玉砕のマピア島から生還した秋田県人 『歩兵第二百二十三聯隊史』小幡第六中隊の消息

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13年前の2008年12月21日にアップした、太平洋戦争の激戦地の中でも、余り語られることのなかったマピア(Mapia)島の玉砕戦。戦後に著された国内外の幾つかの戦史では、マピア諸島に派遣された、歩兵第223連隊第2大隊第6中隊(注:第二軍や第35師団、第36師団の関係者は、第7中隊と表記しているが、正しくは小幡猛夫中尉指揮下の第6中隊)は、151名の総員が玉砕したとされている。

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島
https://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_22.html

しかしながら、その後の資料収集過程で、あらたな事実が見つかった。戦後35年目の昭和55(1980)年8月24日に、秋田県雪部隊親交会(注:第二軍隷下でサルミ(Sarmi)に拠点を置いた第36師団)によって発行された『歩兵第二百二十三聯隊史』の豪北編第六節の「小幡第六中隊の消息」。

歩兵第223連隊第6中隊戦記

https://youtu.be/2tIBKTNXEGY

この記録によれば、サルミからのマピア諸島派遣時点での小幡隊の総人員は151名。内訳は、小幡第6中隊が128名。速射砲分隊が13名。連隊無線分隊が10名。これに、経由地のマノクワリ(Manokwari)から第2軍工兵分隊の6名が加わり、総勢計157名。そして部隊は、5艘の小船で昭和19(1944)年4月9日夕刻、マノクワリを出港、翌10日、マピア諸島のペグン島(Pegun・日本軍はペガン島と呼んだ)に上陸。

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それからおよそ7ヶ月後、米軍は、事前の激しい艦砲射撃・空爆に次いで、11月15日、水陸両用戦車をもって、ペグン島と、ブラス(Bras)島に上陸作戦を敢行。そして、この日をもって、マピア諸島の日本軍玉砕の日とされてきた。米軍公刊戦史も、11月15日を同島の制圧日とし、日本軍将兵の玉砕数は151名であったと記録している。

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1944年11月15日、米軍によるマピア諸島上陸作戦を支援した米航空部隊が撮影したペグン島(U.S.Army)

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1944年11月15日、米軍によるマピア諸島上陸作戦が始まった(U.S.Army)

史実と事実は、紙一重で異なることがある。まさに、それは大波が襲えば消えてしまいそうな、海抜わずか1mの、扁平のサンゴ礁の小島群で起きた。敵軍に制空・制海権を完璧に握られ、さらに小舟やカヌーさえ持たない小幡中隊。一方で南に位置するペグン島に残置してきた患者、糧秣、武器弾薬を、中隊が移転してきた、北のブラス島に移送するため、小幡中尉はブラス島の西北西およそ3kmに位置するファニルド島(Fanildo・もしくはバニルド・Vanildo。日本軍は西小島と呼称。当初は現地人がいたが、米軍は数日前に大爆撃を住民に予告し、島外へ退去させていた)で住民が持っているであろうカヌーを入手するため、米軍上陸前夜の11月14日夜、「西小島派遣決死隊」の志願者を募った。

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これに果敢に応じたのが、後に玉砕を免れることとなった四名。西村秀三郎伍長、西根正兵長、小玉幸之助上等兵、安保庄司一等兵。全員、秋田県出身者だ。運命とは、まさに神のみぞ知るのか。先任班長となった西村伍長以下四名は、同夜、干潮で海面が下がったとはいえ、首近くまで海水が浸かるバリアリーフ(堡礁・ほしょう)を、褌一つの姿で、手榴弾二発を手に、西小島へ向かった。

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しかし、そこにカヌーは無かった。そして戦況は激変した。翌11月15日払暁、西小島から臨むペグン島とブラス島は、航空母艦を含む敵艦隊26隻に包囲され、猛烈な艦砲射撃と空爆に見舞われていた。昭和19(1944)年11月15日、ペグン島、ブラス島の友軍は潰滅、戦車で蹂躙された戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。15日深夜、ブラス島に戻った四名は、まさに地獄絵図を見た。

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実は、この戦闘で生き残った兵士がいた。桑畑兵長(マノクワリの第二軍から小幡隊に加わった工兵分隊の一人)。昭和20(1945)年5月頃、四名は敵軍が退去したブラス島内で潜伏自活を営んでいたが、偶然桑畑兵長と遭遇し、以降5名で隠れ穴での暮らしが始まった。しかし、一ヶ月後の6月、桑畑兵長は、島に狩猟にやってきた現地人によって射殺された。しかし、生前の桑畑兵長の証言によって、小幡隊玉砕の模様も明らかになった。もはやこれまでと最期を決意した小幡中隊長以下約30名は、散兵壕内で手榴弾を使い自決。

再び、四名のみとなった決死隊西村班は、マピア諸島からの脱出を計画した。海岸に打ち上げられたドラム缶を縛って筏を作り、夜間に航行演習を行い、ニューギニア本島への脱出決行日を待った。四名が乗った筏は、昭和20(1945)年8月頃、八日間の漂流の末、マピア島から直線距離で約205km、西部ニューギニアのマノクワリとハクハクの中間点に位置するインボアンと言う名の村に辿りついた。そこで、四名は初めて日本軍の敗戦で戦争が終わっていたことを知る。祖国の地を踏んだ生還者4名。つまり、同諸島での戦没者数は153名となる。合掌。

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インボアン村は、現在の西パプア州、マノクワリ県アンベルバケン(Amberbaken)郡最西部にあるインブアン(Imbuan)村と推察される。


【参考動画】


Cerita Perjalanan Ke Mapia Island Pulau Brass-Papua Indonesia(2019/07/30)
ブラス島紀行
https://youtu.be/1yK1hhXVfCs


Ekspedisi Batas Negeri Kepulauan Mapia, Supiori Barat, Papua(2019/03/12)
西スピオリ県マピア諸島・国境探検
https://youtu.be/7cYja3Si17Q


公立マピア小学校を訪ねて
Berkunjung Ke SD Negeri Mapia(2020/08/25)
https://youtu.be/SwtLKhHLB3M

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