インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)

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zoom RSS 西南東マルク県セラル島の動画の怪 Video Pulau Selaru, MTB Maluku

<<   作成日時 : 2012/05/07 00:00   >>

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インドネシア文化宮(GBI)は、You Tube上に計567本の動画をアップしている。その中にあって、今日現在で第二位の再生回数を記録しているものが『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島Selaru Islands MTB Maluku Indonesia』と題する動画だ。今からおよそ3年前に投稿した。

この動画の特徴は、何といっても、その“悪評”の高さに他ならない。高評価がわずか17人。一方、低評価は6倍近くの99人。この実情をどう評価するかは別問題として、なんとなく嬉しい気持ちになる。動画に投稿されたコメント欄をみていただければ分かるが、要は「説明文(日本語)」の内容が気に食わない、納得できない、そしてもう一点は「翻訳が付いていないのでよく分からない」だ。

元々、原語の記録性を重視するため、過剰な暇がない限り、動画に翻訳を付けてはいない。広く多くの人に視てもらいたいとも願ってはいないので、なお更、翻訳作業が億劫になる。いわんや、特定の思想を持ってアップしているわけでもない。あくまでも、客観的と考える取材の結果を、そのままドキュメントとして保存しているに過ぎない。

とは言え、投稿(2009年6月30日)から2年と半年ぐらいは、偶然見つけた方々が見ていたものだが、昨年の秋頃から、突然の急上昇。当方にもその理由が全く分からない。きっと、どこかのサイトで“問題視”する意見でも掲載されたのでは、と想像するのみだ。2012年5月6日現在で、57,382回の再生。

この動画は、2007年8月14日、終戦記念日の前日に訪れた、マルク州西南東マルク県(Kabupaten Malulu Tenggara Barat)のセラル(Selaru)島の、旧日本軍関係を映し出している。セラル島からオーストラリアのダーウィンまで直線距離でおよそ450km。まさに“最前線”の地だった。戦後同地を訪ねた日本人は『お前が初めて』と言われた小島。西隣には、日本軍による住民虐殺で知られるババル(Babar)島が浮かぶ。



日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島 Selaru Islands MTB Maluku(概略日本語字幕付き)
http://youtu.be/4QsYQvjKLpM


日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島Selaru Islands MTB Maluku Indonesia(インドネシア語)
http://youtu.be/R8niyesLdqo

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戦争の記憶 東部インドネシアで聞いた日本の歌 Lagu Dai Nippon di Indonesia
http://youtu.be/9eCARwaNDb4

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以下、かつて掲載したシリーズから、動画に関連する部分を再録する。

セラル島

セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。ユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長(36歳)が語る。
「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村人は巻き込まれてしまった。連合軍の爆撃でたくさんの家屋が破壊され、焼かれた。日本兵による拷問で死んだ村人もいたが、少なくとも200名近くの村人が連合軍の爆撃に巻き込まれて亡くなった。村の墓を見てください。一目瞭然です。それから、村の若い女性たちが性暴力の犠牲者となった。その数は約50名。日本軍によって強制的に性の奉仕をさせられたのです」
リンガット村ではあの“先の不幸な大戦”が終わっていないような錯覚にとらわれる。到る所に“戦争”が残っている。日本から赤道を越え、5千キロ以上もの長旅をして運ばれてきた、日本軍の武器・装備が残骸となって視線に飛び込む。
「繰り返して言いますが、私たちは罪のない犠牲者です。人間としての威信を傷つけられた女性たち。そして意味のない軍票で強制労働に従事した男たち。傷はいまだに癒えていません。どうか、傷を癒してくれませんか。どのようにしたら傷が癒えて、私たち村人に、本当の戦後が来るのか、考えてもらいたいのです」とユスフ村長。

ユスフ村長のアレンジで、日本軍時代を知る5人の長老に集まってもらった、同日中に県都のサムラキに戻らなくてはならない時間的制約のため、インタビューできたのは、当日(2007年8月14日)参加可能な方たち5名のみだった。しかし実際には、女性を含め、もっと多くの老人が当時の様子を語ることができるという。以下、@ 当時、あなたは日本軍とどのような関わりを持ちましたか?A 日本政府もしくは日本国民への要望は?---の二つの質問に対する回答。

ガスパル・スムレスコス(Gaspar Sumreskosu)さん(80歳)

@「わしは、いわゆる肉体労働者として日本軍に徴用された。石を、砂を、木材を運んだものさ。ニッポンとインドネシアはSama-sama Joto(お互い上等)だった。ところで教わった日本の歌を披露してもいいかな?」♪踊り踊るならチョイト、日ノ本(Hinomoto)照らす ヨイヨイ、花の都の 花の都の真ん中で、サテ、ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ....♪
A「これといって今の日本に要望はない。日本とインドネシアは共に上等だったんだから」

ヨシアス・イララトゥ(Yosias Iraratu)さん(80歳)

@「わしは、ナカムラ司令官付きの台所番をやっていた。1941年に学校を卒業後したんだが、その後やってきたナカムラ司令官のご飯作りをしたんだ。ナカムラはとっても良い人だった。わしは、台所で残りご飯を食べさせてもらった。仕事の内容は主に、水汲み、そして炊事だった」
A「日本には額は別問題として、この村のために援助を期待したい」

ヨーヘン・ボレトゥナバン(Yorhen Boretnaban)さん(80歳)

@「わしも、炊事係をやっていた。日本の軍人は芋が好きだった。何ていう名前か忘れちまったが、黄色い野菜も好きだった(カボチャか?)。日本軍はお金を払ってくれた。軍票だ。もう残っちゃいないな軍票は。あの頃みんな使ってしまったから」
A「日本軍が来て、教会が壊された。その賠償金だけでも村に支払ってくれないか」

ウルバヌス・ランコラタットゥ(Urbanus Rangkoratat)さん(73歳)

@「日本軍が来た時はまだ子供だったから、日本軍が開校したSR(Sekolah Rakyat・国民学校)に3年通った。私の日本人の友人はタラダだった。私は何も仕事というようなものはしなかった。だって“kodomo(子供)”だったから。いつもいつも、タラダと遊んでばかりいた。SRの教師はインドネシアだった。歌は日本兵から習ったけれども」---と言うや、ガスパルさん同様に一気に歌い上げた。
見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ
『愛国行進曲』だ。「私は日本兵士が好きだった。なぜなら生活は悪くなかったし。。。」「しかし、父親は連合軍の空爆で死んだ。空爆ではこの村で300人近くが死んだ」
A「日本軍がいたために村人が失った財産を弁償してほしい」

ルカス・ララットマセ(Lukas Raratmasse)さん(75歳)

@「いわゆる苦力(クーリー)みたいな手伝いをした。主に魚獲りをした。でもある日、魚を隠したと誤解され、日本兵から叩かれたこともある。実際はそうじゃなくて日本兵のために保管していたのに」
A「村人が失った財産分の賠償金を支払ってもらいたい」

「セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。日本軍兵士による虐待は、それは酷いものだった。多くの女性が慰安婦にさせられた」---マルク州MTB(西南東マルク・Maluk Tenggara Barat)県の現県知事で、セラル島出身のビット・テマール(Bitto S Temmar)さんが語る。
「当時、私の父はセラル島のナムタブン(Namtabun)村の村長だったが、日本軍から村の若い女性をサムラキ(Saumlaki)へ送れと。そこで、父はお婆さんを送ったんだね。そしたら、怒った日本兵は、父の指の間に鉄棒を挟んで縛り上げたそうだ。父の世代は、私たち次の世代にそれらの話を伝え、そしてトラウマは引き継がれた。なんでも日本は戦後賠償をしたそうだが、それらの賠償金はすべてジャカルタへ行ってしまった。地方には何も来なかった。是非、日本政府に伝えてほしい。私たちは何も謝罪を要求するつもりは毛頭ない。私たちが言いたいのは、突然やってきて、突然去っていった中で起きた事に関して、少なくとも戦後に関心を払ってくれても良かったのではないかということです。言い換えれば、社会のリハビリに対する可能な援助をしてくれないか、ということです。ここは“忘れられた島々(Forgotten Islands)”とも言われる地域ですが、“忘れられない出来事”があるのです」と。
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ビット・テマール(Bitto S Temmar)MTB県知事

インドネシアが独立して60数年。電気が入っていないばかりか、灯油の入手にも苦労するセラル島。小学校を卒業すると、村に残る以外に選択肢のない現状。テマール県知事は言う。「お金のことは二の次の問題です。まずは、思い、関心を持って欲しいということです。私が知っている限り、戦後、旧日本兵がセラル島を再訪したことはありません。私は、その昔セラル島に居ざるを得なかった、そうした旧日本兵たちが、あるいはその子孫たちがやってきて、今の世代と友好を築き上げて欲しいと願っています。援助ではなくても、旧日本兵の孫の世代が、この島に投資をしてくれないだろうか。例えば、電気の問題でいえば、太陽光発電などの技術を持ってきてくれると大変嬉しい。あるいは、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出してくれるとか、あるいは優秀な生徒を日本へ留学させてくれてもいい。終戦時、他の地域では、恨みから日本軍が攻撃を受けたこともありますが、この県の中で、セラル島やその他の島々にいた日本兵は、皆無事に祖国へ帰ることができました。そればかりか、実の兄は、日本兵に養子縁組される直前まで親密な間柄だった。時代が残虐性をもたらしたが、一時期とはいえ、日本人と地元民との間に、うまくは表現できないが、普通では考えられない友好や友情があったことも事実です」

サムラキ市内で、日本軍支配時代を知る少なくない人々から「セラル島は、今の県知事もそこの出身であることからも分かるが、勤勉で高いディシプリンを持った住民が多い。それは、日本軍が残したものであることは間違いない」との話を聞いた。連合軍と対峙する、正真正銘の“最前線”であったセラル島。サムラキから40馬力のエンジン2基装備のボートで出発。ヌス・タブン(Nus Tabun)島とマトゥクス(Matkus)島の間を抜けて、アンワール・マス(Angwar Mas)島を右手の見ながら約2時間。セラル島の中央付近のくびれ部分の北岸にある白浜(レミャン海岸)に到着。そこで、オジェック(オートバイタクシー)が来るのを待つ。浜の沖合、そして陸上の到る所に、日本軍が投棄した弾薬や機材が眠っているという。

レミャン海岸から十数メートルの場所には未だに旧日本軍が投棄した弾薬や機材が眠る。ここは、掘り返された跡。地元民によれば、アンボンで宗教抗争が激しかった頃、手製爆弾を作るための材料として、この場に埋まっていた弾薬などが持ち去られたという。連合国との戦いの最前線に蓄積された日本軍の弾薬が、半世紀以上も経て活用されようと誰が想像できよう。レミャン海岸のずっと東に位置するナムタブン村では、2003年、沖合から打ち上げられた旧日本軍投棄の迫撃砲弾のような形をしたものを、魚料理の焚火の脚として使用し、爆発、二人の村人が亡くなった。いまだに“大東亜戦争”の遺物が村人を苦しめている。


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リンガット村のユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長。

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1944年7月22日、豪空軍のビューファイターがセラル島の日本軍飛行場を空爆。黒煙を上げる九九式双発軽爆撃機(Kawasaki Ki-48)(Australian War Memorial Websiteより)。

【ババル島】

太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、“ババル大虐殺 元大尉「すまない」”。

この報道は、福岡県の戦史研究家の武富登巳男氏が、偶然入手した、旧日本軍第五師団参謀部作製の極秘書類『ババル島事件関係書類綴』が発端となっている。同極秘書類は1987年7月に、『十五年戦争極秘資料集第二集 ババル島事件関係書類』と題して不二出版によって復刻されている。
同書類綴では、戦争犯罪人の追及を避けるために、虐殺の実行者である第五師団歩兵第四十二連隊第十二中隊長から師団長宛ての報告内容が、改ざん・変更されていく過程が克明に記録されている。この『朝日』報道を受け、インドネシアの有力誌『TEMPO』も、1986年12月3日号(No.42 Tahun XVI)で「Penaklukan di Pulau Babar」の見出しで、同虐殺事件を伝えている。

同極秘報告書では、第一次討伐(1944年11月3日〜9日?)で「約百名ヲ銃殺及捕へタル」、そして第二次討伐(1944年11日〜21日?)では「約四百名ハ現地ニ於テ銃殺」と記している。つまり、日本軍サイドの報告では、500名近くのエンプラワス村の村人が虐殺されたことになる。(注:同極秘報告書では村の人口は717名となっている)。一方、『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、1992年9月に現地で行った住民に対するインタビューの結果、多くが虐殺された人数として700名だったと証言、また同村が作成中だった虐殺名簿には704人の姓名が記載されていたとされる。

(注)日本軍の極秘報告書『ババル島事件関係書類綴』からは、“討伐”期間が1944年11月3日〜21日(四百名の銃殺は11月20日か?)と推定されるが、『上智アジア学』第10号(1992年)の「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」によれば、地元では1944年10月5日を、大量虐殺の日としているという。また、現MTB(南東マルク県)副県知事のバルナバス・オルノ氏も1996年に書き上げた同虐殺事件の全貌をまとめた文章の中で、大虐殺の発生日を1944年10月5日としている。尚、この一カ月以上もの“誤差”が何故に生じているのかは不明。


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MTB県副知事のバルナバス・オルノ(Drs. Barnabas Orno)さん。
副知事とのインタビュー内容は以下に詳述されている。
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html

参考ブログ

マルク州タニンバル紀行(9)〜(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html
タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html
タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html
タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html
戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html


GBIのYou Tube動画
http://www.youtube.com/user/Grahabudayaindonesia/videos

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