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zoom RSS 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36 ロンベバイ湖

<<   作成日時 : 2009/01/07 00:14   >>

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太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側面も含めて、その全てを把握する、いわば総合学術探検の顔も持っていた。オランダやドイツ、英国そして豪州などは、古くからニューギニア島を植民地分割し、それなりに同島に関して情報を有していた。しかし、日本はそうではなかった。もちろん、明治時代より、単身、この地に赴いて、まさに地元民化し、色々な事業を手がけた日本人はいる。西部ニューギニアに限ってみても、例えば、細谷十太郎(仙台藩士の息子。明治末期に渡航、ムミで綿花栽培などの農業開発)や海老名庄次郎(和歌山県出身。大正時代の半ばに渡航。サルミで椰子園などの農場開拓)。そしてメラウケで、当時パリ社交会で流行った帽子の羽飾りを求めて極楽鳥狩りを行った和田儀太郎。さらに、沖縄県出身の金城徳栄(大正時代に渡航。鼈甲亀の捕獲などを経て、ナビレでダマル樹脂採集などの事業に従事)。
既報の海軍ニューギニア調査隊は、マノクワリに拠点を置いた海軍ニューギニア民政府下で、田山利三郎博士(当時は東北帝大助教授で海軍水路部嘱託)を隊長に、第一班から第六班に分かれ、地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。こレらの調査隊には、東北大学、京都大学、京城大学などの学者に加え、宇都宮、岐阜の高農、東京科学博物館、南洋庁」などから派遣された職員、さらには南洋興発、日本発送電、浅野セメント、王子製紙の社員なども参加した。


海軍ニューギニア調査隊に関しては以下のブログ参照

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html



『鰐部隊とパプア人マンドル』。筆者がまだ学生時代、著者の徳野氏とお会いした。徳野さんは、一般的なイメージにある“中野学校”卒とは思えない、とっても優しく、義を重んじる群馬県人だった。ニューギニアで特務機関員として過ごした青春時代に悔いを持っているようには見えなかった。パプア民族の未来に光が当たることを真に願っていた。あれからパプアはどう変わったのだろうか


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東西ニューギニアを合わせて20万人以上もの日本軍将兵並びに軍属が戦死しているが、戦闘以外の事由で亡くなった者は、主に、熱帯病そして餓死であった。このことは、側面を変えて見れば、日本がニューギニア島に関して、開戦前に、ほとんど情報を持っていなかったことと大いに関連する。このことは、開戦直後に大本営で、ニューギニア放棄論さえ出たことからも窺い知れる。「開戦以来既に一年余、事前研究が不足であったニューギニアの処理は、依然、大本営における苦悩の種であった。(中略)(筆者注:昭和18年)一月末、大本営陸軍部の第三部長(鉄道、船舶、通信等担任)若松只一中将は、最近の膨大なる船舶損耗、海軍戦力運用の拘束(護衛兵力増大)などを避けるため、ニューギニア作戦を中止するか、あるいは補給が確保できる最小限の兵力で柔軟な戦闘を行なう方針の採用を第一部長(作戦担任)綾部橘樹少将ぬすすめた。(中略)(筆者注:大本営陸軍部では)ニューギニアははたして絶対的に必要か、必要ならばどの線を保持するか、その確保のためには長期連続不断の航空大持久戦を行わねばならないが、今後数ヵ年これを完遂する可能性があるか、などが問題とされた。(中略)三月十四日、大本営陸海軍部の両作戦課は、この問題を合同研究した。(中略)結局ニューギニアは放棄すべきではないという結論に到達したが、南太平洋全般の放棄という根本的な論議が、軍の中央部に起きている事態を重大視した両統帥部は、その研究直後にわざわざ覚え書きを交換し、漁軍一致して同方面の作戦を強化することを申し合わせた」(『戦史業書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』)。


第二軍工作隊の活動エリア。第36師指揮下、“鰐工作隊”は、日高少佐指揮の下、マンベラーモ川を縦横無尽に動き、ロンベバイ(Rombebai)湖で壮絶な連合軍との死闘を繰り広げた。


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満足な兵要地誌もないニューギニアの戦場で、その弱点を補うことを求められたのは、いわゆる“秘密戦士”たる工作隊員だった。西部ニューギニア戦では、特に陸軍中野学校出身者を隊長に編成された10を数える工作隊が、各地で宣撫工作活動や謀略作戦にあたった。直線距離で、サルミ(Sarmi)の西方約100kmに位置するマンベラーモ(Mamberamo)川。ニューギニア島最大・最長の川だ。標高3〜4千メートルの中央高地を水源とする水が、東から西へイーデンブルグ(Idenburg)川として流れ、西からはルファエール(Rouffaer)川が東に向かい、合流点で一気に北へ向かい、山脈に深い谷を刻み、太平洋へと流れ込んでいる。
マノクワリに司令部を置く第ニ軍や、サルミを拠点とする第36師団は、このマンベラーモ川が作りだす大湿地帯(メールクラフテ)並びにその南の中央高地一帯までが作戦地域だった。この背景には、昭和18(1943)年1月時点で大本営が決めた、西部ニューギニアにおいては、中央高地が連なる南緯4度以北を持って、占領すべき地域との指示がある。ハベマ湖やウィッセル(現パニアイ)湖は、まさに南緯4度の線上に位置している。つまり、ここに水上基地や、周辺に陸上の飛行場を設けることは、大本営の指示に合致している。
昭和18(1943)年12月8日、マノクワリに司令部を置いたばかりの第ニ軍が下した「第二軍作戦準備要項」。この中で、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマと呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)について以下のように触れている。「ハッペマ湖及ウィッセル湖高原地帯ニ対シテハ特種謀略ヲ指向シ為シ得レハ機動飛行場ヲ整備ス」。



マノクワリ本部の小森少佐はヌンホル島の工作も担当、“梅工作隊”(桜井大尉)は、ビアク島、“虎工作隊”(原大尉)はサルミ地区、龍工作隊(内山大尉)はボンゴ地区、小川(大尉)班はウィッセル湖方面、富田(少左)班は南部のミミカ地区を担当。第二軍直属の“神工作隊”(新穂少左)はホランジア(現ジャラプラ)方面を担当した。


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昭和19(1944)年7月31日未明、“鰐工作隊”は、マンベラーモ川近くの、ロンベバイ(Rombebai)湖のヤピナ島にあった連合軍の水上基地を夜襲。この戦闘で日高少佐は戦死。苦戦を続けていた第36師団にヤピナ夜襲の成功は、久々の朗報だった。


第二軍がマノクワリに進出する以前、アンボンにあった第19軍は、西部ニューギニア作戦域の兵要地誌を作成するため、昭和18(1943)年6月、中野学校出身の将校ニ名(富田、廣瀬義武の両中尉)に健脚の兵60名を付し二組に区分して偵察に派遣したところ、富田中尉指揮の南部探検隊は3ヵ月後帰来したが、廣瀬中尉指揮の北部探検隊(マンベラーモ川流域)はまだ帰還していなかった。廣瀬隊は5ヵ月後の11月に帰還したが、三分の一の人員に減じ、この生還者もマラリアと栄養失調で口もきけないほどになっていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。
『鰐部隊とパプア人マンドル』(徳野明著。今日の話題社。昭和45年8月15日発行)によれば、第二軍には、マノクワリの本部を含め計10の工作隊が編成されていた。その一つ“ハベマ湖探検隊”の異名を持つ、日高岩男少佐指揮下の『鰐工作隊』は、第36師団の指揮下に入り、サルミよりマンベラーモ川を遡上し、ハベマ(Habema)湖の占領・確保を最終目標に中央高地に入り、高地民族数万を宣撫工作して、日本軍の作戦に協力させようとの壮大な狙いがあった。



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『鰐部隊とパプア人マンドル』に掲載されたロンベバイ湖(下)と衛星画像で見た今日のロンベバイ湖。


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昭和19(1944)年7月31日払暁、日高岩男少佐以下計16名の“鰐工作隊”は、ロンベバイ湖の東北にあるヤピナという名の小島をベースとする敵軍の水艇基地を攻撃した。この攻撃で日高少佐は戦死、日本側の犠牲者は合わせて3名。連合軍側の記録によれば、「おおよそ50名の日本兵が攻撃してきた。内、15名が戦死、1名を捕虜とした。我が軍は7名が負傷」。『鰐部隊とパプア人マンドル』によれば、16名の出撃で、3名の戦死。小さな交戦でありながら、参加人数で16対約50、戦死者数で3対15と大きな開きがある。ちなみに、連合軍兵士は、同日朝、飛来した救援のPBY飛行艇に救助された。この際、負傷した1名の日本兵(鰐工作隊の小泉雅少尉)が捕虜として同飛行艇で、ビアク島の南に連合軍が築いたオウィ島の基地へ連れて行かれた。小泉少尉は青山学院大学を卒業、陸軍予備士官学校卒業後、第二軍司令部付となった。英語が得意だった。小泉氏は、その英語力が自分の命を救ったと、1970年代に面会した筆者に語った。暗闇での交戦で負傷、意識不明となった小泉氏は、米兵に発見されたが、英語で会話ができたため、捕虜として連行された。最終的にはオーストラリアのブリスベンにある海軍病院で治療を受け、終戦後の昭和21年3月の引揚船で祖国へ帰還した。
衛星画像からはヤピナ島の存在が確認できない。



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豪州と米国とを分断し、インドネシアを始めとする占領地の資源確保のため、ニューギニア島に多くの飛行場が建設された。しかし、“絶対国防圏”は、戦況の悪化に伴い、短期間で後退を繰り返した。


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豪北(オーストラリアの北方)方面で日本軍並びに連合軍が造成した主な飛行場。
は日本陸軍、は日本海軍、は連合軍が建設。は日本軍が水上基地を設けようと計画した湖。



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ロンベバイ湖(衛星画像)。マンベラーモ川のすぐ脇にある。


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マンベラーモ川の蛇行。西部ニューギニアの中央高地に降った雨は、この大河を通じて太平洋に流れ込む。


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マンベラーモ川の日本軍工作隊による“探検行”は、この『鉄砲を一発も撃たなかったおじいさんのニューギニア戦記』(深津信義著。日本経済新聞社)にも詳しい。


【参考ブログ】


東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35) ウィッセル湖(Danau Wiessel/Paniai)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_2.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_34.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_33.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28) ナビレ(Nabire)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_32.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27) ヌンホル島(Pulau Numfor)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_31.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26) ヌンホル島(Pulau Numfor)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_30.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_29.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_28.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_26.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_25.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_24.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_22.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_21.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_20.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_19.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_12.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_11.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_10.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_9.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_8.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ(Saga & Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ(Babo & Saga)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_5.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_2.html

マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html

マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

アチェに死す(2)Kuburan Warga Jepang di Aceh(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_4.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_4.html

パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_3.html

西パプア州政府(Provinsi Papua Barat)
http://www.papuabaratprov.go.id/

パプア州政府(Provinsi Papua)
http://web.papua.go.id/

マノクワリ県(Kabupaten Manokwari)
http://www.manokwarikab.go.id/

ヤーペン島嶼県(Kabupaten Kepulauan Yapen)
http://www.yapenwaropen.go.id

ビアク・ヌンホル県(Kabupaten Biak Numfor)
http://www.biak.go.id/

ソロン県(Kabupaten Sorong)
http://www.sorongkab.go.id/

南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan)
http://sorongselatankab.go.id/

サルミ県(Kabupaten Sarmi)
http://www.sarmikab.go.id/

ワローペン県(Kabupaten Waropen)
http://www.waropenkab.go.id/

ファクファク県(Kabupaten Fakfak)
http://www.fakfakkab.go.id/

ビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)
http://www.bintunikab.go.id/

ウォンダマ県(Kabupaten Teluk Wondama)
http://www.telukwondama.go.id/

カイマナ県(Kabupaten Kaimana)
http://www.kaimanakab.go.id/

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http://www.jayapurakota.go.id/

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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能であれば飛行場を建設する旨、下命した。これに基づいて、第36師団指揮下の日高岩男少佐を隊長とする『鰐工作隊』は、昭和19(1944)年2月中旬、サルミ(Sarmi)を発って、マンベラーモ(Mamberamo)川を遡上し、ハベマ(Habema)湖方面へと向かった... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/08 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解体され、第26海軍建設部が設立された)。この海軍民政府の要請に基づいて、昭和18(1943)年、学者を中心とした編成で、「海軍ニューギニア調査隊」が西部ニューギニア各地で地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。当然のことながら、この第... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/09 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師... ...続きを見る
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2009/01/09 18:04
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋辯大佐)を、昭和18(1943)年2月19日、ミミカ(Mimika・現在はTimika)へ向け、次いで、翌々日の21日、歩兵第21連隊(原田憲義大佐)をアルー(Aru)諸島へ向け、スラバヤ港から出発させた。また第19軍司令官の冨永信政中将自身も2月19日、アン... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/10 23:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、それで日本軍には楽観論もあった。例えば、同年8月上旬、第5師団のバンダ海での部隊展開が順調に進んでいることを踏まえ、第5師団長の山本務中将は「現在の空海状況が一年続けばこの戦争に日本は勝つ」と日誌に記したとされる。この頃、日本軍は、西部ニューギニアでは、北岸ではホランジ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
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{%空港(ユラユラ)hdeco%}「飛べども飛べども果てしなく続く大密林、積乱雲、白雪の雪山山系」----第19軍の河村高級参謀は、西部ニューギニアで空中偵察した感想をそのように述べている。西部ニューギニア戦に参加し、好天に恵まれ、雪を抱くカルステンツ(Carstensz)峰(4884m)を望めた体験を持つ戦闘機や爆撃機の操縦者は少なくないだろう。赤道直下で見た冠雪の高峰に、富士山を想いおこし、あるいは祖国日本に想いを馳せたのかもしれない。マノクワリ(Manokwari)の演芸... ...続きを見る
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{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアが独立後、依然オランダ領として残った西部ニューギニア(当時のインドネシア名は西イリアン=Irian Barat。インドネシア併合後から2005年までイリアンジャヤ=Irian Jaya。現在はパプア)の“解放”を旗印に、1961年オランダ軍との武力衝突を始めた翌1962年1月5日、ハインリッヒ・ハーラー(Heinrich Harrer:1912年7月6日&#8211;2006年1月7日)は、東部ニューギニアのラエから飛行機でホランジ... ...続きを見る
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2009/01/13 23:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(44) Bandara Dai Nippon(44) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}1623年、オランダ王室に仕える航海者ヤン・カルステンツ(Jan Carstensz:Jan Carstenszoon)は、アラフラ海を航海中、偶然、北の山脈に雪を抱く峰々を目撃した。雲に覆われることが多い中央山脈だが、その日は幸運にも快晴だったのだろう。カルステンツはペラ号とアルンハイム号の二隻を率いてアラフラ海を航海中だった。帰国後、“赤道直下の雪山”のことを話した。しかしヨーロッパで彼の言葉を誰も信じる人はいなかった。それからおよそ300... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/14 22:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(45) Bandara Dai Nippon(45) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアそしてオセアニア地域で最高峰のジャヤ峰(Puncak Jaya:カルステンツ・ピラミッド=Carstensz Pyramid:4884m)。その“脇腹”で発見された、世界最大級の銅、金、銀鉱山。発見は1936年末。オランダ王立地理学協会(Royal Netherlands Geographical Society=RNGS)がスポンサーとなり、カルステンツ峰初登頂を目指した登山・探検隊(A.H.コライン(Colijn)博士を隊長に、... ...続きを見る
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2009/01/15 22:30
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(46) Bandara Dai Nippon(46) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「2月10日、午前中は氷河の測量で過した。その結果は驚くべきもので、25年間に、カルステンツ氷河は452m後退し、メーレン氷河は745mも後退していた」----1936年末、オランダ王立地理学協会(RNGS)が派遣した、A.H.コライン(Colijn)博士を隊長とする登山・探検隊がカルステンツ山群に入った時の報告と比較して、1962年2月、カルステンツ・ピラミッド(Carstensz Pyramid:ジャヤ峰=Puncak Jaya:4884m... ...続きを見る
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2009/01/16 22:42
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシア共和国の最東南端に位置するパプア州(Provinsi Papua)のメラウケ(Merauke)県は、東経141度ラインで隣国PNG(パプアニューギニア)と接し、トレス海峡を挟んでオーストラリアに隣接する。かつてのイリアンジャヤ(Irian Jaya)州時代は、同州最大の県であったが、2002年法律第26号に基づいて4県への分割が決まり、県の規模は縮小を余儀なくされた。メラウケ県以外の3県は、ボーヴェン・ディーグル県(Boven Di... ...続きを見る
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2009/01/17 23:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}中部ニューギニア北岸の要衝・ホランジア(Hollandia・現在のジャヤプラ)は、ガダルカナル島撤退と並ぶ、太平洋戦争における日本軍の象徴的敗北の一ヶ所となった。昭和19(1944)年4月22日、連合軍は意味ある抵抗を受けることなく、同地に上陸、西方のセンタニ(Sentani)湖周辺にあった日本軍の3個の飛行場を占拠した。また、ジャヤプラ近郊ですでに概成していた別の飛行場も占拠。 ホランジアは、1910年3月7日、オランダ人船長Sachseに... ...続きを見る
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2009/01/18 21:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍(海軍陸戦隊)がホランジア(現ジャヤプラ)を占拠したのは開戦四ヵ月後の昭和17(1942)年4月。ホランジアの西およそ40kmには大きなセンタニ(Sentani)湖があり、その北側には平地があり、ここが飛行場の設定に適していた。ビントゥニ湾のバボ(Babo)飛行場や西端のソロン(Sorong)のエフマン飛行場などのように、戦前からオランダが作った滑走路があり、日本軍が上陸後に拡張整備した飛行場もあるが、西部ニューギニアで日本海軍が新たに造... ...続きを見る
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2009/01/19 22:24
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人、オーストラリア人、インドネシア人、そして地元のパプア人で構成されていたという。内、5名は帰還しなかった。1944年4月21日、早朝、突如、米海軍艦載機グラマンの第一陣がセンタニ湖上空に姿を現した。日本軍機で離陸できたものは6機。しかし、1機が無事帰還し... ...続きを見る
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2009/01/20 22:54
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(51) Bandara Dai Nippon(51)ケイ諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バンダ海に展開していた第16軍隷下の第48師団(海兵団:土橋勇逸中将)の任務を継承する形で、昭和18(1943)年2月、第19軍(冨永信政中将)隷下の第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、バンダ海域のアルー諸島、ケイ諸島、タニンバル諸島を占領し、北部オーストラリアに対する作戦を準備するため、東部ジャワのスラバヤから東へ向かった。第5師団の杉浦支隊(歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)は、これに先立ち、ジャワの第16軍(治集団)司令官原田熊吉中将から命令を... ...続きを見る
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2009/01/21 22:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(52) Bandara Dai Nippon(52)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島はかつてマルク州東南県(Kabupaten Maluk Tenggara)の一角を占めていたが、2004年初旬、アルー諸島県(Kabupaten Kepulauan Aru)として分離、新生県として独り歩きを始めた。ニューギニアの南西部、アラフラ海に浮かぶアルー諸島は古くから真珠養殖で知られていた。19世紀中頃から多くの日本人潜水夫がアルー諸島に渡った。アルー諸島県には合計187の島があるとされる。大きな島は、北からウォカム(Woka... ...続きを見る
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2009/01/22 23:41
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(53) Bandara Dai Nippon(53)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島本島の最南端に位置するトゥランガン(Trangan)島南東海岸付近のシア(Sia)に2個概成し、未だドカ飛行場の設定が始まる前、昭和18(1943)年6月、第5師団を隷下に置く第19軍の作戦主任参謀である皆元勝雄中佐は、自ら偵察機を操縦して、タニンバル諸島、そしてアルー諸島を訪れた。目的は、現地を指揮する西原修三大佐(タニンバル諸島防衛隊長・第5師団歩兵第42連隊長)と原田憲義大佐(アルー諸島防衛隊長・第5師団歩兵第21連隊長)と直接... ...続きを見る
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2009/01/23 23:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(54) Bandara Dai Nippon:54タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年3月末〜4月中旬、海軍陸戦隊は西部ニューギニアで、ファクファク、バボ、ソロン、テルナテ、マノクワリ、ムミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホランジアなどを占領した。ちなみに当時、陸軍部隊は西部ニューギニアには展開していなかった。さらに同年7月30日、海軍の第24特別根拠地隊は、バンダ海・アラフラ海で、アルー諸島、タニンバル諸島、ケイ諸島の攻略作戦を実施した。これ以前の戦況はと言えば、6月5日〜7日、ハワイ西方のミッドウェー海戦で、... ...続きを見る
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2009/01/25 17:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(55) Bandara Dai Nippon:55タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タニンバル諸島セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。『セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最... ...続きを見る
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2009/01/26 00:27
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(56) Bandara Dai Nippon(56)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、蘭印(オランダ領インドネシア)攻略作戦の緒戦として、まずボルネオ(現カリマンタン)東部の油田地帯であるタラカン(Tarakan)島と、セレベス(現スラウェシ)島北端のマナド(Manado:メナド)に対する上陸作戦が開始された。タラカン島には第16軍(今村均中将)隷下の坂口支隊(坂口靜夫少将指揮下の混第56歩兵団。歩兵第146連隊、装甲車隊、野砲兵第56連隊第1大隊などを基幹。兵力は5,200名、馬1,200頭、... ...続きを見る
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2009/01/27 23:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるように、この地域は3世紀以上にも及ぶ被植民地支配の歴史を刻む。7世紀、中国では唐の時代、すでにマルク(Maluku)地域の香料を求めて中国船が来航していた。そして9世紀にはアラブ商人もやってきた。インドネシア史によれば、12世紀にはスマトラ島南部のスリウィ... ...続きを見る
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2009/01/28 22:39
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。アンボン島の東隣のハルク島にも、陸軍は飛行場を新たに建設した。リアン(Liang)飛行場同様に、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)担任で、第28飛行場大隊が、昭和18(1943)年9月末、長さ1,400m、幅80mの滑走路を概成し、年末には掩体施設もお... ...続きを見る
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2009/01/29 23:13
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(Liang)飛行場を手がけた、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)隷下の第38飛行場大隊が担当。ハルク飛行場の着工とほぼ同時期に造成がなされた。昭和18(1943)年10月中旬には概成し(長さ1,200m、幅100m)、軽爆撃機が使用可能となった。その後... ...続きを見る
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2009/01/30 22:31
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、も... ...続きを見る
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2009/01/31 22:16
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万人を超える人々が送り込まれた“監獄島”だった。B級政治犯とされた作家プラムディア・アナンタ・トゥル(Pramoedya Ananta Toer)も10数年間、ブル島で拘留生活を過した。ブル島のナムレア(Namlea)には開戦前に、すでにオランダ軍が建設し... ...続きを見る
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2009/02/01 21:52
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:33
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分は、“中立国”であるポルトガル領だったからだ。一方、ティモール(Timor・チモール)島は、いわゆるABCD包囲網にあって、ジャワ島攻略作戦を実施する上で、蘭印と豪州とを分断・遮断するために、日本軍にとって制圧しておきたい要地だった。 当時、大本営は、... ...続きを見る
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2009/02/03 19:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ陸軍空挺部隊(挺進第2連隊・甲村武雄少佐)を降下させ、精油所などを制圧した。翌日、第16軍(今村均中将)隷下の第38師団(沼兵団・佐野忠義中将)は、ムシ川、テラ川、などを遡上してパレンバンに上陸。2月19日、金村支隊(第48師団の台湾歩兵第1連隊第3大隊... ...続きを見る
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2009/02/04 17:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プトン飛行場(現エルタリ空港)は海軍が修復した後(2本の滑走路があった)、昭和17(1942)年3月中旬から、まず海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)がオーストラリアのダーウィンを始めとする北部エリアに対する空爆基地として使用した。そのすぐ南には、第4飛行場設... ...続きを見る
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2009/02/05 21:33
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ上陸。同日未明、東方支隊隷下の第38師団歩兵第228連隊(土井定七大佐)の連隊長指揮下の第2大隊基幹(木村榮次郎少佐)が、同島東半分のポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)進攻作戦を開始した。第二次世界大戦で“中立”を表明したポルトガルの主権... ...続きを見る
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2009/02/06 20:36
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(67) Bandara Dai Nippon(67)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)の東部、ラウテン(Lautem)に日本軍が造成した飛行場は、いわゆる“秘密飛行場”だった。同地は、昭和17(1942)年の9月頃から第3飛行集団(菅原道大中将)隷下の第3飛行団長(塚田理喜智少将)が、指揮下の第73中隊(九九式軍偵察機)に命じて行った空からの偵察活動によって見つけた平らな高原地帯だった。そして、陸軍の第9野戦飛行場設定隊(河端融少佐)が、第4航空地区の陸上勤務隊の協力も得て、昭和... ...続きを見る
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2009/02/07 19:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭和18(1943)年4月20日、ポルトガル領ティモールのディリからフローレス(Flores)島へ移った。そして同年5月16日、バビ(Babi)島の対岸の本島に陸軍主用の飛行場を完成させ、そして翌6月19日、マウメレ(Maumere)にも飛行場を概成させた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/08 20:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表した。それによれば、小スンダ列島では、スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)に1ヵ所(海軍担当で概成)、さらにスンバ島に海軍担当で第1〜第4の計4ヵ所の新設。さらに陸軍担当でスンバ第5〜第6を新設。そしてスンバワ(Sumbawa)島では、ビ... ...続きを見る
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2009/02/09 18:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satarta... ...続きを見る
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2009/02/10 22:51
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前線諸島(アルー=Aru、ケイ=Kei、タニンバル=Tanimbar諸島)を陸軍の警備地域と決めると、陸上の防衛は主として陸軍が、海域・航空防衛は主として海軍が担当することになった。さらに同年12月、大本営が、ティモール(Timor)島を含めスンダ海一帯を... ...続きを見る
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2009/02/11 20:06
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合軍の反撃拠点となったオーストラリアと対峙する小スンダ列島でも、日本軍による飛行場の設定が急がれた。ティモール島と同様に、スンバ島、フローレス島、スンバワ島、バリ島などで幾つもの滑走路が新設された。 昭和18(1943)年9月、大本営陸軍部の命令で、内地... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/12 20:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島を除く)同様に、当初は海軍の作戦・管轄エリアだった。昭和17(1942)年5月、海軍第16戦隊指揮下の部隊と共に、ジャワ島を占領していた第16軍(今村均中将)隷下の第48師団(海兵団・土橋勇逸中将)の第47連隊第3大隊(宮地育三小佐)が、10日、ロンボク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/13 19:28
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新設飛行場を開いた。そしてスンバワ島では、海軍が2個(ビマとランバン=現スンバワ・ブサール)造成した。 ...続きを見る
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2009/02/15 21:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第一位の誉に輝いたのは日本人。その数、359,827人。全体の18,06%を占める。この数値は、前年比で見ると、2.21%(7,789人)の増加だそうだ。ちなみに、第二位はオーストラリア人観光客で、その数313,313人(見事な並びの数値!)。これは、前年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/17 18:27
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(76) Bandara Dai Nippon(76)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}現在は北マルク州(Propinsi Maluku Utara)に属するハルマヘラ島(Pulau Halmahera)で、日本軍は判明しているだけでも計11個の飛行場を造成・設定した。昭和18(1943)年9月末に合意された中・南太平洋方面作戦陸海軍中央協定によれば、当初ハルマヘラ島では、海軍がカウ(Kaoe/Kao)に2個、陸軍がガレラ(Galera)、ワシレ(Wasile)、ジャイロロ(Djailolo)、そしてラブハ(Labuha)に計4個... ...続きを見る
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2009/02/18 22:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(77) Bandara Dai Nippon(77)ミチ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年中旬には、白木久雄工兵中佐指揮下の南方軍派遣隊の手で、すでにハルマヘラ島で基地建設が始まっていた。ハルマヘラ、北セレベス(スラウェシ)、サンギヘ、タラウド方面の基地建設と防衛を担った陸軍の第1野戦根拠地隊司令官(武田壽少将)は、フィリピンのマニラで第2方面軍(阿南惟幾大将)の命令を受け、昭和18(1943)年11月、ハルマヘラ島北部のガレラ(Galera)経由で、ワシレ(Wasile)に到着、同司令部を開設した。揚陸施設、... ...続きを見る
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2009/02/19 22:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(78) Bandara Dai Nippon(78)ワシレ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ガレラ(Galera)飛行場の一つの滑走路(長さ1,500m、幅100m)は、武松派遣班の手で昭和18(1943)年9月概成され、富臨時第1設定隊(注:第25軍から派遣され、同年12月末、第120野戦飛行場設定隊となる)の工事継続によって完成した。この設定には、地元住民千数百名が動員された。第120設定隊は、続いてガレラ第2滑走路(長さ1,500m、幅100m)の造成に着手、さらに、武松派遣班が着工したミチ飛行場の設定も担当した。一方、カウ(K... ...続きを見る
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2009/02/20 18:26
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(79) Bandara Dai Nippon(79)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和19(1944)年初頭、カウ(Kaoe/Kao)には、海軍の第26特別根拠地隊司令部が置かれ、前年(1943)10月10日編成の、第4南遣艦隊所属の海軍第224設営隊(大津敏春技術大尉)や第102海軍施設部などの手で飛行場1個が概成し、さらに第2滑走路の造成に着手していた。『海軍設営隊の太平洋戦争(佐用泰司著・光人社)』によれば、ハルマヘラ(Halmahera)島に派遣された海軍設営隊は以下の通り。昭和17(1942)年3月20日編成の、連合艦... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/21 19:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(80) Bandara Dai Nippon(80)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ハルマヘラ島周辺部の防衛を目的に、昭和19(1944)年5月初旬上陸した第32師団(石井嘉穂中将)の地上部隊配備は、海軍第26特別根拠地隊司令部が置かれたカウ、そして第1野戦根拠地隊司令部が置かれたワシレの両湾周辺部に集中していて、モロタイ(Morotai)島には第2遊撃隊(川島威伸少佐・台湾の山地出身兵で編成・4個中隊約450名)のみが配備された。この背景には、昭和19(1944)年7月4日の第2方面軍(阿南惟幾大将)の戦略判断があった。同方... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/22 21:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(81) Bandara Dai Nippon(81)ハルマラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スラウェシ島のミニ版とも映る“K”字形のハルマヘラ島。島の至るところに日本軍が飛行場を造り、大本営が略して「春(ハル)」とも呼んだ地は、まさに島全体が“戦争博物館”。モロタイ島の南部には“星条旗”にも喩えられる形の、連合軍が建設した巨大飛行場跡も残っている。そこで、北マルク州(Propinsi Maluku Utara=Malut)の各県は、これら「兵どもが夢の跡」をマリンリゾートと並んで観光の目玉に掲げている。 これはハルマヘラ島に限ったことで... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/23 19:08
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(82) Bandara Dai Nippon(82)モロタイ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}連合軍は、昭和19(1944)年9月15日、モロタイ島最南端のギラ(Gila)岬付け根付近のピトゥ(Pitoe)に上陸、17日には島東南のサンゴウォ(Sangowo)、島中西部のワヤブラ(Wajabola)、ティライ(Tilai)に上陸した。19日には、島最北端のソピ(Sopi)岬、パダンギ(Padangi)付近へ上陸、さらに21日、モロタイ島西部に浮かぶラウ(Raoe)島へも上陸を果たした。ピトゥには後に、上空から見るとあたかも星条旗のような... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/24 18:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(83) Bandara Dai Nippon(83)モロタイ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「珊瑚礁が突起して出来上がった南方の島々で、普通の土地のように土を掘って、艦砲射撃に対抗し得るような防禦陣地が出来ると思って居たのは、大変な不覚で、之は容易なわざでないということが、上陸早々気がついた。(中略)モロタイというハルマヘラ北方の湾内を扼して居る小さな島は、戦略的にはどうしても保有したいという部隊長としての希望と、右の事情は、私を大に煩悶せしめた。(中略)この時方面軍から、モロタイを捨てハルマヘラ本島保有に専念すべき旨の命令があったの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/25 18:39
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(84) Bandara Dai Nippon(84)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}東部インドネシアの島々に多くの飛行場を設定した日本軍は、連合軍の反撃を遅らせるために、オーストラリア北部を中心に建設された連合軍の飛行場に対する空爆を繰り返した。日本軍による初めての対豪爆撃は、艦載機約100機による昭和17(1942)年2月19日のダーウィン(Darwin)に対する攻撃だった。その翌日、日本軍は、蘭領ティモール島のクーパン(Kupang)、そしてポルトガル領のディリ(Dili)へ同日上陸を敢行した。記録によれば、大戦中、日本軍... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/01 19:46
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(85) Bandara Dai Nippon(85)豪州2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}真珠湾奇襲攻撃に始まる「大東亜戦争」の快進撃。アメリカ軍をフィリピンから追いだし、英蘭の降伏によるマレー半島並びに蘭印(オランダ領インドネシア)の占拠。こうして、日本軍はフィリピン・オーストラリア間を遮断し、“念願”のスマトラ島の大石油生産地帯であるパレンバン(Palembang)も制圧し、順風満帆の大東亜共栄圏構想を推し進める最初の基盤を固めた。初期の快進撃に自信を深めた海軍は、オーストラリア進攻論を謳うようになる。やがて連合軍の抗日拠点とな... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/02 17:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(86) Bandara Dai Nippon(86) 豪州3
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦から3ヵ月、昭和17(1942)年3月時点で、オーストラリア北西部に対する日本軍侵攻の可能性はあるかないか?この点に関して、米軍公刊戦史は、次のように述べている。「日本軍のトレス海峡方面一挙突進の算は少なく、まずニューギニア南岸のメラウケ付近を占領し、逐次、東進する確率が大きいとみなしていた。メラウケには、一月以来、歩兵一大隊だけであったが、四月〜五月に豪軍一コ旅団主力が増派された。豪州西部には、一機械化師団と三コ旅団が配備されていた。パー... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/03 17:39
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(87) Bandara Dai Nippon(87)豪州4
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール(Timor)島は、天然資源地帯であるインドネシア西部を確保し続けるために、日本軍にとって対連合軍守備の最前線だった。昭和17(1942)年3月、ジャワ島攻略作戦に参加後、西部ティモールの要衝クーパン(Kupang)に進出していた海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)は、同月16日から4月5日の間、ダーウィン(Darwin)を空爆し、22日にはダーウン南東約275km内陸部に位置するカセリン(Katherine)飛行場を、また3月20日に... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/04 16:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(87) Bandara Dai Nippon(87)豪州4
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール(Timor)島は、天然資源地帯であるインドネシア西部を確保し続けるために、日本軍にとって対連合軍守備の最前線だった。昭和17(1942)年3月、ジャワ島攻略作戦に参加後、西部ティモールの要衝クーパン(Kupang)に進出していた海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)は、同月16日から4月5日の間、ダーウィン(Darwin)を空爆し、22日にはダーウン南東約275km内陸部に位置するカセリン(Katherine)飛行場を、また3月20日に... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/04 16:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(88) Bandara Dai Nippon(88)豪州5
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年5月、SWPA(南西太平洋方面連合軍)のダグラス・マッカーサー大将は、アラフラ海を越えて東部インドネシアに展開する日本軍部隊と対峙するよりも、その海軍力を活かして、ニューギニア北岸方面を攻略すべきとの判断に達した。この決断に基づいて、RAAF(豪空軍)は、ダーウィン方面から東部インドネシアの日本軍根拠地の空襲を強化し、日本軍の緊張と関心を豪州北部に引き寄せる心理作戦を演じた。また、偽情報を敢えて流すことによって、日本軍を牽... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/05 18:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(89) Bandara Dai Nippon(89)豪州6
{%空港(ユラユラ)hdeco%}終戦までおよそ1年半の昭和19(1944)年3月頃の、オーストラリア北西部における豪・連合軍航空部隊配置は、豪公刊戦史によれば、以下の通り。ダーウィン(Darwin)には豪第43飛行中隊(偵察・機雷の飛行艇カタリナ=Catalina)、そして英第54飛行中隊(戦闘機スピットファイアー・Spitfire)。ストラウス(Strauss)には豪第452中隊(スピットファイアー)。ヒューズ(Hughes・日本軍はフーヘスとも呼称)には豪第2中隊(偵察・... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/07 04:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(90) Bandara Dai Nippon(90)ケンダリ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年1月時点で、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島には、3個の日本軍飛行場があった。北端のメナド(Manado・マナド)、そして南東部のケンダリ(Kendari)、そして南西のマカッサル(Makassar)。いずれも海軍が修復・設営したものだった。同年2月16日には、蘭印(オランダ領インドネシア・現在のインドネシア共和国)のほぼ全域を作戦地域とする陸軍第7飛行師団(須藤榮之助中将)が編成され、シンガポー... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/12 17:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(91) Bandara Dai Nippon(91)ケンダリ2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦から1年と4ヵ月。昭和18(1943)年4月上旬、大本営陸海軍部は、南太平洋方面に対する作戦の根拠地を、東部蘭印(東部インドネシア)域に求めることを計画した。つまり、フィリピン南部や、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)北部、そしてハルマヘラ(Halmahera)島を、補給並びに修理の役割を演じる飛行場群基地する発想であった。特に、東部インドネシア域を“民政(海軍の軍政)”地域とする海軍は、セレベス島のケンダリ(Kend... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/13 16:27
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(92) Bandara Dai Nippon(92)ケンダリ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ムナ(Muna)島の飛行場設定は、第1野戦飛行場設定司令部(松崎今朝松大佐)が昭和18(1943)年11月に着工し、すでにあった飛行場を補修した後、別の新設飛行場の工事に取り掛かった。しかし、松崎大佐は、12月10日、スンバ島へ移動した。これは、同年年11月末に、第2方面軍(阿南惟幾大将)が第19軍(北野憲造中将)に命じたもので、第110野戦飛行場設定隊(伊藤稔中佐)を指揮し、ワイコロ(Waikolo)で“スンバ島航空要塞”の建設任務に就いた。... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/14 14:30
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(93) Bandara Dai Nippon(93)マカッサル
{%空港(ユラユラ)hdeco%}戦中、マカッサル(Makassar)には南西方面海軍民政府が置かれ、セレベス(Celebes/スラウェシ=Sulawesi)、ボルネオ(Borneo/カリマンタン=Kalimantan)、セラム(Seram)の3地域の民政府を下部組織とした。セレベス民政府(マカッサル)は、直轄州とメナド(Manado)州知事庁に区分され、ボルネオ民政府(バンジェルマシン=Banjermasin)は、直轄州とポンティアナック(Pontianak)州知事庁、バリク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/15 19:19
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(94) Bandara Dai Nippon(94)マカッサル2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}西部ニューギニアのホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)、そしてワクデ(Wakde)島とサルミ(Sarmi)、さらにビアク(Biak)島、ヌンホル(Numfor)島、サンサポール(Sanapor)、モロタイ(Morotai)島と、猛スピードの飛び石作戦で西進・上陸を遂げてきた連合軍。 セレベス(スラウェシ)島南部は、ある意味で、日本軍の東部蘭印における“最後の砦”となった。昭和19(1944)年9月、セレベスにあった... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/16 18:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(95) Bandara Dai Nippon(95)マナド
{%空港(ユラユラ)hdeco%}北スラウェシ(セレベス)のメナド(マナド・Manado)は、大東亜戦争の蘭印(オランダ領インドネシア)、特に西部ニューギニア方面、ハルマヘラ島、モロタイ島での“玉砕戦”に近い激戦を控え、作戦命令の“発信地”、別の言い方をすれば、帝国陸軍の“頭脳”の地だった。ここには、中部ニューギニア北岸の要衝ホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)への連合軍上陸(1943.4.22)を受け、昭和19(1943)年4月26日、第2方面軍(... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/17 18:46
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(96) Bandara Dai Nippon(96)マナド2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、日本時間午前9時52分。フィリピンのミンダナオ島ダバオを28機に分乗して南下した、海軍第11航空艦隊(塚原二四三中将)隷下の1001部隊(横須賀第1特別陸戦隊・横一特・堀内豊秋中佐)は、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島北端の要衝、メナド(Manado・マナド)南方のランゴアン(Langoan/Langowan)にパラシュート降下。堀内中佐が高度およそ150mからまず降下、これに2コ中隊... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/18 18:06
西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
{%春webry%}2009年3月19日、午前10時30分。メディアが、そして日本中が熱い視線でワールド・ベースボール・クラシックの日本・キューバ戦の開始を待つおよそ1時間半前、東京・霞が関の厚生労働省2階の共用第6会議室には、64年ぶりに祖国・日本へ戻る旧日本兵108人の遺骨を待つ、無言の人々がいた。この日、日本政府がパプア州(インドネシア領西部ニューギニア)へ派遣した「インドネシア戦没者遺骨収集応急派遣団(厚生労働省社会援護局援護企画課・外事室専門官山岸和司団長以下計8名)... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/20 17:17
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(97) Bandara Dai Nippon(97)スラウェシ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和20(1945)年2月、終戦まであと半年。セレベス(スラウェシ)島の航空地区部隊は、漸次その収縮整理に動き始めた。北セレベスのマパンゲット(Mapenget)、ランゴアン(Langoan/Langowan)、アムラン(Amurang)などの飛行場は、それまで、陸軍第7飛行師団によるハルマヘラ島方面への出撃基地を担っていたが、1945年2月、第4野戦飛行場設定部(難波了三大佐)の約2,000名は、3月から南セレベスのマカッサルへと徐々に後退を... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/22 23:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(98) Bandara Dai Nippon(98)スラウェシ2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}北セレベス(スラウェシ)の北端のマナド(Manado・メナド)とフィリピンのミンダナオ島との間に点在するサンギヘ(Sangihe)諸島やタラウド(Talaud)諸島は、開戦当初は、海軍陸戦隊によって占拠されたが、戦況の悪化に伴い、第2軍(豊嶋房太郎中将)隷下で、ハルマヘラ(Halmahera)島の守備にあたった第32師団(石井嘉穂中将)の一部部隊が、昭和19(1944)年5月、タラウド地区隊(地区隊長は師団衛生隊長の木場茂大佐)として送り込まれ... ...続きを見る
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2009/03/23 19:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(99) Bandara Dai Nippon(99)スラウェシ3
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スラウェシ島の北半分に位置する北スラウェシ州、ゴロンタロ州、そして中スラウェシ州の3州で現在使用されている空港は、主なもので計8ヵ所。マナドのサムラトゥランギ(Samratulangi)飛行場は、滑走路の長さが2,650m、幅45m。B-737型機が就航。ボラアン・モンゴンドウ(Bolaang Mongondow)県にあるモパティ(Mopati)空港は、650m X 23mの滑走路規模で、C-212型機の離着陸が可能。ゴロンタロ(Goronta... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/24 16:50
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(100) Bandara DaiNippon(100)スラウェシ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}南スラウェシ(Sulawesi Selatan)州そして南東スラウェシ(Sulawesi Tenggara)州、さらに西スラウェシ(Sulawesi Barat)州には、主用空港が計12ヵ所ある。西スラウェシ州のマムジュ(Mamuju)のタンパ・パダン(Tampa Padang)空港は、滑走路規模が長さ1,500m、幅30mでC-212型機が就航。南スラウェシ州には、北部の北ルウ県の県都マサンバ(Masamba)近辺に3ヵ所の空港がある。まず、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/25 16:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(101) Bandara DaiNippon(101)タラカン島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦。蘭印(オランダ領インドネシア)の豊かな石油を始め、天然資源獲得を第一義に、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の成功を受け、日本軍は南方攻略作戦に着手した。すでに占領したフィリピンのミンダナオ島を根拠地に、蘭印への第一歩は、セレベス(スラウェシ)島北端のマナド(Manado・メナド)、そしてボルネオ(カリマンタン)島東岸のタラカン(Tarakan)島並びにバリックパパン(Balikpapan)に対する上陸作戦だった。 昭和17... ...続きを見る
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2009/03/28 20:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(102) Bandara DaiNippon(102)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タラカン島攻略作戦を終えた坂口支隊(混成第56歩兵団長坂口靜夫少将)は、昭和17(1942)年1月24日、日本時間午前零時四〇分、バリックパパン(Balikpapan)東方のマンガール(Manggar)飛行場付近の海岸に上陸。同日中に飛行場並びに橋梁の占拠を果たした。翌25日午前四時、戦闘を交えることなく日本軍はバリックパパン市街へ突入した。バリックパパン攻略作戦は、タラカン島同様に陸海軍協同作戦だった。バリックパパンは、近くのサマリンダ(Sa... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/29 19:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(103) Bandara DaiNippon(103)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}4州から構成されるカリマンタン(ボルネオ)島の中でも、東カリマンタン州(Propinsi Kalimantan Timur=Kaltim)は天然資源の観点から最も豊かな州だ。例えばボンタン(Bontang)ガス田は、その昔から日本の液化天然ガス需要に応えてきた。日本企業による原油開発も行われ、また石炭の輸出でも知られる。大東亜戦争で蘭印(オランダ領インドネシア)に侵攻した日本軍が、まず最初に同州東北部に位置する石油基地であるタラカン(Tarak... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/31 18:19
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(104) Bandara DaiNippon(104)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}南カリマンタン(Kalimantan Selatan=Kalsel)州には主なもので計5個の飛行場がある。州都のバンジャルマシン(Banjarmasin)のシャムスディン・ヌール(Syamuudin Noor)国際空港。北東部にタンジュン・ワルキン(Tanjung Warukin)空港(滑走路の規模は1,300 X 30m)。東部のラウト(Laut)島には二ヶ所。中心都市のコタバル(Kotabaru)近辺にスタゲン(Stagen)空港と、島中部... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/01 19:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(105) Bandara DaiNippon(105)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}13県と1都市から成る中カリマンタン州(Kalimantan Tengah=Kalteng)の主要空港は計9個。北側から、ムルン・ラヤ(Murung Raya)県の県都プルックチャフ(Purukcahu)付近にあるディルン(Dirun)空港。滑走路の規模は850 X 23mでC-212型機が県都から就航。北バリト(Barito Utara)県の県都ムアラテワ(Muaratewah)のブリンギン(Beringin)空港。900 X 23mの滑... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/02 16:44
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(106) Bandara DaiNippon(106)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}西カリマンタン(Kalimantan Barat=Kalbar)州にある主用空港は計8ヵ所。東部の、カプアス川源流部に近い最奥部のプツシバウ(Putussibau)には、パンスマ(Pangsuma)空港がある。滑走路の規模は1,400 X 23mでF-27型機やATR-42型機が就航。カプアス川中流域のシンタン(Sintang)には、1,300 X 30mの滑走路を持つスシロ(Susilo)空港があり、C-212型機の離着陸が可能。また、シンタ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/03 16:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(107) Bandara DaiNippon(107)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍のボルネオ(Borneo)島(注:インドネシアはカリマンタン=Kalimantanと表記)占領は、今日のインドネシア領域に限らず、全島にわたった。今日のマレーシアのサラワク(Sarawak)そしてサバ(Sabah)、さらにブルネイ(Brunei)も瞬く間に占拠された。 ボルネオ島の北東端に位置するサンダカンは、戦前、英国領ボルネオの中心都市として栄えていた。同地を占拠した日本軍は、戦争捕虜となったイギリス兵と豪州兵を使役して、サンダカン... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/05/18 17:32
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}英領ボルネオ時代にジェッセルトン(Jesselton)と呼ばれていた、今日のコタキナバル(Kota Kinabalu)。マレーシアのサバ(Sabah)州の州都所在地だ。戦前の北ボルネオの中心地はサンダカン(Sandakan)だったが、戦後の1947年、マラヤ連邦の結成に伴って、英領北ボルネオの首都はジェッセルトンへと移された。 英領ボルネオ域は,太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941)12月、歩兵第35旅団長川口清健少将指揮下の部隊によって... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/05/19 12:41
「ニューギニア未帰還兵展--私を祖国日本へ帰らせてください」開催のお知らせ
お母様、お父様、お変りございませんでしょうか。 お婆様、お爺様 お元気でしょうか。 兄上様、姉上様、そしてご家族の皆様、達者でお暮らしでしょうか。 叔母様、叔父様、そしてご家族の皆様、お変わりありませんでしょうか。 戦友の皆々様方、日本は立派なお国になりましたでしょうか。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/26 10:59
『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』2
{%メガホンhdeco%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』を開催する。西部ニューギニア(パプア州)の戦史、そして玉砕... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/27 23:19
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
{%ノートwebry%}一万数千名の犠牲者を出したビアク島の戦い。終戦後、マノクワリの日本軍と連合軍との合同捜索隊が同島に入った。しかし、生存兵わずか八名を収容できたのみだった。その生存者の一名が、連合軍の厳しい監視をかいくぐり日本に持ち帰り、遺族に手渡した一冊のノート。それが、第36師団歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊附の陸軍主計中尉浅野寛氏(陸軍経理学校第二期乙種学生)が書き記した日記帳だった。 日記の開始は「五月三十日」(注:1944年5月30日のこと。この三日前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/30 11:31
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/01 20:26
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/02 22:26
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。水筒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 03:33
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 11:56
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 13:42
今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』
{%爆弾webry%}今日、2009年8月8日(土)から『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まります。間もなく戦後65年目に入ります。しかし、激戦地だった西部ニューギニア(現在のインドネシア・パプア州、中パプア州、西パプア州)には、今でも少なくとも3万名を超える旧日本兵の遺骸が、放置されたままで、まさに“野垂れ死に”の観を呈しています。“祖国”のためと、赤道を越えた日本軍、そして日本軍と共に南下した朝鮮半島や台湾出身者、さらに日本軍に協力したインドネ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/07 19:15
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる
{%爆弾webry%}広島と長崎の64回目の“原爆の日”を挟む8月8日(土)、インドネシア文化宮(GBI)で『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まった。世はお盆の帰省ラッシュのスタート。展示会初日、会場には共催者である「太平洋戦史館(岩手県奥州市)」の関東在住の会員の皆さんが駆けつけてくれた。その一人、相模原市在住の座間淳子さんは、去る7月、西部ニューギニアのかつての激戦地であるサルミやビアク島などの慰霊巡拝の旅に参加した。サルミ東方の“玉砕の島”ワクデ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 15:32
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』は、主に、“玉砕の島”ビアク(Biak)島の未帰還兵に焦点を当てている。1万を超す兵が戦死したが、いまだに約6,000人の遺骸が収集されていない。まだ“遺骨”にさえなっていない。以下このビアク島の戦史をインドネシア語の動画で辿る。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 23:56
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
{%爆弾webry%}『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』のスタート二日目の8月10日。展示主要対象地であるビアク(Biak)島に向けて五日後に出発するという、京都産業大学の安田和彦教授ご夫妻がやってきた。これまでインドネシア各地を旅行しているが、西部ニューギニアは初訪問。しかも訪問地は“玉砕の島”ビアク。 戦時中、大本営は当初、第2方面軍(阿南惟幾大将)隷下の第2軍(豊嶋房太郎中将)、その隷下の第36師団(雪兵団:田上八郎中将)を当初、西部ニューギニアの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/10 20:01
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、身内を西部ニューギニアで亡くした方々がたくさん駆けつけている。もしや、展示されている遺留品の中に、身内の物が含まれていないか?どこで、どのように戦死・戦病死したのか、何か手掛かりを得られるのでは?そんな思いで関東一円から、インドネシア文化宮(GBI)を目指して集まっている。 その中のお一人、町田市の川口美代子さんは幼い頃、実父の小坂岩吉兵長をニュギニア本島北岸を亡くした。戦後、昭和21年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/12 19:30
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14
{%やしの木webry%}終戦から満64年。2009年8月15日(土)正午。東京・九段の日本武道館で、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われた。“戦後”は65年目に入った。終戦の年に19歳で徴兵検査を受けた人も、今では83歳。あの日はますます遠ざかっている。 以下は同追悼式典における天皇陛下と首相の言葉。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/15 17:18
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 14 小野寺中尉の水筒
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で涙を見ない日はない。開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』を目指して、親族を西部ニューギニアで亡くされた方々が多く訪れている。64回目の終戦記念日が数日前に過ぎたとはいえ、それはカレンダー上での出来事。心の奥底には“戦後”が未だ訪れていないと思わせる抜けないトゲが残っている。あれから64年も経ったというのに。 「義父はビアク島で亡くなったとされています。義母が生きていた時には、テレビで旧日本兵の話... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 00:51
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「鈴木信太」とフルネームが刻まれた飯盒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。「鈴木」の二文字は、大きく二重線で刻まれ、「信太」は、少し小さめで一本の線。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは決して多くはなく、たい... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 18:37
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「渡辺貞雄」とフルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/22 16:59
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「長野一彦」とフルネームが刻まれた水筒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と言... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 11:34
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がホランジア(現ジャヤプラ)西方のゲニェム(ゲニム=Genyem)地区で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「中島慎市」あるいは「中島愼市」、もしくは「中島慎希一」か「中島愼希一」とも読める、フルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名がほぼ判読可能にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 12:17
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「久保金治」とフルネームが刻まれた飯盒の蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 13:16
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
{%爆弾webry%}およそお洒落な形のカップに似合わない、銃弾貫通の跡。「太平洋戦史館」(岩手県奥州市)が、玉砕のビアク(Biak)島で見つけた金属製のカップ。誰が、何を飲むために使っていたのだろうか。いや、すくなくとも「誰」かは知れている。底に『杉沢』と刻まれている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/24 22:46
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
京都産業大学の安田和彦教授が今夏、パプア州のビアク島を訪れた。インドネシア共和国が第64回独立記念日を迎えた2009年8月17日早朝、首都ジャカルタからおよそ6時間の夜間飛行の末、安田さん夫妻は“玉砕の島”ビアク(Biak)島に到着。戦時中、この島では第2軍直轄の、歩兵第222連隊(葛目直幸大佐:雪3523部隊=青森編成)を主力とするビアク支隊が海軍部隊と共に、連合軍と対峙。激戦は、1万数千の将兵・軍属の命を奪った。歩兵第222連隊の原隊である第36師団(通称雪兵団)は、青森県弘前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 00:39
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}「(注:昭和19年)六月二十一日頃になると、西洞窟は殆ど完全に包囲され、敵は至近から戦車砲、火焔放射器及点火ドラム缶等で洞窟内を攻撃する様になった。洞窟入口附近の戦闘は酸鼻を極め、支隊長(注:第36師団歩兵第222連隊長の葛目直幸大佐)は玉砕を覚悟したが、西原大隊の増援、千田少将の意見具申、鹿野副官、渡辺大尉(第一大隊長代理)の諌止等に依り決意を翻し、二十二日夜暗を利用して西洞窟を脱出することになった。脱出に先立ち独歩不能の重症患者約百数十名は、全員必勝を確信... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 14:59
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}戦後は終わっていない(安田和彦) ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/31 02:39
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}あの戦争が残したもの(安田和彦) あの戦争とは何を指すのか。それは生まれ育った時代、そして国籍によって異なるのだろうが、“戦後”20年も経ってから青森県で生まれた私にとって、あの戦争とは太平洋戦争もしくは大東亜戦争のことだ。今夏、“玉砕の島”と呼ばれるビアク島を訪れ、戦争が残したものを数々目にした。ビアク島には“戦後”そして“戦中”が共存していた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/01 12:12
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}海のビアク(安田和彦)) 赤道直下の南太平洋、チェンドラワシ(極楽鳥)湾に浮かぶビアク島。そこで、豊かで美しい海の姿に出会った。ビアク・ヌンホル県の県都ビアク市内の魚市場。天気が良くて出漁のあった日には、必ずオープン。私達が訪れた8月中旬、市場には色々な魚が並んでいた。カツオ、マグロ、サヨリ、そしてタイ、ハタ、アジ、エビ。活きたウミガメまでも。近くでは、ぶつ切りにした魚を炭火で焼いている屋台があり、結構繁盛している。バイクでやってきた市民が、一匹、二匹と買っ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/02 01:46
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
{%爆弾webry%}「読売新聞」がインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に関して、「日本は迎えに来ていない 激戦ビアク島 帰れぬ遺骨」と題する記事を都民版に掲載した2009年9月3日の朝、東京・銀座のホテルで、元インドネシア共和国教育文化大臣(1993-1998)のワルディマン・ジョヨネゴロ(Wardiman Djojonegoro)氏と朝食を共にした。ワルディマンさんは昨年、日本政府の秋の叙勲で、日本・インドネシア国間... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/03 17:48
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
{%爆弾webry%}「あのォー、ビアク島の遺留品の中にYの苗字の物はないでしょうか?」----フィリピンのルソン島で実兄を亡くした、現在84歳の女性から電話があった。航空部隊に所属していたという兄の戦死の通知は、一枚の白い紙切れだった。「ルソン島ってビアク島の近くでしょうか?もしや、兄がそのビアク島にもいたかもと思って....」。「Yの遺品があれば、両親のお墓に入れてあげたいと思っていますが...」 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 21:51
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
瀧澤吉治。大正7(1918)年8月13日、瀧澤吉助の長男として岩手県盛岡生まれ。 瀧澤吉治。昭和19年(1944)年5月30日、西部ニューギニアのトムで戦死。 瀧澤吉治。20歳と4ヶ月で入隊。25歳と9ヶ月で戦死。 瀧澤吉治。平成21(2009)年9月初旬現在、未帰還兵。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/05 22:21
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
{%メガホンhdeco%}2009年9月6日(日)、太平洋戦史館の岩渕宣輝会長理事が、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』会場を訪れ、西部ニューギニアに放置されたままの旧日本兵の遺骸の現状についてミニ講義を行った。戦後65年目に入ったが、西部ニューギニアには、いまだに“戦後”が来ない3万を超える将兵が瞑っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/06 20:15
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
{%爆弾webry%}「ひいじいちゃんと太平洋戦争」----2009年9月6日(日)、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、表題のファイルを持った少年がやってきた。東京・中野区立南中学校1年生の上野健太君(12歳)。野球部員だそうで、毬栗頭がなんとも頼もしい。祖母の曽屋真紀子さん66歳)そして母の上野睦子さん(41歳)も一緒だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/08 01:30
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年4月22日、連合軍はホランジア(現ジャヤプラ)へ上陸するが、その前月末、ホランジアには第4航空軍(寺本熊市中将)司令部と、その隷下にある第6飛行師団(板花義一中将)が東部ニューギニアのウェワク(Wewak)から後退してきていた。そして、瀧澤吉治曹長が戦闘機整備要員として所属する、第4航空軍隷下の第6飛行師団傘下の第14飛行団(徳永賢治大佐)隷下の飛行第68戦隊も、同年3月中旬、空中勤務者(パイロット)の主力と整備員の一部計約50名が(おそ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/11 14:57
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
{%爆弾webry%}『薄れゆく悲劇 西部ニューギニア戦線(池見坦著)』によれば、ゴアイに駐屯していた池見氏を含む工作機関(鰐機関:内山守衛中尉指揮下)は4月27日に、ゲニム西方の村(村名不明)で、ゲニムから転進してくる「哀れな日本兵」の姿に接している。乞食同然の姿。銃を持つ者は皆無。手には杖、腰には飯盒と鞘なしの帯剣。この記憶に間違いがなければ、これら日本兵は、4月26日ゲニムを発った第1梯団とも想像される。あるいは、デムタかデパプレ方面から、もっと早くサルミに向けて出発した一団... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/12 18:31
『ニューギニア未帰還兵展』を10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした」-... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/13 15:52
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』28 故田中梅男伍長
{%爆弾webry%}今日、民主党政権が旗揚げした。期待と不安---とマスコミは描く。どんな未来像が生まれるのかは別にして、日本政治史が新たなページを記し始めたことは確かだ。その歴史の執筆者は、鳩山由紀夫総理。一方、自由民主党は、雌伏の時代を刻み始めた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 01:45
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(1) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 22:34
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(2) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊は、『海軍設営隊の太平洋戦争(光人社刊:1996年4月)』の著者で元海軍第203設営隊の技術大尉佐用泰司氏によれば“不運な設営隊”だった。「この不運な設営隊は、ニューギニア北岸のビアク島に進出することになっていた。しかし、便船の関係で、一時カウ(注:ハルマヘラ島)の対岸ロロバタに揚陸し、つぎの便船を待って、ビアク島に進出することとなった。その待機期間、彼らはカウ、ロロバタ地区の設営に協力していた」。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 00:44
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(3) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(昭和18(1943)年11月15日、横須賀で編成。部隊長は永田亀雄海軍技術少佐。隊員数860名。所属艦隊は第四南遣艦隊・山縣正郷中将。派遣元は海軍横須賀施設部)のわずか60数名の生き残り将兵の一人である同隊書記の小林福市は、その著『永田部隊の最後(ビアク島)』の中で次のように記している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 18:48
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(4) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(永田亀雄海軍技術少佐)は、第4南遣艦隊(山縣正郷中将・司令部はアンボン)から派遣された白石義雄、桑原三郎両海軍技術大尉の現地調査を基に、当初ビアク島のボスネック海岸裏手の高台に3ヶ所の飛行場建設を命じられていた。ボスネックは、まさに昭和19(1944)年5月27日、連合軍が上陸した海岸そのものだった。しかし、同設営隊の本隊主力がビアク島に到着したのは4月中旬以降〜5月初旬。一方、連合軍は4月22日、ビアクの東南東約530kmのホランジア(現... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/20 15:55
『ニューギニア未帰還兵展』10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、実に多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/23 12:04
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「東京新聞」が報道
{%爆弾webry%}開催期間を一ヵ月延長し、10月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。未だ“戦後”を実感することのできない多くの人々が、インドネシア文化宮(GBI)に足を運ぶ。『東京新聞』が今朝(2009年9月28日)、「ニューギニア戦線 遺品展に反響」、「最期知りたい思い切実」の見出しで、同展について特報面で大きく取り上げた。『読売新聞』、『朝日新聞』に次ぐ報道に、来宮者は引きもきらない。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/28 18:48
『ニューギニア未帰還兵展』 朝鮮人戦死者名簿
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展』に菊池英昭さん(67歳)が「朝鮮人戦死者名簿」を持ってやってきた。立川市在住の菊池さんは、10年の歳月を費やし、旧日本軍の軍人・軍属として日中戦争・太平洋戦争で戦死した約2万1千名の名簿を作り上げた。出版計画は、今のところ“頓挫”しているそうだが、遠くない将来日の目を見るとのことだ。 先の大戦に、多くの朝鮮半島出身者、そして台湾人、さらにインドネシア人、インド人などが日本軍の軍人・軍属・兵補などの立場で従軍している。そして、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/30 01:05
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(6) 武内満多男 
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で10月30日までの日程で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』を訪れた、元海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐)の隊員だった東京・練馬区在住の武内満多男さん(83歳)から同隊に関する貴重な資料提供を受けた。同氏とのインタビュー内容は後日紹介するとして、資料によってこれまで不明だった数々の謎解きが可能となった。海軍第202設営隊は、およそ230を数える海軍設営隊の中でも、最初の“玉砕部隊”として不幸な名誉を残している。しかし、その要員数... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/04 19:11
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
{%爆弾webry%}『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍第203設営隊(岩下久哉技術少佐・ハルマヘラ島で基地設営)の西部ニューギニア・ソロン派遣隊長だった佐用泰司元海軍技術大尉によれば、「海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐・昭和18年11月15日海軍横須賀施設部編成)」は、“玉砕設営隊”の第一号だった。一部およそ130名がハルマヘラ島に取り残されたが、約1,000名の隊員が昭和19(1944)年6〜7月、ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/05 20:29
海軍第202設営隊(1) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 11:15
海軍第202設営隊(2) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 19:54
海軍第202設営隊(3) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/09 15:03
海軍第202設営隊(4)武内満多男の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/11 12:22
海軍第202設営隊(5) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/20 22:49
海軍第202設営隊(6) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/21 16:45
海軍第202設営隊(7) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 09:50
海軍第202設営隊(8) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 01:49
海軍第202設営隊(小林光雄氏の絵日記証言)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 02:50
第35師団野戦病院(東第2931部隊第3分隊)故永井寿三郎氏提供写真 ヌンホル島
{%爆弾webry%}再々延長して2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。再延長の最終日、2009年10月30日、『亡き父のアルバムの中に、大戦中にニューギニアで戦死した戦友たちが写っている写真がありました。もしや、ご遺族の方々の中に、身内の消息を探している方がいるのではないかと思って持参しました』---そう言って、横浜市か... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 16:50
海軍第202設営隊(9) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/02 11:02
海軍第202設営隊(10)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/03 14:01
海軍第202設営隊(11)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
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2009/11/05 12:11
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(1)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/08 21:03
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(2)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/10 13:30
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(3)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/12 10:12
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(4)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/13 08:50
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(5)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/14 16:29
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(6)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/15 00:32
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(7)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/18 09:39
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(8)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/19 10:30
海軍第202設営隊絵日記(1)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 11:38
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(9)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/21 00:00
海軍第202設営隊絵日記(2)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/22 09:56
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(10)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 11:00
海軍第202設営隊絵日記(3)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 21:16
海軍第202設営隊絵日記(4)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/26 10:59
海軍第202設営隊絵日記(5)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
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2009/11/27 22:10
海軍第202設営隊絵日記(6)小林光雄の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/29 13:21
海軍第202設営隊絵日記(7)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/01 09:52
海軍第202設営隊絵日記(8)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/02 09:53
海軍第202設営隊(1)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/05 11:07
海軍第202設営隊(2)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/06 11:23
海軍第202設営隊(3)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/09 12:22
海軍第202設営隊(4)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/10 21:48
海軍第202設営隊(5)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/12 14:41
☆12月17日:西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式のお知らせ☆
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席できますので、是非ご参加下さい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/13 14:32
海軍第202設営隊(6)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/14 10:34
12月17日、西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式:291柱が無言の祖国帰還
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。過去最多の291柱が還ってくる予定です。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席でき... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/15 12:29
海軍第202設営隊(7)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/18 14:13
海軍第202設営隊(8)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/19 09:54
三橋國民 『64年目の夏 鎮魂のニューギニア』 Kunitami Mitsuhashi
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/24 19:32
三橋國民 『64年目の夏 鎮魂のニューギニア』 Kunitami Mitsuhashi
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/24 19:32
三橋國民 鎮魂のニューギニア(1) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に陣地を構えた。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/26 12:56
三橋國民 鎮魂のニューギニア(2) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/28 08:56
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:12
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:12
− タイトルなし −
{%爆弾webry%}72年前の昭和19(1944)年7月31日未明。西部ニューギニアの大河マンベラーモ川(Sungai Mamberamo)の河口に近いロンベバイ湖(Danau Rombebai)。東西約20km、南北約10kmの淡水湖。北に向かって流れるマンベラモ川。河口まではおよそ40kmの地点。川から水が湖に流れ込み、そして細い水路を経て、再びマンベラーモ川へ流出している。前日の夕刻、日高岩男少佐以下、選ばれた16名から成る「鰐工作隊(鰐部隊)」が、同湖の東北端に浮かぶ小さなヤ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/04/28 20:20
鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(2) Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}「私は早速(注:日高少佐の左手の小指を)拾っておしいただき、手拭いにくるくると巻いて胸につり下げた。三人の兵隊はもっていた円ぴで穴を掘った。そして遺体の頭部を日本の方に向け、日章旗をおおって埋葬した。私は流木の小枝を削り陸軍少佐日高岩男之墓と青色のエンピツで書いてその上に立てた。ふたたび黙&#31153;してその場を去った」---ヤピナ島奇襲攻撃に参加した、日高少佐の部下である徳野明曹長は著書『鰐部隊とパプア人マンドル』の中で、このように、攻撃翌日、昭和19(19... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/04/29 14:47
鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(3) Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}英国で1988年に初版が発刊された『Flying Cats The Catalina Aircraft in World War II』(Andrew Hendrie著・Airlife Publishing Ltd刊)には、ロンベバイ湖のヤピナ島へ、1944年7月31日、10名の連合軍兵士を救出すために、E.Wientjes大尉が操縦する飛行艇が派遣されたことが記録されている。まさしく、その日の未明、わずかな星明りの下、日高岩男少佐が率いる「鰐工作隊」16名による... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/04/29 20:44
鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(4) Mayor Iwao Hidaka
{%上昇webry%}日高岩男少佐(『鰐部隊とパプア人マンドル』より引用) {%爆弾webry%}終戦後、サルミでは、武器弾薬はもとより私物もぜんぶ占領軍に没収された。そして毎日、占領軍の使役に駆り出された。 昭和21年にはいると、内地送還の話が決まった。そのとき、私は高価な時計をもっていた。この時計は、ニューギニアで亡くなった日高少佐のものである。 まだ米軍が西部ニューギニアに攻撃を開始していないころ、米軍が上陸するという情報がはいった。日高少佐は部隊を連れ、現地に情報をとりに... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/04/30 11:36
再録 鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か? Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}72年前の昭和19(1944)年7月31日未明。西部ニューギニアの大河マンベラーモ川(Sungai Mamberamo)の河口に近いロンベバイ湖(Danau Rombebai)。東西約20km、南北約10kmの淡水湖。北に向かって流れるマンベラモ川。河口まではおよそ40kmの地点。川から水が湖に流れ込み、そして細い水路を経て、再びマンベラーモ川へ流出している。前日の夕刻、日高岩男少佐以下、選ばれた16名から成る「鰐工作隊(鰐部隊)」が、同湖の東北端に浮かぶ小さなヤ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/07/03 18:07
再録 鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(2) Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}「私は早速(注:日高少佐の左手の小指を)拾っておしいただき、手拭いにくるくると巻いて胸につり下げた。三人の兵隊はもっていた円ぴで穴を掘った。そして遺体の頭部を日本の方に向け、日章旗をおおって埋葬した。私は流木の小枝を削り陸軍少佐日高岩男之墓と青色のエンピツで書いてその上に立てた。ふたたび黙&#31153;してその場を去った」---ヤピナ島奇襲攻撃に参加した、日高少佐の部下である徳野明曹長は著書『鰐部隊とパプア人マンドル』の中で、このように、攻撃翌日、昭和19(19... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/07/03 18:09
再録 鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(3) Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}英国で1988年に初版が発刊された『Flying Cats The Catalina Aircraft in World War II』(Andrew Hendrie著・Airlife Publishing Ltd刊)には、ロンベバイ湖のヤピナ島へ、1944年7月31日、10名の連合軍兵士を救出すために、E.Wientjes大尉が操縦する飛行艇が派遣されたことが記録されている。まさしく、その日の未明、わずかな星明りの下、日高岩男少佐が率いる「鰐工作隊」16名による... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/07/03 18:11
再録 鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(4) Mayor Iwao Hidaka
{%上昇webry%}日高岩男少佐(『鰐部隊とパプア人マンドル』より引用) {%爆弾webry%}終戦後、サルミでは、武器弾薬はもとより私物もぜんぶ占領軍に没収された。そして毎日、占領軍の使役に駆り出された。 昭和21年にはいると、内地送還の話が決まった。そのとき、私は高価な時計をもっていた。この時計は、ニューギニアで亡くなった日高少佐のものである。 まだ米軍が西部ニューギニアに攻撃を開始していないころ、米軍が上陸するという情報がはいった。日高少佐は部隊を連れ、現地に情報をとりに... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/07/03 18:13
鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(5) Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}陸士第50期卒で、陸軍中野学校の甲2卒業生でもある日高岩男少佐。72年前の昭和19(1944)年7月31日未明、西部ニューギニアの大河マンベラーモ川(Sungai Mamberamo)の河口に近いロンベバイ湖(Danau Rombebai)に浮かぶヤピナ島(Pulau Yapina)で、連合軍の水艇基地奇襲作戦の中、敵の銃弾に斃れた。そして、今、同島に残る同少佐のお墓の存在が注目を集めている。と同時に、ご遺族に関する情報も、徐々に集まり始めている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/07/19 10:06
鰐工作隊の隊長日高岩男少佐のお墓発見か?(6) Mayor Iwao Hidaka
{%爆弾webry%}西部ニューギニアの大河マンベラーモ川一帯を、主要な宣撫工作活動地域に設定した、日高岩男少佐率いる「鰐部隊(機関・工作隊)」。同少佐は、昭和19(1944)年7月31日未明、河口に近いロンベバイ湖(Danau Rombebai)の北東端に浮かぶヤピナ島(Pulau Yapina)で、連合軍の水艇基地奇襲作戦の中、敵の銃弾に斃れた。サルミに拠点を置いた第36師団の戦闘史において、連合国軍を蹴散らした、数少ない武勇伝として伝わる奇襲攻撃。しかし、その戦いで、鰐工作隊... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/07/26 16:11
終戦71周年に想う中野学校卒業生の日高岩男少佐と新穂智少佐
{%爆弾webry%}2016年8月15日。終戦71周年。ニューギニアの大地に斃れた、二人の陸軍少佐の話をしたい。二人には共通項が多い。まず、二人とも九州男児。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/08/14 22:33
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(1)
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(1) https://youtu.be/qzaMsL7TRpg ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/19 21:39
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(2)
{%爆弾webry%}JR九州の日南線飫肥駅から酒谷川を越えて北西に直線距離でおよそ500m、飫肥城址からは東側に約600m。長久寺の裏手に大きな墓地がある。ここに、日高家先祖代々のお墓がある。日高家の家紋は「丸に違い矢」。弓矢は武具。ご先祖は武士だったのだろうか。霊票には、日高岩男少佐の祖父にあたる兵次郎(大正14年11月、77歳で没)と祖母のシカ(昭和26年8月、85歳で没)に始まり、父の平八(昭和17年6月、51歳で没)と母のトナ(昭和51年8月、78歳で没)が並ぶ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/20 19:25
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(3)
{%爆弾webry%}昭和12(1937)年12月31日、満州(現在の中国東北部)の佳木斯(ジャムス)で歩兵第37連隊に編入した日高岩男歩兵曹長・見習士官(当時)は、翌昭和13(1938)年3月1日、少尉に任官し、将校の道を歩み始めた。この頃の出来事といえば、昭和11(1936)年には「二・二六事件」が起き、昭和12年7月に日華事変事件(蘆溝橋事件)、翌昭和13年には国家総動員法が成立している。日中戦争が拡大し、また太平洋戦争に突き進む、いわゆる軍部勢力が増大していった時期と重なる。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/21 23:54
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(4)
{%爆弾webry%}高橋ミチエは、大正9(1920)年5月20日、宮崎県の南端、鹿児島県との県境に近い、現在の日南市南郷町榎原(よわら)で、父・正次(昭和32年11月、65歳で没)と母・ミヨ(昭和53年4月、83歳で没)の長女として生を受けた。ミチの実家は、天照大神を祭神に仰ぐ、縁結びや安産祈願、家内安全などにご神徳があるとされる榎原神社のすぐ近くにあった。一方、現在の日南市飫肥生まれの日高岩男の誕生日は、大正6(1917)年1月8日。歳の差、三歳。陸軍士官学校卒で大尉の岩男が、上海... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/22 22:01
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(5)
{%爆弾webry%}宮崎県が作成した戦没者整理名票によれば、日高岩男大尉(当時)は、昭和18(1943)年11月5日に「南方派遣のため門司港出帆」と記されている。これはおそらく正確な日付だろう。というのも、日高自身が、西部ニューギニアに到着後に書いた現地行動図の裏面に、鉛筆でその辺りの事を書き留めている。それによれば、昭和18年11月6日、下関発、同年同月8日、釜山発、20日頃アンボン、そして翌昭和19(1944)年1月7〜8頃マノクワリ到着、13日マノクワリ発、17日サルミ到着とな... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/23 21:21
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(6)
{%爆弾webry%}濠北方面での戦局の悪化に伴い、絶対国防権ラインが西方に後退する中、大本営は、日中戦争に投入していた部隊を、次から次へと西部ニューギニア、ハルマヘラ島方面へ移した。当初マノクワリに置かれた第二軍(豊嶋房太郎中将)隷下だけ見ても、サルミに置かれた通称雪部隊、雪兵団の、主に東北出身者から成る第36師団の第223連隊(吉野直靖大佐)と第224連隊(松山宗右衛門大佐)、そして元々は第36師団の一連隊であった歩兵第222連隊(葛目直幸大佐)は第二軍直属としてビアク島へ配置され... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/24 17:30
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(7)
{%爆弾webry%}話しを、対ソ連工作活動に移そう。日高は、元々はいわゆる“北方要員”だったのだろうか?そのことを裏付ける明白な公的資料は残っていない。しかし、結論から言えば、その可能性は大いにあったが、戦局の激変に伴って、遊撃戦(ゲリラ戦)の主舞台となった濠北方面に、その才能を発揮することを求められた、ということだろう。陸軍中野学校の実験隊の教官を務めていたことはすでに書いたが、実験隊とは一体どのような役割を演じていたのだろうか。 {%上昇webry%}満州出張時代の日高岩男(左... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/25 21:53
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(8)
{%爆弾webry%}昭和18(1943)年11月6日、下関を発った日高岩男大尉は、翌昭和19(1944)年1月7〜8日頃マノクワリに到着した。第二軍司令部(勢16400部隊)の情報班付の下士官らが、前年の12月8日、開戦二周年の日に到着しているので、ちょうど一ヵ月遅れの上陸だ。日高は第19軍司令部が置かれたアンボンに11月20日頃到着している。すなわち記述の通り、アンボンで第二方面軍(阿南惟幾大将)の兵団長会議に関与し、さらに第19軍から西部ニューギニア情報を収集していたものと推察さ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/26 19:03
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(9)
{%爆弾webry%}日高岩男大尉の遺品の中に、おそらく戦後祖国生還を果たした部下が持ち帰ったものと推定される、三枚のわら半紙がある。サイズが共に22 X 28cmの二枚には、日高自身が鉛筆で描いたスケッチ画。マンベラーモ川踏査中、最も長く滞在したローハール川とイーデンブルグ川の合流点に設けた拠点で描いたものと思われる。No.3と記された一枚は、緩やかに合流し、大河マンベラーモ川になる二つの川の様子が遠近法で描かれている。左端には宿舎、そして四本の大木、三本の椰子。青の色鉛筆でうっすら... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/27 18:39
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(10)
{%爆弾webry%}ロンベバイ湖(Danau Rombebai)は、マンベラーモ河口から直線距離で真南へ約39km。最新のLIPI(インドネシア国立科学院)調査によれば、マンベラーモ川本流から湖に繋がる二つの水路は、川の増水と減水に伴って、その流れの方向が変わるという。つまり、本流の増水時には、半島状水路を通じて水が湖に流れ込み、同時に北側の水路では湖の水が本流に向かって流出していく。逆に、本流の水位が下がると、半島状水路から本流に向けて水が流れ、一方北側の水路では、本流から水が流れ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/28 18:59
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(11)
{%爆弾webry%}日高少佐が描いたマンベラーモ河流域の行動地図にも、昭和昭和19(1944)年6月22日まで合流点にいたことが記されている。工作隊は四隻のカヌーで、6月23日午前一時、合流点を発った。以降、バタビア瀑布、エデー(エディ)瀑布、マリネ瀑布を突破して、7月3日、ロンベバイ湖西方に位置する小高い丘の八〇高地に到着した。ちなみに日高が描いた地図では、ここを四〇高地と記している。徳野が著書で書いた八〇高地が正しいのか、それとも日高の四〇高地か、今となっては真実を知る由もない。... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/29 18:17
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(12)
{%爆弾webry%}番号なしのスケッチ画の裏面中央には、日高少佐がヤピナ島攻略作戦を練った際に書いたと思われる楕円形のロンベバイ湖地図が描かれている。そして右下には島とカヌーの隊列とおぼしき図が。また、左端には、祖国から西部ニューギニアに至るまでの自らの行程と思われる書き込みもある。朝鮮半島、台湾、フィリイン、ハルマヘラ、アンボン、そして恐さ竜の形をしたニューギニア島が描かれてある。これらの図から何が読み解けるのか。 {%上昇webry%}番号無しのスケッチ画の裏面 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/30 17:55
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(13)
{%爆弾webry%}英国で1988年に初版が発刊された『Flying Cats The Catalina Aircraft in World War II』(Andrew Hendrie著・Airlife Publishing Ltd刊)には、ロンベバイ湖のヤピナ島へ、1944年7月31日、10名の連合軍兵士を救出すために、E.Wientjes大尉が操縦する米軍飛行艇(PBY)が派遣されたことが記録されている。同書は日本軍による奇襲攻撃に関して、約50名の日本軍が攻撃してきた。内、1... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/01/31 18:27
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(14)
{%爆弾webry%}さて、右下に描かれたヤピナ島とおぼしき楕円形と、○で示した、おそらく集結地点である倒木の脇に、カヌーと思われる図。計6隻ある。徳野明元曹長は、その著『鰐部隊とパプア人マンドル』で、ヤピナ島奇襲攻撃は、日高少佐以下16名、4隻の丸木舟で実行したと描かれている。これは、ロンベバイ湖図の、ヤピナ島の東南端に記された■マークの上に、6本の細い線が書かれていることから考えて、当初は計6隻での攻撃を計画していたのかもしれない。しかし、この6隻は、あくまでも計画を練った段階での... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/01 20:24
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(15)
{%爆弾webry%}日高少佐が描いた、番号なしのスケッチ画の裏面左半分には、日高が祖国日本を発ってから西部ニューギニアに至るまでの行程が、地図と共に書かれている。残り少ないわら半紙を節約したのか、兵要地誌情報をしたためた紙の裏面に、遥か日本から赤道を越えてやってきた西部ニューギニアまでの軌跡を、懐かしむように、記憶を辿るかのように、地図上に書き残している。鰐工作隊の部下への説明のために描いたのか、それとも望郷の念がふと脳裏をかすめたからなのか。エリート秘密戦士とはいえ、一人の人間とし... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/02 19:27
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(16)
{%爆弾webry%}この地図は、朝鮮半島の南に「上海」と記し、次に「台湾」、そして「ヒリッピン(フィリピン)」と続き、その南に「ハルマヘラ」があり、そこから矢印でアンボン方面へ向かった行程が描かれている。日高は、11月20日頃アンボンに到着したと、作戦行動図の裏面に記している。第二軍の行動記録によれば、昭和18(1943)年11月9日に釜山を出港した摩耶山丸、にぎつ丸は、同月14日、台湾の高雄到着、19日、高雄発、23日、フィリピンのダバオに寄港。ここではんぶるぐ丸に移乗し、27日、... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/03 16:42
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(17)
{%爆弾webry%}一方『鰐部隊とパプア人マンドル』の著者である徳野明元曹長の記述によると「そのとき(注:昭和19年1月頃と推定)、日高少佐(注:当時は大尉。少佐任官は昭和19年3月1日)が元気な姿をマノクワリに現した。軍が南進航行中、日高少佐(注:当時は大尉)はダバオでアンボンの第19軍に派遣されることになり、別行動をとっていたのであったが、いまその任務を終えて着任したのであった」とある。つまり11月23日にフィリピンのミンダナオ島のダバオで下船し、そこからアンボン島へ飛行機で向か... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/04 17:14
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(18)
{%爆弾webry%}日本から西部ニューギニアまでの行程を描いた地図には、□で囲んだ「7.24 27」、そして□のない「730」の数値がある。これらは地図とは無縁で、単に余白にメモ書きしたものと思われる。ちなみに「7.24 27」は、その字の通り「7月24日 27日」を指し、その日時、日高岩男少佐は、ヤピナ島攻撃を前に、ロンベバイ湖南西端の船着き場からおよそ200mほど離れた内陸部にあった鰐工作隊前進基地にいた。徳野明元曹長の著書『鰐部隊とパプア人マンドル』によれば、鰐工作隊は、昭和1... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/05 18:33
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(19)
{%爆弾webry%}この図面の中央には、恐竜あるいは亀の形とも言われた世界第二の巨島ニューギニア島が描かれている。亀頭部分には、おそらくソロンとマノクワリと思われる位置に●印がある。マノクワリの●印の上には消しゴムで削除したものの、薄っすらと「マノクワリ」の文字が。そして、その東側にビアク島が。この島の真上にもかろうじて「ビワク」と読める文字がある。ビアク島をビワク島と表記することは当時普通だった。これもおそらく消しゴムで消したものと思われる。ビアク島は、当時三つの飛行場がほぼ概成で... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/06 18:27
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(20)
{%爆弾webry%}サルミの左、つまり西側には太い線が縦に描かれ、それは途中から右と左へと分かれる。この線はまさに大河マンベラーモ川と、その上流部の支流であるローハール川(現在はTariku=タリク川)とイーデンブルグ川(現在はTaritatu=タリタウ川)を指し示している。しかも、その南には東西に走る山脈域が描かれ、特に中央部は濃い楕円形が記されている。そこは、おそらく鰐工作隊が初期に目指した中央高地のハッヘマ(ハベマ)湖周辺を示している。ちなみに、東部ニューギニア地域では、日本軍... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/07 10:28
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(21)
{%爆弾webry%}一つとせ、日本男子の健男児、故郷を離れて幾千里パプア奥地のマンベラモ ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/07 20:42
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(22)
{%爆弾webry%}六つとせ、結ぶ電波は空の上、ワクデの戦友(とも)はいかにぞと 叩く電鍵火花散る {%上昇webry%}海抜3225mに位置するハベマ湖。 ...続きを見る
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2017/02/08 18:18
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(23)
{%爆弾webry%}『日高岩男少佐シリーズ』だが、前号を受けて、マンベラーモ川合流点から出発して同大河を下り、ピオニルビバク付近までの過程を、日高少佐自身が描いたマンベラーモ川行動記録図に従って書こうと思い、色々な資料を調べていると、なんと、鰐部隊に急襲されたロンベバイ湖の連合軍前哨基地の隊員を救出に向かった、米陸軍航空隊第2緊急救助中隊(2nd Emergency Rescue Squadron)に関するネット情報に接した。と言うことで、今号はこの部隊について少し触れてみたい。 ... ...続きを見る
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2017/02/09 22:32
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(24)
{%爆弾webry%}米陸軍航空隊第2緊急救助中隊(2nd ERS=Emergency Rescue Squadron)の回顧ホームページには、昭和19(1944)年7月31日の救出劇に関して、以下のように記している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/11 10:35
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(25)
{%爆弾webry%}米陸軍航空隊第2緊急救助中隊(2nd ERS=Emergency Rescue Squadron)の記述によれば、日本側(日高岩男少佐率いる鰐工作隊)の兵力について50名(実際は16名)と記すなど事実誤認もあるが、連合軍側の勢力や負傷者の状況、そして日本側の3名の戦死(注:日高少佐、杉沢軍曹、村瀬兵長)などについては正確な記述もある。但し、日本軍による攻撃が「1944年7月29日の朝」と記述されている点は、記録が杜撰すぎる。実際には「1944年7月31日未明」の出... ...続きを見る
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2017/02/12 10:59
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(26)
{%爆弾webry%}米陸軍航空隊第2緊急救助中隊(2nd ERS=Emergency Rescue Squadron)に所属し、ロンベバイ湖に救助に向かった、「カタリナ(Catalina)」の愛称で呼ばれた、米陸軍航空隊シリアルナンバー「44-33875」の飛行艇・PBYの「OA-10A」型機は、Captain Gerard F. Wientjesが操縦していた。PBYは本来は米コンソリディーテッド社が開発、製造した飛行艇だが、「44-33875」は、ライセンス生産をしていたカナダの... ...続きを見る
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2017/02/13 11:04
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(27)
{%爆弾webry%}米陸軍航空隊第2緊急救助中隊(2nd ERS=Emergency Rescue Squadron)の戦友会のホームページには、同隊のミッション・リポートや思い出の写真が多数掲載されているが、その中で1944年7月31日の緊急救助活動に関し、負傷者の様子や救助の過程も記録されている。ロンベバイ湖のヤピナ島での戦闘においては、連合軍の前哨基地(水艇基地)を、日高岩男少佐率いる鰐工作隊が、自らの命と引き換えに、敗退させたわけだが、太平洋戦争という大きな枠内では、日本は無... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/14 11:34
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(28)
{%爆弾webry%}さて、話しを“マンベラーモ艦隊”に戻そう。日高岩男少佐自身が描いたマンベラーモ川流域行動記録図に沿って、鰐工作隊がマンベラーモ川合流点から出発して同大河を下り、ピオニルビバク付近、そしてロンベバイ湖ヤピナ島の連合軍水艇基地(前哨基地)奇襲攻撃に至るまでの過程だ。既述のように、鰐工作隊隊長の日高岩男少佐は、昭和19(1944)年5月4日〜6月22日、約50日間にわたって、合流点拠点に滞在し、両河川の流域偵察・調査を実施する傍ら、最終目的地の、白雪山脈こと中央高地のハ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/15 17:42
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(29)
{%爆弾webry%}「現在地点合流点は日高が守る。東方イーデンブルグ偵察隊長に徳野曹長、西方ローハル偵察隊長に小泉少尉、各々偵察隊長に命ず、出発は明日」。昭和19(1944)年5月31日、鰐工作隊(鰐機関・鰐部隊)の隊長である日高岩男少佐は、雪兵団(第36師団・田上八郎中将)司令部の命令に従い、マンベラーモ川の二つの支流一帯を調査すべく、二人の部下に偵察行を命じた。徳野明元曹長は、自著『鰐部隊とパプア人マンドル』によれば、翌6月1日、高谷上等兵、石田一等兵、インドネシア人軍警のユーヤ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/16 12:40
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(30)
{%爆弾webry%}マンベラーモ川の二つの大きな支流を踏査し、詳細な兵要地誌をまとめた鰐工作隊。合流点の拠点では、次なる目標、すなわち中央高地へ足を踏み入れ、最終目的地であるハベマ(ハッヘマ)湖に到達する大冒険行に向けて、日高岩男少佐を中心に計画が練られていた。一方、地元のブルメソ族との交流もさらに深化し、毎日のように付近の村人が拠点を訪ねてくるようになっていた。しかし、そんなある夜、サルミの雪兵団(第36師団・田上八郎中将)司令部から再び緊急電報が入った。内容は「敵はピオニルビバク... ...続きを見る
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2017/02/17 11:23
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(31)
{%爆弾webry%}マンベラーモ川最難関のバタビア瀑布における転覆事故によって、鰐工作隊は三名の犠牲者を出してしまった。犠牲者の慰霊祭は、昭和19(1944)年6月26日、日高隊長の手によって厳粛に執り行われた。この遭難事故を受け、日高岩男少佐は幹部を集め、対策を協議した。そして、徳野明曹長の案が採用されることとなった。すなわち、カヌーの使用は止め、筏で下るとする案だ。「バタビア瀑布(注:上流から見て五番目の最大落差の場所)を避け、その下流から出発します。そしてエデー瀑布の左を狙い、... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/18 11:16
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(32)
{%爆弾webry%}「その夜、薄暗いローソクの灯の下で、隊長を中心に幹部が集まり、地図を追って、次期進出拠点の作戦を練った。敵が飛行場を設定するには、マンベラモ両域と海岸線を避けるであろう。これらの地域が湿地帯であることは敵もじゅうぶんしょうちの上だ。とすれば、ファーレース山脈の北側だ。「現在地から四〇キロ下流左岸の八〇高地(日高少佐作成のマンベラーモ川流域行動地図上では「40高地」と表記)を偵察拠点とする」すでに隊長は予測していたのか、簡単に決断を下した」徳野明著『鰐部隊とパプア人... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/19 11:04
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(33)
{%爆弾webry%}「隊長殿、大型のカヌーが下ってきます。敵か友軍かまだわかりません」 上流の監視所から伝令の報告がはいった。「オーイ、オーイ」 叫ぶ声はたしかに日本軍らしい。服装も日本製にまじって赤茶色の服も見える。あれはインドネシア軍警だ。 拠点に着いたカヌーからは、軍刀を握りしめた男がまッ先に上陸してきた。 「アッ、新穂少佐殿だ。木田曹長もいる」 インドネシア人軍警もつづいた。 一行は第二軍司令部直轄部隊として、西部ニューギニアの最前線ホーランジア地区工作隊として派遣さ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/19 20:41
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(34)
{%爆弾webry%}「翌七月八日(注:昭和19(1944)年)、機関長(注:新穂智少佐)は連絡のため、下流の鰐機関本部へ出かけて行った。この警備隊(注:川上に設置された鰐工作隊の警備隊)も二、三日のうちに撤収して鰐機関に合流するというので、我々神機関も同行しようということで、その下準備に行ったのだ。小川の対岸に、鰐機関が残していった畑があって、茄子、パパイヤ等が生っていた。青いパパイヤを塩もみにしてお新香にしたり、茄子の味噌汁を作ったり、支給された米を食べて、久しぶりに人間らしい食事... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/21 11:16
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(35)
{%爆弾webry%}「鰐機関の兵舎の裏を二百メートルほど行くと、ロンベバイ湖の水辺に出る。入り組んだところなので、遠くの方は見えない。ということは遠くの方からもこちらが見えないから、水浴や洗濯するのには好都合なのだ。マンベラモ河とつながっているというが、マンベラモの濁流に比べ、ここの水は気味が悪いほど澄んでいる。かなり深そうだ。昆布のような長い藻が揺らめいているのが底の方までハッキリ見える。水温もマンベラモよりずっと低く、水浴には冷たすぎるくらいだ」---深津元衛生軍曹(注:昭和19... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/22 13:47
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(36)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年6月23日午前1時、マンベラーモ川上流の合流点を出発し、6月30日午前8時、最大難所のバタビア瀑布を発った鰐工作隊隊長の日高岩男少佐は、同日ピオニルビバク(注:現在のマンベラーモ・ラヤ県の県都カソナウェジャ=Kasonawejaと思われる)まで下った。そして、7月3日、ロンベバイ湖の西南西に位置する40高地(注:徳野明元曹長は80高地と表記)へ辿りついた。雪兵団(第36師団)の命令により、初期の目的地であるハベマ(ハッヘマ)湖進出を中止し、急... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/23 11:10
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(37)
{%爆弾webry%}ヤピナ島の敵水艇前哨基地に対する攻略作戦が、鰐工作隊の日高岩男少佐と神工作隊の新穂智少佐との間で協議されていた頃の、日高少佐の人柄を偲ばせるエピソードが、徳野著の『鰐部隊とパプア人マンドル』に記録されている。宣撫工作隊長としての極めて優れた資質・姿勢についての記述に溢れている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/24 22:25
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(38)
{%爆弾webry%}「鰐工作隊」付けの警備隊として拠点に残置された、第223連隊(吉野直靖大佐)の第11中隊(吉田正四郎大尉・1小隊欠)の藤井吉治少尉(注:秋田県八郎潟出身)率いる20名から成る第2小隊の行動に関して、『歩兵第二百二十三聯隊史』(昭和55年8月24日・秋田県雪部隊親交会発行)は、ヤピナ島攻略に出撃した四隻からなるカヌー部隊について以下のように記録している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/25 16:56
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(39)
{%爆弾webry%}イーデンブルグ(現タリタウ)川、そしてマンベラーモ川を下ってきた新穂智(さとる)少佐率いる36名から成る「神工作隊」が、ロンベバイ湖のヤピナ島にある米豪兵士から成る連合軍水艇前哨基地の攻略作戦を練っていた日高岩男少佐指揮下の「鰐工作隊」と合流したのは、昭和19(1944)年7月11日。以降、サルミにある、田上八郎中将指揮下の雪兵団(第36師団)司令部からの命令に基づいて、「神工作隊」は「鰐工作隊」の指揮下に入ることになった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/26 11:59
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(40)
{%爆弾webry%}「七月三一日(注:昭和19(1944)年7月31日)午前一時、暗夜の湖上を隊長のカヌーを先頭に、四隻(注:6隻との情報もある)の丸木舟は、第一の目標、孤島の南側に集結した。音も立てず、声も発せず、四隻のカヌーはただ寄りそってただよい、刻一刻と時の過ぎるのを待った。この深夜の静寂を破って、各舟艇長集合と、隊長の低い声が流れた」---第三舟艇長を務めた徳野明元曹長が自著『鰐部隊とパプア人マンドル』でヤピナ島攻略直前の状況を描く。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/27 21:04
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(41)
{%爆弾webry%}『「出発」ヤピナ島の上空、わずかな星の光をたよって、四隻の丸木舟は一列縦隊で、力強く前進を開始した。夜襲には絶好の闇夜だ。聞ゆるはただ四隻のカヌーのオールの水面をかくひそやかな音のみである』(『鰐部隊とパプア人マンドル』)。奇襲攻撃直前の空気を、徳野明元曹長はそう描く。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/02/28 16:19
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(42)
{%爆弾webry%}「もとの位置につけ」隊長の命令がきこえた。すでに同志打ちの危険があった。隊長はそれを懸念したのだ。隊長の命令を耳にしたわれわれは湖岸の方に退く。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/01 13:57
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(43)
{%爆弾webry%}このとき敵の銃座は、ふたたび火を吹いた。「オーイ、誰か手榴弾を持っているか」 「一発だけ残っております」 最左翼の村瀬兵長が手探りで私の手に渡した。「いいか、おれが銃座に投げ込んだら同時に突撃だ」 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/02 17:30
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(44)
{%爆弾webry%}敵機の爆音にフトわれにかえった。水上機がサッと着水していった。夜は白々と明けていた。ここはどこだ。「痛いよ、痛いよ」という声。寝ているのはカヌーのなかだ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/03 21:45
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(45)
{%爆弾webry%}あの裂皐の叫びがはっきりと耳に残っている。「小泉少尉は、誰か知らんか」 「ハイ、私が知っております」 そう言ってその兵隊は黙りこんだ。 「どうした」 「ハイ、小泉少尉は湖に転落行方不明になりました」 「お前見たのか」 「ハイ、パッと敵側から私にとびかかっていく者があったので、私は丸太で殴りつけました。すると“おれは小泉だ”とうめきながら湖にバシャンと転落しました。しばらくして敵の銃火が絶えたので、小泉少尉をさがしましたが、どうしても見当たらず、這い上がって... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/04 12:46
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(46)
{%爆弾webry%}こうして、四隻のカヌーが鰐工作隊の前進基地に戻ったのは、昭和19(1944)年7月31日の夕刻のことだった。終戦まではあと1年と半月。西部ニューギニア戦線では、まだまだ熾烈な戦闘が続いていた。拠点では、藤田忠輝軍医中尉や衛生兵によって直ちに負傷者の治療が始まった。時を同じくして、神工作隊の本多文雄憲兵曹長が兵四名と共にカヌーで、新穂智少佐率いる北方攻撃隊の拠点へ向けて伝令として出発した。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/05 10:57
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(47)
{%爆弾webry%}三十日夜半、ヤピナ島近くのジャングルの岸辺に集結した鰐機関の人々は、明日の夜までこんな所で待機していて、もし発見されたら水の泡だ、神機関の応援がなくても我々だけで十分攻撃は出来る、といって予定を一日早め、神機関に連絡することもないまま、その夜単独で攻撃を敢行した。なぜそんな決断をしたのかは不明だが、島の周囲には葦がたくさん生えていて、丸木舟がなかなか近づけない。闇の中で上陸地点を探し回っているうちに、先に上陸地点に達した二、三艘の乗員たちが、後続を待たずに喚声を上... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/06 16:22
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(48)
{%爆弾webry%}さて、再度、神工作隊隊長の新穂智少佐が、戦後、公判資料として書き上げた『西部ニューギニア横断記』の「第五部未完(自昭和19年5月27日至昭和19年6月6日)」の巻末備忘録から、昭和19(1944)年7月28日〜8月4日の「神工作隊」の動きを見てみよう。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/07 10:36
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(49)
{%爆弾webry%}さっそく遺体の捜索をはじめた。先ず第一に隊長の絶叫した地点を探した。そこにはまさしく、隊長の壮烈なる戦死を物語る変り果てた姿があった。正装した隊長の軍服からは、陸軍少佐の襟章がもぎ取られ、私が進上した小刀も、握りしめていた右手を開いて持ち去られていたことがわかった。全員は一列に並び、私の号令で黙?をささげた。敵弾は隊長の頭部額に二発、心臓のド真中に三発、さらに腹部に八発、いずれも貫通していた。その傷口からは早くも無数の小さな蛆がうようよと、うごきはじめていた。敵前... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/08 10:09
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(50)
{%爆弾webry%}私のそばで倒れた村瀬兵長の遺体がない。倒れたところから湖水に向って葦も草も、全部なぎ倒されている。不思議だ。かりに村瀬が這って行ったとしても、こんな大きな道はつくるわけがない。四人は草の倒れている先を見つめながらこの跡を追った。鰐だ、大鰐の仕業だ。砂浜に着いたわれわれはここで大鰐の足跡を発見した。鰐は村瀬の死体をくわえ、水際まで引きずり出して、ここで食いつくしたのだ。散乱している砂浜から想定してまちがいない。それにしてもなにか遺品が残っているはずだ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/09 10:18
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(51)
{%爆弾webry%}北方攻撃隊(注:新穂智少佐率いる神工作隊)は、約束どおりの日時にヤピナ島へ奇襲上陸したが、敵はすでに撤退していることを確認して帰還していた。私の戦死者確認偵察を待って、新穂少佐は電文を起草し、兵団司令部に打電した。「鰐工作隊は七月三一日払暁ロンベバイ湖ヤピナ島を奇襲攻撃し、該敵の拠点を覆滅せり、わが方の戦死日高少佐以下五名」敵を撤退させ、戦闘には勝利を得た。しかし日高隊長以下尊い戦死者を出した鰐工作隊員は、暗い表情におおわれてしまった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/10 19:31
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(52)
{%爆弾webry%}終戦後、サルミでは、武器弾薬はもとより私物もぜんぶ占領軍に没収された。そして毎日、占領軍の使役に駆り出された。 昭和21年にはいると、内地送還の話が決まった。そのとき、私は高価な時計をもっていた。この時計は、ニューギニアで亡くなった日高少佐のものである。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/11 21:04
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(53)
{%爆弾webry%}二人の行方不明者の内の一人が帰ってきた。残るは小泉少尉のみだ。三日も経過してから帰還した兵がいたことで、小泉少尉生存の可能性が急浮上した。 {%上昇webry%}昭和18(1943)年10月。西部ニューギニアへ出発前の日高岩男大尉と徳野明軍曹。日高は昭和19年3月、少佐に、徳野は昭和18年12月、曹長に進級 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/12 10:52
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(54)
{%爆弾webry%}ロンベバイ湖のヤピナ島にあった連合軍水挺基地に対する日高岩男少佐率いる鰐工作隊の奇襲攻撃。第二軍(豊嶋房太郎中将))情報班から鰐機関に配属された小泉雅少尉(青山学院大学卒・陸軍予備士官学校卒)は、攻撃時に4名から成る第二班の舟艇長を務めた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/13 12:27
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(55)
{%爆弾webry%}小泉元少尉は、『雪第三十六師団戦誌』(関東地区雪部隊慰霊会編さん委員会編集発行・昭和63年4月30日)に収められた『第二軍情報班について』の中で、第二軍隷下の大規模な情報班編成に触れ、神機関、虎機関、自らが属した鰐機関、龍機関、梅機関等に関して詳述している。その中から、小泉元少尉が日高岩男少佐指揮下で参加したロンベバイ湖のヤピナ島攻略作戦について以下抜粋したい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/14 14:09
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(56)
{%爆弾webry%}第36師団(雪兵団)の生還者らが著した『雪第三十六師団戦誌』(関東地区雪部隊慰霊会編さん委員会編集発行・昭和63年4月30日)には、神工作隊所属ながらも、鰐工作隊の南方攻撃隊に加わった「元特務工作隊通訳」の風見秀雄氏が綴った『ヤピナ基地攻撃に加わり詠める』と題する記述がある。長い文章だが、奇襲作戦の過程を読み取ることができる情景が詳細に描かれているので、ここで再現したい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/15 10:30
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(57)
{%爆弾webry%}〈元「神工作隊通訳」風見秀雄氏が詠む戦時雑詠〉 ...続きを見る
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2017/03/16 11:02
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(58)
{%爆弾webry%}〈元「神工作隊通訳」風見秀雄氏が詠む戦時雑詠〉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/17 11:33
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(59)
{%爆弾webry%}〈元「神工作隊通訳」風見秀雄氏が詠む戦時雑詠〉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/18 11:13
西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(60)
{%爆弾webry%}〈元「神工作隊通訳」風見秀雄氏が詠む戦時雑詠〉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
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西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(61)
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インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
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西部ニューギニア・ロンベバイ湖ヤピナ島に瞑る日高岩男少佐(62)
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インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36 ロンベバイ湖 インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
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