テーマ:上杉重邦

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(22) 第6飛行師団第14飛行団司令部

上杉重邦軍医少佐(戦死時大尉)の戦没地に関する考察を21回にわたり連載してきた。現時点で入手可能な記録を読み解き、幾つかの想定シナリオに基づいてその疑問に迫った。しかしながら、満足できる結論を導き出せないでいる。今号をもって、第一シリーズを終了する。上杉少佐並びにご遺族に申し訳ない気持ちで一杯だ。 上杉重邦軍…
トラックバック:45
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(21) 第6飛行師団第14飛行団司令部

連合軍上陸時(昭和19(1944)年4月22日)、ホランジア地区とセンタニ湖周辺にいたおよそ1万5千の日本軍将兵。ホランジアに限っても、把握できているだけでもおよそ2,700名が同地で戦死している。それらの部隊名は、建築勤務第52中隊(617名)、野戦高射砲第68大隊(674名)、海軍第90警備隊(217名)、海軍第9艦隊司令部(2…
トラックバック:9
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(20) 第6飛行師団第14飛行団司令部

上杉重邦軍医大尉が、連合軍ホランジア上陸時(昭和19(1944)年4月22日)以降、センタニ湖北岸のコヤブにあった第113兵站病院(通称陣之内兵站病院)へ、何らかの事由で出かけていた可能性は否定できない。第14飛行団司令部が置かれたセンタニ飛行場群付近にいなければ、稲田正純第6飛行師団長心得による「サルミ転進」命令に基づいて第14飛…
トラックバック:9
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(19) 第6飛行師団第14飛行団司令部

連合軍がホランジア(現パプア州の州都ジャヤプラ)に上陸した昭和19(1944)年4月22日。日本を発つ段階での赴任先である第14飛行団司令部附けであれば、おそらくセンタニ飛行場群付近にいたであろう上杉重邦軍医大尉。しかし、同地の戦局が歴史的急変を告げる最中、瞬時に生まれた多数の負傷者救命活動の中、上杉大尉が、センタニ地区を離れて、ホ…
トラックバック:12
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(18) 第6飛行師団第14飛行団司令部

『恩田部隊473名(戦闘操縦者を主とし、飛行団司令部を含む)は、ゲニム(注:ゲニェム)に向って行軍を開始した。サルミまでは当然、海岸線を行けば、距離も近く、行軍も楽ではあるが、タナメラ海岸にも敵が上陸しているので、いったん奥地に向い迂回して海岸線に出ようというわけである。二十四日の昼間は、センタニ湖の北岸斜面の林の中で休み、夜になっ…
トラックバック:12
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(17) 第6飛行師団第14飛行団司令部

生きていて長命であったのならば、上杉重国軍医大尉は、昨日8月25日、102歳の誕生日を迎えていたはずだ。34歳の誕生日まであとわずか2週間。岡山医科大学を卒業し日本陸軍軍医となった上杉は、祖国に妻ビワ子と三人の娘を残し、“南涯”の西部ニューギニアでこの世に別れを告げた。長女の一江は今でも父の足跡を探し続けている。父の終焉の地、そして…
トラックバック:13
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(16) 第6飛行師団第14飛行団司令部

上杉重邦軍医大尉が、昭和19(1944)年4月末時点で、おそらくホランジア・センタニ飛行場群地域にいたことは、あてはまらない情報の消去法によって導かれる結論だ。フンボルト湾、そしてタナメラ湾の東西両方向から同地へ“向こう見ず作戦(Operation Reckless)”と呼ばれる上陸を完遂した連合国軍。同地にいた約1万5千の将兵は、…
トラックバック:15
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(15) 第6飛行師団第14飛行団司令部

終戦のほぼ一年前、昭和19(1944)年8月10日、「ホランジア(現パプア州の州都ジャヤプラ)方面で戦死」とされている第6飛行師団第14飛行団司令部附け軍医の上杉重邦大尉。戦後、一途に父親に関する情報収集に努めてきた、現在広島都市学園大学で公衆衛生看護学の教授を務める瀬野尾一江さん。韓国併合の年、時代が大正に移る二年前、明治43(1…
トラックバック:14
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(14) 第6飛行師団第14飛行団司令部

すでに書いたが、三好正之軍医中尉の第36師団(雪部隊)第224連隊従軍記を描いた『戦場の聴診器』(中田整一著・2008年9月15日初版・幻戯書房)によれば、三好中尉は昭和19年1月末、秋津丸で広島の宇品港発。2月20日、マニラ着。3月19日、マニラから軍用機で出発。ミンダナオ島のダバオ、スラウェシ島のメナドを経由してマルク諸島のアン…
トラックバック:15
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(13) 第6飛行師団第14飛行団司令部

『小学6年生か中学1年生の頃だったと思いますが、家にあった父からの葉書を読みました。どこから送ったのか、いつ日本に着いたのか今では分かりません。というのも、その後、火事に遭って焼けてしまったのです。でも軍事郵便の消印がなかったことははっきり覚えています。ですから、きっと誰かに託して日本に届いたものと思います』---上杉重邦軍医大尉の…
トラックバック:16
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(12) 第6飛行師団第14飛行団司令部

軍医大尉という地位、しかも当時西部ニューギニアの主力航空戦闘部隊であった第14飛行団司令部附け軍医としての赴任だったことを考慮すれば、上杉重邦大尉の戦没地が「ホランジア方面」と記されたことは腑に落ちない。仮に、航空機搭乗中の事故もしくは戦闘による撃墜などにあったのであれば、それはその墜落地点が明確に特定できなくとも、少なくとも、搭乗…
トラックバック:17
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(11) 第6飛行師団第14飛行団司令部

上杉大尉は明治43(1910)年8月25日広島県生まれ。日華事変(盧溝橋事件)が起きた翌年、国家総動員法が成立した昭和13(1938)年3月、岡山医科大学を卒業。同年6月3日、広島県尾道生まれのビワ子と結婚。同年10月10日、軍医候補生として歩兵第39連隊(姫路編成)補充隊(衛生軍曹)に入営。同年11月12日、衛生曹長に進級、見習士…
トラックバック:19
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(10) 第6飛行師団第14飛行団司令部

戦死の日時や場所については、通常、生存している所属部隊の上官、もしくは最も高位の上官が記すのが常だ。ただ終戦にあたり、あるいは外地からの復員の際に、記録書類の焼却や没収があり、戦死公報に必ずしも正確な日付や戦没地名が書かれているとは限らない。 第14飛行団司令部附け軍医・上杉重邦大尉と妻のビワ子さん 一…
トラックバック:19
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(9) 第6飛行師団第14飛行団司令部

2012年8月15日の第67回目の終戦記念日。そして今日8月17日、インドネシア共和国は第67回目の独立記念日を迎えた。インドネシアの“ムルデカ(独立)”と日本軍進駐との関係については、日本側に日本軍の存在意義を見出そうとする見解が少なくない。特に「ジャワの極楽」と謳われた、ジャワ島で終戦を迎えた旧日本兵にその傾向が強いように見える…
トラックバック:20
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(8) 第6飛行師団第14飛行団司令部

67回目の終戦記念日が過ぎた。2012年8月15日は、背景の理由はどうであれ、隣国との歴史観の相違があらためて思い知らされた日でもあった。民主党政権の2閣僚が靖国神社に参拝したその日、竹島(韓国名独島)に同国大統領として初上陸し、天皇の訪韓条件について言及した韓国の李明博大統領が「戦時の女性人権問題として人類の普遍的価値と、正しい歴…
トラックバック:22
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(7) 第6飛行師団第14飛行団司令部

極めて貧弱なホランジア(現ジャヤプラ)地上守備兵力。そしてセンタニ飛行場群で空襲によって多くの戦闘機や爆撃機を一瞬にして失った日本軍。赤子を弄ぶかのような連合軍による空爆と上陸作戦。“向こう見ず作戦(Operation Reckless)”と名付けられたものの、結果的には“やり放題作戦”と表現してもいいほどの圧倒的な連合軍の優勢。 …
トラックバック:26
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(6) 第6飛行師団第14飛行団司令部

昭和19(1944)年3月末のホランジア(現ジャヤプラ)飛行場における第4航空軍(寺本熊市中将)が被った空襲被害・戦力喪失は、想定外の致命的な規模であった。このため、東京の大本営はその責任を問う形で、航空戦指導者の大規模な更迭を行った。 上杉重邦軍医大尉 4月1日付で、新第6飛行師団長心得に稲田正純少将…
トラックバック:28
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(5) 第6飛行師団第14飛行団司令部

上杉重邦軍医大尉がホランジア(現西部ニューギニア・パプア州の州都ジャヤプラ)に着任したと推定される昭和19(1944)年1月~2月は、同方面の戦局が急速に悪化をたどる初期段階だった。元々、ホランジアは南方軍(寺内寿一元帥陸軍大将)の作戦地域に指定されていたが、南太平洋域の戦闘激化に伴って、昭和18年4月2日以降、第8方面軍(今村均中…
トラックバック:29
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(4) 第6飛行師団第14飛行団司令部

前号で記述したが、三好中尉や池見(羽生)少尉の二人の軍医が、昭和19(1944)年初頭に、各々およそ一ヵ月間を要して西部ニューギニアに到着しているケースから推察して、上杉重邦軍医大尉の場合もおそらく同程度の時を経てホランジアに着任できていただろうと考えられる。つまり、例えば昭和18年12月中旬に広島を発ったとすると、翌19年1月中旬…
トラックバック:30
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(3) 第6飛行師団第14飛行団司令部

上杉重邦軍医大尉が日本からニューギニアに旅立った昭和18(1943)年末。実は、上杉が着任する予定の第14飛行団(真第9135部隊)の団長である徳永賢治大佐は、すでにホランジアにいた(『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著に記述)。 上杉重邦大尉と妻のビワ子さん 第14飛…
トラックバック:30
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(2) 第6飛行師団第14飛行団司令部

昭和18(1943)年12月13日、第14飛行団司令部附けとなり、妻と三人の娘を日本に残し西部ニューギニアに向った上杉重邦軍医大尉。広島から軍用機でホランジア(現ジャヤプラ)を目指したとされる。ホランジアに到着したのかどうかは確認材料がない。当時、第14飛行団(真第9135部隊・徳永賢治大佐)は第4航空軍(寺本熊市中将)の第6飛行師…
トラックバック:31
コメント:0

続きを読むread more

上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか? 第6飛行師団第14飛行団司令部

終戦記念日が近づくと、思い出す人がいる。過去数年間にわたり消息を追いかけてきたが、今年も確定的な情報を入手することはできなかった。 上杉重邦少佐(中尉時代の昭和16年夏頃の撮影と思われる) 上杉重邦軍医少佐。戦死公報によれば、昭和19(1944)年8月10日、西部ニューギニア(現在のインドネシア共和国パ…
トラックバック:32
コメント:0

続きを読むread more