedya Ananta Toer)も10数年間、ブル島で拘留生活を過した。ブル島のナムレア(Namlea)には開戦前に、すでにオランダ軍が建設した滑走路があった。日本軍は(おそらく)... ...続きを見る

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2009/02/02 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、もう一つはオーストラリアのCARLESS... ...続きを見る

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2009/02/01 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン
セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(Liang)飛行場を手がけた、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)隷下の第38飛行場大隊が担当。ハルク飛行場の着工とほぼ同時期に造成がなされた。昭和18(1943)年10月中旬には概成し(長さ1,200m、幅100m)、軽爆撃機が使用可能となった。その後、第7飛行師団(須藤榮之助中将)隷下の... ...続きを見る

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2009/01/31 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン
アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。アンボン島の東隣のハルク島にも、陸軍は飛行場を新たに建設した。リアン(Liang)飛行場同様に、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)担任で、第28飛行場大隊が、昭和18(1943)年9月末、長さ1,400m、幅80mの滑走路を概成し、年末には掩体施設もおおむね完成した。ハルク飛行場は、第7飛... ...続きを見る

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2009/01/30 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン
豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるように、この地域は3世紀以上にも及ぶ被植民地支配の歴史を刻む。7世紀、中国では唐の時代、すでにマルク(Maluku)地域の香料を求めて中国船が来航していた。そして9世紀にはアラブ商人もやってきた。インドネシア史によれば、12世紀にはスマトラ島南部のスリウィジャヤ(Sriwijaya)王国の影響... ...続きを見る

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2009/01/29 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(56) Bandara Dai Nippon(56)アンボン
昭和17(1942)年1月11日、蘭印(オランダ領インドネシア)攻略作戦の緒戦として、まずボルネオ(現カリマンタン)東部の油田地帯であるタラカン(Tarakan)島と、セレベス(現スラウェシ)島北端のマナド(Manado:メナド)に対する上陸作戦が開始された。タラカン島には第16軍(今村均中将)隷下の坂口支隊(坂口靜夫少将指揮下の混成第56歩兵団。歩兵第146連隊、装甲車隊、野砲兵第56連隊第1大隊などを基幹。兵力は5,200名、馬1,200頭、自動車100台、大発動艇15、小発動... ...続きを見る

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2009/01/28 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(55) Bandara Dai Nippon:55タニンバル諸島
タニンバル諸島セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。『セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。... ...続きを見る

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2009/01/26 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(54) Bandara Dai Nippon:54タニンバル諸島
昭和17(1942)年3月末〜4月中旬、海軍陸戦隊は西部ニューギニアで、ファクファク、バボ、ソロン、テルナテ、マノクワリ、ムミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホランジアなどを占領した。ちなみに当時、陸軍部隊は西部ニューギニアには展開していなかった。さらに同年7月30日、海軍の第24特別根拠地隊は、バンダ海・アラフラ海で、アルー諸島、タニンバル諸島、ケイ諸島の攻略作戦を実施した。これ以前の戦況はと言えば、6月5日〜7日、ハワイ西方のミッドウェー海戦で、日本海軍は主力航空母艦4隻(加賀、蒼龍... ...続きを見る

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2009/01/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(53) Bandara Dai Nippon(53)アルー諸島
アルー諸島本島の最南端に位置するトゥランガン(Trangan)島南東海岸付近のシア(Sia)に2個概成し、未だドカ飛行場の設定が始まる前、昭和18(1943)年6月、第5師団を隷下に置く第19軍の作戦主任参謀である皆元勝雄中佐は、自ら偵察機を操縦して、タニンバル諸島、そしてアルー諸島を訪れた。目的は、現地を指揮する西原修三大佐(タニンバル諸島防衛隊長・第5師団歩兵第42連隊長)と原田憲義大佐(アルー諸島防衛隊長・第5師団歩兵第21連隊長)と直接面会し、前線離島守備における問題点を聞... ...続きを見る

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2009/01/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(52) Bandara Dai Nippon(52)アルー諸島
アルー諸島はかつてマルク州東南県(Kabupaten Maluku Tenggara)の一角を占めていたが、2004年初旬、アルー諸島県(Kabupaten Kepulauan Aru)として分離、新生県として独り歩きを始めた。ニューギニアの南西部、アラフラ海に浮かぶアルー諸島は古くから真珠養殖で知られていた。19世紀中頃から多くの日本人潜水夫がアルー諸島に渡った。アルー諸島県には合計187の島があるとされる。大きな島は、北からウォカム(Wokam)、コブロール(Kobror)、マ... ...続きを見る

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2009/01/23 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(51) Bandara Dai Nippon(51)ケイ諸島
バンダ海に展開していた第16軍隷下の第48師団(海兵団:土橋勇逸中将)の任務を継承する形で、昭和18(1943)年2月、第19軍(冨永信政中将)隷下の第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、バンダ海域のアルー諸島、ケイ諸島、タニンバル諸島を占領し、北部オーストラリアに対する作戦を準備するため、東部ジャワのスラバヤから東へ向かった。第5師団の杉浦支隊(歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)は、これに先立ち、ジャワの第16軍(治集団)司令官原田熊吉中将から命令を受け、昭和17(1942)年12月25... ...続きを見る

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2009/01/22 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ
米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人、オーストラリア人、インドネシア人、そして地元のパプア人で構成されていたという。内、5名は帰還しなかった。1944年4月21日、早朝、突如、米海軍艦載機グラマンの第一陣がセンタニ湖上空に姿を現した。日本軍機で離陸できたものは6機。しかし、1機が無事帰還したのみだった。攻撃は夕刻まで8回にわた... ...続きを見る

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2009/01/21 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ
日本軍(海軍陸戦隊)がホランジア(現ジャヤプラ)を占拠したのは開戦四ヵ月後の昭和17(1942)年4月。ホランジアの西およそ40kmには大きなセンタニ(Sentani)湖があり、その北側には平地があり、ここが飛行場の設定に適していた。ビントゥニ湾のバボ(Babo)飛行場や西端のソロン(Sorong)のエフマン飛行場などのように、戦前からオランダが作った滑走路があり、日本軍が上陸後に拡張整備した飛行場もあるが、西部ニューギニアで日本海軍が新たに造成・設定した飛行場としては、センタニ湖畔のもの... ...続きを見る

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2009/01/20 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48) ジャヤプラ
中部ニューギニア北岸の要衝・ホランジア(Hollandia・現在のジャヤプラ)は、ガダルカナル島撤退と並ぶ、太平洋戦争における日本軍の象徴的敗北の一ヶ所となった。昭和19(1944)年4月22日、連合軍は意味ある抵抗を受けることなく、同地に上陸、西方のセンタニ(Sentani)湖周辺にあった日本軍の3個の飛行場を占拠した。また、ジャヤプラ近郊ですでに概成していた別の飛行場も占拠。 ホランジアは、1910年3月7日、オランダ人船長Sachseによって命名された。ホランジアとは“湾曲... ...続きを見る

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2009/01/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) メラウケ
インドネシア共和国の最東南端に位置するパプア州(Provinsi Papua)のメラウケ(Merauke)県は、東経141度ラインで隣国PNG(パプアニューギニア)と接し、トレス海峡を挟んでオーストラリアに隣接する。かつてのイリアンジャヤ(Irian Jaya)州時代は、同州最大の県であったが、2002年法律第26号に基づいて4県への分割が決まり、県の規模は縮小を余儀なくされた。メラウケ県以外の3県は、ボーヴェン・ディーグル県(Boven Digul。県都はタナメラ=Tanah M... ...続きを見る

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2009/01/18 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ
歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、日本軍には楽観論もあった。例えば、同年8月上旬、第5師団のバンダ海での部隊展開が順調に進んでいることを踏まえ、第5師団長の山本務中将は「現在の空海状況が一年続けばこの戦争に日本は勝つ」と日誌に記したとされる。この頃、日本軍は、西部ニューギニアでは、北岸ではホランジア(ジャヤプラ)、ワクデ島、ナビレに飛行場を... ...続きを見る

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2009/01/12 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ
第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋辯大佐)を、昭和18(1943)年2月19日、ミミカ(Mimika)へ向け、次いで、翌々日の21日、歩兵第21連隊(原田憲義大佐)をアルー(Aru)諸島へ向け、スラバヤ港から出発させた。また第19軍司令官の冨永信政中将自身も2月19日、アンボンに着いた。 実は、第19軍が1月15日にジャカルタで... ...続きを見る

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2009/01/11 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)ファクファク
大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師団の歩兵団司令部、歩兵第228連隊、山... ...続きを見る

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2009/01/10 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38) ヤムール湖
第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解体され、第26海軍建設部が設立された)。この海軍民政府の要請に基づいて、昭和18(1943)年、学者を中心とした編成で、「海軍ニューギニア調査隊」が西部ニューギニア各地で地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。当然のことながら、この第一班から第六班に分かれて実施された調査... ...続きを見る

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2009/01/09 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37) ハベマ湖
開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能であれば飛行場を建設する旨、下命した。これに基づいて、第36師団指揮下の日高岩男少佐を隊長とする『鰐工作隊』は、昭和19(1944)年2月中旬、サルミ(Sarmi)を発って、マンベラーモ(Mamberamo)川を遡上し、ハベマ(Habema)湖方面へと向かった。 ハベマ湖は、1909年頃オランダ... ...続きを見る

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2009/01/08 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36 ロンベバイ湖
太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側面も含めて、その全てを把握する、いわば総合学術探検の顔も持っていた。オランダやドイツ、英国そして豪州などは、古くからニューギニア島を植民地分割し、それなりに同島に関して情報を有していた。しかし、日本はそうではなかった。もちろん、明治時代より、単身、この地に赴いて、まさに地元民化し、色々な事業... ...続きを見る

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2009/01/07 00:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35 ウィッセル湖
飛行場は陸上とは限らない。西部ニューギニアの中央高地にある幾つかの湖は、大本営をして、水上基地として、そしてその周辺部は陸上の飛行場として注目された。昭和18(1943)年12月1日、第二方面軍(阿南幾惟大将)がフィリピン・ミンダナオ島のダバオで、そして第ニ軍(豊嶋房太郎中将)がマノクワリで統帥を発動する直前、アンボン(10月末)そしてマニラ(11月中旬)で、大本営派遣班も交え、現地部隊との会合が持たれ、第二方面軍並びに第ニ軍の作戦計画が練られた。11月23日、マニラで決まった第二方面... ...続きを見る

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2009/01/06 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島
サルミ(Sarmi)における日本軍と連合軍の対峙は、太平洋戦争において、戦術・戦略的な側面から見て、制空権と制海権がどれほどまでに勝敗を決定づけたかを物語る好例だろう。飛行場の早期建設を至上命題に、死に物狂いでその任務を達成するものの、その飛行場の存在そのものが自軍を玉砕状況に追い込んでいった。その光景を、仮に、眺めていた地元のパプア人がいたとしたならば、おそらく彼は、彼女はきっとこう目撃談を語るだろう。 ...続きを見る

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2009/01/05 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島
ワクデ(Wakde)島の飛行場は、昭和18(1943)年半ばには、長さ1,300m、幅120mの滑走路が完成していた。同島は前年の4月、日本海軍によって占領された。この飛行場は、海軍の第103設営隊(山田誠海軍技術少佐)が造成・整備したもので、同隊は1943年1月30日に上陸し、2月23日には滑走路が完成し、航空部隊が進出してきたとされる。この設営隊は重機も動員し、その結果わずか25日間で滑走路の急速設営を成し遂げた。 米軍の偵察飛行によれば、同飛行場の建設は1943年2月から6... ...続きを見る

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2009/01/04 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32)ワクデ島
豊嶋房太郎元第二軍司令官が『濠北を征く』の「第二軍の作戦一般」で述懐しているように、西部ニューギニアに進駐した第二軍は、遥か中国大陸から赤道直下の戦場(予定地)へ到着するやいなや、飛行場の建設に全精力を傾けた。まさに飛行場は「軍の任務達成の為の生命と心得ていた」。第二軍は、決戦時期が到来したのならば、大本営が約2飛行師団を送り込んでくるものと信じていた。「斯て半歳に至つて心血を注いで造成した飛行場も、大部分のものは我軍の利用する処とならず、敵をして補修利用するに便益を与えるに止つた... ...続きを見る

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2009/01/03 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31)サルミ
大本営は、昭和18(1943)年8〜9月頃「絶対国防圏」構想を固めた。要点は、南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラインを、国防上必要最小限の要域としたことだ。この決定に基づいて、南方軍隷下に第二方面軍(司令部はフィリピン・ミンダナオ島のダバオ:阿南惟幾大将)が新たに創設され、第二軍(豊嶋房太郎中将)が同年12月、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置いた。第二方面軍も第二軍も共に中国東北部からの転用だった。 「閣下ノ担... ...続きを見る

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2009/01/02 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)サルミ
第36師団がサルミ(Sarmi)に到着する直前、第19軍は第2野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)を通じ、第103野戦飛行場設定隊(富澤太郎少佐)にサルミに飛行場一個を建設するよう命令を下した。富澤少佐は、マノクワリ(Manokwari)から機帆船で昭和18(1943)年12月初旬、サルミに上陸。300万分の1の航空地図を基に、飛行場適地を探したが、付近は低湿地が多く、なかなか適地は見つからなかった。が、サルミ東方のサワル(Sawar)付近に地元民が使っていた小規模な道路があり、しか... ...続きを見る

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2008/12/31 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29)サルミ
富士山から真南へ約4,117km。世界で二番目に大きいニューギニア島の北岸に位置するサルミ(Sarmi)がある。現在はインドネシア最東端のパプア州サルミ県の県都が置かれている。同県は2003年4月12日、ジャヤプラ(Jayapura:旧ホランジア)県から分離して新たな県となった。面積およそ17,740km2。10郡、84の村から構成され人口は約32,700人。サルミと言っても現在の日本人の多くにとっては、まず馴染みのない地名だが、東北地方のお年寄りにとっては、ビアク(Biak)島と... ...続きを見る

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2008/12/30 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28) ナビレ
フェールヴィンク湾周辺では日本軍占領当初、陸海軍合計17個の飛行場設定が計画されたが、昭和18(1943)年8月時点で完成していたものはナビレ(Nabire)の海軍飛行場1個のみだった。この飛行場はその規模が、長さ1,200m、幅60mで、1943年4月15日に戦闘機用として、そして5月17日に中攻(中型陸上攻撃機)用として完成していた。ちなみに、第二軍がマノクワリに進駐する前年(1943)までに、海軍並びに陸軍第5師団が占領する西部ニューギニア地域で、完成もしくは概成していた飛行... ...続きを見る

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2008/12/29 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27) ヌンホル島
ヌンホル島に日本軍の航空基地が完成・概成するやいなや、まさにビアク島の戦い同様に、連合軍は、事前の猛空爆に次いで、1944年7月2日、ヌンホル島に上陸してきた。エドウィン・パトリック(Edwin D. Patrick)少将率いる米第158戦闘連隊は、カメリ飛行場近辺の海岸に上陸。この前日(7月1日)、ヌンホル守備隊の上部組織である第二軍(在マノクワリ。豊嶋房太郎中将)は、連合軍のマノクワリへの上陸の可能性大とみて、司令部並びにおよそ半数の部隊の、ベラウ地峡のイドレ、そしてソロンへの... ...続きを見る

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2008/12/28 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26) ヌンホル島
ビアク(Biak)島の玉砕戦が余りにも有名で、その戦史に隠れがちだが、西隣にあるヌンホル(Numfor)島でも、実は壮絶・凄惨な戦いが繰り広げられた。しかも、ビアク島同様に、大本営は、この勾玉のような形をした小さな島に飛行場群を造成した。その数4基地。当初、日本軍は、西部ニューギニア本島のフェールヴィンク(Geelvink)湾の北側に点在するスハウテン(Schouten)諸島に飛行場を建設することに消極的だった。しかし、調査を進めるうちに、飛行場に適する地形、場所が意外と多いことが... ...続きを見る

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2008/12/27 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25)ビアク島
赤道のほぼ真下、南緯1度、東経136度に位置するビアク(Biak)島は、足の形によく似た島だ。島の南岸が踵(かかと)、そして東端がつま先にあたる。島の北側1/3は山岳地帯、残りは台地状。珊瑚礁が隆起してできた島で、特に南岸一帯には鍾乳洞が数え切れないほどある。日本軍が三つの飛行場を設定した、モクメル(Mokmer)村西方一帯は平地だが、飛行場地帯の東側海岸は、断崖絶壁の台地が続く。雨季は別として、乾季には水の確保が深刻な問題となる。連合軍が上陸した5月末から、制圧が終了する8月末の... ...続きを見る

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2008/12/26 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島
「玉砕の島」の「玉砕の洞窟」。ビアク島の凄惨な戦いのシンボルが“西洞窟”だ。この西洞窟は、今ではビアク島随一の観光スポットと化している。それはちょうどハワイの真珠湾とアリゾナ記念館観光とも似ている。ビアクを慰霊で訪れる外国人は、やはり日本人が多い。そして必ず、西洞窟で祈りを捧げる。確かに、洞窟は、戦争初期においては、籠った多くの日本軍将兵の命を、敵軍の艦砲射撃や空爆から救った。しかし、制海権そして制空権をほぼ完璧に抑え、圧倒的優位に立つ軍事力で迫る連合軍に対して、洞窟も最後の砦とは... ...続きを見る

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2008/12/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島
連合軍は、ビアク(Biak)島上陸に先立つ一ヶ月の間に、計1,260トンもの爆弾を、まさにスコールのように、1万を超える日本軍将兵の頭上に降らせた。これ以前、連合軍は、昭和19(1944)年4月22日ホランジアへ上陸、日本軍が造成した3個の飛行場を占拠、修復を施し、5月中旬には、ビアク島進攻基地として航空部隊が使用を開始した。また、日本軍第36師団(雪兵団)が司令部を置いたサルミ(Sarmi)の東海上に浮かぶワクデ(Wakde)島にも5月18日に上陸(注:5月17日にも一時的に上陸... ...続きを見る

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2008/12/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島
日本兵が、乏しい水補給の中、赤道直下の炎熱下、ツルハシとモッコで造成したモクメル(Mokmer)飛行場(現在はフランス・カイシエポ空港)、そしてソリド(Sorido:第三モクメル)とボロク(第二モクメル)飛行場。しかし、これら三つの飛行場は、当初想定した大規模航空部隊を迎えることなく、完成を間近に、連合軍の手に落ちた。昭和19(1944)年5月27日、ビアク支隊[主力地上戦闘部隊は、約3,500名の第36師団第222連隊(青森県青森編成・当時の連隊長は葛目直幸大佐)や約100名の野... ...続きを見る

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2008/12/23 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島
紀伊半島の南端潮岬から真南へおよそ3,800km。赤道を少し超えた所にビアク(Biak)島がある。ここに戦時中、日本軍は大飛行場群を建設し“絶対国防圏”の要衝とした。しかし、昭和19年(1944)5月27日、連合軍が上陸。8月20日まで続く死闘が繰り返され、玉砕の島としてニューギニア戦線史に刻まれている。ビアク島は、当時、第二方面軍司令官の阿南惟幾大将をして「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで言わしめた、日本軍にとって戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る

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2008/12/22 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島
秋田県の南南西およそ4,360km。あるいは四国の室戸岬の真南約3,590km。西部ニューギニアの北およそ190km。そこに、太平洋戦史にもほとんど登場しない、忘れ去られた小さな島がある。その名をマピア諸島と言う。環礁の縁にできた四つの島から成る。この島で、秋田県で編成された帝国陸軍の一個中隊(小幡中隊長)が玉砕を遂げている。歩兵第223連隊(注:秘匿名は「雪3524部隊」1942.7.24以降連隊長は吉野直靖大佐)の第7中隊だ。 『濠北を征く』によれば、昭和19年(1944)5... ...続きを見る

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2008/12/21 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン
昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を命じた。そして同年11月14日、同部隊はソロンの向かい側にあるサラワチ(Salawati)島のサマテ(Samate)に上陸した。設定隊は9月に豊橋で新設された乙(半機械化)編成部隊で、定員は150名、これに台湾人で構成された特設勤労団が約1,000名加わった。ソロンの町近辺には飛行場の適地が... ...続きを見る

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2008/12/20 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン
ソロン(Sorong)はニューギニア島の西端に位置する人口およそ163,000人の都市。元はフォーゲルコップ半島の西半分を占めるソロン県の県都だったが、2000年2月28日、ソロン県から分離してソロン市として行政独立。ちなみにソロン県は2002年二つの県に分割された。一つは11の郡から構成されるソロン県で、その人口はおよそ95,000人。もう一つが14郡から成る南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan=略称Sorsel)で人口はおよそ105,000人(2007年... ...続きを見る

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2008/12/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)ソロン
ミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団第70中隊がアンボン方面から飛来し、8月8日に行った偵察飛行記録によれば、その規模は、長さ1,850m、幅約200mが整地され、長さ850mの滑走路が概成していた。さらに8月13日の同中隊の司偵捜索によれば、同島には長さ1,500m、幅200mの滑走路が概成していたが在地機はなかったとされる。しか... ...続きを見る

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2008/12/18 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)ソロン
昭和19年(1944)4月22日、日本軍が建設した三つの飛行場があるセンタニ(Sentani)の東方約45kmに位置するホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ)へマッカーサー大将率いる連合軍が上陸。続いて、5月18日、海軍が造成した飛行場(滑走路の長さは1,500m、幅120m)があったワクデ(Wakde)島への上陸。連合軍は、前日(5月17日)には、同島対岸の、日本軍第36師団(師団長田上八郎中将)司令部が置かれたサルミ(Sarmi)東方のトゥム(Tum)... ...続きを見る

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2008/12/17 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)イドレ
第二軍(マノクワリ:司令官は豊島房太郎中将)のイドレ(Idore)転進部隊約12,000名の将兵が、“地獄ヤカチ”そして“野たれヤカチ”と呼んだヤカチ(Yakati)地区---米軍は後に“緑の地獄”と名付けた。この地に、転進作戦前年の昭和18年(1943)2月〜8月、海軍ニューギニア調査隊が入った。フェールビンク(Geelvink)湾(現在はチェンドラワシ湾)からビィントゥニ(Bintuni)並びにベラウ(Berau)湾の間に位置する細長いベラウ(Berau)地峡に横断道路を建設す... ...続きを見る

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2008/12/16 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)イドレ
マノクワリからベラウ地峡のイドレに向けた、約12,000名の第二軍将兵による“緑の地獄”転進作戦が行われた昭和19年7月〜11月の一年以上前、ベラウ地峡では、同地に横断道路を建設しようとする日本海軍の調査が行われた。第二軍がマノクワリにやってくる10ヵ月前のことだった。昭和18年2月23日〜4月27日、海軍ニューギニア調査隊測量班(調査員:海軍軍属 駒澤幸男以下22名。警護兵6名、パラオ島民12名、パプア人苦力110名の計150名から構成)は、第一次調査として、マノクワリ→ワーレン... ...続きを見る

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2008/12/15 13:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)イドレ
“絶対国防圏”----日本と南方資源要域及び両者間の連絡地帯を防衛するための、必要最小限の要域圏であって、それより内には絶対に敵の作戦拠点獲得を許さないとする考え方(『戦史業書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦:防衛庁防衛研修所戦史室著』朝雲新聞社刊の第一編「西部ニューギニア方面陸軍航空主力の決戦準備」より)。昭和18年(1943)9月末に大本営が、南太平洋方面の確保を断念し、絶対国防圏を決定すると、西部ニューギニア地域の航空基地の確保はさらに重要度を増した。絶対確保すべき要域は千... ...続きを見る

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2008/12/14 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)マノクワリ
真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争の勃発からおよそ二ヶ月後、昭和17年(1942年)の2月初旬、大本営はニューギニア島の占領命令を下した。『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』(戦史業書:防衛庁防衛研修所戦史室著)によれば、「東部ニューギニアの要地をソロモン諸島要地と共に攻略し、豪州本土と同方面との連絡を遮断し、豪州東部北方海域を制圧すべし」との命令が、ラバウル方面占領の陸海軍部隊になされた。この命によって、日本軍は3月上旬、今日のPNG(パプアニューギニア独立国)の北部海岸地帯のラエ(... ...続きを見る

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2008/12/13 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11)マノクワリ
「上司より指示せられた処では、軍の決戦時期が到来したならば約二個飛行師団を軍の正面に使用することとなるであろうとのことであった。然るに事実は余りにも甚だしく之れを裏切られた。軍として主力を賭すべきビアク島の戦闘最盛時に於て、軍の正面に協力したのは飛行第七師団の二十機内外のものが数機に分れて攻撃を反復し、海軍の飛行隊の数機が之れに協力して居った程度で極めて微温的であった。従って戦況に余り影響を及ぼす迄に行って居らなかったことは、期待の大きかっただけに無限の寂寥を感じた。斯て半歳に亘っ... ...続きを見る

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2008/12/12 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10)マノクワリ
第二方面軍並びに第二軍が統帥を発動する以前、飛行場設定部隊はいち早く西部ニューギニアに入り、フォーゲルコップ(オランダ語でVogelkop)半島(注:この地を日本軍は亀地区と呼称した)で偵察・調査を開始した。この任にあたったのは第19軍(司令部はアンボン:司令官は冨永信政中将。隷下に第48師団や第5師団、第48師団など)の第二野戦飛行場設定隊(山本勝大佐)。同隊は昭和18年(1943)10月、マノクワリへ進出、レンダニ(Rendani)に一か所、その南のムミ(Momi)地区に2〜3... ...続きを見る

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2008/12/11 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9)マノクワリ
昭和17年(1942)年3月、日本軍(第16軍:司令官は今村均中将)はジャワ島に上陸、開戦92日目に、蘭印(オランダ領インドネシア)軍は降伏。同月末、大本営海軍部は、西部ニューギニアの要地を占領すべく連合艦隊に命令を下した。しかし、同年8月の連合軍のガダルカナル島上陸、それに続く、東部ニューギニア戦線の悪化。こうした状況下、大本営は、翌年(1943)8〜9月に「絶対国防圏」を固めた。すなわち南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラ... ...続きを見る

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2008/12/10 18:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ
第二軍司令部が置かれたマノクワリ。昭和19年(1944)4〜5月、連合軍が、日本軍の大飛行場群があった中部ニューギニアのホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ・Jayapura)を制圧、次いで、これまた日本軍の大飛行場群だったビアク(Biak)島を陥落させると、次はマノクワリへの上陸が高いとの判断に基づき、持久戦の態勢を整えるため、残った食糧との関連も含め、多くの兵を“転進”させることを決定した。7月初旬、マノクワリ駐屯部隊のおよそ半数にあたる12,000名... ...続きを見る

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2008/12/09 19:10
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ
マノクワリ(Manokwari)は、西パプア州(Provinsi Papua Barat)の州都。人口は約15万。ここは、1855年2月5日、二人のドイツ人プロテスタント宣教師(Carel Willem Ottow・Johann Gottlob Gissler)が、目の前のマンシナム(Mansinam)島(注:日本軍は暁島と呼んでいた)に上陸して、同地にキリスト教を最初にもたらした、言わば“聖地”だ。西パプア州は、1999年の法律第45号によるイリアンジャヤ(Irian Jaya)... ...続きを見る

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2008/12/08 18:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ
まるで月の表面のような、大小様々なクレーター。それも、きちんと一列に並んでいるような箇所もある。水をたたえた、ラグーンの様な色をしたものもある。緑っぽく映るクレーターは草で覆われているのか。かすかに、直線の枠のような筋も見える。衛星画像に見る海軍サガ飛行場群(Saga:日本軍はそう呼んでいたが、現在同地にはサエンガ=Saenggaという名称が付いていることから察して、正しくはサエンガと発音すべきかもしれない。サエンガは現在、タングーガス田の輸出基地として巨大なLNGプラントが立ち並... ...続きを見る

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2008/12/07 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ
日本の海軍陸戦隊が昭和17年(1942年)3月〜4月に、ニューギニア島の要所を占領する以前、西部ニューギニアは蘭領ニューギニア(Nederlands Nieuw Guinea)、そして東半分の北半分がオーストラリアの信託統治領(それ以前はドイツ領)、南半分がオーストラリア領(それ以前は英国領)だった。いずれにせよ、日本軍がこの世界第二位の巨島に兵を進めるまで、同島は欧州列強の植民地の歴史を刻んでいた。 日本軍が侵攻する以前、ビントゥニ湾(Teluk Bintuni)に面したバボ(... ...続きを見る

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2008/12/06 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ
帝国海軍バボ(Babo)基地は、西部ニューギニア(蘭領ニューギニア)にあっては、昭和18年(1943年)の1〜3月時点において、日本軍がほぼ建設を終えた二つの飛行場の一つだった。もう一か所は、北部海岸のサルミ(Sarmi)の近く、ワクデ(Wakde)島に帝国海軍が造成した飛行場。ワクデ島は、小さな島で、東西方向に、島の端から端まで滑走路であった。この頃は、この二つの航空基地の他に、ホランジア(Holandia:現在のププア州の州都ジャヤプラ)に、同じく海軍の手によって建設が進められ... ...続きを見る

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2008/12/05 00:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ
バボ(Babo)は行政的には、西パプア州(Propinsi Papua Barat)のビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)バボ郡(Kecamatan Babo)に属する。バボ郡の郡都だ。ビントゥニ湾県は、旧マノクワリ県(Kab. Manokwari)の分割によって2003年6月に誕生したばかり。県の面積はおよそ18,660km2で、人口は約42,000人(2004年)。バボ郡の人口はおよそ13,000人。間もなく(2008-2009年)始まる液化天然ガス... ...続きを見る

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2008/12/04 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2)バボ
帝国海軍バボ(Babo)基地は、昭和18年(1943年)夏から19年初頭にかけて行われたニューギニア中部のホランジア(Hollandia:現在はパプア州の州都ジャヤプラ)地域における航空戦の補給のため建設された。陸海軍航空隊、高射砲隊、飛行場設定隊、陸、海軍通信隊など、常時200名ほどが駐屯していた。しかし、昭和19年(1944年)5月末の連合軍による大空襲により、地上の設備は全滅した。ホランジアの撤退(1944年4月)や同年5月のビアク(Biak)島陥落以降、バボ基地は補給ゼロと... ...続きを見る

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2008/12/03 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon)バボ
まもなく太平洋戦争開戦67周年。インドネシア共和国は去る8月17日、独立63周年を祝った。いわゆる「先の大戦」が侵略戦争であったのか否かについて、航空自衛隊幕僚長の懸賞論文問題を契機に、世は論議に喧しい。こういったイッシューに関しては、たいていの場合、発言者の立場が問題視され、本質的な議論が巻き起こらない一面も否定できない。それは、靖国神社の公式参拝、私的参拝の違いにだけ強い関心を抱くメディアの、ステレオタイプな姿勢にも共通しているように思える。言い換えると、立場さえ非公的であれば... ...続きを見る

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2008/12/02 13:42
日イ国交樹立50周年記念切手発行(Perangko 50 tahun RI-Jepang)
日本とインドネシアの国交樹立50周年を祝って、日本郵便は今日(2008年6月23日)、「国際文通グリーティング・日本インドネシア国交樹立50周年」を全国一斉に発売開始した。発行部数は1,000万枚(100万シート)。日本とインドネシアによる切手の共同発行は今回が初めて。インドネシア国内では、一足先に去る4月15日に販売が開始した。 両国を代表する風景、文化遺産、花、楽器そして魚の5つのカテゴリから一つずつ選ばれ、計10枚で1シートの構成。インドネシア版は額面がRp.2,500だが... ...続きを見る

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2008/06/23 20:22
アチェに死す(3) Kuburan Warga Jepang di Aceh(3)
州都バンダアチェから高速艇でおよそ45分。ウェ(Weh)島の南岸にあるバロハン港に着く。この島の中心地はサバン(Sabang)。インドネシアの東西に展開する版図を表現する“サバン(Sabang)からメラウケ(Merauke)”のサバン市の所在地だ。インドネシアで唯一の“自由貿易港”でもある。ウェ島の北西には、(おそらく)インドネシア最北端に位置するロンド(Rondo)島が浮かぶ(北緯約6.5度)。ここには、海兵隊や水上警察部隊が駐屯して、国境警備にあたっている。ウェ島の最西端(バウ=B... ...続きを見る

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2007/09/16 16:42
アチェに死す(2)Kuburan Warga Jepang di Aceh(2)
州都バンダアチェから高速艇でおよそ45分。ウェ(Weh)島の南岸にあるバロハン港に着く。この島の中心地はサバン(Sabang)。インドネシアの東西に展開する版図を表現する“サバン(Sabang)からメラウケ(Merauke)”のサバン市の所在地だ。インドネシアで唯一の“自由貿易港”でもある。ウェ島の北西には、(おそらく)インドネシア最北端に位置するロンド(Rondo)島が浮かぶ(北緯約6.5度)。ここには、海兵隊や水上警察部隊が駐屯して、国境警備にあたっている。ウェ島の最西端(バウ=B... ...続きを見る

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2007/09/16 16:23
アチェに死す(1) Kuburan Warga Jepang di Aceh(1)
州都バンダアチェの中心部、かつてアチェ王国の宮殿があったとされる地区からさほど離れていない場所に、大きな墓苑がある。地元で「Kerkhof Peutjoet」と呼ばれている。Kerkhofはオランダ語で墓地を意味する。アチェ語に転訛した呼称では、Kerkoffとなる。一方 Peutjoet(もしくはPeucut)は、アチェ語で若い皇太子を意味する。1873年〜1942年のおよそ70年間に、アチェで亡くなったオランダ人を埋葬してある。その数、約2,200名。主にKNIL(オランダ王国陸軍... ...続きを見る

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2007/09/15 13:42

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