東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon)バボ

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まもなく太平洋戦争開戦67周年。インドネシア共和国は去る8月17日、独立63周年を祝った。いわゆる「先の大戦」が侵略戦争であったのか否かについて、航空自衛隊幕僚長の懸賞論文問題を契機に、世は論議に喧しい。こういったイッシューに関しては、たいていの場合、発言者の立場が問題視され、本質的な議論が巻き起こらない一面も否定できない。それは、靖国神社の公式参拝、私的参拝の違いにだけ強い関心を抱くメディアの、ステレオタイプな姿勢にも共通しているように思える。言い換えると、立場さえ非公的であれば、かなりセンシティブなイッシューに対する過激とも見える発言も、それなりに許容される。それは、まさに思想・信条・宗教の“自由”に基づく個々の考え方を認め合うとする民主主義に軸を置くからか。
さて、日本軍の東南アジア進駐が、戦前の欧米列強の植民地下ではあり得なかったであろうとされる各国の独立に、どのようなインパクトを与えたのかに関しても、個々の意見、各国の歴史観によってまちまちだ。殊に、3世紀半もの長きに渡りオランダの植民地支配を受けている中に日本軍がやってきて、それが“引き金”となって、同国で武装独立闘争が本格化した史実は否定できない側面もある。それが、石油を始めとする資源の獲得を最優先課題とし、“白人支配からの解放”は後付けであったとする解釈も否定しにくい史実であろう。
ある高校の世界史の教師から聞いた話だが、昨今の高校生の中には、日本がアメリカや英国、そしてその関連でオーストラリアやオランダなどと戦争状態になった事実をまったく知らない者もいるそうだ。このことは、バリ島に旅行した経験を持つ若い女性が「バリ島には行ったけれども、インドネシアには未だ行ったことがない」と平然と発言する姿とも重なる。彼らには過去を見つめる知識も興味もない。それとも機会がなかったのか。
ヌサンタラ(インドネシア群島)を最西端のアチェ州から最東端のパプア州、そして最北端の北スラウェシ州、最南端のNTT(東ヌサトゥンガラ)州まで旅した体験から言うと、その全ての地域で日本軍進駐の史実をあらためて確認する。アチェの北海岸、あの巨大津波に襲われた海岸に、コンクリート製の旧日本軍のトーチカが沈んでいる。その北のサバン(Sabang)市があるウェ(Weh)島にも、たくさんの要塞跡と大きな大砲が転がっている。そしてパプアの州都ジャヤプラ(Jayapura)眼前のフンボルト湾の奥にあるヤウテファ湾のピム(Pim)村付近には、今でも日本軍の赤錆びた輸送船が上半身だけコバルトブルーの海面に姿を晒しているいる。これらはほんの一例で、赤道直下のヌサンタラ、大小様々の島々に“日本軍”、そして対峙した“連合軍”のつわもの(兵)達が残した戦争遺棄物がある。既報した話ではあるが、例えばマルク州南西マルク県(MTB)のセラル(Selaru)島のリンガッ(Lingat)村付近の珊瑚海には、終戦時に日本軍が海中投棄した弾薬や武器などが眠り、戦後半世紀以上もの時が経っているのにも関わらず、爆発事故を起こしたり、また漁業の妨げになっている。
参照:マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html


上の画像は現在の西パプア(Papua Barat)州バボ(Babo)の旧日本軍基地の一角に1970年代後半まで残っていた零戦五二型。馬蹄形の掩体の中、ほぼ原形を留めている。左上に外れたカウリングが見える。戦時下、バボに駐屯していた電信24連隊の元兵士は『二千メートル滑走路の北側の端にある掩体壕に入っていた零戦ですね。基地にいた航空隊員は、部品が一個あれば飛べるんだが、と悔しがっていました』と語る。


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東部インドネシアを巡ると、至る所で、日本軍が建設した滑走路に着陸することになる。さらに、至る所で、日本軍が建設した道路を走ることになる。これを“侵略”の跡とネガティブに見るべきか、それとも莫大なインフラを残したとポジティブに捉えるべきなのか。複雑な心境になる。昭和18年(1943年)8月時点で、バンダ海方面、小スンダ、セレベス(スラウェシ)、セラム島、ブル島などの東部蘭印(オランダ領インドネシア)には、既成・工事中を含め計26の航空基地があったとされる(戦史業書:西部ニューギニア方面陸軍航空作戦、防衛庁防衛研修所戦史室著)。そして同年大本営陸軍部の作戦課で計画された陸軍飛行場新設予定数は計43にも上った。さらに、同年9月に大本営陸海軍部が発令した新作戦命令によれば、東部インドネシア地域で、陸海軍合わせておよそ120もの航空基地の建設が計画された。
東部インドネシア地域に限定して言えば、戦争は、まさに航空基地の設定による「敵の撃破」に軸足を置いた。特に、昭和17年(1942年)8月の連合軍ガダルカナル島上陸、そして東部ニューギニアの戦況悪化に伴い、昭和18年9月末に大本営が、南太平洋方面の確保を断念し、絶対国防圏(国防上必要最小限と判断される要域)を決定すると、航空基地の建設が最優先課題となった。この結果、中国から転用された第二方面軍(阿南惟幾大将)隷下の第二軍(豊嶋房太郎中将:司令部マノクワリ)の第36師団(田上八郎中将:昭和14年3月、東北の弘前、秋田、山形で編成された通称雪兵団)を例に挙げれば、西部ニューギニアの北岸サルミ(Sarmi)に上陸するやいなや、早速飛行場の建設に着手した。
もちろん、すべてがそうだったとは言えないが、東部インドネシア地域における日本軍進駐の歴史を紐解くと、あたかも飛行場の建設のために赤道を越え、制空権・制海権を連合軍に握られていく過程で、食糧や武器弾薬、艦船、航空機などの後方支援を断たれた状況下で、まさに孤軍奮闘、滑走路を死守しようとしたケースが多い。特に、西部ニューギニア地域においてその感が強い。日本軍が、特設勤労団員と呼んだ台湾人や現地で徴用したインドネシア人やパプア人等々も動員して建設に取り掛かった航空基地の多くは、やがて連合軍の猛爆を受け、そしてその内幾つかは、連合軍の飛び石作戦の要として応用された。言い換えれば、日本軍が建設した滑走路を、連合軍が使って、さらに日本軍を追い詰めていった戦争形態でもあった。
以下、衛星画像を中心に、かつての日本軍航空基地を宇宙からフォローし“先の大戦”を振り返ってみたい。まず、西部ニューギニアの西部、かつて日本軍が「亀地区」と呼んだ、フォーゲルコップ(Fogelkop)半島の喉元にあった、帝国海軍が建設し、やがて陸軍航空隊と共用したバボ(Babo)基地を訪ねてみよう。



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ビントゥニ(Bintuni)湾に面したバボ(Babo)は、開戦前の1940年、オランダのローヤルダッチと英国のシェルによって合同設立された蘭領ニューギニア石油会社(Netherlands New Guinea Oil Company・Nederlandsche Nieuw Guinee Petroleum
Maatschappij)が石油調査・試掘を目的に長さ900m、幅50mの滑走路を開いた。昭和17年(1942年)3月末に、帝国海軍陸戦隊が占領、海軍航空隊基地が建設された。当初は、長さが1,200m、幅が60m。2,000メートル滑走路の完成は昭和19年の夏頃。同年5月27日、バボ基地は連合軍による猛爆を受けたが、その時点では滑走路の長さは2,000メートルに達していなかった。海軍の飛行場ではあったが、陸軍航空部隊も利用していた。



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衛星画像で見た現在のバボ。付近にある世界最大規模のタングー(Tangguh)ガス田の開発に伴い、街は拡大している。

1977年に空撮されたバボ。長い滑走路は日本軍が建設したもの。短い滑走路は、蘭領ニューギニア石油会社が建設したもの。


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ベラウ地峡戦友会の会報『辺裸飢(注:ベラウと読む)』に掲載された戦時中のバボ概図。長い滑走路の北端にある掩体壕に零戦が一機あったことが記されている。ベラウ(Berau)湾は、ビントゥニ湾の西方の一角に位置し、セラム(Seram)海に繋がる。


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インドネシア最東端のパプア(Papua)州の州都ジャヤプラ(Jayapura)のフンボルト湾の奥部に今も残る日本軍輸送船。


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海上輸送第四大隊の泊地があった場所から推察して、この船も同隊所属のものと思われる。


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インドネシア最西端の碑が立つウェ島(Pulau Weh)の東海岸には、マラッカ海峡を睨む旧日本軍のトーチカ跡が残る。近くに、赤錆びた巨大な砲身も横たわる。


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【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html

マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

アチェに死す(2)Kuburan Warga Jepang di Aceh(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_4.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_4.html

パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_3.html

西パプア州政府(Provinsi Papua Barat)
http://www.papuabaratprov.go.id/

パプア州政府(Provinsi Papua)
http://web.papua.go.id/

マノクワリ県(Kabupaten Manokwari)
http://www.manokwarikab.go.id/

ヤーペン島嶼県(Kabupaten Kepulauan Yapen)
http://www.yapenwaropen.go.id

ビアク・ヌンホル県(Kabupaten Biak Numfor)
http://www.biak.go.id/

ソロン県(Kabupaten Sorong)
http://www.sorongkab.go.id/

南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan)
http://sorongselatankab.go.id/

サルミ県(Kabupaten Sarmi)
http://www.sarmikab.go.id/

ワローペン県(Kabupaten Waropen)
http://www.waropenkab.go.id/

ファクファク県(Kabupaten Fakfak)
http://www.fakfakkab.go.id/

ビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)
http://www.bintunikab.go.id/

ウォンダマ県(Kabupaten Teluk Wondama)
http://www.telukwondama.go.id/

カイマナ県(Kabupaten Kaimana)
http://www.kaimanakab.go.id/

ジャヤプラ市(Kota Jayapura)
http://www.jayapurakota.go.id/

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