東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36 ロンベバイ湖

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太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側面も含めて、その全てを把握する、いわば総合学術探検の顔も持っていた。オランダやドイツ、英国そして豪州などは、古くからニューギニア島を植民地分割し、それなりに同島に関して情報を有していた。しかし、日本はそうではなかった。もちろん、明治時代より、単身、この地に赴いて、まさに地元民化し、色々な事業を手がけた日本人はいる。西部ニューギニアに限ってみても、例えば、細谷十太郎(仙台藩士の息子。明治末期に渡航、ムミで綿花栽培などの農業開発)や海老名庄次郎(和歌山県出身。大正時代の半ばに渡航。サルミで椰子園などの農場開拓)。そしてメラウケで、当時パリ社交会で流行った帽子の羽飾りを求めて極楽鳥狩りを行った和田儀太郎。さらに、沖縄県出身の金城徳栄(大正時代に渡航。鼈甲亀の捕獲などを経て、ナビレでダマル樹脂採集などの事業に従事)。
既報の海軍ニューギニア調査隊は、マノクワリに拠点を置いた海軍ニューギニア民政府下で、田山利三郎博士(当時は東北帝大助教授で海軍水路部嘱託)を隊長に、第一班から第六班に分かれ、地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。こレらの調査隊には、東北大学、京都大学、京城大学などの学者に加え、宇都宮、岐阜の高農、東京科学博物館、南洋庁」などから派遣された職員、さらには南洋興発、日本発送電、浅野セメント、王子製紙の社員なども参加した。


海軍ニューギニア調査隊に関しては以下のブログ参照

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html



『鰐部隊とパプア人マンドル』。筆者がまだ学生時代、著者の徳野氏とお会いした。徳野さんは、一般的なイメージにある“中野学校”卒とは思えない、とっても優しく、義を重んじる群馬県人だった。ニューギニアで特務機関員として過ごした青春時代に悔いを持っているようには見えなかった。パプア民族の未来に光が当たることを真に願っていた。あれからパプアはどう変わったのだろうか


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東西ニューギニアを合わせて20万人以上もの日本軍将兵並びに軍属が戦死しているが、戦闘以外の事由で亡くなった者は、主に、熱帯病そして餓死であった。このことは、側面を変えて見れば、日本がニューギニア島に関して、開戦前に、ほとんど情報を持っていなかったことと大いに関連する。このことは、開戦直後に大本営で、ニューギニア放棄論さえ出たことからも窺い知れる。「開戦以来既に一年余、事前研究が不足であったニューギニアの処理は、依然、大本営における苦悩の種であった。(中略)(筆者注:昭和18年)一月末、大本営陸軍部の第三部長(鉄道、船舶、通信等担任)若松只一中将は、最近の膨大なる船舶損耗、海軍戦力運用の拘束(護衛兵力増大)などを避けるため、ニューギニア作戦を中止するか、あるいは補給が確保できる最小限の兵力で柔軟な戦闘を行なう方針の採用を第一部長(作戦担任)綾部橘樹少将ぬすすめた。(中略)(筆者注:大本営陸軍部では)ニューギニアははたして絶対的に必要か、必要ならばどの線を保持するか、その確保のためには長期連続不断の航空大持久戦を行わねばならないが、今後数ヵ年これを完遂する可能性があるか、などが問題とされた。(中略)三月十四日、大本営陸海軍部の両作戦課は、この問題を合同研究した。(中略)結局ニューギニアは放棄すべきではないという結論に到達したが、南太平洋全般の放棄という根本的な論議が、軍の中央部に起きている事態を重大視した両統帥部は、その研究直後にわざわざ覚え書きを交換し、漁軍一致して同方面の作戦を強化することを申し合わせた」(『戦史業書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』)。


第二軍工作隊の活動エリア。第36師指揮下、“鰐工作隊”は、日高少佐指揮の下、マンベラーモ川を縦横無尽に動き、ロンベバイ(Rombebai)湖で壮絶な連合軍との死闘を繰り広げた。


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満足な兵要地誌もないニューギニアの戦場で、その弱点を補うことを求められたのは、いわゆる“秘密戦士”たる工作隊員だった。西部ニューギニア戦では、特に陸軍中野学校出身者を隊長に編成された10を数える工作隊が、各地で宣撫工作活動や謀略作戦にあたった。直線距離で、サルミ(Sarmi)の西方約100kmに位置するマンベラーモ(Mamberamo)川。ニューギニア島最大・最長の川だ。標高3~4千メートルの中央高地を水源とする水が、東から西へイーデンブルグ(Idenburg)川として流れ、西からはルファエール(Rouffaer)川が東に向かい、合流点で一気に北へ向かい、山脈に深い谷を刻み、太平洋へと流れ込んでいる。
マノクワリに司令部を置く第ニ軍や、サルミを拠点とする第36師団は、このマンベラーモ川が作りだす大湿地帯(メールクラフテ)並びにその南の中央高地一帯までが作戦地域だった。この背景には、昭和18(1943)年1月時点で大本営が決めた、西部ニューギニアにおいては、中央高地が連なる南緯4度以北を持って、占領すべき地域との指示がある。ハベマ湖やウィッセル(現パニアイ)湖は、まさに南緯4度の線上に位置している。つまり、ここに水上基地や、周辺に陸上の飛行場を設けることは、大本営の指示に合致している。
昭和18(1943)年12月8日、マノクワリに司令部を置いたばかりの第ニ軍が下した「第二軍作戦準備要項」。この中で、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマと呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)について以下のように触れている。「ハッペマ湖及ウィッセル湖高原地帯ニ対シテハ特種謀略ヲ指向シ為シ得レハ機動飛行場ヲ整備ス」。



マノクワリ本部の小森少佐はヌンホル島の工作も担当、“梅工作隊”(桜井大尉)は、ビアク島、“虎工作隊”(原大尉)はサルミ地区、龍工作隊(内山大尉)はボンゴ地区、小川(大尉)班はウィッセル湖方面、富田(少左)班は南部のミミカ地区を担当。第二軍直属の“神工作隊”(新穂少左)はホランジア(現ジャラプラ)方面を担当した。


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昭和19(1944)年7月31日未明、“鰐工作隊”は、マンベラーモ川近くの、ロンベバイ(Rombebai)湖のヤピナ島にあった連合軍の水上基地を夜襲。この戦闘で日高少佐は戦死。苦戦を続けていた第36師団にヤピナ夜襲の成功は、久々の朗報だった。


第二軍がマノクワリに進出する以前、アンボンにあった第19軍は、西部ニューギニア作戦域の兵要地誌を作成するため、昭和18(1943)年6月、中野学校出身の将校ニ名(富田、廣瀬義武の両中尉)に健脚の兵60名を付し二組に区分して偵察に派遣したところ、富田中尉指揮の南部探検隊は3ヵ月後帰来したが、廣瀬中尉指揮の北部探検隊(マンベラーモ川流域)はまだ帰還していなかった。廣瀬隊は5ヵ月後の11月に帰還したが、三分の一の人員に減じ、この生還者もマラリアと栄養失調で口もきけないほどになっていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。
『鰐部隊とパプア人マンドル』(徳野明著。今日の話題社。昭和45年8月15日発行)によれば、第二軍には、マノクワリの本部を含め計10の工作隊が編成されていた。その一つ“ハベマ湖探検隊”の異名を持つ、日高岩男少佐指揮下の『鰐工作隊』は、第36師団の指揮下に入り、サルミよりマンベラーモ川を遡上し、ハベマ(Habema)湖の占領・確保を最終目標に中央高地に入り、高地民族数万を宣撫工作して、日本軍の作戦に協力させようとの壮大な狙いがあった。



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『鰐部隊とパプア人マンドル』に掲載されたロンベバイ湖(下)と衛星画像で見た今日のロンベバイ湖。


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昭和19(1944)年7月31日払暁、日高岩男少佐以下計16名の“鰐工作隊”は、ロンベバイ湖の東北にあるヤピナという名の小島をベースとする敵軍の水艇基地を攻撃した。この攻撃で日高少佐は戦死、日本側の犠牲者は合わせて3名。連合軍側の記録によれば、「おおよそ50名の日本兵が攻撃してきた。内、15名が戦死、1名を捕虜とした。我が軍は7名が負傷」。『鰐部隊とパプア人マンドル』によれば、16名の出撃で、3名の戦死。小さな交戦でありながら、参加人数で16対約50、戦死者数で3対15と大きな開きがある。ちなみに、連合軍兵士は、同日朝、飛来した救援のPBY飛行艇に救助された。この際、負傷した1名の日本兵(鰐工作隊の小泉雅少尉)が捕虜として同飛行艇で、ビアク島の南に連合軍が築いたオウィ島の基地へ連れて行かれた。小泉少尉は青山学院大学を卒業、陸軍予備士官学校卒業後、第二軍司令部付となった。英語が得意だった。小泉氏は、その英語力が自分の命を救ったと、1970年代に面会した筆者に語った。暗闇での交戦で負傷、意識不明となった小泉氏は、米兵に発見されたが、英語で会話ができたため、捕虜として連行された。最終的にはオーストラリアのブリスベンにある海軍病院で治療を受け、終戦後の昭和21年3月の引揚船で祖国へ帰還した。
衛星画像からはヤピナ島の存在が確認できない。



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豪州と米国とを分断し、インドネシアを始めとする占領地の資源確保のため、ニューギニア島に多くの飛行場が建設された。しかし、“絶対国防圏”は、戦況の悪化に伴い、短期間で後退を繰り返した。


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豪北(オーストラリアの北方)方面で日本軍並びに連合軍が造成した主な飛行場。
は日本陸軍、は日本海軍、は連合軍が建設。は日本軍が水上基地を設けようと計画した湖。



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ロンベバイ湖(衛星画像)。マンベラーモ川のすぐ脇にある。


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マンベラーモ川の蛇行。西部ニューギニアの中央高地に降った雨は、この大河を通じて太平洋に流れ込む。


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マンベラーモ川の日本軍工作隊による“探検行”は、この『鉄砲を一発も撃たなかったおじいさんのニューギニア戦記』(深津信義著。日本経済新聞社)にも詳しい。


【参考ブログ】


東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35) ウィッセル湖(Danau Wiessel/Paniai)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_2.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_34.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_33.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28) ナビレ(Nabire)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_32.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27) ヌンホル島(Pulau Numfor)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_31.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26) ヌンホル島(Pulau Numfor)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_30.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_29.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_28.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_26.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_25.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_24.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_22.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_21.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_20.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_19.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_12.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_11.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_10.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_9.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_8.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6) サガ&バボ(Saga & Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5) バボ&サガ(Babo & Saga)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(4) Bandara Dai Nippon(4) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_5.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon) バボ(Babo)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_2.html

マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html

マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

アチェに死す(2)Kuburan Warga Jepang di Aceh(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_4.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_4.html

パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_3.html

西パプア州政府(Provinsi Papua Barat)
http://www.papuabaratprov.go.id/

パプア州政府(Provinsi Papua)
http://web.papua.go.id/

マノクワリ県(Kabupaten Manokwari)
http://www.manokwarikab.go.id/

ヤーペン島嶼県(Kabupaten Kepulauan Yapen)
http://www.yapenwaropen.go.id

ビアク・ヌンホル県(Kabupaten Biak Numfor)
http://www.biak.go.id/

ソロン県(Kabupaten Sorong)
http://www.sorongkab.go.id/

南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan)
http://sorongselatankab.go.id/

サルミ県(Kabupaten Sarmi)
http://www.sarmikab.go.id/

ワローペン県(Kabupaten Waropen)
http://www.waropenkab.go.id/

ファクファク県(Kabupaten Fakfak)
http://www.fakfakkab.go.id/

ビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)
http://www.bintunikab.go.id/

ウォンダマ県(Kabupaten Teluk Wondama)
http://www.telukwondama.go.id/

カイマナ県(Kabupaten Kaimana)
http://www.kaimanakab.go.id/

ジャヤプラ市(Kota Jayapura)
http://www.jayapurakota.go.id/

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