インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)

アクセスカウンタ

zoom RSS 海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(5)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦

<<   作成日時 : 2016/10/27 00:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像

歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。


海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(5)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
https://youtu.be/yqNcojb0xYY

画像



海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(4)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
https://youtu.be/HmiShr9Owfw

画像



海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(3)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
https://youtu.be/E8iQ_zpWao4

画像


画像


表紙に「Memorandum」とアルファベットで刻印された、青緑色の手帳。1ページ目に「軍人勅諭」が、数ページ後ろに「軍属の五ヶ条」が青インクの万年筆で書かれている。この手帳は、持ち主ともども一度海中に没したことがあるため、インクの滲んだ箇所が多く、判読できない文字・文章もある。手帳の持ち主は小池省吾さん。明治44(1911)年11月5日、北海道札幌郡廣島村で生まれた小池さんは、戦死公報によれば、昭和19(1944)年8月10日、ビアク島で没した。

家族宛の「遺書」のページもあるこの手帳。出征前、東京板橋のタクシー会社に乗務員として勤めていた小池省吾さんは、業務日誌を書くことを常としていた関係だろうか、実に几帳面に日々の出来事を克明に記録している。


海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(2)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
https://youtu.be/dDLRhPU9UPA

海軍第202設営隊。小池省吾さんが属していた部隊だ。海軍設定隊とは、飛行場も含めて海軍関連諸施設を建設維持するために編成された部隊で、先の大戦中に編成された設定隊の数は200数十と言われる。その中でも第202設営隊は、最初の“玉砕設営隊”と呼ばれる。昭和18(1943)年11月15日、横須賀で編成されたこの部隊(860名)は、翌19年6月、ビアク島で玉砕。捕虜になった60数名を除けば、その戦死率は93%にも上った。

画像


海軍第202設営隊は、『海軍設営隊の太平洋戦争』によれば、昭和18(1943)年11月15日横須賀で編成となっているが、小池省吾さんが記した手帳の日誌によれば、昭和18(1943)年10月15日午前7時に東京都庁前に集合し、そこから神奈川県の藤沢駅まで行き、トラックで指定された工員宿舎に入った。そして、集中訓練を終えたちょうど二ヶ月後の12月14日、横浜港を宇洋丸でニューギニアに向け出航した(注:宇洋丸は、九州の大分県・佐伯東方海上を南進中、同年12月21日、午前11時40分頃、米潜水艦Selfishの魚雷攻撃により沈没、およそ200名の工員と水谷登司雄、山中静夫両海軍技手を失った)。


海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(1)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
https://youtu.be/hsYLjWpDSDI

この日の出来事を小池省吾は手帳に次のように鉛筆で書き記している(注:前日までは青インクの万年筆を用いていたが、沈没によって万年筆を失ったものか、翌日の記述は鉛筆に替わっている)。「11時30分魚雷ヲ食フ。ダイハツニ乗リ離船シテヨリ轉ヲタッシ 高木(注:第1中隊1小隊第2班の高木俑吉さんのことか)鈴木氏(注:同班の鈴木牛道氏のことか)小生ト三名ナル。 三時半本船ニ上ゲラル。六時 佐伯海軍航空隊ニ集容(注:収容)セラル。夕ニ入リニギリヲ裁キ夜分十二時寝ル」。



【故小池省吾海軍軍属のプロフィール】

明治44(1911)年11月5日、北海道札幌郡廣島村生まれ。
昭和18(1943)年10月15日、海軍第202設営隊(神奈川県藤沢)入隊。
昭和18(1943)年12月14日、宇洋丸でニューギニアに向け横浜港出帆。
昭和18(1943)年12月21日、大分県佐伯東方海上で敵潜水艦魚雷により撃沈されるも、佐伯海軍飛行隊に救助される。呉・三子島を経由して極秘裏に横須賀に戻る。
昭和19(1944)年2月21日、再編した海軍第202設営隊は、豊岡丸にて横浜港出帆。
昭和19(1944)年4月3日、ハルマヘラ島カウ(カオ)到着。
昭和19(1944)年4月上旬〜5月初旬、ビアク島上陸。
昭和19(1944)年8月10日、戦死(33歳の誕生日まで三ヶ月未満。祖国には身重の妻と三人の息子が)。
昭和21(1946)年12月7日、横須賀地方復員局は遺族に戦死を伝える。戒名は『殉國院釈義剣』。


1944年5月27日の連合軍ビアク島上陸後、海軍第202設営隊の軍属工員約720名並びに指揮部隊など総計860名(但し内60数名は捕虜となり戦後帰還)はどのような運命をたどったのか?これを知る唯一の手がかりが、元同設営隊の海軍書記であった帰還兵・小林福市氏(故人)の手記にある。『濠北を征く』(濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日発行)の同氏による記録『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば次のような経緯を辿っている。

1944年5月27日までの数日間
「爆撃によって破壊された滑走路の修復を、徹夜により延数十台のトラックを以って行う賽の河原の数日が過ぎ、他
方空爆を避けつつ半年分の糧秣の奥地移動も完了して五月二十七日の海軍記念日を迎えた。ハルマヘラから連れて行った豚や鶏の料理をすべく、烹炊係は徹夜で腕を振っていた。上陸後まともな食事をして居ない全員は、豪華な記念日の朝食を期待しつつ、朝の整列をした午前七時、朝靄を衝いて敵の第一弾はビアク全島に木霊した」

1944年5月30日
「深更ニ〇ニ設江畠中尉(注:第3中隊)、仲村少尉(第3中隊附)は工員数十名を指揮し、ワルドより弾薬輸送の為め折柄の新月を利して出発」

1944年5月31日
「設営隊は連夜西洞窟後方盆地にて烹炊。暗闇を利し握飯を前線陣地に運搬。夜明け前に帰着するを常とす」
(注)この頃は、まだ西洞窟の外にいたものと思われる。

1944年6月1日
「西洞窟附近の爆撃甚しく、鍾乳石の群叢破損落下し負傷者続出。洞窟外に在ったニ〇ニ石崎獄夫主兵曹戦死」

1944年6月4日
「連絡中のニ〇ニ設営隊佐久間軍之助一水還らず」

1944年6月5日
「正午頃敵艦砲三弾洞窟内に炸裂。ニ〇ニ設隊員三名戦死」
(注)この時点では202設営隊の工員は西洞窟内にいたものと思われる。

1944年6月6日
「飲料水糧食欠乏。兵員の疲労漸く顕著となり、過半数アミーバー赤痢に罹る。(中略)ツルハシの柄を握ってとび
出した工員の還らざる者多くなる」
(注)非戦闘員である軍属工員も洞外に出て戦ったのか?)

1944年6月9日
「早朝より作戦会議。(中略)永田技少佐(注:永田亀雄・海軍第202設営隊隊長)等参集す。友軍兵員弾薬僅少と
なり敵戦車洞窟附近に出没す。之に対抗するに代用手榴弾を以ってす。即ちビール瓶に、ダイナマイト、カーリット
を詰め、蚊取線香にて導火線を発火せしめ、敵戦車の腹に投げ込み擱坐せしむるものでニ〇ニ設工員も参加す」
(注)小林福市海軍書記は手記『海軍部隊・ビアク戦闘日誌』の中で、さらに具体的に次のように書いている。「ニ〇ニ設の軍属十数名もダイナマイトに雷管をはさんだ三十センチぐらいの導火線を持ち、敵戦車の腹に投げ込んだ。これで軽戦車は擱坐させたが、中戦車には成果は少なかった」

1944年6月12日
「洞窟内凄惨、自決者多し。夕刻独歩可能傷者及ニ〇ニ設隊員等約七〇〇名洞窟を脱出水源地に向かう(水源地とは西洞窟の北方数里ワホール河上流の一地点なり)」
(注1)水源地は西洞窟西北約20kmのワホール川上流部。
(注2)独歩不可能な202設営隊工員は西洞窟内に取り残された模様。
(注3)西洞窟を司令部としていた千田貞敏少将(海軍第28別根拠地隊司令官)や葛目直幸大佐(歩兵第222連隊長)は6月22日未明に同洞窟を脱出した。

1944年6月13日
「中央丘陵地にて来援の第三十五師団の陸兵約三百に逢う。午後水源地着。設営隊員にて糧食及要担患者輸送す。(中略)設営隊仮住居急設」
(注)西洞窟を脱出したものの、食糧の運搬や患者輸送などに動員された模様。

1944年6月14日
「設営隊員にて野草蒐集、糧秣不足を補う」

1944年6月17日
「患者及負傷者の診察あり、敵砲撃音近づく」

1944年6月19日
「松尾正義技中尉隊員五十名を指揮し、糧秣運搬の為洞窟附近へ向う。一日の糧食は水草混入の卵大のもの三ヶなり」

1944年6月20日
「海軍部隊刻々後退水源地に集結」

1944年6月22日
「洞窟内の重傷者全員自決せりとの事」

1944年6月23日
「水源地敵機の発見する処となり、機銃掃射を受け死傷者続出す」
(注)奥地での退避・自活生活中であっても敵機の攻撃を受け、死傷者が出た。

1944年6月24日
「ニ〇ニ設田島佐太郎軍属指揮の工員数十名、スピオリ島への新道開さくの為め出発」

1944年6月27日
「ニ〇ニ設営隊の大部分スピオリ島コリドへ移動と決定。松尾中尉指揮の約三百名は洞窟附近まで後退、西岸ワルド経由スピオリ島へ。江畠中尉指揮の約三百名は北岸コリム経由同島を目指し出発」

(注1)第1中隊(機械)に属した小池省吾が、この時点でも生存していたと仮定した場合、この西岸経由部隊、北岸経由部隊のいずれに参加したのかは不明。
(注2)松尾正義技術中尉は第4中隊(建築)隊長、江畠信義技術中尉は第3中隊(土木)隊長。小池省吾が属した第1中隊(機械)の隊長であった大沼忠雄技術大尉は、隊附の宇治川喜久男技術少尉や第2(土木)中隊の本多静夫技術少尉らと共に、千田貞敏少将(海軍第28別根拠地隊司令官)に随行し、12月下旬、スピオリ島北岸のニョインデまたはワブドリ付近で戦死されたものと推定されている。小池省吾が大沼第1中隊長に同行していたかどうかについては不明。

1944年6月29日
「千田司令官は水源地上流ニ粁ワホール河西方に移動。ニ〇ニ設永田技少佐以下早川軍医大尉、渓内主計大尉、工員数十名は山越えにて午後五時スピオリ島コリドに向う。重症患者は自決し、歩行患者五十名は三三防岩井衛生兵長引率し北海岸へ後退す」
(注)この「工員数十名」の中に小池省吾はいなっかた模様。なぜならば、永田隊長らと共に行動した場合、7月25日、ヌンホル島沖で沈没した大発に乗っていたことになり、海没したのならばその日が戦死日となり、あるいは捕虜となっていれば生還した。ちなみに小池省吾の戦死日は、戦死公報上では1944年8月10日となっている。つまり、6月27日に、西岸経由もしくは北岸経由で西隣のスピオリ島へ向かった約600名の中にいたと考えられる。

1944年7月24日以降
第202設営隊長の永田亀雄少佐のその後について、小林氏は以下のように記している。「七月廿四日夕暮、大発(注:大型発動機艇)にてスピオリ島ソエク附近よりマノクワリへ向け脱出、二十五日未明ヌンホル島附近にて敵襲を受け重傷の桑原三郎技大尉(注:第2中隊長)及び江畠信義中尉(注:第3中隊長)を拳銃にて介錯し、自らも拳銃にて自決し、沈み行く大発と運命を共にされた。同行の工員十数名は海中より敵に救助された」

小林氏はその後についても、以下のように触れている。

「かくして部隊は四散し七月以降の指揮、統率力は全く乱れ兵員の行動は不明となってしまった。激戦中は生命の貴さを些かも感じなかった兵隊も、一旦敵に背を見せると無精に生命が惜しく、敵を恐れ、明日こそは明日こそはと連合艦隊の救援を待ちあぐみつつ、方十里のビアク島を彷徨し、敵機の爆撃、機銃掃射のみならずパプア人の襲撃や飢餓によっても斃れて行ったのである」
★ちなみに第202設営隊主計科書記の小林福市氏は、自身の手記『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば、「昭和19年8月餓死直前の私は、パプア人の慮囚となった(同行者約三百名のうち生存者つまり虜囚となった者は私を含め五名だけ)」と記している。以降については触れていないが、おそらく他の日本人捕虜同様に、オーストラリアの捕虜収容所に送られ、戦後祖国に帰還したものと推定される。

(注1)当初、日本軍側に好意的であった地元パプア人が、日本軍の敗退傾向と並行して、次第に連合軍側の協力者に変貌していった過程は、数々の戦記や元兵士たちの手記に書かれている。また、日本軍上陸直後から連合国軍側の諜報や宣撫工作に就いた地元パプア人や華人も少なくなかったとされる。詳述は別の機会に譲るが、昭和19(1944)年8月、ビアク島で、日本軍が“土匪”と呼んだ半日の地元パプア人との交戦中に戦死した海軍軍属のケースは、まさに小林海軍書記が記している内容と一致する。

(注2)日本海軍による西部ニューギニア地域の軍政(民政)

ビアク(Biak)島は戦前、他のインドネシア地域同様にオランダ植民地の一角にあった。昭和17(1942)年3月初旬〜4中旬の海軍陸戦隊による西部ニューギニア地域の占領行動に伴って、ビアク島は日本海軍によって無血占領された。そして、海軍はビアク島の西隣のスピオリ島コリドに海軍民政府を置いた。まず始めに昭和17(1942)年5月26日、在アンボン(Ambon)の海軍セラム(Seram)民生部のマノクワリ(Manokwari)分駐員数名がマノクワリへ上陸し、翌27日、開庁式を行い、海軍による軍政がスタートした。そして同年12月に海軍による「ニューギニア民政府」が始まるまでのおよそ7ヶ月間、この「セラム民政部」が行政を担当した。ビアク島においてはボスネック(Bosnik)にインドネシア人郡長を任命配置したとされる。
昭和17(1942)年10月13日、東京で「ニューギニア民政府」が編成され、翌18年2月〜4月、総勢2,800名の民政府職員がマノクワリへ上陸した。ニューギニア民政府総監として任命された海軍司政長官の浜田吉治朗海軍中将は昭和18年1月、先んじて飛行機でマノクワリへ到着した。これ以降昭和19(1944)年2月1日に民政府が解体されるまでの実質1年間が「ニューギニア民政府」時代だった。以降終戦までの間は、昭和19(1944)年2月、ハルマヘラ(Halmahera)島のカウ(Kau)に設置された第26海軍建設部(一瀬信一海軍中将)が軍政を引き継いだ。そして5月20日、マノクワリに第28海軍建設部(浜中匡甫海軍少将・元ニューギニア民政府総務局長)が設置され、西端のソロン(Sorong)にはその支部が置かれた。

『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(1) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_18.html
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(2) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_19.html
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(3) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_20.html
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(4) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_21.html
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(5) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_26.html

西部ニューギアから新たな旧日本兵の遺骨情報が Nasib Tentara Dai Nippon
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201412/article_17.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201411/article_16.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201410/article_29.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201410/article_25.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201410/article_24.html
西部ニューギニアから祖国帰還を果たしたとされる“ご遺骨”だが
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201410/article_10.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201410/article_8.html
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵、そして生き続ける三八歩兵銃
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201409/article_26.html


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(8)
https://youtu.be/txI25WvDpXs


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(7)
https://youtu.be/sXP4LP91PxU


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(6)
https://youtu.be/HWBX60Uzgt0


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(5)
https://youtu.be/RlTHNzE2zaQ


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(4)
https://youtu.be/XSsi3XYoGEo


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(3)
https://youtu.be/RxcN1DlUqjI


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(2)
https://youtu.be/VmU07ybOXqo


西部ニューギニア第35師団・東2929部隊(歩兵第219連隊)玉砕記(1)
https://youtu.be/ljvDUEj_HwI


玉砕の記録・昭和24年刊「ニューギニア玉砕記」飛田忠廣著(5)
https://youtu.be/TmQBpTXASuo


玉砕の記録・昭和24年刊「ニューギニア玉砕記」飛田忠廣著(4)
https://youtu.be/tHFgQ9JpSLU


玉砕の記録・昭和24年刊「ニューギニア玉砕記」飛田忠廣著(3)
https://youtu.be/J16ISkK1CQg


玉砕の記録・昭和24年刊「ニューギニア玉砕記」飛田忠廣著(2)
https://youtu.be/tR_C550mR54


玉砕の記録・昭和24年刊「ニューギニア玉砕記」飛田忠廣著(1)
https://youtu.be/NflRV0FpeWY


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(12)
https://youtu.be/69kT99pnHkU


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(11)
https://youtu.be/9R1j2747twY


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(10)
https://youtu.be/j6heEwI465E


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(9)
https://youtu.be/a78-saLxfVQ


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(8)
https://youtu.be/0CszehU8boM


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(7)
https://youtu.be/YZ_auwdpwIQ


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(6)
https://youtu.be/RrnRWSZc2Zw


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(5)
https://youtu.be/f5WkjRAzBRo


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(4)
https://youtu.be/Wj82iTnLjnI


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(3)
https://youtu.be/JrUZCD93TPY


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(2)
https://youtu.be/6XjGJYc1aaY


「人喰密林戦記」に見るマノクワリ→イドレ転進作戦(1)
https://youtu.be/5VpgOP3F9XU


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(22)
https://youtu.be/DAQ9Ca2Jel8


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(21)
https://youtu.be/xArpi7mlhzU


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(20)
https://youtu.be/uPk2golPTv8


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(19)
https://youtu.be/WKxlXv86JqA


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(18)
https://youtu.be/0PoUCYuS4G4


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(17)
https://youtu.be/31WDcdbRNYA


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(16)
https://youtu.be/RijQtz9mdk8


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(15)
https://youtu.be/5gY4bQa8G7Q


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(14)
https://youtu.be/0hQWMH6QNIs


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(13)
https://youtu.be/27ms4y1GqFE


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(12)
https://youtu.be/6YdugAoC9ak


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(11)
https://youtu.be/GQmPZUxEJsU


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(10)
https://youtu.be/LnFvVcx_ols


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(9)
https://youtu.be/3B5DejbJg3A


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(8)
https://youtu.be/yYBN7amWjyY


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(7)
https://youtu.be/yDQ8U5SB1E4


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(6)
https://youtu.be/0oVKKjZezZw


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(5)
https://youtu.be/n3_XfCj3QDc


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(4)
https://youtu.be/bg0I5mrJbNU


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(3)
https://youtu.be/7LwiaqS4ALo


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(2)
https://youtu.be/7fjNZWvn_xc


野垂れヤカチ:マノクワリ→イドレ転進作戦の悲劇(1)
https://youtu.be/KpUnVJkUsUc

画像


画像

イドレ村の手前、イドレ川からそそり立つ石灰岩の岸壁。小さな洞窟内に3体を確認。岩山には地元民も入ったことのない無数の洞窟がある。

画像


画像

サルベ村から徒歩で約1時間。洞窟内には4体が。

画像

イドレ川。ニッパ椰子が川を覆うように両岸に群生している。

画像

旧海軍航空基地だったバボの飛行場。現在は、世界最大規模のLNG(液化天然ガス)生産を手掛けるBPが管理しているが、まもなく契約が終了し、空港施設は県政府に移譲される。この滑走路周辺にもたくさんの日本兵が埋葬されているという。

画像


画像

モミ・ワーレン(Momi Waren)のずっと先、シエプ(Syep)村では8体を確認。

画像

モミ(Momi)の日本軍飛行場跡。滑走路の跡地には連合軍空爆による無数のクレーターが今でも残っている。

画像

旧日本軍が建設した滑走路跡地に立つモミ村の小学生。「ここに日本軍がいたなんて聞いたことがない」と。歴史は風化の一途。
:画像は、2011年2〜3月取材

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(5)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦 インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる