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zoom RSS 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ

<<   作成日時 : 2008/12/04 00:00   >>

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バボ(Babo)は行政的には、西パプア州(Propinsi Papua Barat)のビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)バボ郡(Kecamatan Babo)に属する。バボ郡の郡都だ。ビントゥニ湾県は、旧マノクワリ県(Kab. Manokwari)の分割によって2003年6月に誕生したばかり。県の面積はおよそ18,660km2で、人口は約42,000人(2004年)。バボ郡の人口はおよそ13,000人。間もなく(2008-2009年)始まる液化天然ガス(LNG)の輸出によって、莫大な資金が同県の歳入の柱になる見込みだ。ベラウ(Berau)並びにビントゥニ湾で発見された天然ガスは、世界最大規模とも謳われた。その確認埋蔵量は約14.4兆立方フィート。

両主翼をもがれた陸軍の双発爆撃機「一式陸上攻撃機」。周辺には水をたたえた丸いクレーターが。昭和19年(1944年)、東部インドネシア地域(豪北地域)で制空・制海権をほぼ失った状況下で、海軍バボ基地は連合軍の猛爆を浴びた。


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三井物産の2007.11.01付ニュースリリースによれば、タングーガス田の概要は以下の通り。
http://www.mitsui.co.jp/release/2007/1177684_1767.html

タングーガス田開発鉱区(確認埋蔵量14.4兆立方フィート)はインドネシア・西パプア州ビントゥニ周辺のベラウ湾からビントゥニ湾に拡がる地域に位置している。オペレーターはBPインドネシア。原料となる天然ガスはビントゥニ湾沖合に設置される2基の無人洋上プラットフォームにて生産され、パイプラインを通じてインドネシア・西パプア州トゥルック・ビントゥニに設置される陸上LNG液化プラントに供給される。年間760万トンの生産能力を有する2系列のLNG液化プラントからのLNG生産・供給開始は2008年末を予定。 タングーLNGプロジェクトにおける参加権益保有者は、BPインドネシア37.16%、中国海洋石油総公司 (CNOOC) 16.96%、MIベラウB.V.(三菱商事株式会社、国際石油開発株式会社)16.30%、日石ベラウ石油開発株式会社(新日本石油開発株式会社、独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)12.23%、ケージーベラウ石油開発株式会社(海外石油開発株式会社(三井物産株式会社連結子会社)、MIベラウジャパン株式会社(三菱商事株式会社、国際石油開発株式会社)、新日本石油開発株式会社、独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)8.56%、ケージーウィリアガール石油開発株式会社(海外石油開発株式会社(三井物産株式会社連結子会社)、独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)1.44%、エルエヌジージャパン株式会社(住友商事株式会社と双日株式会社の折半出資会社)7.35%となっている。タングーLNGプロジェクトは、中国海洋石油総公司により運営される福建省LNG受入基地向けに年間260万トン、韓国Kパワー社向け年間最大80万トン、韓国ポスコ(旧浦項製鉄)社向け年間55万トン、米国センプラ・エナジー社用メキシコ向け年間最大370万トンの4社との間でLNG売買契約を締結済み。



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太平洋戦争時、バボ基地に駐屯した日本軍は、目の前に、世界最大規模の天然ガスが眠っていることに気づく由もなかった。石油資源の確保を第一に、蘭印(今日のインドネシア共和国)へ兵を送ったわけだが、基地の前庭の海底に、巨大な資源が横たわっていたとは、何とも皮肉な話だ。そればかりか、日本軍は、およそ12,000名の尊い命を、このバボの東に位置するベラウ地峡付近で失っている。“死のイドレ(Idore)転進”と言われる、凄惨極まる悲劇の転進作戦だった(このイドレ転進作戦に関しては『地の果てに死す』元陸軍大尉植松仁作著。1976年図書出版社刊に詳しい)。
イドレ転進作戦は、昭和19年(1944年)7月に始まった。第二軍司令部(豊嶋房太郎中将)が置かれたマノクワリ(Manokwari)から、約12,000名の兵士がランシキ(Ransiki)、ムミ(Momi)などを経由して、ベラウ地峡のイドレ村へと向かった。この転進部隊の中には、インド人もいた。彼らは、日本軍によるマレー作戦の際、英軍インド兵だったが、日本軍のマレー半島占領に伴って、インド独立のために闘う独立軍に参加。しかし、どのような経緯だったのかは不明だが、マレーから遠く離れた西部ニューギニアまでやってきて日本軍と共に連合軍に対峙した。イドレに辿り着くことができた兵の数はわずか800名足らずとされる。米軍は、この死の行軍を“緑の地獄”と呼んだ。一方、陸軍が飛行場を設定中だったサガ(Saga)地区では、海軍第四南遣艦隊が海軍部命令によって飛行場群の造成に苦慮していた。湿地帯故に、造成が不可能であったが、命令に背くことはできなかった。このサガの眼前の海が、まさに今日天然ガスが産出されようとしている“資源宝庫”だった。



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衛星画像で見た現在のバボ。付近にある世界最大規模のタングー(Tangguh)ガス田の開発に伴い、街は拡大している。


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ベラウ地峡戦友会の会報『辺裸飢(注:ベラウと読む)』に掲載された戦時中のバボ概図には、当時のバボ基地の様子がイラストで克明に記されている。


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1977年に空撮されたバボ。長い滑走路は日本軍が建設したもの。短い滑走路は、蘭領ニューギニア石油会社が建設したもの。


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バボ(Babo)の旧日本軍基地の一角に1970年代後半まで残っていた零戦五二型。馬蹄形の掩体の中、ほぼ原形を留めている。左上に外れたカウリングが見える。戦時下、バボに駐屯していた電信24連隊の元兵士は『二千メートル滑走路の北側の端にある掩体壕に入っていた零戦ですね。基地にいた航空隊員は、部品が一個あれば飛べるんだが、と悔しがっていました』と語る。


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ビントゥニ湾(Kabupaten Teluk Bintuni)県が作成した資料によると、かつてバボ飛行場に散らばっていた旧日本軍の航空機は、現在、バボ郡(Kec. Babo)のタナメラ(Tanah Merah)村の南、サエンガ(Saengga)村の東に広がるサバンナ地帯(下の衛星画像のX印)に集結して置いてあるという(上の画像:ビントゥニ県パンフから引用)。同資料に掲載された画像から見る限り、ほんの一部と思われる。多くは、鉄くず、アルミくずとして取引されてしまったのかもしれない。サエンガには、タングーガス田の陸上LNG液化プラント基地がある


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【参考ブログ】


東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_2.html

マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html

マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

アチェに死す(2)Kuburan Warga Jepang di Aceh(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_4.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_4.html

パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_3.html

西パプア州政府(Provinsi Papua Barat)
http://www.papuabaratprov.go.id/

パプア州政府(Provinsi Papua)
http://web.papua.go.id/

マノクワリ県(Kabupaten Manokwari)
http://www.manokwarikab.go.id/

ヤーペン島嶼県(Kabupaten Kepulauan Yapen)
http://www.yapenwaropen.go.id

ビアク・ヌンホル県(Kabupaten Biak Numfor)
http://www.biak.go.id/

ソロン県(Kabupaten Sorong)
http://www.sorongkab.go.id/

南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan)
http://sorongselatankab.go.id/

サルミ県(Kabupaten Sarmi)
http://www.sarmikab.go.id/

ワローペン県(Kabupaten Waropen)
http://www.waropenkab.go.id/

ファクファク県(Kabupaten Fakfak)
http://www.fakfakkab.go.id/

ビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)
http://www.bintunikab.go.id/

ウォンダマ県(Kabupaten Teluk Wondama)
http://www.telukwondama.go.id/

カイマナ県(Kabupaten Kaimana)
http://www.kaimanakab.go.id/

ジャヤプラ市(Kota Jayapura)
http://www.jayapurakota.go.id/

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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}帝国海軍バボ(Babo)基地は、西部ニューギニア(蘭領ニューギニア)にあっては、昭和18年(1943年)の1〜3月時点において、日本軍がほぼ建設を終えた二つの飛行場の一つだった。もう一か所は、北部海岸のサルミ(Sarmi)の近く、ワクデ(Wakde)島に帝国海軍が造成した飛行場。ワクデ島は、小さな島で、東西方向に、島の端から端まで滑走路であった。この頃は、この二つの航空基地の他に、ホランジア(Holandia:現在のププア州の州都ジャヤプラ)に... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/05 00:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本の海軍陸戦隊が昭和18年(1943年)3月〜4月に、ニューギニア島の要所を占領する以前、西部ニューギニアは蘭領ニューギニア(Nederlands Nieuw Guinea)、そして東半分の北半分がオーストラリアの信託統治領(それ以前はドイツ領)、南半分がオーストラリア領(それ以前は英国領)だった。いずれにせよ、日本軍がこの世界第二位の巨島に兵を進めるまで、同島は欧州列強の植民地の歴史を刻んでいた。 日本軍が侵攻する以前、ビントゥニ湾(Te... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/06 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本の海軍陸戦隊が昭和18年(1943年)3月〜4月に、ニューギニア島の要所を占領する以前、西部ニューギニアは蘭領ニューギニア(Nederlands Nieuw Guinea)、そして東半分の北半分がオーストラリアの信託統治領(それ以前はドイツ領)、南半分がオーストラリア領(それ以前は英国領)だった。いずれにせよ、日本軍がこの世界第二位の巨島に兵を進めるまで、同島は欧州列強の植民地の歴史を刻んでいた。 日本軍が侵攻する以前、ビントゥニ湾(Te... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/06 00:03
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本の海軍陸戦隊が昭和18年(1943年)3月〜4月に、ニューギニア島の要所を占領する以前、西部ニューギニアは蘭領ニューギニア(Nederlands Nieuw Guinea)、そして東半分の北半分がオーストラリアの信託統治領(それ以前はドイツ領)、南半分がオーストラリア領(それ以前は英国領)だった。いずれにせよ、日本軍がこの世界第二位の巨島に兵を進めるまで、同島は欧州列強の植民地の歴史を刻んでいた。 日本軍が侵攻する以前、ビントゥニ湾(Te... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/06 11:49
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本の海軍陸戦隊が昭和18年(1943年)3月〜4月に、ニューギニア島の要所を占領する以前、西部ニューギニアは蘭領ニューギニア(Nederlands Nieuw Guinea)、そして東半分の北半分がオーストラリアの信託統治領(それ以前はドイツ領)、南半分がオーストラリア領(それ以前は英国領)だった。いずれにせよ、日本軍がこの世界第二位の巨島に兵を進めるまで、同島は欧州列強の植民地の歴史を刻んでいた。 日本軍が侵攻する以前、ビントゥニ湾(Te... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/06 11:50
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}まるで月の表面のような、大小様々なクレーター。それも、きちんと一列に並んでいるような箇所もある。水をたたえた、ラグーンの様な色をしたものもある。緑っぽく映るクレーターは草で覆われているのか。かすかに、直線の枠のような筋も見える。衛星画像に見るサガ(Saga:日本軍はそう呼んでいたが、現在同地にはサエンガ=Saenggaという名称が付いていることから察して、正しくはサエンガと発音すべきかもしれない。サエンガは現在、タングーガス田の輸出基地として巨... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/07 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}マノクワリ(Manokwari)は、西パプア州(Provinsi Papua Barat)の州都。人口は約15万。ここは、1855年2月5日、二人のドイツ人プロテスタント宣教師(Carel Willem Ottow・Johann Gottlob Gissler)が、目の前のマンシナム(Mansinam)島(注:日本軍は暁島と呼んでいた)に上陸して、同地にキリスト教を最初にもたらした、言わば“聖地”だ。西パプア州は、1999年の法律第45号による... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/08 18:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍司令部が置かれたマノクワリ。昭和19年(1944)4〜5月、連合軍が、日本軍の大飛行場群があった中部ニューギニアのホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ・Jayapura)を制圧、次いで、これまた日本軍の大飛行場群だったビアク(Biak)島を陥落させると、次はマノクワリへの上陸が高いとの判断に基づき、持久戦の態勢を整えるため、残った食糧との関連も含め、多くの兵を“転進”させることを決定した。7月初旬、マノクワリ駐屯... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/09 19:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17年(1942)年3月、日本軍(第16軍:司令官は今村均中将)はジャワ島に上陸、開戦92日目に、蘭印(オランダ領インドネシア)軍は降伏。同月末、大本営海軍部は、西部ニューギニアの要地を占領すべく連合艦隊に命令を下した。しかし、同年8月の連合軍のガダルカナル島上陸、それに続く、東部ニューギニア戦線の悪化。こうした状況下、大本営は、翌年(1943)8〜9月に「絶対国防圏」を固めた。すなわち南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/10 18:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二方面軍並びに第二軍が統帥を発動する以前、飛行場設定部隊はいち早く西部ニューギニアに入り、フォーゲルコップ(オランダ語でVogelkop)半島(注:この地を日本軍は亀地区と呼称した)で偵察・調査を開始した。この任にあたったのは第19軍(司令部はアンボン:司令官は冨永信政中将。隷下に第48師団や第5師団、第48師団など)の第二野戦飛行場設定隊(山本勝大佐)。同隊は昭和18年(1943)10月、マノクワリへ進出、レンダニ(Rendani)に一か所... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/11 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「上司より指示せられた処では、軍の決戦時期が到来したならば約二個飛行師団を軍の正面に使用することとなるであろうとのことであった。然るに事実は余りにも甚だしく之れを裏切られた。軍として主力を賭すべきビアク島の戦闘最盛時に於て、軍の正面に協力したのは飛行第七師団の二十機内外のものが数機に分れて攻撃を反復し、海軍の飛行隊の数機が之れに協力して居った程度で極めて微温的であった。従って戦況に余り影響を及ぼす迄に行って居らなかったことは、期待の大きかっただ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/12 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争の勃発からおよそ二ヶ月後、昭和17年(1942年)の2月初旬、大本営はニューギニア島の占領命令を下した。『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』(戦史業書:防衛庁防衛研修所戦史室著)によれば、「東部ニューギニアの要地をソロモン諸島要地と共に攻略し、豪州本土と同方面との連絡を遮断し、豪州東部北方海域を制圧すべし」との命令が、ラバウル方面占領の陸海軍部隊になされた。この命によって、日本軍は3月上旬、今日のPNG(パプアニュ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/13 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}“絶対国防圏”----日本と南方資源要域及び両者間の連絡地帯を防衛するための、必要最小限の要域圏であって、それより内には絶対に敵の作戦拠点獲得を許さないとする考え方(『戦史業書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦:防衛庁防衛研修所戦史室著』朝雲新聞社刊の第一編「西部ニューギニア方面陸軍航空主力の決戦準備」より)。昭和18年(1943)9月末に大本営が、南太平洋方面の確保を断念し、絶対国防圏を決定すると、西部ニューギニア地域の航空基地の確保はさらに... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/14 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}マノクワリからベラウ地峡のイドレに向けた、約12,000名の第二軍将兵による“緑の地獄”転進作戦が行われた昭和19年7月〜11月の一年以上前、ベラウ地峡では、同地に横断道路を建設しようとする日本海軍の調査が行われた。第二軍がマノクワリにやってくる10ヵ月前のことだった。昭和18年2月23日〜4月27日、海軍ニューギニア調査隊測量班(調査員:海軍軍属 駒澤幸男以下22名。警護兵6名、パラオ島民12名、パプア人苦力110名の計150名から構成)は、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/15 13:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍(マノクワリ:司令官は豊島房太郎中将)のイドレ(Idore)転進部隊約12,000名の将兵が、“地獄ヤカチ”そして“野たれヤカチ”と呼んだヤカチ(Yakati)地区---米軍は後に“緑の地獄”と名付けた。この地に、転進作戦前年の昭和18年(1943)2月〜8月、海軍ニューギニア調査隊が入った。フェールビンク(Geelvink)湾(現在はチェンドラワシ湾)からビィントゥニ(Bintuni)並びにベラウ(Berau)湾の間に位置する細長いベラ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/16 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和19年(1944)4月22日、日本軍が建設した三つの飛行場があるセンタニ(Sentani)の東方約45kmに位置するホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ)へマッカーサー大将率いる連合軍が上陸。続いて、5月18日、海軍が造成した飛行場(滑走路の長さは1,500m、幅120m)があったワクデ(Wakde)島への上陸。連合軍は、前日(5月17日)には、同島対岸の、日本軍第36師団(師団長田上八郎中将)司令部が置かれたサル... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/17 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団第70中隊がアンボン方面から飛来し、8月8日に行った偵察飛行記録によれば、その規模は、長さ1,850m、幅約200mが整地され、長さ850mの滑走路が概成していた。さらに8月13日の同中隊の司偵捜索によれば、同島には長さ1,500m、幅200mの滑走路が概成し... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/18 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ソロン(Sorong)はニューギニア島の西端に位置する人口およそ144,000人(2003年統計)の都市。元はフォーゲルコップ半島の西半分を占めるソロン県の県都だったが、2000年2月28日、ソロン県から分離してソロン市として行政独立。ちなみにソロン県は2002年二つの県に分割された。一つは11の郡から構成されるソロン県で、その人口はおよそ79,000人。もう一つが14郡から成る南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan=略称... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を命じた。そして同年11月14日、同部隊はソロンの向かい側にあるサラワチ(Salawati)島のサマテ(Samate)に上陸した。設定隊は9月に豊橋で新設された乙(半機械化)編成部隊で、定員は150名、これに台湾人で構成された特設勤労団が約1,000名加わ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/20 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}秋田県の南南西およそ4,360km。あるいは四国の室戸岬の真南約3,590km。西部ニューギニアの北およそ190km。そこに、太平洋戦史にもほとんど登場しない、忘れ去られた小さな島がある。その名をマピア諸島と言う。環礁の縁にできた四つの島から成る。この島で、秋田県で編成された帝国陸軍の一個中隊が玉砕を遂げている。歩兵第223連隊(注:秘匿名は「雪3524部隊」1942.7.24以降連隊長は吉野直靖大佐)の第7中隊だ。 『濠北を征く』によれば、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/21 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}紀伊半島の南端潮岬から真南へおよそ3,800km。赤道を少し超えた所にビアク(Biak)島がある。ここに戦時中、日本軍は大飛行場群を建設し“絶対国防圏”の要衝とした。しかし、昭和19年(1944)5月27日、連合軍が上陸。8月20日まで続く死闘が繰り返され、玉砕の島としてニューギニア戦線史に刻まれている。ビアク島は、当時、第二方面軍司令官の阿南惟幾大将をして「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで言わしめた、日本軍にとって戦... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/22 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本兵が、乏しい水補給の中、赤道直下の炎熱下、ツルハシとモッコで造成したモクメル(Mokmer)飛行場(現在はフランス・カイシエポ空港)、そしてソリド(Sorido:第三モクメル)とボロコエ(第二モクメル)飛行場。しかし、これら三つの飛行場は、当初想定した大規模航空部隊を迎えることなく、完成を間近に、連合軍の手に落ちた。昭和19(1944)年5月27日、ビアク支隊[主力地上戦闘部隊は、約3,500名の第36師団第222連隊(青森県弘前編成・当時... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/23 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}連合軍は、ビアク(Biak)島上陸に先立つ一ヶ月の間に、計1,260トンもの爆弾を、まさにスコールのように、1万を超える日本軍将兵の頭上に降らせた。これ以前、連合軍は、昭和19(1944)年4月22日ホランジアへ上陸、日本軍が造成した3個の飛行場を占拠、修復を施し、5月中旬には、ビアク島進攻基地として航空部隊が使用を開始した。また、日本軍第36師団(雪兵団)が司令部を置いたサルミ(Sarmi)の東海上に浮かぶワクデ(Wakde)島にも5月18日... ...続きを見る
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2008/12/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「玉砕の島」の「玉砕の洞窟」。ビアク島の凄惨な戦いのシンボルが“西洞窟”だ。この西洞窟は、今ではビアク島随一の観光スポットと化している。それはちょうどハワイの真珠湾とアリゾナ記念館観光とも似ている。ビアクを慰霊で訪れる外国人は、やはり日本人が多い。そして必ず、西洞窟で祈りを捧げる。確かに、洞窟は、戦争初期においては、籠った多くの日本軍将兵の命を、敵軍の艦砲射撃や空爆から救った。しかし、制海権そして制空権をほぼ完璧に抑え、圧倒的優位に立つ軍事力で... ...続きを見る
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2008/12/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25)B
{%空港(ユラユラ)hdeco%}赤道のほぼ真下、南緯1度、東経136度に位置するビアク(Biak)島は、足の形によく似た島だ。島の南岸が踵(かかと)、そして東端がつま先にあたる。島の北側1/3は山岳地帯、残りは台地状。珊瑚礁が隆起してできた島で、特に南岸一帯には鍾乳洞が数え切れないほどある。日本軍が三つの飛行場を設定した、モクメル(Mokmer)村西方一帯は平地だが、飛行場地帯の東側海岸は、断崖絶壁の台地が続く。雨季は別として、乾季には水の確保が深刻な問題となる。連合軍が上陸... ...続きを見る
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2008/12/26 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ビアク(Biak)島の玉砕戦が余りにも有名で、その戦史に隠れがちだが、西隣にあるヌンホル(Numfor)島でも、実は壮絶・凄惨な戦いが繰り広げられた。しかも、ビアク島同様に、大本営は、この勾玉のような形をした小さな島に飛行場群を造成した。その数4基地。当初、日本軍は、西部ニューギニア本島のフェールヴィンク(Geelvink)湾の北側に点在するスハウテン(Schouten)諸島に飛行場を建設することに消極的だった。しかし、調査を進めるうちに、飛行... ...続きを見る
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2008/12/27 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ヌンホル島に日本軍の航空基地が完成・概成するやいなや、まさにビアク島の戦い同様に、連合軍は、事前の猛空爆に次いで、1944年7月2日、ヌンホル島に上陸してきた。エドウィン・パトリック(Edwin D. Patrick)少将率いる米第158戦闘連隊は、カメリ飛行場近辺の海岸に上陸。この前日(7月1日)、ヌンホル守備隊の上部組織である第二軍(在マノクワリ。豊島房太郎中将)は、連合軍のマノクワリへの上陸の可能性大とみて、司令部並びにおよそ半数の部隊の... ...続きを見る
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2008/12/28 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フェールヴィンク湾周辺では日本軍占領当初、陸海軍合計17個の飛行場設定が計画されたが、昭和18(1943)年8月時点で完成していたものはナビレ(Nabire)の海軍飛行場1個のみだった。この飛行場はその規模が、長さ1,200m、幅60mで、1943年4月15日に戦闘機用として、そして5月17日に中攻(中型陸上攻撃機)用として完成していた。ちなみに、第二軍がマノクワリに進駐する前年(1943)までに、海軍並びに陸軍第5師団が占領する西部ニューギニ... ...続きを見る
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2008/12/29 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}富士山から真南へ約4,117km。世界で二番目に大きいニューギニア島の北岸に位置するサルミ(Sarmi)がある。現在はインドネシア最東端のパプア州サルミ県の県都が置かれている。同県は2003年4月12日、ジャヤプラ(Jayapura:旧ホランジア)県から分離して新たな県となった。面積およそ17,740km2。10郡、84の村から構成され人口は約32,700人。サルミと言っても現在の日本人の多くにとっては、まず馴染みのない地名だが、東北地方のお年... ...続きを見る
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2008/12/30 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)
{%上昇webry%}現在のサルミ半島部(衛星画像)。 ...続きを見る
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2008/12/31 00:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大本営は、昭和18(1943)年8〜9月頃「絶対国防圏」構想を固めた。要点は、南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラインを、国防上必要最小限の要域としたことだ。この決定に基づいて、南方軍隷下に第二方面軍(司令部はフィリピン・ミンダナオ島のダバオ:阿南惟幾大将)が新たに創設され、第二軍(豊島房太郎中将)が同年12月、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置いた。第二方面軍も第二軍も共に中国... ...続きを見る
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2009/01/02 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊島房太郎元第二軍司令官が『濠北を征く』の「第二軍の作戦一般」で述懐しているように、西部ニューギニアに進駐した第二軍は、遥か中国大陸から赤道直下の戦場(予定地)へ到着するやいなや、飛行場の建設に全精力を傾けた。まさに飛行場は「軍の任務達成の為の生命と心得ていた」。第二軍は、決戦時期が到来したのならば、大本営が約2飛行師団を送り込んでくるものと信じていた。「斯て半歳に至つて心血を注いで造成した飛行場も、大部分のものは我軍の利用する処とならず、敵を... ...続きを見る
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2009/01/03 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ワクデ(Wakde)島の飛行場は、昭和18(1943)年半ばには、長さ1,300m、幅120mの滑走路が完成していた。同島は前年の4月、日本海軍によって占領された。この飛行場は、海軍の第103設営隊(山田誠海軍技術少佐)が造成・整備したもので、同隊は1943年1月30日に上陸し、2月23日には滑走路が完成し、航空部隊が進出してきたとされる。この設営隊は重機も動員し、その結果わずか25日間で滑走路の急速設営を成し遂げた。 米軍の偵察飛行よれば、... ...続きを見る
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2009/01/04 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}サルミ(Sarmi)における日本軍と連合軍の対峙は、太平洋戦争において、戦術・戦略的な側面から見て、制空権と制海権がどれほどまでに勝敗を決定づけたかを物語る好例だろう。飛行場の早期建設を至上命題に、死に物狂いでその任務を達成するものの、その飛行場の存在そのものが自軍を玉砕状況に追い込んでいった。その光景を、仮に、眺めていた地元のパプア人がいたとしたならば、おそらく彼は、彼女はきっとこう目撃談を語るだろう。 ...続きを見る
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2009/01/05 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}飛行場は陸上とは限らない。西部ニューギニアの中央高地にある幾つかの湖は、大本営をして、水上基地として、そしてその周辺部は陸上の飛行場として注目された。昭和18(1943)年12月1日、第二方面軍(阿南幾惟大将)がフィリピン・ミンダナオ島のダバオで、そして第ニ軍(豊島房太郎中将)がマノクワリで統帥を発動する直前、アンボン(10月末)そしてマニラ(11月中旬)で、大本営派遣班も交え、現地部隊との会合が持たれ、第二方面軍並びに第ニ軍の作戦計画が練られた。... ...続きを見る
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2009/01/06 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側面も含めて、その全てを把握する、いわば総合学術探検の顔も持っていた。オランダやドイツ、英国そして豪州などは、古くからニューギニア島を植民地分割し、それなりに同島に関して情報を有していた。しかし、日本はそうではなかった。もちろん、明治時代より、単身、この地... ...続きを見る
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2009/01/07 00:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能であれば飛行場を建設する旨、下命した。これに基づいて、第36師団指揮下の日高岩男少佐を隊長とする『鰐工作隊』は、昭和19(1944)年2月中旬、サルミ(Sarmi)を発って、マンベラーモ(Mamberamo)川を遡上し、ハベマ(Habema)湖方面へと向かった... ...続きを見る
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2009/01/08 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解体され、第26海軍建設部が設立された)。この海軍民政府の要請に基づいて、昭和18(1943)年、学者を中心とした編成で、「海軍ニューギニア調査隊」が西部ニューギニア各地で地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。当然のことながら、この第... ...続きを見る
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2009/01/09 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師... ...続きを見る
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2009/01/09 18:05
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋辯大佐)を、昭和18(1943)年2月19日、ミミカ(Mimika・現在はTimika)へ向け、次いで、翌々日の21日、歩兵第21連隊(原田憲義大佐)をアルー(Aru)諸島へ向け、スラバヤ港から出発させた。また第19軍司令官の冨永信政中将自身も2月19日、アン... ...続きを見る
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2009/01/10 23:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、それで日本軍には楽観論もあった。例えば、同年8月上旬、第5師団のバンダ海での部隊展開が順調に進んでいることを踏まえ、第5師団長の山本務中将は「現在の空海状況が一年続けばこの戦争に日本は勝つ」と日誌に記したとされる。この頃、日本軍は、西部ニューギニアでは、北岸ではホランジ... ...続きを見る
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2009/01/12 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(42) Bandara Dai Nippon(42) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「飛べども飛べども果てしなく続く大密林、積乱雲、白雪の雪山山系」----第19軍の河村高級参謀は、西部ニューギニアで空中偵察した感想をそのように述べている。西部ニューギニア戦に参加し、好天に恵まれ、雪を抱くカルステンツ(Carstensz)峰(4884m)を望めた体験を持つ戦闘機や爆撃機の操縦者は少なくないだろう。赤道直下で見た冠雪の高峰に、富士山を想いおこし、あるいは祖国日本に想いを馳せたのかもしれない。マノクワリ(Manokwari)の演芸... ...続きを見る
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2009/01/12 23:57
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(43) Bandara Dai Nippon(43) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアが独立後、依然オランダ領として残った西部ニューギニア(当時のインドネシア名は西イリアン=Irian Barat。インドネシア併合後から2005年までイリアンジャヤ=Irian Jaya。現在はパプア)の“解放”を旗印に、1961年オランダ軍との武力衝突を始めた翌1962年1月5日、ハインリッヒ・ハーラー(Heinrich Harrer:1912年7月6日&#8211;2006年1月7日)は、東部ニューギニアのラエから飛行機でホランジ... ...続きを見る
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2009/01/13 23:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(44) Bandara Dai Nippon(44) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}1623年、オランダ王室に仕える航海者ヤン・カルステンツ(Jan Carstensz:Jan Carstenszoon)は、アラフラ海を航海中、偶然、北の山脈に雪を抱く峰々を目撃した。雲に覆われることが多い中央山脈だが、その日は幸運にも快晴だったのだろう。カルステンツはペラ号とアルンハイム号の二隻を率いてアラフラ海を航海中だった。帰国後、“赤道直下の雪山”のことを話した。しかしヨーロッパで彼の言葉を誰も信じる人はいなかった。それからおよそ300... ...続きを見る
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2009/01/14 22:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(45) Bandara Dai Nippon(45) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアそしてオセアニア地域で最高峰のジャヤ峰(Puncak Jaya:カルステンツ・ピラミッド=Carstensz Pyramid:4884m)。その“脇腹”で発見された、世界最大級の銅、金、銀鉱山。発見は1936年末。オランダ王立地理学協会(Royal Netherlands Geographical Society=RNGS)がスポンサーとなり、カルステンツ峰初登頂を目指した登山・探検隊(A.H.コライン(Colijn)博士を隊長に、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/15 22:33
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(46) Bandara Dai Nippon(46) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「2月10日、午前中は氷河の測量で過した。その結果は驚くべきもので、25年間に、カルステンツ氷河は452m後退し、メーレン氷河は745mも後退していた」----1936年末、オランダ王立地理学協会(RNGS)が派遣した、A.H.コライン(Colijn)博士を隊長とする登山・探検隊がカルステンツ山群に入った時の報告と比較して、1962年2月、カルステンツ・ピラミッド(Carstensz Pyramid:ジャヤ峰=Puncak Jaya:4884m... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/16 22:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシア共和国の最東南端に位置するパプア州(Provinsi Papua)のメラウケ(Merauke)県は、東経141度ラインで隣国PNG(パプアニューギニア)と接し、トレス海峡を挟んでオーストラリアに隣接する。かつてのイリアンジャヤ(Irian Jaya)州時代は、同州最大の県であったが、2002年法律第26号に基づいて4県への分割が決まり、県の規模は縮小を余儀なくされた。メラウケ県以外の3県は、ボーヴェン・ディーグル県(Boven Di... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/17 23:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}中部ニューギニア北岸の要衝・ホランジア(Hollandia・現在のジャヤプラ)は、ガダルカナル島撤退と並ぶ、太平洋戦争における日本軍の象徴的敗北の一ヶ所となった。昭和19(1944)年4月22日、連合軍は意味ある抵抗を受けることなく、同地に上陸、西方のセンタニ(Sentani)湖周辺にあった日本軍の3個の飛行場を占拠した。また、ジャヤプラ近郊ですでに概成していた別の飛行場も占拠。 ホランジアは、1910年3月7日、オランダ人船長Sachseに... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/18 21:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍(海軍陸戦隊)がホランジア(現ジャヤプラ)を占拠したのは開戦四ヵ月後の昭和17(1942)年4月。ホランジアの西およそ40kmには大きなセンタニ(Sentani)湖があり、その北側には平地があり、ここが飛行場の設定に適していた。ビントゥニ湾のバボ(Babo)飛行場や西端のソロン(Sorong)のエフマン飛行場などのように、戦前からオランダが作った滑走路があり、日本軍が上陸後に拡張整備した飛行場もあるが、西部ニューギニアで日本海軍が新たに造... ...続きを見る
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2009/01/19 22:26
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人、オーストラリア人、インドネシア人、そして地元のパプア人で構成されていたという。内、5名は帰還しなかった。1944年4月21日、早朝、突如、米海軍艦載機グラマンの第一陣がセンタニ湖上空に姿を現した。日本軍機で離陸できたものは6機。しかし、1機が無事帰還し... ...続きを見る
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2009/01/20 22:57
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(51) Bandara Dai Nippon(51)ケイ諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バンダ海に展開していた第16軍隷下の第48師団(海兵団:土橋勇逸中将)の任務を継承する形で、昭和18(1943)年2月、第19軍(冨永信政中将)隷下の第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、バンダ海域のアルー諸島、ケイ諸島、タニンバル諸島を占領し、北部オーストラリアに対する作戦を準備するため、東部ジャワのスラバヤから東へ向かった。第5師団の杉浦支隊(歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)は、これに先立ち、ジャワの第16軍(治集団)司令官原田熊吉中将から命令を... ...続きを見る
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2009/01/21 22:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(52) Bandara Dai Nippon(52)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島はかつてマルク州東南県(Kabupaten Maluk Tenggara)の一角を占めていたが、2004年初旬、アルー諸島県(Kabupaten Kepulauan Aru)として分離、新生県として独り歩きを始めた。ニューギニアの南西部、アラフラ海に浮かぶアルー諸島は古くから真珠養殖で知られていた。19世紀中頃から多くの日本人潜水夫がアルー諸島に渡った。アルー諸島県には合計187の島があるとされる。大きな島は、北からウォカム(Woka... ...続きを見る
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2009/01/22 23:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(53) Bandara Dai Nippon(53)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島本島の最南端に位置するトゥランガン(Trangan)島南東海岸付近のシア(Sia)に2個概成し、未だドカ飛行場の設定が始まる前、昭和18(1943)年6月、第5師団を隷下に置く第19軍の作戦主任参謀である皆元勝雄中佐は、自ら偵察機を操縦して、タニンバル諸島、そしてアルー諸島を訪れた。目的は、現地を指揮する西原修三大佐(タニンバル諸島防衛隊長・第5師団歩兵第42連隊長)と原田憲義大佐(アルー諸島防衛隊長・第5師団歩兵第21連隊長)と直接... ...続きを見る
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2009/01/23 23:23
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(54) Bandara Dai Nippon:54タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年3月末〜4月中旬、海軍陸戦隊は西部ニューギニアで、ファクファク、バボ、ソロン、テルナテ、マノクワリ、ムミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホランジアなどを占領した。ちなみに当時、陸軍部隊は西部ニューギニアには展開していなかった。さらに同年7月30日、海軍の第24特別根拠地隊は、バンダ海・アラフラ海で、アルー諸島、タニンバル諸島、ケイ諸島の攻略作戦を実施した。これ以前の戦況はと言えば、6月5日〜7日、ハワイ西方のミッドウェー海戦で、... ...続きを見る
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2009/01/25 17:10
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(55) Bandara Dai Nippon:55タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タニンバル諸島セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。『セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最... ...続きを見る
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2009/01/26 00:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(56) Bandara Dai Nippon(56)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、蘭印(オランダ領インドネシア)攻略作戦の緒戦として、まずボルネオ(現カリマンタン)東部の油田地帯であるタラカン(Tarakan)島と、セレベス(現スラウェシ)島北端のマナド(Manado:メナド)に対する上陸作戦が開始された。タラカン島には第16軍(今村均中将)隷下の坂口支隊(坂口靜夫少将指揮下の混第56歩兵団。歩兵第146連隊、装甲車隊、野砲兵第56連隊第1大隊などを基幹。兵力は5,200名、馬1,200頭、... ...続きを見る
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2009/01/27 23:38
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるように、この地域は3世紀以上にも及ぶ被植民地支配の歴史を刻む。7世紀、中国では唐の時代、すでにマルク(Maluku)地域の香料を求めて中国船が来航していた。そして9世紀にはアラブ商人もやってきた。インドネシア史によれば、12世紀にはスマトラ島南部のスリウィ... ...続きを見る
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2009/01/28 22:40
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。アンボン島の東隣のハルク島にも、陸軍は飛行場を新たに建設した。リアン(Liang)飛行場同様に、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)担任で、第28飛行場大隊が、昭和18(1943)年9月末、長さ1,400m、幅80mの滑走路を概成し、年末には掩体施設もお... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/29 23:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(Liang)飛行場を手がけた、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)隷下の第38飛行場大隊が担当。ハルク飛行場の着工とほぼ同時期に造成がなされた。昭和18(1943)年10月中旬には概成し(長さ1,200m、幅100m)、軽爆撃機が使用可能となった。その後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/30 22:32
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、も... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/31 22:17
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万人を超える人々が送り込まれた“監獄島”だった。B級政治犯とされた作家プラムディア・アナンタ・トゥル(Pramoedya Ananta Toer)も10数年間、ブル島で拘留生活を過した。ブル島のナムレア(Namlea)には開戦前に、すでにオランダ軍が建設し... ...続きを見る
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2009/02/01 21:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分は、“中立国”であるポルトガル領だったからだ。一方、ティモール(Timor・チモール)島は、いわゆるABCD包囲網にあって、ジャワ島攻略作戦を実施する上で、蘭印と豪州とを分断・遮断するために、日本軍にとって制圧しておきたい要地だった。 当時、大本営は、... ...続きを見る
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2009/02/03 19:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ陸軍空挺部隊(挺進第2連隊・甲村武雄少佐)を降下させ、精油所などを制圧した。翌日、第16軍(今村均中将)隷下の第38師団(沼兵団・佐野忠義中将)は、ムシ川、テラ川、などを遡上してパレンバンに上陸。2月19日、金村支隊(第48師団の台湾歩兵第1連隊第3大隊... ...続きを見る
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2009/02/04 17:44
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プトン飛行場(現エルタリ空港)は海軍が修復した後(2本の滑走路があった)、昭和17(1942)年3月中旬から、まず海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)がオーストラリアのダーウィンを始めとする北部エリアに対する空爆基地として使用した。そのすぐ南には、第4飛行場設... ...続きを見る
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2009/02/05 21:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ上陸。同日未明、東方支隊隷下の第38師団歩兵第228連隊(土井定七大佐)の連隊長指揮下の第2大隊基幹(木村榮次郎少佐)が、同島東半分のポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)進攻作戦を開始した。第二次世界大戦で“中立”を表明したポルトガルの主権... ...続きを見る
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2009/02/06 20:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(67) Bandara Dai Nippon(67)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)の東部、ラウテン(Lautem)に日本軍が造成した飛行場は、いわゆる“秘密飛行場”だった。同地は、昭和17(1942)年の9月頃から第3飛行集団(菅原道大中将)隷下の第3飛行団長(塚田理喜智少将)が、指揮下の第73中隊(九九式軍偵察機)に命じて行った空からの偵察活動によって見つけた平らな高原地帯だった。そして、陸軍の第9野戦飛行場設定隊(河端融少佐)が、第4航空地区の陸上勤務隊の協力も得て、昭和... ...続きを見る
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2009/02/07 19:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭和18(1943)年4月20日、ポルトガル領ティモールのディリからフローレス(Flores)島へ移った。そして同年5月16日、バビ(Babi)島の対岸の本島に陸軍主用の飛行場を完成させ、そして翌6月19日、マウメレ(Maumere)にも飛行場を概成させた... ...続きを見る
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2009/02/08 20:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表した。それによれば、小スンダ列島では、スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)に1ヵ所(海軍担当で概成)、さらにスンバ島に海軍担当で第1〜第4の計4ヵ所の新設。さらに陸軍担当でスンバ第5〜第6を新設。そしてスンバワ(Sumbawa)島では、ビ... ...続きを見る
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2009/02/09 18:23
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satarta... ...続きを見る
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2009/02/10 22:51
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前線諸島(アルー=Aru、ケイ=Kei、タニンバル=Tanimbar諸島)を陸軍の警備地域と決めると、陸上の防衛は主として陸軍が、海域・航空防衛は主として海軍が担当することになった。さらに同年12月、大本営が、ティモール(Timor)島を含めスンダ海一帯を... ...続きを見る
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2009/02/11 20:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合軍の反撃拠点となったオーストラリアと対峙する小スンダ列島でも、日本軍による飛行場の設定が急がれた。ティモール島と同様に、スンバ島、フローレス島、スンバワ島、バリ島などで幾つもの滑走路が新設された。 昭和18(1943)年9月、大本営陸軍部の命令で、内地... ...続きを見る
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2009/02/12 20:44
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島を除く)同様に、当初は海軍の作戦・管轄エリアだった。昭和17(1942)年5月、海軍第16戦隊指揮下の部隊と共に、ジャワ島を占領していた第16軍(今村均中将)隷下の第48師団(海兵団・土橋勇逸中将)の第47連隊第3大隊(宮地育三小佐)が、10日、ロンボク... ...続きを見る
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2009/02/13 19:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新設飛行場を開いた。そしてスンバワ島では、海軍が2個(ビマとランバン=現スンバワ・ブサール)造成した。 ...続きを見る
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2009/02/15 21:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第一位の誉に輝いたのは日本人。その数、359,827人。全体の18,06%を占める。この数値は、前年比で見ると、2.21%(7,789人)の増加だそうだ。ちなみに、第二位はオーストラリア人観光客で、その数313,313人(見事な並びの数値!)。これは、前年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/17 18:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(76) Bandara Dai Nippon(76)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}現在は北マルク州(Propinsi Maluku Utara)に属するハルマヘラ島(Pulau Halmahera)で、日本軍は判明しているだけでも計11個の飛行場を造成・設定した。昭和18(1943)年9月末に合意された中・南太平洋方面作戦陸海軍中央協定によれば、当初ハルマヘラ島では、海軍がカウ(Kaoe/Kao)に2個、陸軍がガレラ(Galera)、ワシレ(Wasile)、ジャイロロ(Djailolo)、そしてラブハ(Labuha)に計4個... ...続きを見る
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2009/02/18 22:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(77) Bandara Dai Nippon(77)ミチ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年中旬には、白木久雄工兵中佐指揮下の南方軍派遣隊の手で、すでにハルマヘラ島で基地建設が始まっていた。ハルマヘラ、北セレベス(スラウェシ)、サンギヘ、タラウド方面の基地建設と防衛を担った陸軍の第1野戦根拠地隊司令官(武田壽少将)は、フィリピンのマニラで第2方面軍(阿南惟幾大将)の命令を受け、昭和18(1943)年11月、ハルマヘラ島北部のガレラ(Galera)経由で、ワシレ(Wasile)に到着、同司令部を開設した。揚陸施設、... ...続きを見る
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2009/02/19 22:54
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(78) Bandara Dai Nippon(78)ワシレ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ガレラ(Galera)飛行場の一つの滑走路(長さ1,500m、幅100m)は、武松派遣班の手で昭和18(1943)年9月概成され、富臨時第1設定隊(注:第25軍から派遣され、同年12月末、第120野戦飛行場設定隊となる)の工事継続によって完成した。この設定には、地元住民千数百名が動員された。第120設定隊は、続いてガレラ第2滑走路(長さ1,500m、幅100m)の造成に着手、さらに、武松派遣班が着工したミチ飛行場の設定も担当した。一方、カウ(K... ...続きを見る
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2009/02/20 18:27
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(79) Bandara Dai Nippon(79)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和19(1944)年初頭、カウ(Kaoe/Kao)には、海軍の第26特別根拠地隊司令部が置かれ、前年(1943)10月10日編成の、第4南遣艦隊所属の海軍第224設営隊(大津敏春技術大尉)や第102海軍施設部などの手で飛行場1個が概成し、さらに第2滑走路の造成に着手していた。『海軍設営隊の太平洋戦争(佐用泰司著・光人社)』によれば、ハルマヘラ(Halmahera)島に派遣された海軍設営隊は以下の通り。昭和17(1942)年3月20日編成の、連合艦... ...続きを見る
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2009/02/21 19:54
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(80) Bandara Dai Nippon(80)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ハルマヘラ島周辺部の防衛を目的に、昭和19(1944)年5月初旬上陸した第32師団(石井嘉穂中将)の地上部隊配備は、海軍第26特別根拠地隊司令部が置かれたカウ、そして第1野戦根拠地隊司令部が置かれたワシレの両湾周辺部に集中していて、モロタイ(Morotai)島には第2遊撃隊(川島威伸少佐・台湾の山地出身兵で編成・4個中隊約450名)のみが配備された。この背景には、昭和19(1944)年7月4日の第2方面軍(阿南惟幾大将)の戦略判断があった。同方... ...続きを見る
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2009/02/22 21:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(81) Bandara Dai Nippon(81)ハルマラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スラウェシ島のミニ版とも映る“K”字形のハルマヘラ島。島の至るところに日本軍が飛行場を造り、大本営が略して「春(ハル)」とも呼んだ地は、まさに島全体が“戦争博物館”。モロタイ島の南部には“星条旗”にも喩えられる形の、連合軍が建設した巨大飛行場跡も残っている。そこで、北マルク州(Propinsi Maluku Utara=Malut)の各県は、これら「兵どもが夢の跡」をマリンリゾートと並んで観光の目玉に掲げている。 これはハルマヘラ島に限ったことで... ...続きを見る
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2009/02/23 19:09
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(82) Bandara Dai Nippon(82)モロタイ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}連合軍は、昭和19(1944)年9月15日、モロタイ島最南端のギラ(Gila)岬付け根付近のピトゥ(Pitoe)に上陸、17日には島東南のサンゴウォ(Sangowo)、島中西部のワヤブラ(Wajabola)、ティライ(Tilai)に上陸した。19日には、島最北端のソピ(Sopi)岬、パダンギ(Padangi)付近へ上陸、さらに21日、モロタイ島西部に浮かぶラウ(Raoe)島へも上陸を果たした。ピトゥには後に、上空から見るとあたかも星条旗のような... ...続きを見る
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2009/02/24 18:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(83) Bandara Dai Nippon(83)モロタイ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「珊瑚礁が突起して出来上がった南方の島々で、普通の土地のように土を掘って、艦砲射撃に対抗し得るような防禦陣地が出来ると思って居たのは、大変な不覚で、之は容易なわざでないということが、上陸早々気がついた。(中略)モロタイというハルマヘラ北方の湾内を扼して居る小さな島は、戦略的にはどうしても保有したいという部隊長としての希望と、右の事情は、私を大に煩悶せしめた。(中略)この時方面軍から、モロタイを捨てハルマヘラ本島保有に専念すべき旨の命令があったの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/25 18:39
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(84) Bandara Dai Nippon(84)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}東部インドネシアの島々に多くの飛行場を設定した日本軍は、連合軍の反撃を遅らせるために、オーストラリア北部を中心に建設された連合軍の飛行場に対する空爆を繰り返した。日本軍による初めての対豪爆撃は、艦載機約100機による昭和17(1942)年2月19日のダーウィン(Darwin)に対する攻撃だった。その翌日、日本軍は、蘭領ティモール島のクーパン(Kupang)、そしてポルトガル領のディリ(Dili)へ同日上陸を敢行した。記録によれば、大戦中、日本軍... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/01 19:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(84) Bandara Dai Nippon(84)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}東部インドネシアの島々に多くの飛行場を設定した日本軍は、連合軍の反撃を遅らせるために、オーストラリア北部を中心に建設された連合軍の飛行場に対する空爆を繰り返した。日本軍による初めての対豪爆撃は、艦載機約100機による昭和17(1942)年2月19日のダーウィン(Darwin)に対する攻撃だった。その翌日、日本軍は、蘭領ティモール島のクーパン(Kupang)、そしてポルトガル領のディリ(Dili)へ同日上陸を敢行した。記録によれば、大戦中、日本軍... ...続きを見る
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2009/03/01 19:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(85) Bandara Dai Nippon(85)豪州2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}真珠湾奇襲攻撃に始まる「大東亜戦争」の快進撃。アメリカ軍をフィリピンから追いだし、英蘭の降伏によるマレー半島並びに蘭印(オランダ領インドネシア)の占拠。こうして、日本軍はフィリピン・オーストラリア間を遮断し、“念願”のスマトラ島の大石油生産地帯であるパレンバン(Palembang)も制圧し、順風満帆の大東亜共栄圏構想を推し進める最初の基盤を固めた。初期の快進撃に自信を深めた海軍は、オーストラリア進攻論を謳うようになる。やがて連合軍の抗日拠点とな... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/02 17:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(85) Bandara Dai Nippon(85)豪州2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}真珠湾奇襲攻撃に始まる「大東亜戦争」の快進撃。アメリカ軍をフィリピンから追いだし、英蘭の降伏によるマレー半島並びに蘭印(オランダ領インドネシア)の占拠。こうして、日本軍はフィリピン・オーストラリア間を遮断し、“念願”のスマトラ島の大石油生産地帯であるパレンバン(Palembang)も制圧し、順風満帆の大東亜共栄圏構想を推し進める最初の基盤を固めた。初期の快進撃に自信を深めた海軍は、オーストラリア進攻論を謳うようになる。やがて連合軍の抗日拠点とな... ...続きを見る
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2009/03/02 17:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(86) Bandara Dai Nippon(86) 豪州3
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦から3ヵ月、昭和17(1942)年3月時点で、オーストラリア北西部に対する日本軍侵攻の可能性はあるかないか?この点に関して、米軍公刊戦史は、次のように述べている。「日本軍のトレス海峡方面一挙突進の算は少なく、まずニューギニア南岸のメラウケ付近を占領し、逐次、東進する確率が大きいとみなしていた。メラウケには、一月以来、歩兵一大隊だけであったが、四月〜五月に豪軍一コ旅団主力が増派された。豪州西部には、一機械化師団と三コ旅団が配備されていた。パー... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/03 17:39
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(87) Bandara Dai Nippon(87)豪州4
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール(Timor)島は、天然資源地帯であるインドネシア西部を確保し続けるために、日本軍にとって対連合軍守備の最前線だった。昭和17(1942)年3月、ジャワ島攻略作戦に参加後、西部ティモールの要衝クーパン(Kupang)に進出していた海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)は、同月16日から4月5日の間、ダーウィン(Darwin)を空爆し、22日にはダーウン南東約275km内陸部に位置するカセリン(Katherine)飛行場を、また3月20日に... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/04 16:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(88) Bandara Dai Nippon(88)豪州5
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年5月、SWPA(南西太平洋方面連合軍)のダグラス・マッカーサー大将は、アラフラ海を越えて東部インドネシアに展開する日本軍部隊と対峙するよりも、その海軍力を活かして、ニューギニア北岸方面を攻略すべきとの判断に達した。この決断に基づいて、RAAF(豪空軍)は、ダーウィン方面から東部インドネシアの日本軍根拠地の空襲を強化し、日本軍の緊張と関心を豪州北部に引き寄せる心理作戦を演じた。また、偽情報を敢えて流すことによって、日本軍を牽... ...続きを見る
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2009/03/05 18:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(89) Bandara Dai Nippon(89)豪州6
{%空港(ユラユラ)hdeco%}終戦までおよそ1年半の昭和19(1944)年3月頃の、オーストラリア北西部における豪・連合軍航空部隊配置は、豪公刊戦史によれば、以下の通り。ダーウィン(Darwin)には豪第43飛行中隊(偵察・機雷の飛行艇カタリナ=Catalina)、そして英第54飛行中隊(戦闘機スピットファイアー・Spitfire)。ストラウス(Strauss)には豪第452中隊(スピットファイアー)。ヒューズ(Hughes・日本軍はフーヘスとも呼称)には豪第2中隊(偵察・... ...続きを見る
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2009/03/07 04:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(90) Bandara Dai Nippon(90)ケンダリ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年1月時点で、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島には、3個の日本軍飛行場があった。北端のメナド(Manado・マナド)、そして南東部のケンダリ(Kendari)、そして南西のマカッサル(Makassar)。いずれも海軍が修復・設営したものだった。同年2月16日には、蘭印(オランダ領インドネシア・現在のインドネシア共和国)のほぼ全域を作戦地域とする陸軍第7飛行師団(須藤榮之助中将)が編成され、シンガポー... ...続きを見る
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2009/03/12 17:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(91) Bandara Dai Nippon(91)ケンダリ2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦から1年と4ヵ月。昭和18(1943)年4月上旬、大本営陸海軍部は、南太平洋方面に対する作戦の根拠地を、東部蘭印(東部インドネシア)域に求めることを計画した。つまり、フィリピン南部や、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)北部、そしてハルマヘラ(Halmahera)島を、補給並びに修理の役割を演じる飛行場群基地する発想であった。特に、東部インドネシア域を“民政(海軍の軍政)”地域とする海軍は、セレベス島のケンダリ(Kend... ...続きを見る
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2009/03/13 16:28
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(92) Bandara Dai Nippon(92)ケンダリ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ムナ(Muna)島の飛行場設定は、第1野戦飛行場設定司令部(松崎今朝松大佐)が昭和18(1943)年11月に着工し、すでにあった飛行場を補修した後、別の新設飛行場の工事に取り掛かった。しかし、松崎大佐は、12月10日、スンバ島へ移動した。これは、同年年11月末に、第2方面軍(阿南惟幾大将)が第19軍(北野憲造中将)に命じたもので、第110野戦飛行場設定隊(伊藤稔中佐)を指揮し、ワイコロ(Waikolo)で“スンバ島航空要塞”の建設任務に就いた。... ...続きを見る
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2009/03/14 14:31
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(93) Bandara Dai Nippon(93)マカッサル
{%空港(ユラユラ)hdeco%}戦中、マカッサル(Makassar)には南西方面海軍民政府が置かれ、セレベス(Celebes/スラウェシ=Sulawesi)、ボルネオ(Borneo/カリマンタン=Kalimantan)、セラム(Seram)の3地域の民政府を下部組織とした。セレベス民政府(マカッサル)は、直轄州とメナド(Manado)州知事庁に区分され、ボルネオ民政府(バンジェルマシン=Banjermasin)は、直轄州とポンティアナック(Pontianak)州知事庁、バリク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/15 19:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(94) Bandara Dai Nippon(94)マカッサル2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}西部ニューギニアのホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)、そしてワクデ(Wakde)島とサルミ(Sarmi)、さらにビアク(Biak)島、ヌンホル(Numfor)島、サンサポール(Sanapor)、モロタイ(Morotai)島と、猛スピードの飛び石作戦で西進・上陸を遂げてきた連合軍。 セレベス(スラウェシ)島南部は、ある意味で、日本軍の東部蘭印における“最後の砦”となった。昭和19(1944)年9月、セレベスにあった... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/16 18:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(95) Bandara Dai Nippon(95)マナド
{%空港(ユラユラ)hdeco%}北スラウェシ(セレベス)のメナド(マナド・Manado)は、大東亜戦争の蘭印(オランダ領インドネシア)、特に西部ニューギニア方面、ハルマヘラ島、モロタイ島での“玉砕戦”に近い激戦を控え、作戦命令の“発信地”、別の言い方をすれば、帝国陸軍の“頭脳”の地だった。ここには、中部ニューギニア北岸の要衝ホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)への連合軍上陸(1943.4.22)を受け、昭和19(1943)年4月26日、第2方面軍(... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/17 18:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(96) Bandara Dai Nippon(96)マナド2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、日本時間午前9時52分。フィリピンのミンダナオ島ダバオを28機に分乗して南下した、海軍第11航空艦隊(塚原二四三中将)隷下の1001部隊(横須賀第1特別陸戦隊・横一特・堀内豊秋中佐)は、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島北端の要衝、メナド(Manado・マナド)南方のランゴアン(Langoan/Langowan)にパラシュート降下。堀内中佐が高度およそ150mからまず降下、これに2コ中隊... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/18 18:07
西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
{%春webry%}2009年3月19日、午前10時30分。メディアが、そして日本中が熱い視線でワールド・ベースボール・クラシックの日本・キューバ戦の開始を待つおよそ1時間半前、東京・霞が関の厚生労働省2階の共用第6会議室には、64年ぶりに祖国・日本へ戻る旧日本兵108人の遺骨を待つ、無言の人々がいた。この日、日本政府がパプア州(インドネシア領西部ニューギニア)へ派遣した「インドネシア戦没者遺骨収集応急派遣団(厚生労働省社会援護局援護企画課・外事室専門官山岸和司団長以下計8名)... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/20 17:17
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(97) Bandara Dai Nippon(97)スラウェシ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和20(1945)年2月、終戦まであと半年。セレベス(スラウェシ)島の航空地区部隊は、漸次その収縮整理に動き始めた。北セレベスのマパンゲット(Mapenget)、ランゴアン(Langoan/Langowan)、アムラン(Amurang)などの飛行場は、それまで、陸軍第7飛行師団によるハルマヘラ島方面への出撃基地を担っていたが、1945年2月、第4野戦飛行場設定部(難波了三大佐)の約2,000名は、3月から南セレベスのマカッサルへと徐々に後退を... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/22 23:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(98) Bandara Dai Nippon(98)スラウェシ2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}北セレベス(スラウェシ)の北端のマナド(Manado・メナド)とフィリピンのミンダナオ島との間に点在するサンギヘ(Sangihe)諸島やタラウド(Talaud)諸島は、開戦当初は、海軍陸戦隊によって占拠されたが、戦況の悪化に伴い、第2軍(豊嶋房太郎中将)隷下で、ハルマヘラ(Halmahera)島の守備にあたった第32師団(石井嘉穂中将)の一部部隊が、昭和19(1944)年5月、タラウド地区隊(地区隊長は師団衛生隊長の木場茂大佐)として送り込まれ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/23 19:16
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(99) Bandara Dai Nippon(99)スラウェシ3
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スラウェシ島の北半分に位置する北スラウェシ州、ゴロンタロ州、そして中スラウェシ州の3州で現在使用されている空港は、主なもので計8ヵ所。マナドのサムラトゥランギ(Samratulangi)飛行場は、滑走路の長さが2,650m、幅45m。B-737型機が就航。ボラアン・モンゴンドウ(Bolaang Mongondow)県にあるモパティ(Mopati)空港は、650m X 23mの滑走路規模で、C-212型機の離着陸が可能。ゴロンタロ(Goronta... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/24 16:50
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(100) Bandara DaiNippon(100)スラウェシ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}南スラウェシ(Sulawesi Selatan)州そして南東スラウェシ(Sulawesi Tenggara)州、さらに西スラウェシ(Sulawesi Barat)州には、主用空港が計12ヵ所ある。西スラウェシ州のマムジュ(Mamuju)のタンパ・パダン(Tampa Padang)空港は、滑走路規模が長さ1,500m、幅30mでC-212型機が就航。南スラウェシ州には、北部の北ルウ県の県都マサンバ(Masamba)近辺に3ヵ所の空港がある。まず、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/25 16:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(101) Bandara DaiNippon(101)タラカン島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦。蘭印(オランダ領インドネシア)の豊かな石油を始め、天然資源獲得を第一義に、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の成功を受け、日本軍は南方攻略作戦に着手した。すでに占領したフィリピンのミンダナオ島を根拠地に、蘭印への第一歩は、セレベス(スラウェシ)島北端のマナド(Manado・メナド)、そしてボルネオ(カリマンタン)島東岸のタラカン(Tarakan)島並びにバリックパパン(Balikpapan)に対する上陸作戦だった。 昭和17... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/28 20:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(102) Bandara DaiNippon(102)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タラカン島攻略作戦を終えた坂口支隊(混成第56歩兵団長坂口靜夫少将)は、昭和17(1942)年1月24日、日本時間午前零時四〇分、バリックパパン(Balikpapan)東方のマンガール(Manggar)飛行場付近の海岸に上陸。同日中に飛行場並びに橋梁の占拠を果たした。翌25日午前四時、戦闘を交えることなく日本軍はバリックパパン市街へ突入した。バリックパパン攻略作戦は、タラカン島同様に陸海軍協同作戦だった。バリックパパンは、近くのサマリンダ(Sa... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/29 19:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(103) Bandara DaiNippon(103)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}4州から構成されるカリマンタン(ボルネオ)島の中でも、東カリマンタン州(Propinsi Kalimantan Timur=Kaltim)は天然資源の観点から最も豊かな州だ。例えばボンタン(Bontang)ガス田は、その昔から日本の液化天然ガス需要に応えてきた。日本企業による原油開発も行われ、また石炭の輸出でも知られる。大東亜戦争で蘭印(オランダ領インドネシア)に侵攻した日本軍が、まず最初に同州東北部に位置する石油基地であるタラカン(Tarak... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/31 18:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(104) Bandara DaiNippon(104)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}南カリマンタン(Kalimantan Selatan=Kalsel)州には主なもので計5個の飛行場がある。州都のバンジャルマシン(Banjarmasin)のシャムスディン・ヌール(Syamuudin Noor)国際空港。北東部にタンジュン・ワルキン(Tanjung Warukin)空港(滑走路の規模は1,300 X 30m)。東部のラウト(Laut)島には二ヶ所。中心都市のコタバル(Kotabaru)近辺にスタゲン(Stagen)空港と、島中部... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/01 19:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(105) Bandara DaiNippon(105)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}13県と1都市から成る中カリマンタン州(Kalimantan Tengah=Kalteng)の主要空港は計9個。北側から、ムルン・ラヤ(Murung Raya)県の県都プルックチャフ(Purukcahu)付近にあるディルン(Dirun)空港。滑走路の規模は850 X 23mでC-212型機が県都から就航。北バリト(Barito Utara)県の県都ムアラテワ(Muaratewah)のブリンギン(Beringin)空港。900 X 23mの滑... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/02 16:45
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(106) Bandara DaiNippon(106)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}西カリマンタン(Kalimantan Barat=Kalbar)州にある主用空港は計8ヵ所。東部の、カプアス川源流部に近い最奥部のプツシバウ(Putussibau)には、パンスマ(Pangsuma)空港がある。滑走路の規模は1,400 X 23mでF-27型機やATR-42型機が就航。カプアス川中流域のシンタン(Sintang)には、1,300 X 30mの滑走路を持つスシロ(Susilo)空港があり、C-212型機の離着陸が可能。また、シンタ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/03 16:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(107) Bandara DaiNippon(107)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍のボルネオ(Borneo)島(注:インドネシアはカリマンタン=Kalimantanと表記)占領は、今日のインドネシア領域に限らず、全島にわたった。今日のマレーシアのサラワク(Sarawak)そしてサバ(Sabah)、さらにブルネイ(Brunei)も瞬く間に占拠された。 ボルネオ島の北東端に位置するサンダカンは、戦前、英国領ボルネオの中心都市として栄えていた。同地を占拠した日本軍は、戦争捕虜となったイギリス兵と豪州兵を使役して、サンダカン... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/05/18 17:33
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}英領ボルネオ時代にジェッセルトン(Jesselton)と呼ばれていた、今日のコタキナバル(Kota Kinabalu)。マレーシアのサバ(Sabah)州の州都所在地だ。戦前の北ボルネオの中心地はサンダカン(Sandakan)だったが、戦後の1947年、マラヤ連邦の結成に伴って、英領北ボルネオの首都はジェッセルトンへと移された。 英領ボルネオ域は,太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941)12月、歩兵第35旅団長川口清健少将指揮下の部隊によって... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/05/19 12:42
「ニューギニア未帰還兵展--私を祖国日本へ帰らせてください」開催のお知らせ
お母様、お父様、お変りございませんでしょうか。 お婆様、お爺様 お元気でしょうか。 兄上様、姉上様、そしてご家族の皆様、達者でお暮らしでしょうか。 叔母様、叔父様、そしてご家族の皆様、お変わりありませんでしょうか。 戦友の皆々様方、日本は立派なお国になりましたでしょうか。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/26 11:01
『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』2
{%メガホンhdeco%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』を開催する。西部ニューギニア(パプア州)の戦史、そして玉砕... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/27 23:21
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
{%ノートwebry%}一万数千名の犠牲者を出したビアク島の戦い。終戦後、マノクワリの日本軍と連合軍との合同捜索隊が同島に入った。しかし、生存兵わずか八名を収容できたのみだった。その生存者の一名が、連合軍の厳しい監視をかいくぐり日本に持ち帰り、遺族に手渡した一冊のノート。それが、第36師団歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊附の陸軍主計中尉浅野寛氏(陸軍経理学校第二期乙種学生)が書き記した日記帳だった。 日記の開始は「五月三十日」(注:1944年5月30日のこと。この三日前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/30 11:32
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/01 20:27
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/02 22:27
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。水筒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 03:34
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 11:57
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 13:43
今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』
{%爆弾webry%}今日、2009年8月8日(土)から『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まります。間もなく戦後65年目に入ります。しかし、激戦地だった西部ニューギニア(現在のインドネシア・パプア州、中パプア州、西パプア州)には、今でも少なくとも3万名を超える旧日本兵の遺骸が、放置されたままで、まさに“野垂れ死に”の観を呈しています。“祖国”のためと、赤道を越えた日本軍、そして日本軍と共に南下した朝鮮半島や台湾出身者、さらに日本軍に協力したインドネ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/07 19:16
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる
{%爆弾webry%}広島と長崎の64回目の“原爆の日”を挟む8月8日(土)、インドネシア文化宮(GBI)で『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まった。世はお盆の帰省ラッシュのスタート。展示会初日、会場には共催者である「太平洋戦史館(岩手県奥州市)」の関東在住の会員の皆さんが駆けつけてくれた。その一人、相模原市在住の座間淳子さんは、去る7月、西部ニューギニアのかつての激戦地であるサルミやビアク島などの慰霊巡拝の旅に参加した。サルミ東方の“玉砕の島”ワクデ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 15:33
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』は、主に、“玉砕の島”ビアク(Biak)島の未帰還兵に焦点を当てている。1万を超す兵が戦死したが、いまだに約6,000人の遺骸が収集されていない。まだ“遺骨”にさえなっていない。以下このビアク島の戦史をインドネシア語の動画で辿る。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 23:58
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
{%爆弾webry%}『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』のスタート二日目の8月10日。展示主要対象地であるビアク(Biak)島に向けて五日後に出発するという、京都産業大学の安田和彦教授ご夫妻がやってきた。これまでインドネシア各地を旅行しているが、西部ニューギニアは初訪問。しかも訪問地は“玉砕の島”ビアク。 戦時中、大本営は当初、第2方面軍(阿南惟幾大将)隷下の第2軍(豊嶋房太郎中将)、その隷下の第36師団(雪兵団:田上八郎中将)を当初、西部ニューギニアの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/10 20:02
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、身内を西部ニューギニアで亡くした方々がたくさん駆けつけている。もしや、展示されている遺留品の中に、身内の物が含まれていないか?どこで、どのように戦死・戦病死したのか、何か手掛かりを得られるのでは?そんな思いで関東一円から、インドネシア文化宮(GBI)を目指して集まっている。 その中のお一人、町田市の川口美代子さんは幼い頃、実父の小坂岩吉兵長をニュギニア本島北岸を亡くした。戦後、昭和21年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/12 19:31
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14
{%やしの木webry%}終戦から満64年。2009年8月15日(土)正午。東京・九段の日本武道館で、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われた。“戦後”は65年目に入った。終戦の年に19歳で徴兵検査を受けた人も、今では83歳。あの日はますます遠ざかっている。 以下は同追悼式典における天皇陛下と首相の言葉。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/15 17:18
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 14 小野寺中尉の水筒
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で涙を見ない日はない。開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』を目指して、親族を西部ニューギニアで亡くされた方々が多く訪れている。64回目の終戦記念日が数日前に過ぎたとはいえ、それはカレンダー上での出来事。心の奥底には“戦後”が未だ訪れていないと思わせる抜けないトゲが残っている。あれから64年も経ったというのに。 「義父はビアク島で亡くなったとされています。義母が生きていた時には、テレビで旧日本兵の話... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 00:52
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「鈴木信太」とフルネームが刻まれた飯盒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。「鈴木」の二文字は、大きく二重線で刻まれ、「信太」は、少し小さめで一本の線。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは決して多くはなく、たい... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 18:38
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「渡辺貞雄」とフルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/22 17:00
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「長野一彦」とフルネームが刻まれた水筒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と言... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 11:34
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がホランジア(現ジャヤプラ)西方のゲニェム(ゲニム=Genyem)地区で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「中島慎市」あるいは「中島愼市」、もしくは「中島慎希一」か「中島愼希一」とも読める、フルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名がほぼ判読可能にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 12:18
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「久保金治」とフルネームが刻まれた飯盒の蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 13:17
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
{%爆弾webry%}およそお洒落な形のカップに似合わない、銃弾貫通の跡。「太平洋戦史館」(岩手県奥州市)が、玉砕のビアク(Biak)島で見つけた金属製のカップ。誰が、何を飲むために使っていたのだろうか。いや、すくなくとも「誰」かは知れている。底に『杉沢』と刻まれている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/24 22:47
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
京都産業大学の安田和彦教授が今夏、パプア州のビアク島を訪れた。インドネシア共和国が第64回独立記念日を迎えた2009年8月17日早朝、首都ジャカルタからおよそ6時間の夜間飛行の末、安田さん夫妻は“玉砕の島”ビアク(Biak)島に到着。戦時中、この島では第2軍直轄の、歩兵第222連隊(葛目直幸大佐:雪3523部隊=青森編成)を主力とするビアク支隊が海軍部隊と共に、連合軍と対峙。激戦は、1万数千の将兵・軍属の命を奪った。歩兵第222連隊の原隊である第36師団(通称雪兵団)は、青森県弘前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 00:40
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}「(注:昭和19年)六月二十一日頃になると、西洞窟は殆ど完全に包囲され、敵は至近から戦車砲、火焔放射器及点火ドラム缶等で洞窟内を攻撃する様になった。洞窟入口附近の戦闘は酸鼻を極め、支隊長(注:第36師団歩兵第222連隊長の葛目直幸大佐)は玉砕を覚悟したが、西原大隊の増援、千田少将の意見具申、鹿野副官、渡辺大尉(第一大隊長代理)の諌止等に依り決意を翻し、二十二日夜暗を利用して西洞窟を脱出することになった。脱出に先立ち独歩不能の重症患者約百数十名は、全員必勝を確信... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 15:00
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}戦後は終わっていない(安田和彦) ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/31 02:40
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}あの戦争が残したもの(安田和彦) あの戦争とは何を指すのか。それは生まれ育った時代、そして国籍によって異なるのだろうが、“戦後”20年も経ってから青森県で生まれた私にとって、あの戦争とは太平洋戦争もしくは大東亜戦争のことだ。今夏、“玉砕の島”と呼ばれるビアク島を訪れ、戦争が残したものを数々目にした。ビアク島には“戦後”そして“戦中”が共存していた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/01 12:13
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}海のビアク(安田和彦)) 赤道直下の南太平洋、チェンドラワシ(極楽鳥)湾に浮かぶビアク島。そこで、豊かで美しい海の姿に出会った。ビアク・ヌンホル県の県都ビアク市内の魚市場。天気が良くて出漁のあった日には、必ずオープン。私達が訪れた8月中旬、市場には色々な魚が並んでいた。カツオ、マグロ、サヨリ、そしてタイ、ハタ、アジ、エビ。活きたウミガメまでも。近くでは、ぶつ切りにした魚を炭火で焼いている屋台があり、結構繁盛している。バイクでやってきた市民が、一匹、二匹と買っ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/02 01:47
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
{%爆弾webry%}「読売新聞」がインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に関して、「日本は迎えに来ていない 激戦ビアク島 帰れぬ遺骨」と題する記事を都民版に掲載した2009年9月3日の朝、東京・銀座のホテルで、元インドネシア共和国教育文化大臣(1993-1998)のワルディマン・ジョヨネゴロ(Wardiman Djojonegoro)氏と朝食を共にした。ワルディマンさんは昨年、日本政府の秋の叙勲で、日本・インドネシア国間... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/03 17:50
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
{%爆弾webry%}ホランジア(現ジャヤプラ)の陥落(1944年4月22日連合軍上陸)に続くサルミへの“地獄の転進”作戦。やがて連合軍は、第2方面軍司令官っだた阿南惟幾大将をして「ここを失うは空母10隻を失うに等しい」とまで言わしめたビアク島へ上陸(1944年5月27日)。第6飛行師団を核とするサルミ転進部隊は、直線距離でおよそ230kmの敗走行軍で、主に飢餓と病魔によって5,000名を超える将兵が屍となった。ジャヤプラ・サルミ間は、まさに“白骨街道”と化した。さらに、サルミ地区... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 13:34
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
{%爆弾webry%}「あのォー、ビアク島の遺留品の中にYの苗字の物はないでしょうか?」----フィリピンのルソン島で実兄を亡くした、現在84歳の女性から電話があった。航空部隊に所属していたという兄の戦死の通知は、一枚の白い紙切れだった。「ルソン島ってビアク島の近くでしょうか?もしや、兄がそのビアク島にもいたかもと思って....」。「Yの遺品があれば、両親のお墓に入れてあげたいと思っていますが...」 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 21:52
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
瀧澤吉治。大正7(1918)年8月13日、瀧澤吉助の長男として岩手県盛岡生まれ。 瀧澤吉治。昭和19年(1944)年5月30日、西部ニューギニアのトムで戦死。 瀧澤吉治。20歳と4ヶ月で入隊。25歳と9ヶ月で戦死。 瀧澤吉治。平成21(2009)年9月初旬現在、未帰還兵。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/05 22:22
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
{%メガホンhdeco%}2009年9月6日(日)、太平洋戦史館の岩渕宣輝会長理事が、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』会場を訪れ、西部ニューギニアに放置されたままの旧日本兵の遺骸の現状についてミニ講義を行った。戦後65年目に入ったが、西部ニューギニアには、いまだに“戦後”が来ない3万を超える将兵が瞑っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/06 20:16
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
{%爆弾webry%}「ひいじいちゃんと太平洋戦争」----2009年9月6日(日)、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、表題のファイルを持った少年がやってきた。東京・中野区立南中学校1年生の上野健太君(12歳)。野球部員だそうで、毬栗頭がなんとも頼もしい。祖母の曽屋真紀子さん66歳)そして母の上野睦子さん(41歳)も一緒だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/08 01:31
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年4月22日、連合軍はホランジア(現ジャヤプラ)へ上陸するが、その前月末、ホランジアには第4航空軍(寺本熊市中将)司令部と、その隷下にある第6飛行師団(板花義一中将)が東部ニューギニアのウェワク(Wewak)から後退してきていた。そして、瀧澤吉治曹長が戦闘機整備要員として所属する、第4航空軍隷下の第6飛行師団傘下の第14飛行団(徳永賢治大佐)隷下の飛行第68戦隊も、同年3月中旬、空中勤務者(パイロット)の主力と整備員の一部計約50名が(おそ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/11 14:58
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
{%爆弾webry%}『薄れゆく悲劇 西部ニューギニア戦線(池見坦著)』によれば、ゴアイに駐屯していた池見氏を含む工作機関(鰐機関:内山守衛中尉指揮下)は4月27日に、ゲニム西方の村(村名不明)で、ゲニムから転進してくる「哀れな日本兵」の姿に接している。乞食同然の姿。銃を持つ者は皆無。手には杖、腰には飯盒と鞘なしの帯剣。この記憶に間違いがなければ、これら日本兵は、4月26日ゲニムを発った第1梯団とも想像される。あるいは、デムタかデパプレ方面から、もっと早くサルミに向けて出発した一団... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/12 18:32
『ニューギニア未帰還兵展』を10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした」-... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/13 15:53
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』27 故瀧澤吉治准尉(4)
{%爆弾webry%}瀧澤吉治曹長はいったいどこで戦死したのか?そしてその日はいつか? 岩手県保健福祉部地域福祉課が原本を基に証明するところによれば、瀧澤(飛行第68戦隊=襲第9151部隊)は昭和19年5月30日、西部ニューギニアのトム付近で戦死となっている。原本を作成した調製官は飛行第68戦隊長代理の陸軍少佐田崎次夫(但し、田崎少佐は西部ニューギニアには転進せずに、当時東部ニューギニアのウエワク南方山中にいたことから推測して、直接情報を基に記したものとは思えない)。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/15 20:00
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』28 故田中梅男伍長
{%爆弾webry%}今日、民主党政権が旗揚げした。期待と不安---とマスコミは描く。どんな未来像が生まれるのかは別にして、日本政治史が新たなページを記し始めたことは確かだ。その歴史の執筆者は、鳩山由紀夫総理。一方、自由民主党は、雌伏の時代を刻み始めた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 01:46
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(1) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 22:35
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(2) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊は、『海軍設営隊の太平洋戦争(光人社刊:1996年4月)』の著者で元海軍第203設営隊の技術大尉佐用泰司氏によれば“不運な設営隊”だった。「この不運な設営隊は、ニューギニア北岸のビアク島に進出することになっていた。しかし、便船の関係で、一時カウ(注:ハルマヘラ島)の対岸ロロバタに揚陸し、つぎの便船を待って、ビアク島に進出することとなった。その待機期間、彼らはカウ、ロロバタ地区の設営に協力していた」。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 00:45
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(3) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(昭和18(1943)年11月15日、横須賀で編成。部隊長は永田亀雄海軍技術少佐。隊員数860名。所属艦隊は第四南遣艦隊・山縣正郷中将。派遣元は海軍横須賀施設部)のわずか60数名の生き残り将兵の一人である同隊書記の小林福市は、その著『永田部隊の最後(ビアク島)』の中で次のように記している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 18:50
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(4) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(永田亀雄海軍技術少佐)は、第4南遣艦隊(山縣正郷中将・司令部はアンボン)から派遣された白石義雄、桑原三郎両海軍技術大尉の現地調査を基に、当初ビアク島のボスネック海岸裏手の高台に3ヶ所の飛行場建設を命じられていた。ボスネックは、まさに昭和19(1944)年5月27日、連合軍が上陸した海岸そのものだった。しかし、同設営隊の本隊主力がビアク島に到着したのは4月中旬以降〜5月初旬。一方、連合軍は4月22日、ビアクの東南東約530kmのホランジア(現... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/20 15:57
『ニューギニア未帰還兵展』10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、実に多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/23 12:05
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(5) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}1944年5月27日の連合軍ビアク島上陸後、海軍第202設営隊の軍属工員約720名並びに指揮部隊など総計860名(但し内60数名は捕虜となり戦後帰還)はどのような運命をたどったのか?これを知る唯一の手がかりが、元同設営隊の海軍書記であった帰還兵・小林福市(故人)の手記にある。『濠北を征く』(濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日発行)の同氏による記録『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば次のような経緯を辿っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/25 13:50
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「東京新聞」が報道
{%爆弾webry%}開催期間を一ヵ月延長し、10月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。未だ“戦後”を実感することのできない多くの人々が、インドネシア文化宮(GBI)に足を運ぶ。『東京新聞』が今朝(2009年9月28日)、「ニューギニア戦線 遺品展に反響」、「最期知りたい思い切実」の見出しで、同展について特報面で大きく取り上げた。『読売新聞』、『朝日新聞』に次ぐ報道に、来宮者は引きもきらない。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/28 18:49
『ニューギニア未帰還兵展』 朝鮮人戦死者名簿
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展』に菊池英昭さん(67歳)が「朝鮮人戦死者名簿」を持ってやってきた。立川市在住の菊池さんは、10年の歳月を費やし、旧日本軍の軍人・軍属として日中戦争・太平洋戦争で戦死した約2万1千名の名簿を作り上げた。出版計画は、今のところ“頓挫”しているそうだが、遠くない将来日の目を見るとのことだ。 先の大戦に、多くの朝鮮半島出身者、そして台湾人、さらにインドネシア人、インド人などが日本軍の軍人・軍属・兵補などの立場で従軍している。そして、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/30 01:07
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(6) 武内満多男 
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で10月30日までの日程で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』を訪れた、元海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐)の隊員だった東京・練馬区在住の武内満多男さん(83歳)から同隊に関する貴重な資料提供を受けた。同氏とのインタビュー内容は後日紹介するとして、資料によってこれまで不明だった数々の謎解きが可能となった。海軍第202設営隊は、およそ230を数える海軍設営隊の中でも、最初の“玉砕部隊”として不幸な名誉を残している。しかし、その要員数... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/04 19:12
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
{%爆弾webry%}『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍第203設営隊(岩下久哉技術少佐・ハルマヘラ島で基地設営)の西部ニューギニア・ソロン派遣隊長だった佐用泰司元海軍技術大尉によれば、「海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐・昭和18年11月15日海軍横須賀施設部編成)」は、“玉砕設営隊”の第一号だった。一部およそ130名がハルマヘラ島に取り残されたが、約1,000名の隊員が昭和19(1944)年6〜7月、ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/05 20:31
海軍第202設営隊(1) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 11:16
海軍第202設営隊(2) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 19:56
海軍第202設営隊(3) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/09 15:03
海軍第202設営隊(4)武内満多男の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/11 12:23
海軍第202設営隊(5) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/20 22:51
海軍第202設営隊(6) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/21 16:46
海軍第202設営隊(7) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 09:51
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 17:54
海軍第202設営隊(8) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 01:50
海軍第202設営隊(小林光雄氏の絵日記証言)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 02:51
第35師団野戦病院(東第2931部隊第3分隊)故永井寿三郎氏提供写真 ヌンホル島
{%爆弾webry%}再々延長して2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。再延長の最終日、2009年10月30日、『亡き父のアルバムの中に、大戦中にニューギニアで戦死した戦友たちが写っている写真がありました。もしや、ご遺族の方々の中に、身内の消息を探している方がいるのではないかと思って持参しました』---そう言って、横浜市か... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 16:51
海軍第202設営隊(9) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/02 11:03
海軍第202設営隊(10)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/03 14:02
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再々延長。Pameran s/d 19 Des 09
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/04 09:52
海軍第202設営隊(11)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/05 12:12
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(1)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/08 21:05
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(2)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/10 13:30
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(3)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/12 10:13
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(4)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/13 08:51
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(5)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/14 16:30
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(6)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/15 00:33
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(7)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/18 09:40
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(8)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/19 10:32
海軍第202設営隊絵日記(1)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 11:39
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(9)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/21 00:01
海軍第202設営隊絵日記(2)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/22 09:57
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(10)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 11:01
海軍第202設営隊絵日記(3)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 21:17
海軍第202設営隊絵日記(4)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/26 11:00
海軍第202設営隊絵日記(5)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/27 22:11
海軍第202設営隊絵日記(6)小林光雄の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/29 13:22
海軍第202設営隊絵日記(7)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/01 09:53
海軍第202設営隊絵日記(8)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/02 09:55
海軍第202設営隊(1)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/05 11:08
海軍第202設営隊(2)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/06 11:25
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(1) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 10:48
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(2) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 11:02
海軍第202設営隊(3)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/09 12:23
海軍第202設営隊(4)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/10 21:49
海軍第202設営隊(5)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/12 14:42
☆12月17日:西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式のお知らせ☆
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席できますので、是非ご参加下さい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/13 14:34
海軍第202設営隊(6)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/14 10:35
12月17日、西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式:291柱が無言の祖国帰還
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。過去最多の291柱が還ってくる予定です。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席でき... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/15 12:30
東西ニューギニアから計702名の遺骨が祖国帰還
  ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/17 21:57
海軍第202設営隊(7)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/18 14:14
海軍第202設営隊(8)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/19 09:54
2010年にも始まるワクデ島の遺骨収集 Pulau Wakde & Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}3月に次いで今年二回目となった、厚生労働省による西部ニューギニア域戦没者遺骨収集団が去る12月17日帰国した。3月の108柱のおよそ2.7倍に当たる291柱が無言の祖国帰還を果たした。彼らは、現在のパプア州の州都ジャヤプラ(Jayapura・旧ホランジア)近郊のプアイ村で見つかった77柱、そして玉砕の島として戦史に残るビアク(Biak)島で確認された214柱の旧日本軍将兵・軍属の遺骨・遺灰だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/20 18:28
三橋國民 『64年目の夏 鎮魂のニューギニア』 Kunitami Mitsuhashi
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/24 19:32
三橋國民 鎮魂のニューギニア(1) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に陣地を構えた。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/26 12:57
三橋國民 鎮魂のニューギニア(2) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/28 08:57
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:13
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(109) Bandara DaiNippon(109)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/30 11:04
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(110) Bandara DaiNippon(110)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/31 01:09
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(1)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/07/14 22:58
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(2) Manokwari Idore
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/07/15 18:37
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(3) Manokwari Idore
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/07/16 17:54
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(4) Manokwari Idore
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/07/17 16:39
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(5) Manokwari Idore
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/07/18 23:31
西部ニューギニア・峰岸政夫マノクワリ〜イドレ転進作戦証言(6) Manokwari Idore
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2010/07/19 19:32
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(1)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/22 21:46
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(2)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/23 18:17
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(3)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/24 18:58
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(4)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/25 14:34
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(5)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/26 11:25
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(6)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/27 19:49
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(7)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/28 14:22
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(8)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/29 19:59
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(9)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/30 19:33
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(10)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/03/31 16:54
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(11)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/01 22:04
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(12)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/02 21:51
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(13)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/03 19:06
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(14)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/04 18:43
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(15)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/05 19:05
小田切重徳著『白骨街道 死の転進 食べること 生きること 死ぬこと』(16)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/06 20:52
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(1) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/07 18:54
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(2) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/08 19:54
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(3) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/09 18:51
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(4) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/10 18:38
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(5) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/11 18:09
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(6) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/12 19:03
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(7) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/13 18:23
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(8) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/14 11:38
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(9) Masao Minegishi's New Gui
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/15 18:45
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(10) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/16 16:30
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(11) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
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2017/04/17 22:13
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(12) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/18 18:43
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(13) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/19 17:51
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(14) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/20 18:57
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(15) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/21 11:40
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(16) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/22 18:15
峰岸政夫著『ある通信兵のニューギニア戦記』(17) Masao Minegishi's New Gu
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミ、そしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2017/04/23 17:13

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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
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