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zoom RSS 『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(5) 故小池省吾軍属

<<   作成日時 : 2009/09/26 00:00   >>

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1944年5月27日の連合軍ビアク島上陸後、海軍第202設営隊の軍属工員約720名並びに指揮部隊など総計860名(但し内60数名は捕虜となり戦後帰還)はどのような運命をたどったのか?これを知る唯一の手がかりが、元同設営隊の海軍書記であった帰還兵・小林福市氏(故人)の手記にある。『濠北を征く』(濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日発行)の同氏による記録『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば次のような経緯を辿っている。

故小池省吾海軍軍属

1944年5月27日までの数日間
「爆撃によって破壊された滑走路の修復を、徹夜により延数十台のトラックを以って行う賽の河原の数日が過ぎ、他
方空爆を避けつつ半年分の糧秣の奥地移動も完了して五月二十七日の海軍記念日を迎えた。ハルマヘラから連れて行った豚や鶏の料理をすべく、烹炊係は徹夜で腕を振っていた。上陸後まともな食事をして居ない全員は、豪華な記念日の朝食を期待しつつ、朝の整列をした午前七時、朝靄を衝いて敵の第一弾はビアク全島に木霊した」

1944年5月30日
「深更ニ〇ニ設江畠中尉(注:第3中隊)、仲村少尉(第3中隊附)は工員数十名を指揮し、ワルドより弾薬輸送の為め折柄の新月を利して出発」

1944年5月31日
「設営隊は連夜西洞窟後方盆地にて烹炊。暗闇を利し握飯を前線陣地に運搬。夜明け前に帰着するを常とす」
(注)この頃は、まだ西洞窟の外にいたものと思われる。

1944年6月1日
「西洞窟附近の爆撃甚しく、鍾乳石の群叢破損落下し負傷者続出。洞窟外に在ったニ〇ニ石崎獄夫主兵曹戦死」

1944年6月4日
「連絡中のニ〇ニ設営隊佐久間軍之助一水還らず」

1944年6月5日
「正午頃敵艦砲三弾洞窟内に炸裂。ニ〇ニ設隊員三名戦死」
(注)この時点では202設営隊の工員は西洞窟内にいたものと思われる。

1944年6月6日
「飲料水糧食欠乏。兵員の疲労漸く顕著となり、過半数アミーバー赤痢に罹る。(中略)ツルハシの柄を握ってとび
出した工員の還らざる者多くなる」
(注)非戦闘員である軍属工員も洞外に出て戦ったのか?)

1944年6月9日
「早朝より作戦会議。(中略)永田技少佐(注:永田亀雄・海軍第202設営隊隊長)等参集す。友軍兵員弾薬僅少と
なり敵戦車洞窟附近に出没す。之に対抗するに代用手榴弾を以ってす。即ちビール瓶に、ダイナマイト、カーリット
を詰め、蚊取線香にて導火線を発火せしめ、敵戦車の腹に投げ込み擱坐せしむるものでニ〇ニ設工員も参加す」
(注)小林福市海軍書記は手記『海軍部隊・ビアク戦闘日誌』の中で、さらに具体的に次のように書いている。「ニ〇ニ設の軍属十数名もダイナマイトに雷管をはさんだ三十センチぐらいの導火線を持ち、敵戦車の腹に投げ込んだ。これで軽戦車は擱坐させたが、中戦車には成果は少なかった」

1944年6月12日
「洞窟内凄惨、自決者多し。夕刻独歩可能傷者及ニ〇ニ設隊員等約七〇〇名洞窟を脱出水源地に向かう(水源地とは西洞窟の北方数里ワホール河上流の一地点なり)」
(注1)水源地は西洞窟西北約20kmのワホール川上流部。
(注2)独歩不可能な202設営隊工員は西洞窟内に取り残された模様。
(注3)西洞窟を司令部としていた千田貞敏少将(海軍第28別根拠地隊司令官)や葛目直幸大佐(歩兵第222連隊長)は6月22日未明に同洞窟を脱出した。

1944年6月13日
「中央丘陵地にて来援の第三十五師団の陸兵約三百に逢う。午後水源地着。設営隊員にて糧食及要担患者輸送す。(中略)設営隊仮住居急設」
(注)西洞窟を脱出したものの、食糧の運搬や患者輸送などに動員された模様。

1944年6月14日
「設営隊員にて野草蒐集、糧秣不足を補う」

1944年6月17日
「患者及負傷者の診察あり、敵砲撃音近づく」

1944年6月19日
「松尾正義技中尉隊員五十名を指揮し、糧秣運搬の為洞窟附近へ向う。一日の糧食は水草混入の卵大のもの三ヶなり」

1944年6月20日
「海軍部隊刻々後退水源地に集結」

1944年6月22日
「洞窟内の重傷者全員自決せりとの事」

1944年6月23日
「水源地敵機の発見する処となり、機銃掃射を受け死傷者続出す」
(注)奥地での退避・自活生活中であっても敵機の攻撃を受け、死傷者が出た。


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ビアク島略図(『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』より引用)


1944年6月24日
「ニ〇ニ設田島佐太郎軍属指揮の工員数十名、スピオリ島への新道開さくの為め出発」

1944年6月27日
「ニ〇ニ設営隊の大部分スピオリ島コリドへ移動と決定。松尾中尉指揮の約三百名は洞窟附近まで後退、西岸ワルド経由スピオリ島へ。江畠中尉指揮の約三百名は北岸コリム経由同島を目指し出発」

(注1)第1中隊(機械)に属した小池省吾が、この時点でも生存していたと仮定した場合、この西岸経由部隊、北岸経由部隊のいずれに参加したのかは不明。
(注2)松尾正義技術中尉は第4中隊(建築)隊長、江畠信義技術中尉は第3中隊(土木)隊長。小池省吾が属した第1中隊(機械)の隊長であった大沼忠雄技術大尉は、隊附の宇治川喜久男技術少尉や第2(土木)中隊の本多静夫技術少尉らと共に、千田貞敏少将(海軍第28別根拠地隊司令官)に随行し、12月下旬、スピオリ島北岸のニョインデまたはワブドリ付近で戦死されたものと推定されている。小池省吾が大沼第1中隊長に同行していたかどうかについては不明。

1944年6月29日
「千田司令官は水源地上流ニ粁ワホール河西方に移動。ニ〇ニ設永田技少佐以下早川軍医大尉、渓内主計大尉、工員数十名は山越えにて午後五時スピオリ島コリドに向う。重症患者は自決し、歩行患者五十名は三三防岩井衛生兵長引率し北海岸へ後退す」
(注)この「工員数十名」の中に小池省吾はいなっかた模様。なぜならば、永田隊長らと共に行動した場合、7月25日、ヌンホル島沖で沈没した大発に乗っていたことになり、海没したのならばその日が戦死日となり、あるいは捕虜となっていれば生還した。ちなみに小池省吾の戦死日は、戦死公報上では1944年8月10日となっている。つまり、6月27日に、西岸経由もしくは北岸経由で西隣のスピオリ島へ向かった約600名の中にいたと考えられる。

1944年7月24日以降
第202設営隊長の永田亀雄少佐のその後について、小林氏は以下のように記している。「七月廿四日夕暮、大発(注:大型発動機艇)にてスピオリ島ソエク附近よりマノクワリへ向け脱出、二十五日未明ヌンホル島附近にて敵襲を受け重傷の桑原三郎技大尉(注:第2中隊長)及び江畠信義中尉(注:第3中隊長)を拳銃にて介錯し、自らも拳銃にて自決し、沈み行く大発と運命を共にされた。同行の工員十数名は海中より敵に救助された」


小林氏はその後についても、以下のように触れている。

「かくして部隊は四散し七月以降の指揮、統率力は全く乱れ兵員の行動は不明となってしまった。激戦中は生命の貴さを些かも感じなかった兵隊も、一旦敵に背を見せると無精に生命が惜しく、敵を恐れ、明日こそは明日こそはと連合艦隊の救援を待ちあぐみつつ、方十里のビアク島を彷徨し、敵機の爆撃、機銃掃射のみならずパプア人の襲撃や飢餓によっても斃れて行ったのである」
★ちなみに第202設営隊主計科書記の小林福市氏は、自身の手記『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば、「昭和19年8月餓死直前の私は、パプア人の慮囚となった(同行者約三百名のうち生存者つまり虜囚となった者は私を含め五名だけ)」と記している。以降については触れていないが、おそらく他の日本人捕虜同様に、オーストラリアの捕虜収容所に送られ、戦後祖国に帰還したものと推定される。

(注1)当初、日本軍側に好意的であった地元パプア人が、日本軍の敗退傾向と並行して、次第に連合軍側の協力者に変貌していった過程は、数々の戦記や元兵士たちの手記に書かれている。また、日本軍上陸直後から連合国軍側の諜報や宣撫工作に就いた地元パプア人や華人も少なくなかったとされる。詳述は別の機会に譲るが、昭和19(1944)年8月、ビアク島で、日本軍が“土匪”と呼んだ半日の地元パプア人との交戦中に戦死した海軍軍属のケースは、まさに小林海軍書記が記している内容と一致する。

(注2)日本海軍による西部ニューギニア地域の軍政(民政)

ビアク(Biak)島は戦前、他のインドネシア地域同様にオランダ植民地の一角にあった。昭和17(1942)年3月初旬〜4中旬の海軍陸戦隊による西部ニューギニア地域の占領行動に伴って、ビアク島は日本海軍によって無血占領された。そして、海軍はビアク島の西隣のスピオリ島コリドに海軍民政府を置いた。まず始めに昭和17(1942)年5月26日、在アンボン(Ambon)の海軍セラム(Seram)民生部のマノクワリ(Manokwari)分駐員数名がマノクワリへ上陸し、翌27日、開庁式を行い、海軍による軍政がスタートした。そして同年12月に海軍による「ニューギニア民政府」が始まるまでのおよそ7ヶ月間、この「セラム民政部」が行政を担当した。ビアク島においてはボスネック(Bosnik)にインドネシア人郡長を任命配置したとされる。
昭和17(1942)年10月13日、東京で「ニューギニア民政府」が編成され、翌18年2月〜4月、総勢2,800名の民政府職員がマノクワリへ上陸した。ニューギニア民政府総監として任命された海軍司政長官の浜田吉治朗海軍中将は昭和18年1月、先んじて飛行機でマノクワリへ到着した。これ以降昭和19(1944)年2月1日に民政府が解体されるまでの実質1年間が「ニューギニア民政府」時代だった。以降終戦までの間は、昭和19(1944)年2月、ハルマヘラ(Halmahera)島のカウ(Kau)に設置された第26海軍建設部(一瀬信一海軍中将)が軍政を引き継いだ。そして5月20日、マノクワリに第28海軍建設部(浜中匡甫海軍少将・元ニューギニア民政府総務局長)が設置され、西端のソロン(Sorong)にはその支部が置かれた。



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小池省吾さん。北海道札幌生まれの小池さんは、出征前、東京の板橋でタクシー会社に勤務、乗務員だった。運転技術を買われて海軍軍属となったものと思われる。


海軍第202設営隊は、作戦部隊ではあっても、戦闘任務のない技術部隊であった。しかも、その要員は指揮官を除けば、身分上「軍人」ではなく全て「軍属」であった。日本国内で「軍人設営隊」が編成されるのは昭和19年5月以降のことであった。小池省吾やその仲間は、精神面では「軍人」「兵隊」を求められ、身分上は「軍属」「工員」といった曖昧なポジションで激戦の地ビアク島で玉砕した。

再び『海軍ニ○ニ設営隊の奮闘(小林福市元海軍書記著)』の記述。「約七百二十名の工員は満十八から四十五歳に至る総て徴用に依る人々で、職種は自動車、機械運転手、潜水夫、熔接、板金、製缶、鍛冶、旋盤、鋳物、鳶、木工、大工、左官、水道、墜道、烹炊、電工等の十数職種に亘り、専門のない者は総て土工で企業統制に依る菓子屋、仕立屋等の俄か人も含まれていた。服装はスフの半ズボン、半袖のシャツに同じカーキ色の登山帽、直接肌にゲートルを付け、地下足袋を履く。リュックサックと雑囊が唯一の持物、中味は着替えに食器のみという全くの非戦闘員」


【故小池省吾海軍軍属のプロフィール】

明治44(1911)年11月5日、北海道札幌郡廣島村生まれ。
昭和18(1943)年10月15日、海軍第202設営隊(神奈川県藤沢)入隊。
昭和18(1943)年12月14日、宇洋丸でニューギニアに向け横浜港出帆。
昭和18(1943)年12月21日、大分県佐伯当方海上で敵潜水艦魚雷により撃沈されるも、佐伯海軍飛行隊に救助される。呉・三子島を経由して極秘裏に横須賀に戻る。
昭和19(1944)年2月21日、再編した海軍第202設営隊は、豊岡丸にて横浜港出帆。
昭和19(1944)年4月3日、ハルマヘラ島カウ到着。
昭和19(1944)年4月上旬〜5月初旬、ビアク島上陸。
昭和19(1944)年8月10日、戦死。
昭和21(1946)年12月7日、横須賀地方復員局は遺族に戦死を伝える。戒名は『殉國院釈義剣』だった。

32歳の短い生涯。祖国に妊娠中の妻、そして三人の息子がいた。
小池省吾海軍軍属の遺骨は未だ祖国帰還を果たしていない。ビアク島で瞑っている。



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日本軍が建設した右からモクメル飛行場、ボロク飛行場、そしてソリド飛行場。玉砕洞窟として知られる西洞窟はモクメル飛行場の北西に位置する。


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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』

期間】  2009年8月8日(土)〜10月30日(金)11:00-17:30 但し、日曜・祝日と第1土曜日(10月3日)&第3土曜日(9月19日と10月17日)はお休みです。また、雨天などの悪天候、さらに取材活動に伴って事前予告無しに、閉めることもありますので、予めご了承お願い致します。

展示品】 玉砕の島ニューギニアの遺骸・遺品の写真。遺留品(姓が刻まれた水筒、飯盒など約40点)&パプア樹皮絵画

主催】  インドネシア文化宮(GBI) &太平洋戦史館(岩手県奥州市)

場所】  インドネシア文化宮(GBI)。東京都新宿区下落合1-6-8(TEL:03-5331-3310 or 03-3360-9171)
最寄り駅:JR高田馬場駅より徒歩約6分。東京富士大学時計台記念館前正門の向かい側のビル1階。高田馬場駅の早稲田口改札口を出て、ガード下に立ちますと、目の前は早稲田通り。道路を渡った左斜め前の「さかえ通り商店街」を東京富士大学、新宿区立中央図書館の方向へ。途中、神田川にかかる田島橋を渡ります。橋の上から左手前方に、時計台のある東京富士大学の記念会館が望めます。橋から道なりに前進、道は左にカーブ。やがて二又。右手の道にはセブンイレブンがあります。左側の直進の道を進みますと、およそ30m先、右手のビル1Fにインドネシア文化宮があります。ちょうど、大学記念館の正門向かいのビルです。(添付地図参照)

入場】 無料

(注)展示品の元の所有者に関する情報提供を求めています。かつてニューギニア戦線に就き、西部ニューギニア地域ことにビアク(Baik)島で戦死したと推定される兵士のご遺族、縁者の皆さまによる確認作業に期待致します。


【インドネシア文化宮の場所】東京都新宿区下落合1-6-8(東京富士大学の時計台のある記念会館前正門向かいのビルです)




玉砕のビアク島。故陸軍主計中尉浅野ェ氏遺品(日記)



展示会場の光景(動画)



ビアク島戦史(インドネシア語)



西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ帰還 Japanese soldiers



【参考ブログ】

『ニューギニア未帰還兵展』10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_25.html

『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(4) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_21.html

『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(3) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_20.html

『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(2) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_19.html

『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(1) 故小池省吾軍属
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_18.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』28 故田中梅男伍長
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_16.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』27 故瀧澤吉治准尉(4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_14.html

『ニューギニア未帰還兵展』を10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_13.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_12.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_11.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_8.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_7.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_6.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_5.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_4.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_3.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_2.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200909/article_1.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_32.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_31.html

“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_30.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_28.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_26.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_25.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_24.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_23.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_21.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 15 小野寺中尉の水筒
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_20.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14 終戦記念日
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_16.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13 トル川
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_13.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_12.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_10.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる10
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_9.html

今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 9
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_8.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_6.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_5.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_4.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_3.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200908/article_2.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_64.html

『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』2 Pameran Prajurit
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_63.html

「ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ」開催のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200907/article_62.html

太平洋戦史館
http://www14.plala.or.jp/senshikan/

東部インドネシアの旧日本軍航空基地関連記事一覧
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/theme/43f9afaef5.html

西部ニューギニアから108人の旧日本兵の遺骨が祖国へ(Kembali ke Tanah Air)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200903/article_21.html

ニューギニア島の西パプア州で大きな地震発生(Gempa bumi Papua Barat)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_5.html

パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_4.html

パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200905/article_19.html

(この間に107〜26のシリーズがあります)


東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_29.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_28.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_26.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_25.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_24.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_22.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_21.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_20.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_19.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_12.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_11.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_10.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_9.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_8.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ(Saga & Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ(Babo & Saga)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_5.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_2.html


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『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「東京新聞」が報道
{%爆弾webry%}開催期間を一ヵ月延長し、10月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。未だ“戦後”を実感することのできない多くの人々が、インドネシア文化宮(GBI)に足を運ぶ。『東京新聞』が今朝(2009年9月28日)、「ニューギニア戦線 遺品展に反響」、「最期知りたい思い切実」の見出しで、同展について特報面で大きく取り上げた。『読売新聞』、『朝日新聞』に次ぐ報道に、来宮者は引きもきらない。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/28 18:46
『ニューギニア未帰還兵展』 朝鮮人戦死者名簿
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展』に菊池英昭さん(67歳)が「朝鮮人戦死者名簿」を持ってやってきた。立川市在住の菊池さんは、10年の歳月を費やし、旧日本軍の軍人・軍属として日中戦争・太平洋戦争で戦死した約2万1千名の名簿を作り上げた。出版計画は、今のところ“頓挫”しているそうだが、遠くない将来日の目を見るとのことだ。 先の大戦に、多くの朝鮮半島出身者、そして台湾人、さらにインドネシア人、インド人などが日本軍の軍人・軍属・兵補などの立場で従軍している。そして、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/30 01:01
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(6) 武内満多男 
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で10月30日までの日程で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』を訪れた、元海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐)の隊員だった東京・練馬区在住の武内満多男さん(83歳)から同隊に関する貴重な資料提供を受けた。同氏とのインタビュー内容は後日紹介するとして、資料によってこれまで不明だった数々の謎解きが可能となった。海軍第202設営隊は、およそ230を数える海軍設営隊の中でも、最初の“玉砕部隊”として不幸な名誉を残している。しかし、その要員数... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/04 19:09
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
{%爆弾webry%}『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍第203設営隊(岩下久哉技術少佐・ハルマヘラ島で基地設営)の西部ニューギニア・ソロン派遣隊長だった佐用泰司元海軍技術大尉によれば、「海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐・昭和18年11月15日海軍横須賀施設部編成)」は、“玉砕設営隊”の第一号だった。一部およそ130名がハルマヘラ島に取り残されたが、約1,000名の隊員が昭和19(1944)年6〜7月、ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/05 20:27
海軍第202設営隊(1) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 11:14
海軍第202設営隊(2) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 19:46
海軍第202設営隊(3) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/09 15:01
海軍第202設営隊(4)武内満多男の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/11 12:20
海軍第202設営隊(5) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/20 22:47
海軍第202設営隊(6) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/21 16:43
海軍第202設営隊(7) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 09:48
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 17:52
海軍第202設営隊(8) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 01:47
海軍第202設営隊(小林光雄氏の絵日記証言)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 02:49
第35師団野戦病院(東第2931部隊第3分隊)故永井寿三郎氏提供写真 ヌンホル島
{%爆弾webry%}再々延長して2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。再延長の最終日、2009年10月30日、『亡き父のアルバムの中に、大戦中にニューギニアで戦死した戦友たちが写っている写真がありました。もしや、ご遺族の方々の中に、身内の消息を探している方がいるのではないかと思って持参しました』---そう言って、横浜市か... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 16:49
海軍第202設営隊(9) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/02 11:00
海軍第202設営隊(10)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/03 13:59
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再々延長。Pameran s/d 19 Des 09
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/04 09:49
海軍第202設営隊(11)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/05 12:09
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(1)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/08 21:01
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(2)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/10 13:28
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(3)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/12 10:10
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(4)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/13 08:48
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(5)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/14 16:28
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(6)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/15 00:31
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(7)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/18 09:38
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(8)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/19 10:28
海軍第202設営隊絵日記(1)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 11:36
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(9)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 23:58
海軍第202設営隊絵日記(2)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/22 09:54
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(10)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 10:58
海軍第202設営隊絵日記(3)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 21:12
海軍第202設営隊絵日記(4)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
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2009/11/26 10:56
海軍第202設営隊絵日記(5)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
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2009/11/27 22:07
海軍第202設営隊絵日記(6)小林光雄の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
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2009/11/29 13:19
海軍第202設営隊絵日記(7)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
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2009/12/01 09:49
海軍第202設営隊絵日記(8)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/02 09:51
海軍第202設営隊(1)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/05 11:05
海軍第202設営隊(2)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
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2009/12/06 11:21
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(1) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 10:46
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(2) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 10:59
海軍第202設営隊(3)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/09 12:20
海軍第202設営隊(4)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/10 21:46
海軍第202設営隊(5)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/12 14:40
☆12月17日:西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式のお知らせ☆
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席できますので、是非ご参加下さい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/13 14:31
海軍第202設営隊(6)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/14 10:32
12月17日、西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式:291柱が無言の祖国帰還
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。過去最多の291柱が還ってくる予定です。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席でき... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/15 12:27
東西ニューギニアから計702名の遺骨が祖国帰還
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インドネシア文化宮
2009/12/17 21:52
海軍第202設営隊(7)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/18 14:11
海軍第202設営隊(8)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/19 09:52
2010年にも始まるワクデ島の遺骨収集 Pulau Wakde & Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}3月に次いで今年二回目となった、厚生労働省による西部ニューギニア域戦没者遺骨収集団が去る12月17日帰国した。3月の108柱のおよそ2.7倍に当たる291柱が無言の祖国帰還を果たした。彼らは、現在のパプア州の州都ジャヤプラ(Jayapura・旧ホランジア)近郊のプアイ村で見つかった77柱、そして玉砕の島として戦史に残るビアク(Biak)島で確認された214柱の旧日本軍将兵・軍属の遺骨・遺灰だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/20 18:26
三橋國民 『64年目の夏 鎮魂のニューギニア』 Kunitami Mitsuhashi
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/24 19:30
三橋國民 鎮魂のニューギニア(1) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に陣地を構えた。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/26 12:54
三橋國民 鎮魂のニューギニア(2) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/28 08:54
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:10
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(109) Bandara DaiNippon(109)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/30 11:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(110) Bandara DaiNippon(110)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/31 01:07
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(1)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/22 10:29
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(2)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/22 20:43
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(3)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/23 18:25
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(4)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/24 11:55
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(5)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/24 13:15
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(6)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/24 16:48
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(7)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/24 16:58
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(8)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/24 17:02
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(9)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/25 16:08
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(10)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/10/30 18:17
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(11)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/11/01 15:19
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(12)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/11/02 15:43
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(13)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/11/02 16:04
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(14)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
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2016/11/03 12:33
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(15)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
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2016/11/04 15:33
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(16)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
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2016/11/05 17:45
海軍第202設営隊 小池省吾軍属の遺書(17)西部ニューギニア・ビアク島玉砕戦
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
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2016/11/06 12:51
海軍第202設営隊手記集(1) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/07 16:05
海軍第202設営隊手記集(2) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/08 16:41
海軍第202設営隊手記集(3) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/09 17:21
海軍第202設営隊手記集(4) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/10 15:46
海軍第202設営隊手記集(5) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/12 11:48
海軍第202設営隊手記集(6) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/13 12:10
海軍第202設営隊手記集(7) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/14 11:11
海軍第202設営隊手記集(8) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/15 11:43
海軍第202設営隊手記集(9) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/16 15:07
海軍第202設営隊手記集(10) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/16 20:10
海軍第202設営隊手記集(11) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/17 21:13
海軍第202設営隊手記集(12) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/18 17:59
海軍第202設営隊手記集(13) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/18 20:20
海軍第202設営隊手記集(14) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/20 11:46
海軍第202設営隊手記集(15) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/21 11:23
海軍第202設営隊手記集(16) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/22 11:05
海軍第202設営隊手記集(17) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/23 17:02
海軍第202設営隊手記集(18) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/24 11:11
海軍第202設営隊手記集(19) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/25 11:31
海軍第202設営隊手記集(20) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/26 17:37
海軍第202設営隊手記集(21) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/27 21:42
海軍第202設営隊手記集(22) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/29 09:59
海軍第202設営隊手記集(23) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/29 12:35
海軍第202設営隊手記集(23) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/29 12:35
海軍第202設営隊手記集(24) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/11/30 15:43
海軍第202設営隊手記集(25) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/12/01 11:14
海軍第202設営隊手記集(26) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/12/01 16:39
海軍第202設営隊手記集(27) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/12/03 12:42
海軍第202設営隊手記集(28) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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2016/12/04 12:51
海軍第202設営隊手記集(29) 宇洋丸 ビアク島 ハルマヘラ島
{%爆弾webry%}海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク島上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で海軍第203設営隊の第6中隊に編入され、終戦まで過ごした。そこでも、飢餓、熱帯病は次々と兵士を襲った。 ...続きを見る
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『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(5) 故小池省吾軍属 インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
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