【MTB(西南東マルク県・West South-East Molluccas Regency)のあらまし】 陸面積は約14,584km2(11.63%)、海上面積は約110,838km2(88.37%)。134の島々から構成。内110は無人島。主要な島はタニンバル(Tanimbar)諸島、ババル(Babar)島、レモラ(Lemola: Leti島、Moa島、Lakor島3島の略称)諸島、そしてウェタル(Wetar)島。17郡187村。27の言語。人口は152,247(2000年)。2002年8月、南東マルク県から分離。1都市(アンボン)と7県から成るマルク州(人口約133万人)の1県。但し、2008年7月19日にも、ババル島からウェタル島までの島々が、同県から分離し、MBD(マルク南西)県として新たな行政をスタートさせる予定。MBDはその県都をモア(Moa)島のティアクール(Tiakur)に置く予定。この結果、MTB県はヤムデナ(Yamdena)島を核とするタニンバル諸島のみとなる。宗教構成は、プロテスタントが約45%、カトリックが約38%、その他のキリスト教が約12%、そしてイスラムが5%。圧倒的にキリスト教率が高い。この背景には、“香料諸島”を目指したヨーロッパ勢力の進出が大いに関係している。7世紀の唐の時代には、すでに、中国から香料を求めて中国人がマルク一帯にやってきたとされる。そして9世紀にはアラブ系商人が、やはり香料に惹かれマルクに。そしてこれに伴って14世紀頃までには、アラブ人を通じてイスラム教が同地にもたらされた。一方、12世紀にはスリウィジャヤ王国、そして14世紀にはマジャパイト王国がスマトラ島・ジャワ島からマルク諸島一帯までをも支配したとされる。大航海時代の到来は、マルク諸島を劇的に変化させた。1512年にポルトガル船がヨーロッパ勢として初めて到達。地元の王国と友好を結ぶ一方で、香料取引に足場を作った。1546年2月には、あのフランシスコ・ザビエルもやってきた。この頃からキリスト教の布教も本格化したものと思われる。しかし、1570年には、地元民の抵抗の末、ポルトガルは撤退。やがて、同地域の支配権はオランダに移る。VOC(東インド会社)の下、その後約350年間、オランダは香料取引を独占する一方で、キリスト教の浸透にも努めた。1800年、英国はオランダの追い出しをスタート、1810年、その実現に成功。しかし、1814年、英国は東インドを再びオランダに返すことを余儀なくされた。 上の画像は:サムラキ市郊外の西オリリット(Olilit Barat)地区に5年前から建設が始まった観光スポット“聖地”の「Findrwar(フィンドゥワール・たくさんの石柵の意味)」。キリスト教にちなんだ数々の像(イエス・キリスト像、マリア像、キリスト&マリア像、十字架に張り付けられたキリスト像など)が、海が見える高台に建つ。 MTB(西南東マルク)県政府のパンフレットによれば、州都から遠く離れ、いわんや首都ジャカルタの遥か東の外れに位置することから、“インドネシアの忘れられた島々”と、そのネガティブ面を逆手にとって長所として紹介している。2008年6月時点での航空網は、メルパティ(Merpati Nusantara Airlines)がアンボン→サムラキ→キサール島→サムラキ→アンボンのルートを週2便就航。またトゥリガナ航空(Trigana Air)がアンボン→サムラキ→トゥアル→アンボンを週2便就航している。船便はさておき、貧弱な航空路は、これまで同県をまさに“Forgotten Islands”にしてきた。天候に大きく左右され、また小型双発機しか離着陸できないオリリット(Olilit)空港の規模が、その背景にある。そこで、同県政府は、2010年開港を目標に、県都サムラキの北東に位置するロルルン(Lorulun)に1,700メートルの滑走路を建設中だ。これが完成すると、ジェット機は無理だが、F-27型機のような中型双発機の離着陸が可能となり、航空事情は格段に向上する。 MBD県が生まれると多少事情は変わるが、MTB県は、東ティモールとオーストラリアという二つの隣国と接する位置にあるため、県政府は“忘れられた島々”のロケーションをして“黄金の三角地帯”に変貌させようと目論んでいる。すなわち、国境の地を活かして、豪州と東ティモールとの貿易・交流を進める計画だ。特に、豪州との関係は最優先課題だ。このため、2005年7月には県政府自らダーウィンへ出かけて、サムラキ市と同市との友好都市締結を持ちかけ、基本合意に達している。そして遠くない将来、この基本合意を踏まえて、教育や医療面での協力関係に関する覚書を結ぶ計画を持っている。 2002年の南東マルク(Maluk Tenggara)県からの分離による新県の誕生から6年。遅いと言えばその通りかもしれないが、今ようやく新県としてのインフラ整備が終盤を迎えている。サムラキの高台には、赤瓦平屋建ての官庁街が出現し、県庁ビルも完成間近。そして三ツ星を謳うホテル・ギャラクシーもオープンした。 タニンバル諸島は、かつて太平洋戦争の時代、日本軍にとって、連合国と対峙する“最前線”と位置づけられていた。このため、今日のMTB県の主要な島に、その地元住民数並びに農水産能力とは不釣り合いな規模の日本兵が駐屯した。また、日本軍の“最前線”はそのまま連合国軍の“最前線”をも意味し、その結果、海上・航空能力で優った連合国軍の攻撃を受け、多数の地元住民もその犠牲者となった歴史がある。疑心暗鬼が軍と住民双方に生まれやすい緊張感に包まれた最前線。この結果、後述するが、日本軍による地元住民の大規模虐殺事件もMTB県の一角であるババル(Babar)島で起きている。 “忘れられた島々”からの離脱を賭け、SDD(Saumlaki・Darwin・Dili)ゴールデン・トライアングル構想を推し進めるMTB県。計9回の予定で、『タニンバル紀行』シリーズを掲載します。 タニンバル諸島はオーストラリアのダーウィンからおよそ500km。2005年7月、サムラキ市とダーウィン市は、将来、友好都市を締結することで合意。これまで5回、ヨットレースの「Sail Saumlaki(ダーウィン→サムラキ)」が開催されており。今年は7月19日に第6回目を実施予定。 マルク州の州都アンボンのパティムラ(Pattimura)空港。メルパティ航空の双発小型機がヤムデナ島のサムラキまで就航している。所要時間およそ3時間。 アンボンとサムラキの間には、“地震の巣”とも言われるバンダ海が。 ヤムデナ島の東南端に県都のサムラキが位置する。その南西には、かつて日本軍が最前線を置いたセラル島。 メルパティ航空の機内。およそ20人乗り。 サムラキのオリリット(Olilit)空港(撮影:MTB県政府) 天候が悪い時期は、頻繁に飛行がキャンセルされる。確実な空路の確保がMTB県の優先課題の一つ。県はサムラキ市北東のロルルン地区に新たな空港を建設中。 サムラキ空港のターミナル“ハウス”。市内からは十数分の距離。 下の3枚の画像はサムラキ市内の海岸通り。新たなホテル建設が進む。 下の2枚の画像は、サムラキの新港湾設備。下側は、同港湾の衛星画像。 MTB県政府が所有する、県内を就航する船。 港では、アンボンやティモール島のクーパンからの荷揚げが。 港近くには、外島から“輸入”された雑貨を販売する店が軒を連ねる通りが。建物の割には大きなパラボラアンテナ。テレビ放送の受信や携帯電話網は、インドネシアの他の島々と変わらないが、インターネット網の整備にはまだ数年要するものと思われる。 下の4枚の画像は、サムラキで2007年時点で最高級とされたHotel Harapan Indah(美しい希望)。宿泊客のために、乾季でも水の確保に力を注いでいる。食事はルームサービスを含めてすべて現金払い。華人青年が経営者で、バリにもアンティークショップを持っているとか。【タニンバル関連ブログ】 タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk) http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html 戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか? http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html 西南東マルク県政府公式Website http://www.mtbkab.go.id/ インドネシア文化宮(GBI)活動記録 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html |
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マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbal, MTB, Maluk(2)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}西に東ティモール、南にオーストラリア。MTB(西南東マルク)県は、海を隔てて二つの異国と接している。この地理的状況を活かして、州都アンボンや首都のジャカルタばかりに顔を向けてきたこれまでの姿勢を変え、同県は、二国とを結ぶエリアを“成長の三角地帯”と位置付けている。特に、老後をヨット遊びに熱中する豪州の豊かな階層は、最も有望な外国人観光客と捉えられている。そのため、ダーウィン(Dawin)→サムラキ(Saumlaku)のヨットレース(Sail S... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/09 19:48 |
マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbal, MTB. Maluk(3)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}“エキゾチックな海洋・文化パラダイス(The Exotic Marine and Culture Paradise)”をキャッチフレーズに、“忘れられた島々(Forgotten Islands)”の手つかずの、美しい自然、殊に“サムラキ・ブルー”の海と珊瑚礁、そして白砂のビーチを資本に、楽園リゾート地を夢見るMTB(西南東マルク)県。 海洋に活路を見出すことは理にかなっている。同県の面積を考慮しても歴然だ。およそ125千km2の内、約88%は... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/10 12:41 |
マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbal, MTB, Maluk(4)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}スハルト政権の崩壊に始まったインドネシアの民主化と地方自治の向上。次から次へと新たな州が誕生。いわんや県となるとまさに雨後の筍の勢いで増え続けている。“多様性の統一”といえばインドネシアが独立以来掲げてきた国家スローガンだが、今や“多様性の共存”の時代を迎えている。SARA(Suku=民族、Agama=宗教、Ras=種族、Antargolongan=階層・グループ)を異とする人々が、言語、慣習、文化を同じくする民族集団(Suku Bangsa)... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/11 16:43 |
マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}「セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。日本軍兵士による虐待は、それは酷いものだった。多くの女性が慰安婦にさせられた」---マルク州MTB(西南東マルク・Maluk Tenggara Barat)県の... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/12 15:05 |
マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。ユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長(36歳)が語る。 「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/13 13:18 |
マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}マルク州MTB(西南東マルク)県のセラル(Selaru)島。日本軍の最前線基地があったリンガット(Lingat)村の西方、最西端のイリアサ(Iljasa)村へ至る途中に、広大な平らな台地がある。通称ケブン・トゥアウ(Kebun Tuau)と言われている地域だ。ここには大戦中、日本軍が建設しようとした(完成していたのかどうかは不明)滑走路跡がある。とにかく、だだっ広い。ユスフ村長によれば、その長さは3kmにも達するそうだ。対オーストラリア攻撃のた... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/14 12:13 |
マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
{%爆弾webry%}日本軍が進駐した時8〜16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。 ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/06/15 22:22 |
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
{%火webry%}太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、... ...続きを見る |
インドネシア文化宮 2008/07/03 14:17 |
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