マルク州MTB(西南東マルク)県のセラル(Selaru)島。日本軍の最前線基地があったリンガット(Lingat)村の西方、最西端のイリアサ(Iljasa)村へ至る途中に、広大な平らな台地がある。通称ケブン・トゥアウ(Kebun Tuau)と言われている地域だ。ここには大戦中、日本軍が建設しようとした(完成していたのかどうかは不明)滑走路跡がある。とにかく、だだっ広い。ユスフ村長によれば、その長さは3kmにも達するそうだ。対オーストラリア攻撃のために大飛行場でも造ろうとしたのか。詳細を知る人はいない。 日本軍によって“最前線”基地が築かれたため、連合国軍の爆撃で200名もの村人を失ったリンガット村(ユスフ村長談)。サンゴが作り出した真っ白な砂浜。そしてコバルトブルーの海。光景はまさに“南の楽園”のような、この美しい小島に、島の人口と比べて不相応な数の日本兵が駐留した。“日本軍支配時代”の残像がまだまだ生き続けているリンガット村。60数年前から時が止まってしまったかのような空気が流れている。日本の軍歌を昨日習ったかのように、見事な節で歌い上げる古老たち。一時期の駐留とはいえ、村の歴史は日本軍無しには語れない。家々の庭に置かれた旧日本軍の赤錆びた鉄の塊は、黙して語らないが、村人の心の髄に、あの大戦の記憶が刻み込まれている。あの戦争は未だ終わっていない、と言うユスフ村長の言葉には、入村儀式を経ることもなく、いわんや招待状も無しに突然村に進駐し、悲劇だけをもたらして、そして潮が引くように去って行った“日本”に対する積年の思いがある。 「2,003名のリンガット村を代表して“日本”にお願いしたいことがあります。まず第一に、家々の周囲用のレンガの柵を造るための援助は期待できないでしょうか。レンガとセメントの提供を受ければ、作業は村人が行います。次に、日本軍が残した物を集めた戦争博物館の建設に協力できないかということです。博物館と言っても、簡易なもので十分です。第三に、村の伝統・慣習ハウス(Rumah Adat Desa)を建ててくれないかということ。そして、第四に、およそ10kmの長さの海岸線の浸食を防止するために、何か防止装置のようなものを考えてくれないか。最後に、電気ですが、この村にも島の東端のアダウト(Adaut)から電線はきていますが、ほとんど機能していません。可能ならば2万ワット規模の発電機もしくは太陽光発電装置の援助はしていただけないでしょうか。あれやこれやお願いが多いのですが、私たちが戦後を迎えられるよう、そして村人があの戦争から真に癒されるように、是非とも願いを聞いて欲しいのです」---ユスフ村長からのメッセージだ。![]() 滑走路の東端と思われる地点には、幾つもの穴が開いた錆びついた大きな筒型の物体がころがっている。滑走路を守るために設置された、ガットリング・タイプの高射砲もしくは機銃のようなものだったのか。 延々と続く、滑走路跡。元々の地形が平らなサンゴ台地であったのだろうか。草さえ刈れば、今でもセスナ機や小型双発機ならば離着陸可能なコンディションだ。ちなみに現在はインドネシア空軍の管理地となっている。 リンガット村から島の西端の岬付近までは、オジェック(バイクタクシー)で行くことができる程度の“道”がある。凹凸があるような地点にはコンクリート製の幅約80-100cmのバイク専用道路もある。村人たちは、自転車を使って、村と村の間を行き来している。 今ではロンタール椰子が生えているが、ここも滑走路の一部だったそうだ。確かに、地面はどこまでも平ら。 衛星画像で見ると、細長い空き地のような地形が分かる。ここが滑走路跡か。![]() 衛星画像に見るセラル島最西端のタンジュン・アロウス村(通称はイリアサ村)。白浜のトゥアウ(Tuau)海岸の脇にある。 トゥアウ海岸から岬を望む。村人の説明によれば、岬の突端に日本軍の監視所があったそうだ。そしてこの湾には、日本軍が撃ち落とした連合国軍の航空機2機が沈んでいるとも。 日本の終戦記念日の前日、インドネシア共和国独立記念日の三日前、2007年8月14日、リンガット村の白砂の道路で、独立記念日に向けて中学生による行進の練習が行われていた。【参考ブログ】 マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html 戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか? http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html 西南東マルク県政府公式Website http://www.mtbkab.go.id/ インドネシア文化宮(GBI)活動記録 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html |
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マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
{%爆弾webry%}日本軍が進駐した時8〜16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。 ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/15 22:22 |
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
{%火webry%}太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/07/03 14:17 |
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