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help リーダーに追加 RSS マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)

<<   作成日時 : 2008/06/13 13:18   >>

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セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。ユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長(36歳)が語る。
「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村人は巻き込まれてしまった。連合軍の爆撃でたくさんの家屋が破壊され、焼かれた。日本兵による拷問で死んだ村人もいたが、少なくとも200名近くの村人が連合軍の爆撃に巻き込まれて亡くなった。村の墓を見てください。一目瞭然です。それから、村の若い女性たちが性暴力の犠牲者となった。その数は約50名。日本軍によって強制的に性の奉仕をさせられたのです」
リンガット村ではあの“先の不幸な大戦”が終わっていないような錯覚にとらわれる。到る所に“戦争”が残っている。日本から赤道を越え、5千キロ以上もの長旅をして運ばれてきた、日本軍の武器・装備が残骸となって視線に飛び込む。
「繰り返して言いますが、私たちは罪のない犠牲者です。人間としての威信を傷つけられた女性たち。そして意味のない軍票で強制労働に従事した男たち。傷はいまだに癒えていません。どうか、傷を癒してくれませんか。どのようにしたら傷が癒えて、私たち村人に、本当の戦後が来るのか、考えてもらいたいのです」とユスフ村長(上の画像)。



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家の庭には、旧日本軍の残骸が。


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“ニシハラ部隊”のニシハラ部隊長が使っていたという、コンクリート製のミニ塹壕の入り口。無理すれば十数人が入れそうなスペース。内部には通気口が一か所。かつて入口の上に日本語で書かれたプレートがあったというが、今はない。村が連合軍の空爆を受けた際に、部隊長らの避難場所になっていたそうだ。周辺には警備兵のための塹壕があったという。また別の場所には“ナカムラ部隊”の部隊長のためのコンクリート製の塹壕が残っているという。
「村人に語り継がれている話ですが、なんでも、日本軍は金製の像や刀を、ここから2kmの地点の地中に隠したそうです。それを掘り起こそうとした村人は、日本兵に処刑されたとか。今でも、村人はどこかに埋まっていると信じて疑いません」---ユスフ村長が話す。



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“ニシハラ部隊長”の塹壕内部とユスフ村長


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通気口


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塹壕内部から入口を見る


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外から見た通気口


村では、旧日本軍が残した武器・装備などを一か所に集め『戦争博物館』を建設する計画を持っている。付近の珊瑚礁の海底や砂浜の地中に投棄された装備なども回収したい考えだが、多量の弾薬や武器も一緒に捨てられているため、その回収は困難だ。「戦後、一人として日本人がこの村に来たことはない。ただし、日本兵の血を引く村人はいますがね(笑)。日本軍にとって最前線だったこの地に戦争博物館ができ、そこで平和の尊さを感じることは大切なことだと思います。日本の方で、建設に協力してくれる人はいないでしょうか?」とユスフ村長。、
取材中、乳飲み子を抱いた30代の女性が近づいてきた。「まだ生きているけれども、私の母エマは終戦間じかに、日本兵の“サノ”とアディテナお婆ちゃんとの間に生まれたの。だから私はサノの孫ね」と。



【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html

タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html

タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

西南東マルク県政府公式Website
http://www.mtbkab.go.id/

インドネシア文化宮(GBI)活動記録
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html

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マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}マルク州MTB(西南東マルク)県のセラル(Selaru)島。日本軍の最前線基地があったリンガット(Lingat)村の西方、最西端のイリアサ(Iljasa)村へ至る途中に、広大な平らな台地がある。通称ケブン・トゥアウ(Kebun Tuau)と言われている地域だ。ここには大戦中、日本軍が建設しようとした(完成していたのかどうかは不明)滑走路跡がある。とにかく、だだっ広い。ユスフ村長によれば、その長さは3kmにも達するそうだ。対オーストラリア攻撃のた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/06/14 12:13
マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
{%爆弾webry%}日本軍が進駐した時8〜16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。 ...続きを見る
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2008/06/15 22:22
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
{%火webry%}太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、... ...続きを見る
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2008/07/03 14:17

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