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zoom RSS ニューギニア島の西パプア州で大きな地震発生(Gempa bumi Papua Barat)

<<   作成日時 : 2009/01/04 19:00   >>

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ほぼ四年前の2004年12月26日、スマトラ島沖合で巨大地震が起こり、インド洋沿岸諸国で未曾有の被害を受けた。特にスマトラ島北端に位置する、インドネシア最西端のアチェ州では17万もの住民が犠牲者となった。世界同時不況の、激動の2009年。正月の三が日が過ぎた四日、今度はインドネシア最東端のニューギニア島で大きな地震が発生した。室戸岬の真南およそ3,700km。2009年1月4日、午前4時43分54秒(現地時間。日本時間も同じ)、西部ニューギニアで発生したマグニチュード7.6(アメリカ地質調査所(USGS)=United States Geological Survey発表)の大地震。日本では津波注意報が出された。3時間後にはマグニチュード7.3の地震も発生、余震が続いている。
震源域は、西パプア州(Provinsi Papua Barat)の州都マノクワリと西端の、ソロン県の県都ソロン(Sorong)市の中間地点。エリア的には、マノクワリ県(人口約167,000人)とソロン県(人口約95,000人。ソロン市と合わせると約258,000人)に属する。ソロンは地元語で“波打つ深い海”を、マノクワリは“古い村”を意味する。同地方では珍しい大きな地震は、陸上と海底で連続して起こり、フォーゲルコップ半島北岸の村々を激しく揺さぶった。津波が村々を襲ったかどうかについては、未だ情報がない。第一報によれば、マノクワリ市内ではホテルなどが倒壊し、死者も出ているようだ。被害が最小限であることを祈りたい。


マノクワリ市内で子供を救出するインドネシア国軍兵士(Metro TV)


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震源域は、室戸岬の真南約3,700km。

インドネシア文化宮(GBI)のブログは、たまたま昨年12月以降、西部ニューギニアにかつてあった日本軍航空基地の話題を連載しているが、今回地震が起きたエリアもすでにカバーしていた。マノクワリ(Manokwari)は、戦時中、第ニ軍司令部が置かれた、西部ニューギニアの中心地。現在は西パプア州の州都が置かれている。西端のソロンは、古くは石油基地として知られ、今では日本から水産業者が進出するなど、特にエビ漁で知られている。地震域は、戦時中、第35師団がマノクワリからソロンに向けて“転進”作戦を試み、多くの日本軍将兵が倒れた場所でもある。震源域のすぐ近くには、日本海軍の駆逐艦「春雨(はるさめ)」が沈んでいる。1944年6月7日、ビアク島の戦いにおいて、増援のため陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻と共にソロンを出発したが、途中、米艦隊と交戦し、さらにB-25の攻撃を受け沈没した。ソロンやマノクワリは西部ニューギニアでは大きな街で、救助作業などは順調に進むものと思われるが、震央にあたるこれら二つの中間点は、決して交通の便が良いとは言えない。被害が限りなく小さいことを祈るばかりだ。


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マノクワリ市内で壁が崩れた家(Metro TV)


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マグニチュード7.6の地震の震源地(USSG)


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ピンク線はプレート境、緑の線は断層(USSG)


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衛星画像で見ると、東西一直線に伸びた断層(上のイラストの緑線)がはっきりと分かる。


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これまでの地震歴(USSG)。この近辺では巨大地震は珍しい。


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2009年1月4日の主な地震の震源地と規模(USSG)


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西パプア州(Provinsi Papua Barat)の行政区域。下の画像の両名は州知事と副州知事(西パプア州政府ホームページより)


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マークは震源地(衛星画像)


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震源地と村々のロケーション


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印は日本海軍の駆逐艦「春雨(はるさめ)」の沈没地点。


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震源域の海岸線(衛星画像)


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マグニチュード7.6の地震が発生して以降、UTC(Coordinated Universal Time)の2009年1月4日11時49分(UTC時間=Coordinated Universal Time)までに発生した一連の地震は、アメリカ地質調査所(USGS)によれば以下の通り(左からマグニチュード、日付・時間、南緯・東経、深さを示す)


4.9 2009/01/04 11:49:52 -0.744 133.773 57.1
4.3 2009/01/04 08:54:34 -0.413 133.080 35.0
4.9 2009/01/04 08:12:12 -0.820 133.398 35.0
5.1 2009/01/04 07:33:00 -0.819 133.615 35.0
6.0 2009/01/04 07:14:00 -0.387 132.748 35.0
4.7 2009/01/04 06:53:40 -0.248 132.845 35.0
4.9 2009/01/04 06:05:16 -0.654 134.083 35.0
5.4 2009/01/04 05:44:05 -0.704 133.190 35.0
4.9 2009/01/04 03:28:30 -0.685 133.485 40.4
4.8 2009/01/04 02:47:12 -0.224 132.711 20.5
4.7 2009/01/04 02:29:02 -0.703 133.554 35.6
5.3 2009/01/04 01:55:23 -0.737 133.546 20.2
5.1 2009/01/04 00:55:36 -0.197 132.839 35.0
5.3 2009/01/04 00:05:12 -0.100 133.128 35.0
5.4 2009/01/04 00:00:38 -0.730 133.312 35.0
5.2 2009/01/03 23:01:00 -0.411 133.694 35.0
7.3 2009/01/03 22:33:42 -0.695 133.279 35.0
5.0 2009/01/03 22:23:47 -0.510 132.214 35.0
5.2 2009/01/03 22:07:47 -0.319 132.869 35.0
5.6 2009/01/03 21:49:32 -0.363 132.834 35.0
5.1 2009/01/03 21:30:47 -0.563 133.124 64.6
4.8 2009/01/03 20:47:34 -0.282 132.880 35.0
7.6 2009/01/03 19:43:54 -0.510 132.783 35.0



【参考ブログ】

メトロTV
http://www.metrotvnews.com/

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_8.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_9.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_19.html

西パプア州政府(Provinsi Papua Barat)
http://www.papuabaratprov.go.id/

マノクワリ県(Kabupaten Manokwari)
http://www.manokwarikab.go.id/

ソロン県(Kabupaten Sorong)
http://www.sorongkab.go.id/

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タイトル (本文) ブログ名/日時
「ニューギニア未帰還兵展--私を祖国日本へ帰らせてください」開催のお知らせ
お母様、お父様、お変りございませんでしょうか。 お婆様、お爺様 お元気でしょうか。 兄上様、姉上様、そしてご家族の皆様、達者でお暮らしでしょうか。 叔母様、叔父様、そしてご家族の皆様、お変わりありませんでしょうか。 戦友の皆々様方、日本は立派なお国になりましたでしょうか。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/26 10:59
『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』2
{%メガホンhdeco%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』を開催する。西部ニューギニア(パプア州)の戦史、そして玉砕... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/27 23:19
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
{%ノートwebry%}一万数千名の犠牲者を出したビアク島の戦い。終戦後、マノクワリの日本軍と連合軍との合同捜索隊が同島に入った。しかし、生存兵わずか八名を収容できたのみだった。その生存者の一名が、連合軍の厳しい監視をかいくぐり日本に持ち帰り、遺族に手渡した一冊のノート。それが、第36師団歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊附の陸軍主計中尉浅野寛氏(陸軍経理学校第二期乙種学生)が書き記した日記帳だった。 日記の開始は「五月三十日」(注:1944年5月30日のこと。この三日前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/30 11:30
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/01 20:25
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/02 22:26
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。水筒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 03:33
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 11:56
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 13:42
今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』
{%爆弾webry%}今日、2009年8月8日(土)から『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まります。間もなく戦後65年目に入ります。しかし、激戦地だった西部ニューギニア(現在のインドネシア・パプア州、中パプア州、西パプア州)には、今でも少なくとも3万名を超える旧日本兵の遺骸が、放置されたままで、まさに“野垂れ死に”の観を呈しています。“祖国”のためと、赤道を越えた日本軍、そして日本軍と共に南下した朝鮮半島や台湾出身者、さらに日本軍に協力したインドネ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/07 19:15
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる
{%爆弾webry%}広島と長崎の64回目の“原爆の日”を挟む8月8日(土)、インドネシア文化宮(GBI)で『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まった。世はお盆の帰省ラッシュのスタート。展示会初日、会場には共催者である「太平洋戦史館(岩手県奥州市)」の関東在住の会員の皆さんが駆けつけてくれた。その一人、相模原市在住の座間淳子さんは、去る7月、西部ニューギニアのかつての激戦地であるサルミやビアク島などの慰霊巡拝の旅に参加した。サルミ東方の“玉砕の島”ワクデ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 15:32
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』は、主に、“玉砕の島”ビアク(Biak)島の未帰還兵に焦点を当てている。1万を超す兵が戦死したが、いまだに約6,000人の遺骸が収集されていない。まだ“遺骨”にさえなっていない。以下このビアク島の戦史をインドネシア語の動画で辿る。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 23:56
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
{%爆弾webry%}『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』のスタート二日目の8月10日。展示主要対象地であるビアク(Biak)島に向けて五日後に出発するという、京都産業大学の安田和彦教授ご夫妻がやってきた。これまでインドネシア各地を旅行しているが、西部ニューギニアは初訪問。しかも訪問地は“玉砕の島”ビアク。 戦時中、大本営は当初、第2方面軍(阿南惟幾大将)隷下の第2軍(豊嶋房太郎中将)、その隷下の第36師団(雪兵団:田上八郎中将)を当初、西部ニューギニアの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/10 20:01
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、身内を西部ニューギニアで亡くした方々がたくさん駆けつけている。もしや、展示されている遺留品の中に、身内の物が含まれていないか?どこで、どのように戦死・戦病死したのか、何か手掛かりを得られるのでは?そんな思いで関東一円から、インドネシア文化宮(GBI)を目指して集まっている。 その中のお一人、町田市の川口美代子さんは幼い頃、実父の小坂岩吉兵長をニュギニア本島北岸を亡くした。戦後、昭和21年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/12 19:29
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14
{%やしの木webry%}終戦から満64年。2009年8月15日(土)正午。東京・九段の日本武道館で、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われた。“戦後”は65年目に入った。終戦の年に19歳で徴兵検査を受けた人も、今では83歳。あの日はますます遠ざかっている。 以下は同追悼式典における天皇陛下と首相の言葉。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/15 17:17
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 14 小野寺中尉の水筒
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で涙を見ない日はない。開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』を目指して、親族を西部ニューギニアで亡くされた方々が多く訪れている。64回目の終戦記念日が数日前に過ぎたとはいえ、それはカレンダー上での出来事。心の奥底には“戦後”が未だ訪れていないと思わせる抜けないトゲが残っている。あれから64年も経ったというのに。 「義父はビアク島で亡くなったとされています。義母が生きていた時には、テレビで旧日本兵の話... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 00:50
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「鈴木信太」とフルネームが刻まれた飯盒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。「鈴木」の二文字は、大きく二重線で刻まれ、「信太」は、少し小さめで一本の線。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは決して多くはなく、たい... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 18:37
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「渡辺貞雄」とフルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/22 16:59
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「長野一彦」とフルネームが刻まれた水筒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と言... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 11:34
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がホランジア(現ジャヤプラ)西方のゲニェム(ゲニム=Genyem)地区で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「中島慎市」あるいは「中島愼市」、もしくは「中島慎希一」か「中島愼希一」とも読める、フルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名がほぼ判読可能にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 12:17
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「久保金治」とフルネームが刻まれた飯盒の蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 13:16
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
{%爆弾webry%}およそお洒落な形のカップに似合わない、銃弾貫通の跡。「太平洋戦史館」(岩手県奥州市)が、玉砕のビアク(Biak)島で見つけた金属製のカップ。誰が、何を飲むために使っていたのだろうか。いや、すくなくとも「誰」かは知れている。底に『杉沢』と刻まれている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/24 22:46
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
京都産業大学の安田和彦教授が今夏、パプア州のビアク島を訪れた。インドネシア共和国が第64回独立記念日を迎えた2009年8月17日早朝、首都ジャカルタからおよそ6時間の夜間飛行の末、安田さん夫妻は“玉砕の島”ビアク(Biak)島に到着。戦時中、この島では第2軍直轄の、歩兵第222連隊(葛目直幸大佐:雪3523部隊=青森編成)を主力とするビアク支隊が海軍部隊と共に、連合軍と対峙。激戦は、1万数千の将兵・軍属の命を奪った。歩兵第222連隊の原隊である第36師団(通称雪兵団)は、青森県弘前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 00:38
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}「(注:昭和19年)六月二十一日頃になると、西洞窟は殆ど完全に包囲され、敵は至近から戦車砲、火焔放射器及点火ドラム缶等で洞窟内を攻撃する様になった。洞窟入口附近の戦闘は酸鼻を極め、支隊長(注:第36師団歩兵第222連隊長の葛目直幸大佐)は玉砕を覚悟したが、西原大隊の増援、千田少将の意見具申、鹿野副官、渡辺大尉(第一大隊長代理)の諌止等に依り決意を翻し、二十二日夜暗を利用して西洞窟を脱出することになった。脱出に先立ち独歩不能の重症患者約百数十名は、全員必勝を確信... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 14:59
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}戦後は終わっていない(安田和彦) ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/31 02:39
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}あの戦争が残したもの(安田和彦) あの戦争とは何を指すのか。それは生まれ育った時代、そして国籍によって異なるのだろうが、“戦後”20年も経ってから青森県で生まれた私にとって、あの戦争とは太平洋戦争もしくは大東亜戦争のことだ。今夏、“玉砕の島”と呼ばれるビアク島を訪れ、戦争が残したものを数々目にした。ビアク島には“戦後”そして“戦中”が共存していた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/01 12:12
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}海のビアク(安田和彦)) 赤道直下の南太平洋、チェンドラワシ(極楽鳥)湾に浮かぶビアク島。そこで、豊かで美しい海の姿に出会った。ビアク・ヌンホル県の県都ビアク市内の魚市場。天気が良くて出漁のあった日には、必ずオープン。私達が訪れた8月中旬、市場には色々な魚が並んでいた。カツオ、マグロ、サヨリ、そしてタイ、ハタ、アジ、エビ。活きたウミガメまでも。近くでは、ぶつ切りにした魚を炭火で焼いている屋台があり、結構繁盛している。バイクでやってきた市民が、一匹、二匹と買っ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/02 01:46
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
{%爆弾webry%}「読売新聞」がインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に関して、「日本は迎えに来ていない 激戦ビアク島 帰れぬ遺骨」と題する記事を都民版に掲載した2009年9月3日の朝、東京・銀座のホテルで、元インドネシア共和国教育文化大臣(1993-1998)のワルディマン・ジョヨネゴロ(Wardiman Djojonegoro)氏と朝食を共にした。ワルディマンさんは昨年、日本政府の秋の叙勲で、日本・インドネシア国間... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/03 17:48
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
{%爆弾webry%}ホランジア(現ジャヤプラ)の陥落(1944年4月22日連合軍上陸)に続くサルミへの“地獄の転進”作戦。やがて連合軍は、第2方面軍司令官っだた阿南惟幾大将をして「ここを失うは空母10隻を失うに等しい」とまで言わしめたビアク島へ上陸(1944年5月27日)。第6飛行師団を核とするサルミ転進部隊は、直線距離でおよそ230kmの敗走行軍で、主に飢餓と病魔によって5,000名を超える将兵が屍となった。ジャヤプラ・サルミ間は、まさに“白骨街道”と化した。さらに、サルミ地区... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 13:33
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
{%爆弾webry%}「あのォー、ビアク島の遺留品の中にYの苗字の物はないでしょうか?」----フィリピンのルソン島で実兄を亡くした、現在84歳の女性から電話があった。航空部隊に所属していたという兄の戦死の通知は、一枚の白い紙切れだった。「ルソン島ってビアク島の近くでしょうか?もしや、兄がそのビアク島にもいたかもと思って....」。「Yの遺品があれば、両親のお墓に入れてあげたいと思っていますが...」 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 21:51
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
瀧澤吉治。大正7(1918)年8月13日、瀧澤吉助の長男として岩手県盛岡生まれ。 瀧澤吉治。昭和19年(1944)年5月30日、西部ニューギニアのトムで戦死。 瀧澤吉治。20歳と4ヶ月で入隊。25歳と9ヶ月で戦死。 瀧澤吉治。平成21(2009)年9月初旬現在、未帰還兵。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/05 22:21
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
{%メガホンhdeco%}2009年9月6日(日)、太平洋戦史館の岩渕宣輝会長理事が、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』会場を訪れ、西部ニューギニアに放置されたままの旧日本兵の遺骸の現状についてミニ講義を行った。戦後65年目に入ったが、西部ニューギニアには、いまだに“戦後”が来ない3万を超える将兵が瞑っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/06 20:15
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
{%爆弾webry%}「ひいじいちゃんと太平洋戦争」----2009年9月6日(日)、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、表題のファイルを持った少年がやってきた。東京・中野区立南中学校1年生の上野健太君(12歳)。野球部員だそうで、毬栗頭がなんとも頼もしい。祖母の曽屋真紀子さん66歳)そして母の上野睦子さん(41歳)も一緒だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/08 01:30
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年4月22日、連合軍はホランジア(現ジャヤプラ)へ上陸するが、その前月末、ホランジアには第4航空軍(寺本熊市中将)司令部と、その隷下にある第6飛行師団(板花義一中将)が東部ニューギニアのウェワク(Wewak)から後退してきていた。そして、瀧澤吉治曹長が戦闘機整備要員として所属する、第4航空軍隷下の第6飛行師団傘下の第14飛行団(徳永賢治大佐)隷下の飛行第68戦隊も、同年3月中旬、空中勤務者(パイロット)の主力と整備員の一部計約50名が(おそ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/11 14:57
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
{%爆弾webry%}『薄れゆく悲劇 西部ニューギニア戦線(池見坦著)』によれば、ゴアイに駐屯していた池見氏を含む工作機関(鰐機関:内山守衛中尉指揮下)は4月27日に、ゲニム西方の村(村名不明)で、ゲニムから転進してくる「哀れな日本兵」の姿に接している。乞食同然の姿。銃を持つ者は皆無。手には杖、腰には飯盒と鞘なしの帯剣。この記憶に間違いがなければ、これら日本兵は、4月26日ゲニムを発った第1梯団とも想像される。あるいは、デムタかデパプレ方面から、もっと早くサルミに向けて出発した一団... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/12 18:30
『ニューギニア未帰還兵展』を10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした」-... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/13 15:52
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』27 故瀧澤吉治准尉(4)
{%爆弾webry%}瀧澤吉治曹長はいったいどこで戦死したのか?そしてその日はいつか? 岩手県保健福祉部地域福祉課が原本を基に証明するところによれば、瀧澤(飛行第68戦隊=襲第9151部隊)は昭和19年5月30日、西部ニューギニアのトム付近で戦死となっている。原本を作成した調製官は飛行第68戦隊長代理の陸軍少佐田崎次夫(但し、田崎少佐は西部ニューギニアには転進せずに、当時東部ニューギニアのウエワク南方山中にいたことから推測して、直接情報を基に記したものとは思えない)。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/15 19:59
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』28 故田中梅男伍長
{%爆弾webry%}今日、民主党政権が旗揚げした。期待と不安---とマスコミは描く。どんな未来像が生まれるのかは別にして、日本政治史が新たなページを記し始めたことは確かだ。その歴史の執筆者は、鳩山由紀夫総理。一方、自由民主党は、雌伏の時代を刻み始めた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 01:45
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(1) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 22:34
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(2) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊は、『海軍設営隊の太平洋戦争(光人社刊:1996年4月)』の著者で元海軍第203設営隊の技術大尉佐用泰司氏によれば“不運な設営隊”だった。「この不運な設営隊は、ニューギニア北岸のビアク島に進出することになっていた。しかし、便船の関係で、一時カウ(注:ハルマヘラ島)の対岸ロロバタに揚陸し、つぎの便船を待って、ビアク島に進出することとなった。その待機期間、彼らはカウ、ロロバタ地区の設営に協力していた」。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 00:44
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(3) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(昭和18(1943)年11月15日、横須賀で編成。部隊長は永田亀雄海軍技術少佐。隊員数860名。所属艦隊は第四南遣艦隊・山縣正郷中将。派遣元は海軍横須賀施設部)のわずか60数名の生き残り将兵の一人である同隊書記の小林福市は、その著『永田部隊の最後(ビアク島)』の中で次のように記している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 18:48
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(4) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(永田亀雄海軍技術少佐)は、第4南遣艦隊(山縣正郷中将・司令部はアンボン)から派遣された白石義雄、桑原三郎両海軍技術大尉の現地調査を基に、当初ビアク島のボスネック海岸裏手の高台に3ヶ所の飛行場建設を命じられていた。ボスネックは、まさに昭和19(1944)年5月27日、連合軍が上陸した海岸そのものだった。しかし、同設営隊の本隊主力がビアク島に到着したのは4月中旬以降〜5月初旬。一方、連合軍は4月22日、ビアクの東南東約530kmのホランジア(現... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/20 15:55
『ニューギニア未帰還兵展』10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、実に多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/23 12:03
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(5) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}1944年5月27日の連合軍ビアク島上陸後、海軍第202設営隊の軍属工員約720名並びに指揮部隊など総計860名(但し内60数名は捕虜となり戦後帰還)はどのような運命をたどったのか?これを知る唯一の手がかりが、元同設営隊の海軍書記であった帰還兵・小林福市(故人)の手記にある。『濠北を征く』(濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日発行)の同氏による記録『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば次のような経緯を辿っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/25 13:49
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「東京新聞」が報道
{%爆弾webry%}開催期間を一ヵ月延長し、10月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。未だ“戦後”を実感することのできない多くの人々が、インドネシア文化宮(GBI)に足を運ぶ。『東京新聞』が今朝(2009年9月28日)、「ニューギニア戦線 遺品展に反響」、「最期知りたい思い切実」の見出しで、同展について特報面で大きく取り上げた。『読売新聞』、『朝日新聞』に次ぐ報道に、来宮者は引きもきらない。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/28 18:48
『ニューギニア未帰還兵展』 朝鮮人戦死者名簿
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展』に菊池英昭さん(67歳)が「朝鮮人戦死者名簿」を持ってやってきた。立川市在住の菊池さんは、10年の歳月を費やし、旧日本軍の軍人・軍属として日中戦争・太平洋戦争で戦死した約2万1千名の名簿を作り上げた。出版計画は、今のところ“頓挫”しているそうだが、遠くない将来日の目を見るとのことだ。 先の大戦に、多くの朝鮮半島出身者、そして台湾人、さらにインドネシア人、インド人などが日本軍の軍人・軍属・兵補などの立場で従軍している。そして、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/30 01:04
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(6) 武内満多男 
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で10月30日までの日程で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』を訪れた、元海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐)の隊員だった東京・練馬区在住の武内満多男さん(83歳)から同隊に関する貴重な資料提供を受けた。同氏とのインタビュー内容は後日紹介するとして、資料によってこれまで不明だった数々の謎解きが可能となった。海軍第202設営隊は、およそ230を数える海軍設営隊の中でも、最初の“玉砕部隊”として不幸な名誉を残している。しかし、その要員数... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/04 19:11
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
{%爆弾webry%}『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍第203設営隊(岩下久哉技術少佐・ハルマヘラ島で基地設営)の西部ニューギニア・ソロン派遣隊長だった佐用泰司元海軍技術大尉によれば、「海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐・昭和18年11月15日海軍横須賀施設部編成)」は、“玉砕設営隊”の第一号だった。一部およそ130名がハルマヘラ島に取り残されたが、約1,000名の隊員が昭和19(1944)年6〜7月、ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/05 20:29
海軍第202設営隊(1) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 11:15
海軍第202設営隊(2) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 19:54
海軍第202設営隊(3) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/09 15:03
海軍第202設営隊(4)武内満多男の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/11 12:22
海軍第202設営隊(5) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/20 22:49
海軍第202設営隊(6) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/21 16:45
海軍第202設営隊(7) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 09:50
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 17:53
海軍第202設営隊(8) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 01:48
海軍第202設営隊(小林光雄氏の絵日記証言)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 02:50
第35師団野戦病院(東第2931部隊第3分隊)故永井寿三郎氏提供写真 ヌンホル島
{%爆弾webry%}再々延長して2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。再延長の最終日、2009年10月30日、『亡き父のアルバムの中に、大戦中にニューギニアで戦死した戦友たちが写っている写真がありました。もしや、ご遺族の方々の中に、身内の消息を探している方がいるのではないかと思って持参しました』---そう言って、横浜市か... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 16:50
海軍第202設営隊(9) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
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2009/11/02 11:02
海軍第202設営隊(10)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
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2009/11/03 14:01
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再々延長。Pameran s/d 19 Des 09
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
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2009/11/04 09:51
海軍第202設営隊(11)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
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2009/11/05 12:11
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(1)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/08 21:03
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(2)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/10 13:29
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(3)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/12 10:11
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(4)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/13 08:50
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(5)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/14 16:29
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(6)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/15 00:32
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(7)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/18 09:39
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(8)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/19 10:30
海軍第202設営隊絵日記(1)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 11:38
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(9)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 23:59
海軍第202設営隊絵日記(2)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/22 09:56
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(10)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 11:00
海軍第202設営隊絵日記(3)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 21:15
海軍第202設営隊絵日記(4)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/26 10:58
海軍第202設営隊絵日記(5)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/27 22:10
海軍第202設営隊絵日記(6)小林光雄の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/29 13:21
海軍第202設営隊絵日記(7)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/01 09:52
海軍第202設営隊絵日記(8)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/02 09:53
海軍第202設営隊(1)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/05 11:07
海軍第202設営隊(2)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/06 11:23
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(1) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 10:47
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(2) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 11:01
海軍第202設営隊(3)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/09 12:21
海軍第202設営隊(4)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/10 21:48
海軍第202設営隊(5)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/12 14:41
☆12月17日:西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式のお知らせ☆
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席できますので、是非ご参加下さい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/13 14:32
海軍第202設営隊(6)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/14 10:34
12月17日、西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式:291柱が無言の祖国帰還
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。過去最多の291柱が還ってくる予定です。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席でき... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/15 12:29
東西ニューギニアから計702名の遺骨が祖国帰還
  ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/17 21:55
海軍第202設営隊(7)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/18 14:13
海軍第202設営隊(8)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/19 09:53
2010年にも始まるワクデ島の遺骨収集 Pulau Wakde & Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}3月に次いで今年二回目となった、厚生労働省による西部ニューギニア域戦没者遺骨収集団が去る12月17日帰国した。3月の108柱のおよそ2.7倍に当たる291柱が無言の祖国帰還を果たした。彼らは、現在のパプア州の州都ジャヤプラ(Jayapura・旧ホランジア)近郊のプアイ村で見つかった77柱、そして玉砕の島として戦史に残るビアク(Biak)島で確認された214柱の旧日本軍将兵・軍属の遺骨・遺灰だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/20 18:27
三橋國民 『64年目の夏 鎮魂のニューギニア』 Kunitami Mitsuhashi
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/24 19:31
三橋國民 鎮魂のニューギニア(1) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に陣地を構えた。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/26 12:55
三橋國民 鎮魂のニューギニア(2) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/28 08:56
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:12
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(109) Bandara DaiNippon(109)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/30 11:04
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(109) Bandara DaiNippon(109)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
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2009/12/30 11:04
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(110) Bandara DaiNippon(110)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/31 01:09
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(110) Bandara DaiNippon(110)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/31 01:09
パプア州のヤーペン・ワローペン県で大地震Gempa Bumi Yapen Waropen Papua
{%ダッシュhdeco%}2010年6月16日(水)、現地時間午後12時16分過ぎ、大きな地震がパプア州のワローペン(Waropen)県、ヤーペン(Yapen)県を襲った。太平洋戦争史を除けば、日本人には馴染みのないエリアだ。ヒクイドリの上半身にも似た形の西部ニューギニアの、“首から背中に”かけての、チェンドラワシ(Cendrawaih)湾に面した一帯だ。震源地は、ワローペンの県都ボタワ(Botawa・旧ワーレン=Waren)の真北およそ8kmの海面下。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/06/17 01:45
西パプア州のウォンダマ県で大規模洪水 Banjir Bandang di Papua Barat
{%うずうずwebry%}インドネシア文化宮(GBI)のブログでは、このところ、インドネシア最東端の西部ニューギニア(パプア州&西パプア州)地域の話題が続いている。特に、昭和19(1944)年7月に始まった、1万名を超える死者を生んだ、日本軍の“死のベラウ地峡行軍”と言われる、マノクワリ(Manokwari)→イドレ(Idore)転進作戦に関して、体験者たちとのインタビュー画像を掲載している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/10/06 14:43
西パプア州のウォンダマ湾県ワシオールの大規模水害(動画特集)Banjir Wasior
{%うずうずwebry%}2010年10月4日(月)、西パプア州ウォンダマ湾県(Kab.Teluk Wondama)のワシオール(Wasior)一帯で起きた大規模な土石流災害。10月22日時点で、死者162名、行方不明146。現地からの報道によれば、実は現地ではこれまでに二度、同様の災害を被っている。1955年そして2008年。しかし、これら過去の被災経験は、将来の自然災害の可能性に対して何ら教訓を残していなっかたようだ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/10/24 16:34
ムンタワイ津波&ムラピ山噴火災害Tsunami Mentawai&Letusan G.Merapi
{%うずうずwebry%}2010年10月28日時点で、700名を超える死者・行方不明者を記録した、スマトラ島西部インド洋に浮かぶムンタワイ諸島(Kepulauan Mentawai)で起きた大地震と津波被害(発生は2010年10月25日。米地質調査所=USGSの発表ではM.7.7)。一方、翌10月26日に爆発し、30名以上の人命を奪った、中部ジャワのムラピ山(Gunung Merapi)噴火災害。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/10/28 19:40
ジャワ島ムラピ山138年ぶりの大噴火。Bencana Letusan Gunung Merapi
{%うずうずwebry%}「隣の白飯より内の粟飯」---隣がどんなによく見えても、やはり自分の家が一番だと、故事ことざわは言う。これをインドネシアでは「よその国では金の雨が降り、我々の国では石の雨が降る。それでもこの国がいい(Hujan Emas di Negeri Orang, Hujan Batu di Negeri Kita, Elok juga di Negeri Kita)」と表現する。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/11/06 13:10

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ニューギニア島の西パプア州で大きな地震発生(Gempa bumi Papua Barat) インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
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