『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』27 故瀧澤吉治准尉(4)

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瀧澤吉治曹長はいったいどこで戦死したのか?そしてその日はいつか?
岩手県保健福祉部地域福祉課が原本を基に証明するところによれば、瀧澤(飛行第68戦隊=襲第9151部隊)は昭和19年5月30日、西部ニューギニアのトム付近で戦死となっている。原本を作成した調製官は飛行第68戦隊長代理の陸軍少佐田崎次夫(但し、田崎少佐は西部ニューギニアには転進せずに、当時東部ニューギニアのウエワク南方山中にいたことから推測して、直接情報を基に記したものとは思えない)。

一方、『飛行第六十八戦隊名簿』(昭和42年5月発行)によれば、瀧澤は昭和19年4月22日、ホランジア(現ジャヤプラ)で戦没したことになっている。この日には、瀧澤を含め計4名の同戦隊要員がホランジアで戦死したと記されている。4月22日と言えば、まさに連合軍がホランジアに上陸した当日。この前日、ホランジア西方約45kmに位置する日本軍飛行場群(注:滑走路が3ヶ所あった。西端の第1飛行場→ホランジア飛行場、次いで第2飛行場→センタニ飛行場、そして第3飛行場→サイクロプスもしくはチクロップ飛行場)は、延べ500~600機の連合軍空母艦載機の来襲を受け、出動可能機数はほぼ皆無となっていた。22日、フンボルト湾そしてタナメラ湾の東西方向から上陸した2個師団を援護するため連合軍の艦載機が微雨を衝いて飛行場群方面にも来襲した。仮に、この『飛行第六十八戦隊名簿』の記述が正しければ、瀧澤はセンタニ湖北岸台地にあった第2飛行場もしくは第3飛行場(注:当時、各戦隊はこの双方の飛行場を使用していた(上木利正著『ニューギニア空中戦の果てに』)で戦死した可能性も否定できない。

遠く東部ニューギニアにいた田崎第68戦隊長代理の報告が正しいのか、それとも約50名ほどの操縦者を含む第68戦隊隊員がまだ生存していたホランジアからの報告が真実か。今やそれを証明する手段はない。『ニューギニア・還らざる兵士 「戦死」の疑惑を追って』(草賀類子著。昭和58年8月、主婦の友社刊)が触れているように、激戦地のニューギニアでは、戦友誰一人の目撃証言がない中、戦死者名簿が作られたことは、決して稀なことではなかった。しかし、残存する唯一の“公的”資料である、岩手県保健福祉部が発行する、飛行第68戦隊長代理田崎次夫少佐の“調製”による「事実死亡証明書」を礎にする場合、戦死日は「昭和19年5月30日」、場所は「トム」とせざるを得ない。


故瀧澤吉治准尉(昭和18年3月、伊勢神宮にて)。

以下、瀧澤吉治曹長の軌跡に関して幾つかの推論をあげてみる。
①瀧澤は、本当に昭和19年4月26日にゲニムを発ったサルミ転進第1梯団の構成部隊の一つである飛行第68戦隊の中にいたのか?
瀧澤吉治曹長は第1梯団ではなく第2梯団以下に加わったことも考えられる。というのも飛行第63戦隊長の原孫治少佐は、実際4月26日にゲニムを発った第63戦隊を含む第1梯団には加わらず、5月1日出発の第2梯団に入っていた。どういった事由でそうなったのかは不明だが、同様に、戦隊本部要員や各中隊の整備幹部、そして戦隊の地上勤務者なども、第1梯団ではなく、第2梯団でサルミへの転進を行っている。
『ニューギニア空中戦の果てに』(1982年10月:戦誌刊行会)の著者である上木利正中尉(当時。後19年12月大尉に進級)は、同書の中で、転進第1梯団に加わった操縦者は、第1中隊長長安広大尉、第2中隊長折居大尉以下20数名と記している。そして、その他の戦隊要員は原戦隊長を含めて第2梯団に参加したと。
この第63戦隊のケースから推定しても、第1梯団に組み入れられた要員は、主にパイロットであり、その他の要員は第2梯団以降に回されたことが考えられる。つまり、整備幹部であった瀧澤吉治曹長も、第2梯団あるいはそれ以降の梯団でサルミへ向かった可能性がある。パイロットを優先的にサルミへ転進させたいとする考えは、第6飛行師団長心得の稲田正純少将の願いだった。「少なくとも操縦者だけは何とかして今一度飛行機に乗せてやらねばならぬ」(『濠北を征く』・濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月刊)。

②仮に第1梯団の中にいた場合、どのようなルートでサルミへ向かったのか?
『ニューギニア空中戦の果てに』(上木利正著)によれば、第14飛行団長恩田謙蔵大佐率いる第1梯団は、4月26日ゲニムを出発、サルミへ向け西進を開始。この梯団の人数については、上木は473名と記し、『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦戦史』(防衛庁防衛研修所戦史室・昭和44年1月刊)は、465名とする。一方、このサルミ転進作戦の“総司令官”であった元第6飛行師団長心得の稲田正純は『濠北を征く』の中の「第六飛行師団始末記」で、465(515)名と二つの数値を記している。あいまいな人数の背景には、連合軍の上陸を受けた大混乱による部隊掌握の困難さが伺える。
再び上木の記述に戻ると、4月26日、ゲニムを通過した第1梯団は、セルモ川上流、バレ村、バーソン村、サウイ村、ドアリム川などを経由して海岸へ出て、5月11日、アルモパを通過した。ここで、サルミから前進し4月29日にアルモパに到着していた第36師団歩兵第224連隊(松山宗右衛門大佐)の第1中隊(上原靖彦中尉)と出会っている。5月16日の夜、ターメント川の右岸に到着。川を渡れば「トム」である。5月17日、朝7時ごろ、上木一行は、トム、アラレ村付近に初上陸した連合軍の姿を目撃している。そこで、渡河を諦め、南のジャングルに入り、トル川中流部のブファレ村を目指した。
このジャングル内で、第1梯団の上木一行は、追いついてきた幾つかの後続梯団と出会っている。この中には、5日遅れの5月1日にゲニムを出発した第2梯団の飛行第63戦隊の原戦隊長や地上勤務者一団もいた。上木らは5月25日、ブファレ村に到着した。一方、稲田師団長は翌26日、ブファレの北、トル川右岸のドーノア(もしくはドンア)に到着している。

③昭和19(1944)年5月30日、トム村で戦死する可能性はあるのか?
瀧澤吉治曹長が途中で落伍せずに、第1梯団か第2梯団の移動集団の中にいたとする場合、連合軍がトム上陸を果たした5月17日以降に、トム村に入っていることは考えられない。5月16~17日の付近を様子を『戦史叢書 豪北方面陸軍作戦』は次のように書き記している。
夜半から明け方にかけて、敵はワクデ島、トム、アラレ、マフィン方面に猛烈な艦砲射撃。夜が明けると(17日)、近海一帯に艦船が多数。ワクデ島は三方向から十数隻の艦艇に包囲され、その集中砲火を受け、全く火の海と化し、同島飛行場の航空燃料の火焔は天に冲し、その凄惨の状正視に堪えぬものがあった。トル河沖合西方においては敵巡洋艦、駆逐艦は主としてクマンバ島方面に望見された。5月16日、松山連隊(注:歩兵第224連隊)はワクデ対岸の東方を東進中で、飢え疲れて三々五々西進してくる第6飛行師団将兵と行きつ会いつつ前進していた。
また『西部ニューギニア戦 雪部隊 苦闘の軌跡』(大國五郎著・角川書店・平成4年8月刊)によれば、連合軍トム上陸時の松山連隊主力の部隊配置は次のようであった。トム東方のケデルには通信、衛生、補給、砲兵などの直轄諸隊。その東のマシマシに連隊本部。その東に第2大隊(川島全少佐)。その東に第3大隊(土井初太郎少佐)。そしてさらに東のヤムナには第51野戦道路隊(松下環中佐)。また同書によれば、5月18日、トム村の東5kmに位置するターメント川右岸には、ホランジアからの転進兵で混雑していた(注:上木の記述とほぼ一致)。
川島大隊は、17日の夜(18日未明)にはトム村在の米軍に対して夜襲を仕掛けたが、50名の戦死、20名の負傷を出し、後退を余儀なくされた。以降、6月初旬にかけて、トム、ケボン、アラレ付近では激しい戦闘が続いた。これらの状況から考えて、瀧澤吉治曹長が5月30日にトム村付近にいたことはあり得ない。

④トム村でない場合、瀧澤吉治曹長はどこで、いつ“戦死”したのか?サルミまであと一歩のトル(Tor)川右岸は、5月中旬~末にかけて、ホランジアからの転進兵が続々と到着していた。一方、戦闘地域への“敗残兵”の進入を防ぐため、トル川渡河禁止令が6月2日に出た。第36師団長(田上八郎中将)と稲田第6飛行師団長との合意に基づくこの措置は、第6飛行師団作戦主任参謀の岡本貞雄少佐によって、トル川河右岸の転進各部隊に伝達された。「サルミに着きさえすれば友軍がいる。食糧もある」---と全ての望みをサルミ到達に置いていた転進兵らは、この非情な渡河禁止令によって、希望を失い、トル川右岸で累々と屍の山を築いていったと言われる。トル川まで到達していたとすれば、瀧澤の最期の地は、トル川右岸一帯と考えられる。そしてこの場合、5月30日という日付も納得できる範疇にある。しかし、それでも謎は残る。
『幻 ニューギニア航空戦の実相』(ラバウル ニューギニア陸軍航空部隊会刊・昭和61年4月)によれば、ゲニムを発った際の飛行第68戦隊の人員数は40名。そして転進中の生死不明が12名、転進中の戦病死が24名。つまり90%死亡。生存率10%。残りの4名(注:全員操縦者と思われる)が稲田師団長らと共にサルミから更に西進し、マンベラーモ川河口のテバに向かった。生死不明(注:転進中にグループから落伍)の12名の中にいるのか、それとも戦病死(注:転進中もしくはサルミ到着後の自活地域となったシアラ近辺)の24名の中か?いまやその真実を知る術はない。


ホランジア(現ジャヤプラ)・サルミ間に瞑る故瀧澤吉治准尉。その遺骨は未だ祖国・日本に還れない。

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故瀧澤吉治准尉。昭和15(1940)年12月、伍長進級時の撮影と思われる。

サルミに到着後の第6飛行師団のその後の軌跡は以下の通り。

6月3日:稲田少将、サルミ脱出を決定。第1~第4梯団に区分してのさらなる転進計画。第1梯団は、稲田師団長以下50名(内空中勤務者13名)、第2梯団(恩田第14飛行団長以下、岡本貞雄参謀を含む、主として空中勤務者)、第3梯団(森玉白城子教導飛行団長以下、原田金兵衛参謀を含む、主として空中勤務者)。第4梯団(師団司令部、各部隊本部、警備関係者等)。この第2~第4梯団の人員並びに出発時期は第36師団長の規制を受ける、となっていた。
その他の部隊は、第14野戦航空修理廠長の船山正夫大佐の指揮をもって、第36師団長の指揮下に入った。それらは、昭和19年12月4日付けの大陸令1198号によれば、第14野戦航空補給廠、第18航空地区司令部、第38飛行場大隊、第5航空通信連隊、第4航空情報連隊、第14野戦航空修理廠、航空移動修理班(重爆)、白城子陸軍飛行学校材料廠の第209分廠、第13野戦飛行場設定隊(2中隊欠)、建築勤務第52中隊などだった。

6月5日:稲田少将一行約50名サルミ出発。
6月12日:稲田一行、テパ到着。
6月15日:第14海上輸送隊の発動艇2隻(大小各一隻)によって、ヘルビング湾底を経てマノクワリへ出発。
6月24日:稲田一行、ムミ到着。
6月26日:双軽機を利用、ムミからマノクワリ到着、第2軍司令部と連絡。
6月28日:朝、迎えの双軽2機でマノクワリ発、ソロン経由メナド着。阿南第2方面軍司令官と会う。
6月下旬:第6飛行師団部隊の大部分は、第36師団の命令に基づき、サルミ西方のシアラ以西の地区に集結し現地自活態勢に入った。その人員は約2,000名だった。これらの指導は、第6飛行師団参謀の岡本貞雄中佐、原田金兵衛少佐が任じた。

(注1)恩田飛行団長は6月初旬の段階では、まだ健在であった。恩田大佐は6月10日、シアラ地区で死亡(折茂一郎元第4航空軍第109航空分廠長が『濠北を征く』で記述)。ちなみに第2梯団長だった森玉徳光少将は7月15日、シアラで死去、飛行第63戦隊長の原孫治少佐は8月5日死去。

(注2)『戦史叢書 豪北方面陸軍作戦』によれば、連合軍ホランジア上陸直前の第6飛行師団兵力は4,025名。戦闘中の損害は3%、転進中の損害は18%、残79%の3,112名がトル河畔に到着。北園部隊(北園豊蔵少々指揮下の第3野戦輸送部隊)は数百名到着。海軍第9艦隊(遠藤喜一中将)諸部隊は、ホランジアでは約1,500名。戦後の生還者は百数十名。


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瀧澤吉治伍長(右)。昭和16(1941)年4月1日、第21回整備学生として入学した陸軍航空整備学校での撮影と思われる。後方には三式戦闘機の飛燕。

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飛行第68戦隊長代理・陸軍少佐岡崎次夫の名で通知された瀧澤吉治准尉の死亡事実証明書(昭和21年6月20日付け)。所属部隊:飛行第68戦隊、通称号:襲第9151部隊の准尉・瀧澤吉治は、昭和19年5月30日、西部ニューギニアの「トム」附近の戦闘で戦死したと記されている。ちなみにこの証明書を出した戦隊長の岡崎少佐は、西部ニューギニアには転戦せずに、東部ニューギニアのウェワク南方のコリヤンガで終戦を迎えている。


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昭和18(1943)年、南方派遣下命(3月20日)。4月4日、横須賀港を発って戦地へ赴く前、瀧澤軍曹(左端)は、実母と妹らと伊勢神宮を訪れた。


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“命を取る川”とまで言われたトル川についに恒久橋が架かった(2009年7月撮影:木村宏)


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1944年5月30~31日のトム村海岸付近の米軍戦闘配置図。歩兵第163連隊第2大隊、工兵大隊、そして高射砲部隊が展開していた。


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連合軍は昭和19(1944)年5月17日、第36師団司令部があったサルミの東方、アラレ(Arare)並びにトゥム(トム)付近に上陸。翌18日、トム沖合いのワクデ(Wakde)島へ上陸した。

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「太平洋戦史館」が主催した西部ニューギニア慰霊巡拝団に参加した、故瀧澤吉治准尉の姪にあたる座間淳子さんは、2009年7月、トム村で祈りを捧げた(前列右から二人目)。(撮影:木村宏)。


【参考ブログ】

神州の泉
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2009/09/post-63d5.html

『ニューギニア未帰還兵展』を10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_13.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_12.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_11.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_8.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_7.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_6.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_5.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_4.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_3.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_2.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_1.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_32.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_31.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_30.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_28.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_26.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_25.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_24.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_23.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_21.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 15 小野寺中尉の水筒
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_20.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14 終戦記念日
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_16.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13 トル川
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_13.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_12.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_10.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる10
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_9.html

今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 9
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_8.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_6.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_5.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_4.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_3.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_2.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_64.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』2 Pameran Prajurit
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_63.html

「ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ」開催のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_62.html

太平洋戦史館
http://www14.plala.or.jp/senshikan/

東部インドネシアの旧日本軍航空基地関連記事一覧
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/theme/43f9afaef5.html

西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200903/article_21.html

ニューギニア島の西パプア州で大きな地震発生(Gempa bumi Papua Barat)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_5.html

パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_4.html

パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200905/article_19.html

(この間に107~26のシリーズがあります)


東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_29.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_28.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_26.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_25.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_24.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_22.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_21.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_20.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_19.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_12.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_11.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_10.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_9.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_8.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ(Saga & Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ(Babo & Saga)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_5.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_2.html

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