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zoom RSS 東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ

<<   作成日時 : 2009/01/21 00:00   >>

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米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人、オーストラリア人、インドネシア人、そして地元のパプア人で構成されていたという。内、5名は帰還しなかった。1944年4月21日、早朝、突如、米海軍艦載機グラマンの第一陣がセンタニ湖上空に姿を現した。日本軍機で離陸できたものは6機。しかし、1機が無事帰還したのみだった。攻撃は夕刻まで8回にわたり、敵機の数は延べ600機。そして、地上にあった出動可能の日本軍の30数機は、すべて被弾し、戦闘能力を一瞬にして失った。同日、連合軍は、ホランジアばかりではなく、西のワクデ(Wakde)やサルミ(Sarmi)の日本軍飛行場をも空爆した。4個もの飛行場を有しながら、ホランジアの日本軍機は皆無となった。
そして翌4月22日、連合軍は、フンボルト湾そしてタナメラ湾の東西方向からホランジア・センタニ地区への上陸作戦を開始した。この日、連合軍は東ニューギニアのアイタペ(Aitape)にも上陸作戦を敢行した。日本軍機は一機も飛び立つことはなかった。出動できる機体は一機も存在しなかったのだ。これに先立ち、3月末から、連合軍機による空襲が本格化した。例えば3月30日に行われたセンタニ湖飛行場地区に対する空爆で、およそ120〜130の日本軍機が失われていた。米軍の記録によれば、上陸後、センタニ地区の3飛行場で計340機の日本軍の破損機を数えたという。
当初、日本軍は、連合軍はまず東ニューギニアのウェワク(Wewak)に上陸してくるものと推定していた。ホランジア来攻するなどとは予想すらしていなかった。しかし、マッカーサー将軍率いる連合軍は、ウェワクを素通りして、アイタペとホランジアを急襲した。また、当時、大本営もホランジアを“絶対確保圏”に組み込んではいなかった。大量の航空機の損失、そして第6飛行師団の壊滅、さらにセンタニ飛行場群を奪われたことは、その後の日本軍の西部ニューギニア戦線の命運を決定づけることとなった。ワクデ島そしてサルミへの上陸(1944年5月17日)、そしてビアク島上陸(1944年5月27日)、ヌンホル島上陸(1944年7月2日)、サンサンポール上陸(1944年7月30日)と矢継ぎ早の連合軍上陸作戦が続いた。
米軍公刊戦史によれば、ホランジア上陸作戦における米軍の死者は124名、負傷1,057名、行方不明28名で、相当数の日本軍捕虜と重要書類を得たとされる。また、連合軍上陸翌日の4月23日夜間、一機の日本軍機がフンボルト湾岸を爆撃し、日本軍弾薬集積所に命中し、さらに米軍の燃料にも引火、戦死24名、負傷100名を生じ、また同地区に揚陸した米軍軍需品の大半が焼失したという。おそらく、この攻撃は、セラム島のアマハイ飛行場からビアク島経由で出撃した第75戦隊(九九双軽)爆撃機によってなされたものと思われる。



タミ(Tami)飛行場。タミ川の西、スコマボ(Skomabo)村の南に位置していた。長さおよそ1,400mでほぼ概成していたが使用直前に連合軍が上陸。他の多くの、日本軍が西部ニューギニア各地に建設した飛行場同様に“幻の飛行場”と化した。しかし、連合軍上陸後、同滑走路はC-47などの輸送機専用の飛行場として利用された。


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海岸沿いに二つのスコマボ村の集落。かつてタミ滑走路があった場所は、今では密林に覆われている。

当時、ホランジア並びにセンタニ湖周辺には、合計約1万5千の日本軍が展開していた。しかし、そのほとんどは第18軍、そして第4航空軍の補給部隊であって、守備隊は皆無に近い状況だった。中部ニューギニアに位置するホランジアは、その戦略的価値は軍部によって深く認識されていたが、東部ニューギニアの第8方面軍、そして西部ニューギニアをも範疇とする第2方面軍との境に位置したこともあって、実際には、守りの態勢ができていなかった。連合軍は早くも4月28日、輸送機C-47をホランジア飛行場に初着陸させ、そして5月3日には、P-40の2個飛行中隊が展開した。

戦況は私の予想通りである。今更ら何を周章てることがあろう、心静かに運命の来るのを待つばかりである。(中略)戦力も戦闘意志もない、というのは言い過ぎかもしれない、が空戦に徹底すべき航空部隊が、柄にもなく出来もしない地上防禦に玉砕して其名を潔くする、そんな物の考方は私のとらない所である。私は死華を咲かせに来たのではない現、戦争段階に於いて一番緊切な対米航空戦線を一時も早く建直すのが私の任務である。五千の部下をして生きるだけは生きて応分の御奉公を続け得させる為最善の手段を考えてやらねばならぬ。玉砕、それは最後の手段である。少なくとも操縦者だけは何とかして今一度飛行機に乗せてやらねばならぬ。兵器もない弾薬もない地上勤務者をみすみす此の山中で餓死させる手はないであろう。サルミには友軍がいる。その師団は手不足で現地自活も思うように進んでいない筈だ。あそこ迄辿りつけたら、仮令航空として働けずとも、少なくとも後方勤務に力を添える可能性は十分にある」----『濠北を征く』の「第六飛行師団始末記」で、元第六飛行師団長の稲田正純少将が記している。



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当時、ホランジアにいた主な部隊は、第3野戦輸送司令部(北園豐蔵少将)、第9艦隊(遠藤喜一中将)、第6飛行師団(稲田正純少将)、第18軍第54兵站地区隊(石津經吉大佐)、南洋第6支隊など。第9艦隊とは名ばかりで、艦船は皆無、第90警備隊を含む約400名程度の“艦隊”だった。同様に、第6飛行師団も航空機はゼロ。しかも燃弾や糧食のほとんどは、海岸部の補給廠にあり、そこは上陸した連合軍に占拠された。
半定量で五日分しかない食糧を手に、稲田少将指揮下、約7,300名の日本軍将兵は、4月末、センタニ湖を後に、直線距離でおよそ220km西方の、第36師団が司令部を置くサルミへ向かって、深いジャングルと湿地帯を越える“死の転進作戦”に旅立った。およそ一ヵ月を費やした“退却・転進”の中で生き残った者はわずか一割だった。



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連合軍上陸作戦図(赤い矢印が侵攻方向)。東ではフンボルト湾からハマディ海岸一帯に上陸。ここには航空燃料、食糧、弾薬・武器などが大量に集積されていた。それらを確保する間もないうちに、日本軍はセンタニ湖方面へ後退を余儀なくされた。東のフンボルト湾には第41師団、そして西のタナメラ湾には第24師団を主力とする連合軍が上陸。ホランジア上陸作戦(向こう見ず作戦=Operation Reckless)に投入された連合軍兵力は4万にも上った。(US Army Center for Military History)。


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終戦後、1950年代のホランジア。港湾施設(『Handbook on Nederlands New Guinea』The New Guinea Institute of Rotterdam: 1958)。



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連合軍上陸作戦経過図(上はUniversity of Texas Libraries。下はUS Army Center for Military History)。


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ホランジアに上陸した連合軍部隊(US Army)。



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フンボルト湾には今も朽ちた艦船が残っている(衛星画像)。


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ピム(Pim)村付近に今も残る日本軍の沈船。ここは海上輸送第四大隊の泊地だった。


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ジャヤプラ(旧ホランジア)の東北、太平洋に面した海岸。ここは連合軍のベースG(Base-G)として使用された。


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昭和19(1944)年4月に刊行された、海軍ニューギニア調査隊作成の『ホランディア地區地質鑛物資源調査報告書(調査員 海軍嘱託 八木健三)』挿入の「ホランディア地方地質略図」。調査隊は、マノクワリを出発、1943年5月29日〜6月30日センタニ湖周辺並びにホランジア周辺で地質・鉱物調査を行い、7月6日、マノクワリに戻った。サイクロープ山(現在はチクロップ山と呼ばれている)周辺で、タングステン、金、銅、マンガン、鉄、ボーキサイト、ニッケル、クローム、褐炭、石英などについて調査。しかし、タングステンを除いて有望と見られる鉱物はなし、と報告している。同報告書の中では、チクロップ山の最高峰は“國見岳(1960m)”と表記されている。
地図には「ホランジア飛行場」のみが記されている。この飛行場は昭和18年2月に、海軍第19設営隊(井筒義三大尉、海軍呉建築部で編成)の第一班が設定した。近くに「三井農林農場」が。センタニ湖の桟橋名は、“大和桟橋”そして“萬歳桟橋”。



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【参考ブログ】


東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ(Jayapura)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_21.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48) ジャヤプラ(Jayapura)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_20.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) メラウケ(Merauke)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_19.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(46) Bandara Dai Nippon(46) ジャヤ峰(Puncak Jaya)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(45) Bandara Dai Nippon(45) ジャヤ峰(Puncak Jaya)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_17.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(44) Bandara Dai Nippon(44) ジャヤ峰(Puncak Jaya)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(43) Bandara Dai Nippon(43) ジャヤ峰(Puncak Jaya)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(42) Bandara Dai Nippon(42) ジャヤ峰(Puncak Jaya)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_14.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ(Mimika)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_13.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ(Kaimana)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_12.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39) ファクファク(Fakfak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_11.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38) ヤムール湖(Danau Yamur)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_10.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37) ハベマ湖(Danau Habema)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_9.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36) ロンベバイ湖(Danau Rombebai)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_8.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35) ウィッセル湖(Danau Wiessel/Paniai)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_7.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_6.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_4.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32) ワクデ島(Pulau Wakde)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_3.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200901/article_2.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_34.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29) サルミ(Sarmi)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_33.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28) ナビレ(Nabire)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_32.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27) ヌンホル島(Pulau Numfor)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_31.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26) ヌンホル島(Pulau Numfor)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_30.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_29.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_28.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_26.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_25.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21) ビアク島(Pulau Biak)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_24.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20) マピア島(Pulau Mapia)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_22.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_21.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_20.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_19.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16) ソロン(Sorong)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_18.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_17.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_16.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13) イドレ(Idore)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_15.html

東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_14.html

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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10) マノクワリ(Manokwari)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_11.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_10.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_9.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_8.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_7.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_6.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_5.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_4.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_3.html

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http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200812/article_2.html

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西パプア州政府(Provinsi Papua Barat)
http://www.papuabaratprov.go.id/

パプア州政府(Provinsi Papua)
http://web.papua.go.id/

マノクワリ県(Kabupaten Manokwari)
http://www.manokwarikab.go.id/

ヤーペン島嶼県(Kabupaten Kepulauan Yapen)
http://www.yapenwaropen.go.id

ビアク・ヌンホル県(Kabupaten Biak Numfor)
http://www.biak.go.id/

ソロン県(Kabupaten Sorong)
http://www.sorongkab.go.id/

南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan)
http://sorongselatankab.go.id/

サルミ県(Kabupaten Sarmi)
http://www.sarmikab.go.id/

ワローペン県(Kabupaten Waropen)
http://www.waropenkab.go.id/

ファクファク県(Kabupaten Fakfak)
http://www.fakfakkab.go.id/

ビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)
http://www.bintunikab.go.id/

ウォンダマ県(Kabupaten Teluk Wondama)
http://www.telukwondama.go.id/

カイマナ県(Kabupaten Kaimana)
http://www.kaimanakab.go.id/

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2009/01/27 23:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるように、この地域は3世紀以上にも及ぶ被植民地支配の歴史を刻む。7世紀、中国では唐の時代、すでにマルク(Maluku)地域の香料を求めて中国船が来航していた。そして9世紀にはアラブ商人もやってきた。インドネシア史によれば、12世紀にはスマトラ島南部のスリウィ... ...続きを見る
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2009/01/28 22:38
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。アンボン島の東隣のハルク島にも、陸軍は飛行場を新たに建設した。リアン(Liang)飛行場同様に、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)担任で、第28飛行場大隊が、昭和18(1943)年9月末、長さ1,400m、幅80mの滑走路を概成し、年末には掩体施設もお... ...続きを見る
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2009/01/29 23:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(Liang)飛行場を手がけた、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)隷下の第38飛行場大隊が担当。ハルク飛行場の着工とほぼ同時期に造成がなされた。昭和18(1943)年10月中旬には概成し(長さ1,200m、幅100m)、軽爆撃機が使用可能となった。その後... ...続きを見る
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2009/01/30 22:31
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、も... ...続きを見る
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2009/01/31 22:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万人を超える人々が送り込まれた“監獄島”だった。B級政治犯とされた作家プラムディア・アナンタ・トゥル(Pramoedya Ananta Toer)も10数年間、ブル島で拘留生活を過した。ブル島のナムレア(Namlea)には開戦前に、すでにオランダ軍が建設し... ...続きを見る
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2009/02/01 21:52
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:32
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分は、“中立国”であるポルトガル領だったからだ。一方、ティモール(Timor・チモール)島は、いわゆるABCD包囲網にあって、ジャワ島攻略作戦を実施する上で、蘭印と豪州とを分断・遮断するために、日本軍にとって制圧しておきたい要地だった。 当時、大本営は、... ...続きを見る
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2009/02/03 19:46
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ陸軍空挺部隊(挺進第2連隊・甲村武雄少佐)を降下させ、精油所などを制圧した。翌日、第16軍(今村均中将)隷下の第38師団(沼兵団・佐野忠義中将)は、ムシ川、テラ川、などを遡上してパレンバンに上陸。2月19日、金村支隊(第48師団の台湾歩兵第1連隊第3大隊... ...続きを見る
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2009/02/04 17:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プトン飛行場(現エルタリ空港)は海軍が修復した後(2本の滑走路があった)、昭和17(1942)年3月中旬から、まず海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)がオーストラリアのダーウィンを始めとする北部エリアに対する空爆基地として使用した。そのすぐ南には、第4飛行場設... ...続きを見る
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2009/02/05 21:32
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ上陸。同日未明、東方支隊隷下の第38師団歩兵第228連隊(土井定七大佐)の連隊長指揮下の第2大隊基幹(木村榮次郎少佐)が、同島東半分のポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)進攻作戦を開始した。第二次世界大戦で“中立”を表明したポルトガルの主権... ...続きを見る
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2009/02/06 20:36
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(67) Bandara Dai Nippon(67)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)の東部、ラウテン(Lautem)に日本軍が造成した飛行場は、いわゆる“秘密飛行場”だった。同地は、昭和17(1942)年の9月頃から第3飛行集団(菅原道大中将)隷下の第3飛行団長(塚田理喜智少将)が、指揮下の第73中隊(九九式軍偵察機)に命じて行った空からの偵察活動によって見つけた平らな高原地帯だった。そして、陸軍の第9野戦飛行場設定隊(河端融少佐)が、第4航空地区の陸上勤務隊の協力も得て、昭和... ...続きを見る
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2009/02/07 19:13
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭和18(1943)年4月20日、ポルトガル領ティモールのディリからフローレス(Flores)島へ移った。そして同年5月16日、バビ(Babi)島の対岸の本島に陸軍主用の飛行場を完成させ、そして翌6月19日、マウメレ(Maumere)にも飛行場を概成させた... ...続きを見る
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2009/02/08 20:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表した。それによれば、小スンダ列島では、スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)に1ヵ所(海軍担当で概成)、さらにスンバ島に海軍担当で第1〜第4の計4ヵ所の新設。さらに陸軍担当でスンバ第5〜第6を新設。そしてスンバワ(Sumbawa)島では、ビ... ...続きを見る
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2009/02/09 18:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satarta... ...続きを見る
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2009/02/10 22:50
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前線諸島(アルー=Aru、ケイ=Kei、タニンバル=Tanimbar諸島)を陸軍の警備地域と決めると、陸上の防衛は主として陸軍が、海域・航空防衛は主として海軍が担当することになった。さらに同年12月、大本営が、ティモール(Timor)島を含めスンダ海一帯を... ...続きを見る
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2009/02/11 20:06
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合軍の反撃拠点となったオーストラリアと対峙する小スンダ列島でも、日本軍による飛行場の設定が急がれた。ティモール島と同様に、スンバ島、フローレス島、スンバワ島、バリ島などで幾つもの滑走路が新設された。 昭和18(1943)年9月、大本営陸軍部の命令で、内地... ...続きを見る
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2009/02/12 20:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島を除く)同様に、当初は海軍の作戦・管轄エリアだった。昭和17(1942)年5月、海軍第16戦隊指揮下の部隊と共に、ジャワ島を占領していた第16軍(今村均中将)隷下の第48師団(海兵団・土橋勇逸中将)の第47連隊第3大隊(宮地育三小佐)が、10日、ロンボク... ...続きを見る
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2009/02/13 19:28
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新設飛行場を開いた。そしてスンバワ島では、海軍が2個(ビマとランバン=現スンバワ・ブサール)造成した。 ...続きを見る
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2009/02/15 21:13
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第一位の誉に輝いたのは日本人。その数、359,827人。全体の18,06%を占める。この数値は、前年比で見ると、2.21%(7,789人)の増加だそうだ。ちなみに、第二位はオーストラリア人観光客で、その数313,313人(見事な並びの数値!)。これは、前年... ...続きを見る
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2009/02/17 18:26
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(76) Bandara Dai Nippon(76)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}現在は北マルク州(Propinsi Maluku Utara)に属するハルマヘラ島(Pulau Halmahera)で、日本軍は判明しているだけでも計11個の飛行場を造成・設定した。昭和18(1943)年9月末に合意された中・南太平洋方面作戦陸海軍中央協定によれば、当初ハルマヘラ島では、海軍がカウ(Kaoe/Kao)に2個、陸軍がガレラ(Galera)、ワシレ(Wasile)、ジャイロロ(Djailolo)、そしてラブハ(Labuha)に計4個... ...続きを見る
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2009/02/18 22:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(77) Bandara Dai Nippon(77)ミチ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年中旬には、白木久雄工兵中佐指揮下の南方軍派遣隊の手で、すでにハルマヘラ島で基地建設が始まっていた。ハルマヘラ、北セレベス(スラウェシ)、サンギヘ、タラウド方面の基地建設と防衛を担った陸軍の第1野戦根拠地隊司令官(武田壽少将)は、フィリピンのマニラで第2方面軍(阿南惟幾大将)の命令を受け、昭和18(1943)年11月、ハルマヘラ島北部のガレラ(Galera)経由で、ワシレ(Wasile)に到着、同司令部を開設した。揚陸施設、... ...続きを見る
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2009/02/19 22:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(78) Bandara Dai Nippon(78)ワシレ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ガレラ(Galera)飛行場の一つの滑走路(長さ1,500m、幅100m)は、武松派遣班の手で昭和18(1943)年9月概成され、富臨時第1設定隊(注:第25軍から派遣され、同年12月末、第120野戦飛行場設定隊となる)の工事継続によって完成した。この設定には、地元住民千数百名が動員された。第120設定隊は、続いてガレラ第2滑走路(長さ1,500m、幅100m)の造成に着手、さらに、武松派遣班が着工したミチ飛行場の設定も担当した。一方、カウ(K... ...続きを見る
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2009/02/20 18:25
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(79) Bandara Dai Nippon(79)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和19(1944)年初頭、カウ(Kaoe/Kao)には、海軍の第26特別根拠地隊司令部が置かれ、前年(1943)10月10日編成の、第4南遣艦隊所属の海軍第224設営隊(大津敏春技術大尉)や第102海軍施設部などの手で飛行場1個が概成し、さらに第2滑走路の造成に着手していた。『海軍設営隊の太平洋戦争(佐用泰司著・光人社)』によれば、ハルマヘラ(Halmahera)島に派遣された海軍設営隊は以下の通り。昭和17(1942)年3月20日編成の、連合艦... ...続きを見る
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2009/02/21 19:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(80) Bandara Dai Nippon(80)ハルマヘラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ハルマヘラ島周辺部の防衛を目的に、昭和19(1944)年5月初旬上陸した第32師団(石井嘉穂中将)の地上部隊配備は、海軍第26特別根拠地隊司令部が置かれたカウ、そして第1野戦根拠地隊司令部が置かれたワシレの両湾周辺部に集中していて、モロタイ(Morotai)島には第2遊撃隊(川島威伸少佐・台湾の山地出身兵で編成・4個中隊約450名)のみが配備された。この背景には、昭和19(1944)年7月4日の第2方面軍(阿南惟幾大将)の戦略判断があった。同方... ...続きを見る
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2009/02/22 21:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(81) Bandara Dai Nippon(81)ハルマラ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スラウェシ島のミニ版とも映る“K”字形のハルマヘラ島。島の至るところに日本軍が飛行場を造り、大本営が略して「春(ハル)」とも呼んだ地は、まさに島全体が“戦争博物館”。モロタイ島の南部には“星条旗”にも喩えられる形の、連合軍が建設した巨大飛行場跡も残っている。そこで、北マルク州(Propinsi Maluku Utara=Malut)の各県は、これら「兵どもが夢の跡」をマリンリゾートと並んで観光の目玉に掲げている。 これはハルマヘラ島に限ったことで... ...続きを見る
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2009/02/23 19:08
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(82) Bandara Dai Nippon(82)モロタイ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}連合軍は、昭和19(1944)年9月15日、モロタイ島最南端のギラ(Gila)岬付け根付近のピトゥ(Pitoe)に上陸、17日には島東南のサンゴウォ(Sangowo)、島中西部のワヤブラ(Wajabola)、ティライ(Tilai)に上陸した。19日には、島最北端のソピ(Sopi)岬、パダンギ(Padangi)付近へ上陸、さらに21日、モロタイ島西部に浮かぶラウ(Raoe)島へも上陸を果たした。ピトゥには後に、上空から見るとあたかも星条旗のような... ...続きを見る
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2009/02/24 18:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(83) Bandara Dai Nippon(83)モロタイ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「珊瑚礁が突起して出来上がった南方の島々で、普通の土地のように土を掘って、艦砲射撃に対抗し得るような防禦陣地が出来ると思って居たのは、大変な不覚で、之は容易なわざでないということが、上陸早々気がついた。(中略)モロタイというハルマヘラ北方の湾内を扼して居る小さな島は、戦略的にはどうしても保有したいという部隊長としての希望と、右の事情は、私を大に煩悶せしめた。(中略)この時方面軍から、モロタイを捨てハルマヘラ本島保有に専念すべき旨の命令があったの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/25 18:38
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(84) Bandara Dai Nippon(84)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}東部インドネシアの島々に多くの飛行場を設定した日本軍は、連合軍の反撃を遅らせるために、オーストラリア北部を中心に建設された連合軍の飛行場に対する空爆を繰り返した。日本軍による初めての対豪爆撃は、艦載機約100機による昭和17(1942)年2月19日のダーウィン(Darwin)に対する攻撃だった。その翌日、日本軍は、蘭領ティモール島のクーパン(Kupang)、そしてポルトガル領のディリ(Dili)へ同日上陸を敢行した。記録によれば、大戦中、日本軍... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/01 19:46
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(85) Bandara Dai Nippon(85)豪州2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}真珠湾奇襲攻撃に始まる「大東亜戦争」の快進撃。アメリカ軍をフィリピンから追いだし、英蘭の降伏によるマレー半島並びに蘭印(オランダ領インドネシア)の占拠。こうして、日本軍はフィリピン・オーストラリア間を遮断し、“念願”のスマトラ島の大石油生産地帯であるパレンバン(Palembang)も制圧し、順風満帆の大東亜共栄圏構想を推し進める最初の基盤を固めた。初期の快進撃に自信を深めた海軍は、オーストラリア進攻論を謳うようになる。やがて連合軍の抗日拠点とな... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/03/02 17:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(86) Bandara Dai Nippon(86) 豪州3
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦から3ヵ月、昭和17(1942)年3月時点で、オーストラリア北西部に対する日本軍侵攻の可能性はあるかないか?この点に関して、米軍公刊戦史は、次のように述べている。「日本軍のトレス海峡方面一挙突進の算は少なく、まずニューギニア南岸のメラウケ付近を占領し、逐次、東進する確率が大きいとみなしていた。メラウケには、一月以来、歩兵一大隊だけであったが、四月〜五月に豪軍一コ旅団主力が増派された。豪州西部には、一機械化師団と三コ旅団が配備されていた。パー... ...続きを見る
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2009/03/03 17:38
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(87) Bandara Dai Nippon(87)豪州4
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール(Timor)島は、天然資源地帯であるインドネシア西部を確保し続けるために、日本軍にとって対連合軍守備の最前線だった。昭和17(1942)年3月、ジャワ島攻略作戦に参加後、西部ティモールの要衝クーパン(Kupang)に進出していた海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)は、同月16日から4月5日の間、ダーウィン(Darwin)を空爆し、22日にはダーウン南東約275km内陸部に位置するカセリン(Katherine)飛行場を、また3月20日に... ...続きを見る
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2009/03/04 16:28
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(88) Bandara Dai Nippon(88)豪州5
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年5月、SWPA(南西太平洋方面連合軍)のダグラス・マッカーサー大将は、アラフラ海を越えて東部インドネシアに展開する日本軍部隊と対峙するよりも、その海軍力を活かして、ニューギニア北岸方面を攻略すべきとの判断に達した。この決断に基づいて、RAAF(豪空軍)は、ダーウィン方面から東部インドネシアの日本軍根拠地の空襲を強化し、日本軍の緊張と関心を豪州北部に引き寄せる心理作戦を演じた。また、偽情報を敢えて流すことによって、日本軍を牽... ...続きを見る
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2009/03/05 18:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(89) Bandara Dai Nippon(89)豪州6
{%空港(ユラユラ)hdeco%}終戦までおよそ1年半の昭和19(1944)年3月頃の、オーストラリア北西部における豪・連合軍航空部隊配置は、豪公刊戦史によれば、以下の通り。ダーウィン(Darwin)には豪第43飛行中隊(偵察・機雷の飛行艇カタリナ=Catalina)、そして英第54飛行中隊(戦闘機スピットファイアー・Spitfire)。ストラウス(Strauss)には豪第452中隊(スピットファイアー)。ヒューズ(Hughes・日本軍はフーヘスとも呼称)には豪第2中隊(偵察・... ...続きを見る
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2009/03/07 04:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(90) Bandara Dai Nippon(90)ケンダリ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年1月時点で、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島には、3個の日本軍飛行場があった。北端のメナド(Manado・マナド)、そして南東部のケンダリ(Kendari)、そして南西のマカッサル(Makassar)。いずれも海軍が修復・設営したものだった。同年2月16日には、蘭印(オランダ領インドネシア・現在のインドネシア共和国)のほぼ全域を作戦地域とする陸軍第7飛行師団(須藤榮之助中将)が編成され、シンガポー... ...続きを見る
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2009/03/12 17:06
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(91) Bandara Dai Nippon(91)ケンダリ2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦から1年と4ヵ月。昭和18(1943)年4月上旬、大本営陸海軍部は、南太平洋方面に対する作戦の根拠地を、東部蘭印(東部インドネシア)域に求めることを計画した。つまり、フィリピン南部や、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)北部、そしてハルマヘラ(Halmahera)島を、補給並びに修理の役割を演じる飛行場群基地する発想であった。特に、東部インドネシア域を“民政(海軍の軍政)”地域とする海軍は、セレベス島のケンダリ(Kend... ...続きを見る
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2009/03/13 16:27
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(92) Bandara Dai Nippon(92)ケンダリ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ムナ(Muna)島の飛行場設定は、第1野戦飛行場設定司令部(松崎今朝松大佐)が昭和18(1943)年11月に着工し、すでにあった飛行場を補修した後、別の新設飛行場の工事に取り掛かった。しかし、松崎大佐は、12月10日、スンバ島へ移動した。これは、同年年11月末に、第2方面軍(阿南惟幾大将)が第19軍(北野憲造中将)に命じたもので、第110野戦飛行場設定隊(伊藤稔中佐)を指揮し、ワイコロ(Waikolo)で“スンバ島航空要塞”の建設任務に就いた。... ...続きを見る
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2009/03/14 14:30
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(93) Bandara Dai Nippon(93)マカッサル
{%空港(ユラユラ)hdeco%}戦中、マカッサル(Makassar)には南西方面海軍民政府が置かれ、セレベス(Celebes/スラウェシ=Sulawesi)、ボルネオ(Borneo/カリマンタン=Kalimantan)、セラム(Seram)の3地域の民政府を下部組織とした。セレベス民政府(マカッサル)は、直轄州とメナド(Manado)州知事庁に区分され、ボルネオ民政府(バンジェルマシン=Banjermasin)は、直轄州とポンティアナック(Pontianak)州知事庁、バリク... ...続きを見る
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2009/03/15 19:18
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(94) Bandara Dai Nippon(94)マカッサル2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}西部ニューギニアのホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)、そしてワクデ(Wakde)島とサルミ(Sarmi)、さらにビアク(Biak)島、ヌンホル(Numfor)島、サンサポール(Sanapor)、モロタイ(Morotai)島と、猛スピードの飛び石作戦で西進・上陸を遂げてきた連合軍。 セレベス(スラウェシ)島南部は、ある意味で、日本軍の東部蘭印における“最後の砦”となった。昭和19(1944)年9月、セレベスにあった... ...続きを見る
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2009/03/16 18:20
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(95) Bandara Dai Nippon(95)マナド
{%空港(ユラユラ)hdeco%}北スラウェシ(セレベス)のメナド(マナド・Manado)は、大東亜戦争の蘭印(オランダ領インドネシア)、特に西部ニューギニア方面、ハルマヘラ島、モロタイ島での“玉砕戦”に近い激戦を控え、作戦命令の“発信地”、別の言い方をすれば、帝国陸軍の“頭脳”の地だった。ここには、中部ニューギニア北岸の要衝ホランジア(Hollandia・現ジャヤプラ=Jayapura)への連合軍上陸(1943.4.22)を受け、昭和19(1943)年4月26日、第2方面軍(... ...続きを見る
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2009/03/17 18:46
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(96) Bandara Dai Nippon(96)マナド2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、日本時間午前9時52分。フィリピンのミンダナオ島ダバオを28機に分乗して南下した、海軍第11航空艦隊(塚原二四三中将)隷下の1001部隊(横須賀第1特別陸戦隊・横一特・堀内豊秋中佐)は、セレベス(Celebes・スラウェシ=Sulawesi)島北端の要衝、メナド(Manado・マナド)南方のランゴアン(Langoan/Langowan)にパラシュート降下。堀内中佐が高度およそ150mからまず降下、これに2コ中隊... ...続きを見る
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2009/03/18 18:06
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(97) Bandara Dai Nippon(97)スラウェシ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和20(1945)年2月、終戦まであと半年。セレベス(スラウェシ)島の航空地区部隊は、漸次その収縮整理に動き始めた。北セレベスのマパンゲット(Mapenget)、ランゴアン(Langoan/Langowan)、アムラン(Amurang)などの飛行場は、それまで、陸軍第7飛行師団によるハルマヘラ島方面への出撃基地を担っていたが、1945年2月、第4野戦飛行場設定部(難波了三大佐)の約2,000名は、3月から南セレベスのマカッサルへと徐々に後退を... ...続きを見る
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2009/03/22 23:46
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(98) Bandara Dai Nippon(98)スラウェシ2
{%空港(ユラユラ)hdeco%}北セレベス(スラウェシ)の北端のマナド(Manado・メナド)とフィリピンのミンダナオ島との間に点在するサンギヘ(Sangihe)諸島やタラウド(Talaud)諸島は、開戦当初は、海軍陸戦隊によって占拠されたが、戦況の悪化に伴い、第2軍(豊嶋房太郎中将)隷下で、ハルマヘラ(Halmahera)島の守備にあたった第32師団(石井嘉穂中将)の一部部隊が、昭和19(1944)年5月、タラウド地区隊(地区隊長は師団衛生隊長の木場茂大佐)として送り込まれ... ...続きを見る
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2009/03/23 19:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(99) Bandara Dai Nippon(99)スラウェシ3
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スラウェシ島の北半分に位置する北スラウェシ州、ゴロンタロ州、そして中スラウェシ州の3州で現在使用されている空港は、主なもので計8ヵ所。マナドのサムラトゥランギ(Samratulangi)飛行場は、滑走路の長さが2,650m、幅45m。B-737型機が就航。ボラアン・モンゴンドウ(Bolaang Mongondow)県にあるモパティ(Mopati)空港は、650m X 23mの滑走路規模で、C-212型機の離着陸が可能。ゴロンタロ(Goronta... ...続きを見る
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2009/03/24 16:49
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(100) Bandara DaiNippon(100)スラウェシ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}南スラウェシ(Sulawesi Selatan)州そして南東スラウェシ(Sulawesi Tenggara)州、さらに西スラウェシ(Sulawesi Barat)州には、主用空港が計12ヵ所ある。西スラウェシ州のマムジュ(Mamuju)のタンパ・パダン(Tampa Padang)空港は、滑走路規模が長さ1,500m、幅30mでC-212型機が就航。南スラウェシ州には、北部の北ルウ県の県都マサンバ(Masamba)近辺に3ヵ所の空港がある。まず、... ...続きを見る
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2009/03/25 16:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(101) Bandara DaiNippon(101)タラカン島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦。蘭印(オランダ領インドネシア)の豊かな石油を始め、天然資源獲得を第一義に、ハワイ真珠湾奇襲攻撃の成功を受け、日本軍は南方攻略作戦に着手した。すでに占領したフィリピンのミンダナオ島を根拠地に、蘭印への第一歩は、セレベス(スラウェシ)島北端のマナド(Manado・メナド)、そしてボルネオ(カリマンタン)島東岸のタラカン(Tarakan)島並びにバリックパパン(Balikpapan)に対する上陸作戦だった。 昭和17... ...続きを見る
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2009/03/28 20:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(102) Bandara DaiNippon(102)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タラカン島攻略作戦を終えた坂口支隊(混成第56歩兵団長坂口靜夫少将)は、昭和17(1942)年1月24日、日本時間午前零時四〇分、バリックパパン(Balikpapan)東方のマンガール(Manggar)飛行場付近の海岸に上陸。同日中に飛行場並びに橋梁の占拠を果たした。翌25日午前四時、戦闘を交えることなく日本軍はバリックパパン市街へ突入した。バリックパパン攻略作戦は、タラカン島同様に陸海軍協同作戦だった。バリックパパンは、近くのサマリンダ(Sa... ...続きを見る
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2009/03/29 19:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(103) Bandara DaiNippon(103)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}4州から構成されるカリマンタン(ボルネオ)島の中でも、東カリマンタン州(Propinsi Kalimantan Timur=Kaltim)は天然資源の観点から最も豊かな州だ。例えばボンタン(Bontang)ガス田は、その昔から日本の液化天然ガス需要に応えてきた。日本企業による原油開発も行われ、また石炭の輸出でも知られる。大東亜戦争で蘭印(オランダ領インドネシア)に侵攻した日本軍が、まず最初に同州東北部に位置する石油基地であるタラカン(Tarak... ...続きを見る
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2009/03/31 18:19
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(104) Bandara DaiNippon(104)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}南カリマンタン(Kalimantan Selatan=Kalsel)州には主なもので計5個の飛行場がある。州都のバンジャルマシン(Banjarmasin)のシャムスディン・ヌール(Syamuudin Noor)国際空港。北東部にタンジュン・ワルキン(Tanjung Warukin)空港(滑走路の規模は1,300 X 30m)。東部のラウト(Laut)島には二ヶ所。中心都市のコタバル(Kotabaru)近辺にスタゲン(Stagen)空港と、島中部... ...続きを見る
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2009/04/01 19:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(105) Bandara DaiNippon(105)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}13県と1都市から成る中カリマンタン州(Kalimantan Tengah=Kalteng)の主要空港は計9個。北側から、ムルン・ラヤ(Murung Raya)県の県都プルックチャフ(Purukcahu)付近にあるディルン(Dirun)空港。滑走路の規模は850 X 23mでC-212型機が県都から就航。北バリト(Barito Utara)県の県都ムアラテワ(Muaratewah)のブリンギン(Beringin)空港。900 X 23mの滑... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/02 16:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(106) Bandara DaiNippon(106)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}西カリマンタン(Kalimantan Barat=Kalbar)州にある主用空港は計8ヵ所。東部の、カプアス川源流部に近い最奥部のプツシバウ(Putussibau)には、パンスマ(Pangsuma)空港がある。滑走路の規模は1,400 X 23mでF-27型機やATR-42型機が就航。カプアス川中流域のシンタン(Sintang)には、1,300 X 30mの滑走路を持つスシロ(Susilo)空港があり、C-212型機の離着陸が可能。また、シンタ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/04/03 16:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(107) Bandara DaiNippon(107)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍のボルネオ(Borneo)島(注:インドネシアはカリマンタン=Kalimantanと表記)占領は、今日のインドネシア領域に限らず、全島にわたった。今日のマレーシアのサラワク(Sarawak)そしてサバ(Sabah)、さらにブルネイ(Brunei)も瞬く間に占拠された。 ボルネオ島の北東端に位置するサンダカンは、戦前、英国領ボルネオの中心都市として栄えていた。同地を占拠した日本軍は、戦争捕虜となったイギリス兵と豪州兵を使役して、サンダカン... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/05/18 17:31
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(108) Bandara DaiNippon(108)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}英領ボルネオ時代にジェッセルトン(Jesselton)と呼ばれていた、今日のコタキナバル(Kota Kinabalu)。マレーシアのサバ(Sabah)州の州都所在地だ。戦前の北ボルネオの中心地はサンダカン(Sandakan)だったが、戦後の1947年、マラヤ連邦の結成に伴って、英領北ボルネオの首都はジェッセルトンへと移された。 英領ボルネオ域は,太平洋戦争開戦直後の昭和16年(1941)12月、歩兵第35旅団長川口清健少将指揮下の部隊によって... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/05/19 12:40
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか? 第6飛行師団第14飛行団司令部
jy 終戦記念日が近づくと、思い出す人がいる。過去数年間にわたり消息を追いかけてきたが、今年も確定的な情報を入手することはできなかった。 {%上昇webry%}上杉重邦少佐(中尉時代の昭和16年夏頃の撮影と思われる) ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/11 17:46
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(2) 第6飛行師団第14飛行団司令部
昭和18(1943)年12月13日、第14飛行団司令部附けとなり、妻と三人の娘を日本に残し西部ニューギニアに向った上杉重邦軍医大尉。広島から軍用機でホランジア(現ジャヤプラ)を目指したとされる。ホランジアに到着したのかどうかは確認材料がない。当時、第14飛行団(真第9135部隊・徳永賢治大佐)は第4航空軍(寺本熊市中将)の第6飛行師団(板花義一中将)の隷下にあった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/11 17:47
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(3) 第6飛行師団第14飛行団司令部
上杉重邦軍医大尉が日本からニューギニアに旅立った昭和18(1943)年末。実は、上杉が着任する予定の第14飛行団(真第9135部隊)の団長である徳永賢治大佐は、すでにホランジアにいた(『戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著に記述)。 {%上昇webry%}上杉重邦大尉と妻のビワ子さん ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/11 17:48
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(4) 第6飛行師団第14飛行団司令部
前号で記述したが、三好中尉や池見(羽生)少尉の二人の軍医が、昭和19(1944)年初頭に、各々およそ一ヵ月間を要して西部ニューギニアに到着しているケースから推察して、上杉重邦軍医大尉の場合もおそらく同程度の時を経てホランジアに着任できていただろうと考えられる。つまり、例えば昭和18年12月中旬に広島を発ったとすると、翌19年1月中旬〜2月初旬頃までには到着していたのではないか。 その頃のホランジア周辺情勢は以下のような情勢だった。 {%上昇webry%}上杉重邦大尉と家族。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/11 17:48
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(5) 第6飛行師団第14飛行団司令部
上杉重邦軍医大尉がホランジア(現西部ニューギニア・パプア州の州都ジャヤプラ)に着任したと推定される昭和19(1944)年1月〜2月は、同方面の戦局が急速に悪化をたどる初期段階だった。元々、ホランジアは南方軍(寺内寿一元帥陸軍大将)の作戦地域に指定されていたが、南太平洋域の戦闘激化に伴って、昭和18年4月2日以降、第8方面軍(今村均中将 )の作戦地域に入り、その後方基地となった。 {%上昇webry%}上杉重邦大尉と家族。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/11 17:49
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(6) 第6飛行師団第14飛行団司令部
昭和19(1944)年3月末のホランジア(現ジャヤプラ)飛行場における第4航空軍(寺本熊市中将)が被った空襲被害・戦力喪失は、想定外の致命的な規模であった。このため、東京の大本営はその責任を問う形で、航空戦指導者の大規模な更迭を行った。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/13 00:00
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(7) 第6飛行師団第14飛行団司令部
極めて貧弱なホランジア(現ジャヤプラ)地上守備兵力。そしてセンタニ飛行場群で空襲によって多くの戦闘機や爆撃機を一瞬にして失った日本軍。赤子を弄ぶかのような連合軍による空爆と上陸作戦。“向こう見ず作戦(Operation Reckless)”と名付けられたものの、結果的には“やり放題作戦”と表現してもいいほどの圧倒的な連合軍の優勢。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/13 23:53
戦後67年・西部ニューギニアに瞑る数万の将兵 Prajurit Jepang di Papua
{%爆弾webry%}今日、第67回目の終戦記念日を迎える。 東日本大震災から1年と5ヶ月。昨日の“皆様の半国営放送”は、福島原発の警戒区域で保護されたペットが、飼い主がやってくるのを待っているとのニュースを流していた。猫や犬の“動物の権利”(Animal rights)には関心があるようだが、この世界最大規模のマスコミ特殊法人は、過去の人権には無関心なようだ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/14 22:58
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(8) 第6飛行師団第14飛行団司令部
67回目の終戦記念日が過ぎた。2012年8月15日は、背景の理由はどうであれ、隣国との歴史観の相違があらためて思い知らされた日でもあった。民主党政権の2閣僚が靖国神社に参拝したその日、竹島(韓国名独島)に同国大統領として初上陸し、天皇の訪韓条件について言及した韓国の李明博大統領が「戦時の女性人権問題として人類の普遍的価値と、正しい歴史に反する行為だ。日本の責任ある措置を求める」と従軍慰安婦問題について述べた。そして香港の団体「保釣行動委員会」の抗議船の乗組員が、中国の領有権を主張して尖... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/15 23:58
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(9) 第6飛行師団第14飛行団司令部
2012年8月15日の第67回目の終戦記念日。そして今日8月17日、インドネシア共和国は第67回目の独立記念日を迎えた。インドネシアの“ムルデカ(独立)”と日本軍進駐との関係については、日本側に日本軍の存在意義を見出そうとする見解が少なくない。特に「ジャワの極楽」と謳われた、ジャワ島で終戦を迎えた旧日本兵にその傾向が強いように見える。スマトラ島やジャワ島の旧日本軍将兵の幾多が、インドネシアの独立戦争に参加したことはまぎれもない事実だ。しかし、それは大東亜戦争の一側面であって総てではない... ...続きを見る
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2012/08/17 01:14
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(10) 第6飛行師団第14飛行団司令部
戦死の日時や場所については、通常、生存している所属部隊の上官、もしくは最も高位の上官が記すのが常だ。ただ終戦にあたり、あるいは外地からの復員の際に、記録書類の焼却や没収があり、戦死公報に必ずしも正確な日付や戦没地名が書かれているとは限らない。 {%上昇webry%}第14飛行団司令部附け軍医・上杉重邦大尉と妻のビワ子さん ...続きを見る
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2012/08/17 23:20
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(11) 第6飛行師団第14飛行団司令部
{%上昇webry%}第14飛行団司令部附け軍医・上杉重邦大尉と家族。手前に幼い長女の一江 ...続きを見る
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2012/08/18 23:34
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(12) 第6飛行師団第14飛行団司令部
軍医大尉という地位、しかも当時西部ニューギニアの主力航空戦闘部隊であった第14飛行団司令部附け軍医としての赴任だったことを考慮すれば、上杉重邦大尉の戦没地が「ホランジア方面」と記されたことは腑に落ちない。仮に、航空機搭乗中の事故もしくは戦闘による撃墜などにあったのであれば、それはその墜落地点が明確に特定できなくとも、少なくとも、搭乗機や日時に関する情報は明白に記録されているはずだ。 {%上昇webry%}第14飛行団司令部附け軍医・上杉重邦大尉と家族。 ...続きを見る
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2012/08/20 00:03
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(13) 第6飛行師団第14飛行団司令部
『小学6年生か中学1年生の頃だったと思いますが、家にあった父からの葉書を読みました。どこから送ったのか、いつ日本に着いたのか今では分かりません。というのも、その後、火事に遭って焼けてしまったのです。でも軍事郵便の消印がなかったことははっきり覚えています。ですから、きっと誰かに託して日本に届いたものと思います』---上杉重邦軍医大尉の長女である瀬野尾一江が述懐する。 {%上昇webry%}第14飛行団司令部附け軍医・上杉重邦大尉 ...続きを見る
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2012/08/21 02:35
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(14) 第6飛行師団第14飛行団司令部
すでに書いたが、三好正之軍医中尉の第36師団(雪部隊)第224連隊従軍記を描いた『戦場の聴診器』(中田整一著・2008年9月15日初版・幻戯書房)によれば、三好中尉は昭和19年1月末、秋津丸で広島の宇品港発。2月20日、マニラ着。3月19日、マニラから軍用機で出発。ミンダナオ島のダバオ、スラウェシ島のメナドを経由してマルク諸島のアンボンへ。アンボンからは重爆撃機呑龍に便乗して3月21日、ホランジア到着。そして3月24日、軍用機でホランジアからワクデ島を経由してサルミの第36師団へ着任。... ...続きを見る
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2012/08/21 22:36
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(15) 第6飛行師団第14飛行団司令部
終戦のほぼ一年前、昭和19(1944)年8月10日、「ホランジア(現パプア州の州都ジャヤプラ)方面で戦死」とされている第6飛行師団第14飛行団司令部附け軍医の上杉重邦大尉。戦後、一途に父親に関する情報収集に努めてきた、現在広島都市学園大学で公衆衛生看護学の教授を務める瀬野尾一江さん。韓国併合の年、時代が大正に移る二年前、明治43(1910)年8月25日生まれた父親。生きていれば明後日、102歳の誕生日を祝福されていたはずだ。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉の長女・一江(昭和1... ...続きを見る
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2012/08/22 22:00
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(16) 第6飛行師団第14飛行団司令部
上杉重邦軍医大尉が、昭和19(1944)年4月末時点で、おそらくホランジア・センタニ飛行場群地域にいたことは、あてはまらない情報の消去法によって導かれる結論だ。フンボルト湾、そしてタナメラ湾の東西両方向から同地へ“向こう見ず作戦(Operation Reckless)”と呼ばれる上陸を完遂した連合国軍。同地にいた約1万5千の将兵は、どのように同地を追われたのか。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉 ...続きを見る
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2012/08/25 00:58
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(17) 第6飛行師団第14飛行団司令部
生きていて長命であったのならば、上杉重国軍医大尉は、昨日8月25日、102歳の誕生日を迎えていたはずだ。34歳の誕生日まであとわずか2週間。岡山医科大学を卒業し日本陸軍軍医となった上杉は、祖国に妻ビワ子と三人の娘を残し、“南涯”の西部ニューギニアでこの世に別れを告げた。長女の一江は今でも父の足跡を探し続けている。父の終焉の地、そしてその過程を探る“歴史の旅”は、一江にとってやはり“戦後の旅”そのものであった。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉と妻のビワ子 ...続きを見る
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2012/08/26 00:12
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(19) 第6飛行師団第14飛行団司令部
『恩田部隊473名(戦闘操縦者を主とし、飛行団司令部を含む)は、ゲニム(注:ゲニェム)に向って行軍を開始した。サルミまでは当然、海岸線を行けば、距離も近く、行軍も楽ではあるが、タナメラ海岸にも敵が上陸しているので、いったん奥地に向い迂回して海岸線に出ようというわけである。二十四日の昼間は、センタニ湖の北岸斜面の林の中で休み、夜になってから、ススキのような草が長く茂っている草原を抜けて、ようやく遮蔽のできるジャングル地帯にたどり着いた。上空には敵機が自由に飛び回り、ちょっとでも部隊の気配... ...続きを見る
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2012/08/26 23:52
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(19) 第6飛行師団第14飛行団司令部
連合軍がホランジア(現パプア州の州都ジャヤプラ)に上陸した昭和19(1944)年4月22日。日本を発つ段階での赴任先である第14飛行団司令部附けであれば、おそらくセンタニ飛行場群付近にいたであろう上杉重邦軍医大尉。しかし、同地の戦局が歴史的急変を告げる最中、瞬時に生まれた多数の負傷者救命活動の中、上杉大尉が、センタニ地区を離れて、ホランジアに上陸してきた敵軍により近い、第113兵站病院が位置した、センタニ湖東部のコヤブ村北西へ派遣されたことも十分考えられる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/27 23:23
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(20) 第6飛行師団第14飛行団司令部
上杉重邦軍医大尉が、連合軍ホランジア上陸時(昭和19(1944)年4月22日)以降、センタニ湖北岸のコヤブにあった第113兵站病院(通称陣之内兵站病院)へ、何らかの事由で出かけていた可能性は否定できない。第14飛行団司令部が置かれたセンタニ飛行場群付近にいなければ、稲田正純第6飛行師団長心得による「サルミ転進」命令に基づいて第14飛行団長の恩田謙蔵大佐以下のおおよそ500名が第一梯団としてセンタニを発った段階で、それに加われなかった。敢えて悲観的に想像すれば、上杉大尉が、第113兵站病... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/29 20:12
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(21) 第6飛行師団第14飛行団司令部
連合軍上陸時(昭和19(1944)年4月22日)、ホランジア地区とセンタニ湖周辺にいたおよそ1万5千の日本軍将兵。ホランジアに限っても、把握できているだけでもおよそ2,700名が同地で戦死している。それらの部隊名は、建築勤務第52中隊(617名)、野戦高射砲第68大隊(674名)、海軍第90警備隊(217名)、海軍第9艦隊司令部(233名)、海軍第27特別根拠地隊(652名)、海軍第7警備隊(287名)などだ。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/08/30 20:31
上杉重邦軍医少佐の戦没地はどこか?(22) 第6飛行師団第14飛行団司令部
上杉重邦軍医少佐(戦死時大尉)の戦没地に関する考察を21回にわたり連載してきた。現時点で入手可能な記録を読み解き、幾つかの想定シナリオに基づいてその疑問に迫った。しかしながら、満足できる結論を導き出せないでいる。今号をもって、第一シリーズを終了する。上杉少佐並びにご遺族に申し訳ない気持ちで一杯だ。 {%上昇webry%}上杉重邦軍医大尉 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/09/02 23:19
京都産業大学「ふるさと論」講義の感想文Remaja Jepang & Perang Dunia II
{%学校webry%}紅葉のピークにはあと数日かと思われる先々週の木曜日(2012.11.8)、京都・上賀茂の京都産業大学で教壇に立った。今年で五回目。一般教養枠の「ふるさと論」の講義。今年も昨年同様、『故郷としての祖国』を主テーマに据えた。今回は、9月に北マルク州のモロタイ島やハルマヘラ島を取材してきたこともあり、モロタイ島で1974年12月、戦後29年と4ヶ月後にジャングル内の潜伏地で救出された、台湾人元日本兵の中村輝夫氏(中国語名は李光輝)に関して話を始めた。次いで今もなお西部ニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/11/17 22:27
京都産業大学「ふるさと論」講義感想文2Remaja Jepang & Perang Dunia II
{%学校webry%}紅葉のピークにはあと数日かと思われる先々週の木曜日(2012.11.8)、京都・上賀茂の京都産業大学で教壇に立った。今年で五回目。一般教養枠の「ふるさと論」の講義。今年も昨年同様、『故郷としての祖国』を主テーマに据えた。今回は、9月に北マルク州のモロタイ島やハルマヘラ島を取材してきたこともあり、モロタイ島で1974年12月、戦後29年と4ヶ月後にジャングル内の潜伏地で救出された、台湾人元日本兵の中村輝夫氏(中国語名は李光輝)に関して話を始めた。次いで今もなお西部ニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/11/18 22:30
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵、そして生き続ける三八歩兵銃
{%爆弾webry%}日本の真南およそ5,500km。ニューギニア島の西半分。インドネシアの最東端部にパプア州と西パプア州がある。そこは70年ほど前に日本軍と連合国軍とが死闘を繰り返した戦場でもある。 {%上昇webry%}数か月前にサルミ地区で高校生が見つけた旧日本兵の遺骨。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/09 18:54
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか
{%爆弾webry%}2014年10月7日、『朝日新聞』東京版の国際ページに、小さな記事が掲載された。「インドネシア 旧日本兵の遺骨を確認」との記事。インドネシア・パプア州のプアイという場所で、戦死した旧日本兵の遺骨を焼く焼骨式が6日に行われたという内容だ。なんでも61人分の遺骨を確認とある。それらの遺骨は、日本に持ち帰られ、東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑に収められるとも。しかし、それらは本当に旧日本兵らの遺骨なのか?たぶん厚労省は言うであろう。住民らの証言や戦史などの記録、さらに遺骨周辺の... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/09 19:06
西部ニューギニアから祖国帰還を果たしたとされる“ご遺骨”だが
{%爆弾webry%}戦後70年は目の前だ。そして、日本人男性の平均寿命はおよそ80歳とか。つまり、終戦時に10歳だった男子が、そろそろ明鏡境を異にする時期に入ったことを意味する。言い換えれば、戦争実体験者が皆無に近づいているということだ。戦争を知らない世代が、社会の要所を占め、やれ世界平和貢献だ、国民の安全を守るのだとか喧しい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/09 20:53
西部ニューギニアから祖国帰還を果たしたとされる“ご遺骨”だが
{%爆弾webry%}戦後70年は目の前だ。そして、日本人男性の平均寿命はおよそ80歳とか。つまり、終戦時に10歳だった男子が、そろそろ明鏡境を異にする時期に入ったことを意味する。言い換えれば、戦争実体験者が皆無に近づいているということだ。戦争を知らない世代が、社会の要所を占め、やれ世界平和貢献だ、国民の安全を守るのだとか喧しい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/09 20:53
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(2)
{%爆弾webry%}遺骨収集作業なのだろうか、それとも遺骨回収事業なのか? 実際に、土むくれを掘り起しているのは地元のパプア人。そして、ある程度の“量”がまとまると連絡してくる得体のしれない“現地インフォーマント”。次は、それらの情報確認のために、日本の民間組織が向かい、それを確認。すると。その情報確認のために日本政府関係者が、現地へ向かい。それを“役人の眼”で再確認。丁寧な二度手間。費用もかかろう。豊かな経済力の国家らしいビジネスクラス的調査方法かな。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/25 02:09
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(3)
{%爆弾webry%}煮えたぎるような高湿度。吐き気をもよおす異臭。蚕棚のような狭い空間。敵潜水艦の魚雷攻撃を避けつつ、ジグザク操舵で進む古びた貨物船の船底。今から70年以上も前、何万、何十万もの将兵が、日本から、そして占領下の中国から南方へと向かった。厚労省のデータによれば、西イリアン(西部ニューギニア・今日のインドネシア領パプア州&西パプア州)で53,000人、東部ニューギニア(今日のパプアニューギニア)で127,600人が戦死。さて、これらの数値に、動員された朝鮮半島出身者、台湾... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/25 18:38
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(4)
{%爆弾webry%}当たり前の話だが、かつての戦場で、あるいはその付近で見つかる遺骨の個人特定をする場合、戦史との照合、元帰還兵の証言などからの推察、さらには個々の遺骨の周辺部から出てくる数々の遺留品(例えば、認識票、飯盒、水筒、鉄帽、眼鏡、印鑑、銃、銃剣、その他の軍装備等々)の存在が極めて重要な要素となる。そして地元住民、とりわけ古老らの証言、あるいはその証言を引き継いだ次世代の伝承証言も有力な手掛かりとなる。もちろんDNA鑑定という手段もあるが、その場合、遺骨が、生前どの部隊に所... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/10/28 20:10
西部ニューギニアに瞑る旧日本兵 こんな遺骨収集でいいのか(5)
{%爆弾webry%}去る10月10日、西部ニューギニア(旧蘭領ニューギニア・旧西イリアン・旧イリアンジャヤ・旧パプア州:現在はパプア州&西パプア州)から戦後69年ぶりに祖国帰還を果たした(おそらく)旧日本兵と推定される計61柱の遺骨に関してリポートした。日本の民間団体による杜撰な遺骨情報収集過程、そして余りにもアマチュア的かつ長期展望の無さ。戦前・戦後を通じて70年以上もの長きに渡って、赤道直下の土むくれと化した旧日本軍将兵。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/11/15 21:50
サルミからダンケン&ブファレ村へ(1) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/11/28 20:15
サルミからダンケン&ブファレ村へ(2) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/11/29 17:35
サルミからダンケン&ブファレ村へ(3) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/11/30 17:28
サルミからダンケン&ブファレ村へ(4) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/01 19:01
サルミからダンケン&ブファレ村へ(5) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/02 19:08
サルミからダンケン&ブファレ村へ(6) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/03 19:31
サルミからダンケン&ブファレ村へ(7) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/04 19:00
サルミからダンケン&ブファレ村へ(8) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/05 20:47
サルミからダンケン&ブファレ村へ(9) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/06 19:40
サルミからダンケン&ブファレ村へ(10) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/07 18:01
サルミからダンケン&ブファレ村へ(10) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/07 18:01
サルミからダンケン&ブファレ村へ(11) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/08 18:34
サルミからダンケン&ブファレ村へ(12) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から間もなく73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/09 18:08
サルミからダンケン&ブファレ村へ(13) 西部ニューギニア未帰還兵
{%爆弾webry%}日米開戦、太平洋戦争勃発から73周年。来年は終戦70周年。厚労省の統計によれば、海外戦没者概数は約240万人。その内、今日現在、およそ113万柱が未収容とのことだ。しかし、海没そして相手国の事情等で収容が困難とされる遺骨概数は約53万柱。つまり、収容が可能な未収容遺骨は約60万柱ということになる。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/11 00:23
西部ニューギアから新たな旧日本兵の遺骨情報が Nasib Tentara Dai Nippon
{%爆弾webry%}“ビジネスクラスで行く”旧日本兵の遺骨情報調査については、これまで何度か記してきた。年間1千〜2千万円もの、日本国民の血税から生まれた「公費」を使って、70年以上も前に戦場に斃れた、多くは20〜30歳代の将兵らの遺骨に関する情報を収集する作業のことだ。これには、本来率先して足を運ばなければいけない担当省庁である厚労省は、業務管理のみで、民間団体にその任の大半を“丸投げ”している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/16 23:18
パプア州のジャヤプラからサルミへ(1) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/29 20:54
パプア州のジャヤプラからサルミへ(2) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2014/12/30 19:12
パプア州のジャヤプラからサルミへ(3) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/01 18:38
パプア州のジャヤプラからサルミへ(3) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/01 18:38
パプア州のジャヤプラからサルミへ(4) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/02 19:55
パプア州のジャヤプラからサルミへ(5) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/03 19:11
パプア州のジャヤプラからサルミへ(6) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/04 18:44
パプア州のジャヤプラからサルミへ(7) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/05 18:52
パプア州のジャヤプラからサルミへ(8) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/06 19:12
パプア州のジャヤプラからサルミへ(9) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/07 19:22
パプア州のジャヤプラからサルミへ(10) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
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2015/01/08 17:12
パプア州のジャヤプラからサルミへ(11) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
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2015/01/09 20:02
パプア州のジャヤプラからサルミへ(12) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/10 19:23
パプア州のジャヤプラからサルミへ(13) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
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2015/01/11 19:02
パプア州のジャヤプラからサルミへ(14) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
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2015/01/12 18:38
パプア州のジャヤプラからサルミへ(15) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/13 18:49
パプア州のジャヤプラからサルミへ(16) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/14 18:15
パプア州のジャヤプラからサルミへ(17) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/15 21:27
パプア州のジャヤプラからサルミへ(18) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/16 18:53
パプア州のジャヤプラからサルミへ(19) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/17 17:55
パプア州のジャヤプラからサルミへ(20) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/18 16:46
パプア州のジャヤプラからサルミへ(21) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/19 17:05
パプア州のジャヤプラからサルミへ(21) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/19 17:05
パプア州のジャヤプラからサルミへ(21) Jayapura to Sarmi, Papua
{%爆弾webry%}西部ニューギニアのパプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)から、直線距離でおよそ233km(道路上の距離では約300km)西方のサルミ県の県都サルミを目指した。途中、センタニ湖やゲニェム、ボンゴ、ベタフ、タカール、トゥム、アラレなどを通過してトル川越え。トル川は、戦時中、“命を取る(トル)川”とまで称された。その先に、ウォスケ川、この付近には日本軍が建設した飛行場があった。そしてさらにその先、サルミに入る直前のサワール付近にも、日本軍によって飛行場が造られた。 ... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/19 17:05
パプア州のジャヤプラからサルミへ(22) Jayapura to Sarmi, Papua
(注) 海外出張につき、日本国内不在中のブログ記事を掲載します。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/01/19 19:56
旧日本軍ホランジア飛行場がインドネシア空軍基地に Nasib Bandara Hollandia 
{%爆弾webry%}戦後70年。そして来月の8日は、太平洋戦争開戦74周年。激戦地の一つである、西部ニューギニアの友人から、携帯電話のカメラで撮影した短いビデオが届いた。パプア州の州都ジャヤプラ(旧ホランジア)西方に位置するセンタニ湖北岸の台地に、戦時中に日本軍が設定した飛行場の跡地に、近くインドネシア空軍の航空基地が建設されるという情報だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2015/11/17 19:55
旧日本軍ホランジア飛行場がインドネシア空軍基地に2 Nasib Bandara Hollandia 
{%爆弾webry%}昨年11月18日付けでリポートした、西部ニューギニア(インドネシア最東端のパプア州&西パプア州)のパプア州都ジャヤプラ近郊に今も残る、旧日本海軍が設定した「ホランジア飛行場」。インドネシア空軍(AURI)がこの飛行場跡地に、新空軍基地を建設予定と伝えたが、数日前に現地から送られてきた動画によれば、具体的な建設着工日は未定で、その代わり、ジャヤプラ県とAURIの共同プロジェクトとして、野外音楽コンサート会場ができたという。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/01/26 18:44
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}ジャワ島バンドン在住の建築家イェオ・ブン・ヨン(Yeo Bun Yong・楊文雄)さん(48歳)から、西パプア州の州都ソロン(Sorong)市沖合に浮かぶドーム島(Pulau Doom)で撮影した、旧日本軍が残した幾つものトーチカ跡の画像が届けられた。その数、旧日本軍関連が12基、オランダ関連が3基。パラヒャンガン大学(Univ.Parahyangan)で建築学を専攻した同氏は、歴史的なエリアにおける古い建築物と、その周辺の地形やそこに暮らす人々の生活をテーマに研... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/02 18:13
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ2Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}西パプア州の州都ソロン(Sorong)沖合に浮かぶドーム島(Pulau Doom)に今も残る、旧日本軍が設定したトーチカに関するリポートに対して、インドネシア各地の友人から、「ここにもある」との反応が届いた。例えば、スマトラ島北部のメダン(Medan)や、スラウェシ島のマカッサル(Makkasar)、そしてハルマヘラ島(Pulau Halmahera)等々。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/03 19:01
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ3Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}昭和19(1944)2月1日、「ニューギニア民政府」は解体され、代わりにハルマヘラ島(Pulau Halmahera)のカウ(カオ・Kau/Kao)に第26海軍建設部(本部長は、第26特別根拠地隊司令官の一瀬信一海軍中将)が設置された。同建設部は、マノクワリとソロンに支部を設けた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/04 17:23
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ4Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}西パプア州(Provinsi Papua Barat)の州都ソロン(Sorong)の沖合に浮かぶドーム島(Pulau Doom)。東西約1100m、南北約600mの楕円形をした小さな島だ。そんな島に計15基ものトーチカ跡が残っている。旧日本軍(海軍か?)が設置したものが12基、そして、日本軍侵攻前にオランダ軍が造ったものが3基。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/05 19:56
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ5Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}旧日本海軍が設定したと思われる計12基のトーチカの存在が明らかになった、西パプア州の州都ソロン(Sorong)市の目と鼻の先に浮かぶドーム島(Pulau Doom)。日本軍は、この島を日本軍が占領する以前に宗主国であるオランダが呼称していた“ソロン島”と呼んでいたようだ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/06 20:09
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ6Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}西パプア州の州都ソロン(Sorong)市の西方沖に浮かぶドーム島(かつて日本軍はソロン島と呼んだ)に、ほぼ原形をとどめて散在する日本帝国海軍が建造設置したと推定される計12基のトーチカ群。日本軍侵攻以前に、当地を植民地支配していたオランダが造ったトーチカも少なくとも三つある。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/07 19:54
西部ニューギニアのソロンに残る日本軍トーチカ7Bunker Jepang di Pulau Doom
{%爆弾webry%}いわゆる“ニューギニア戦”については、東部の第18軍(安達二十三中将)や西部の第2軍(豊嶋房太郎中将)と連合国軍との戦闘に関する史料や戦誌が、その中核を占めているが、開戦初期の海軍陸戦隊による“ニューギニア占拠”については、関連資料・史料が極めて少ない。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/08 19:26
サルミ転進作戦出発点のゲニェム。マルティヌス氏が語る WWCR Marthinus Buaim
{%爆弾webry%}パプア州の州都ジャヤプラ西方およそ60Kmに位置するゲニェム(Genyem)。センタニ湖(Danau Sentani)の西端にあたるブロワイ(Broway・日本軍はブルワイと呼称)からは約24Km西方。西部ニューギニア戦を語るとき、忘れることのできない地名だ。昭和19(1944)年4月、連合国軍がホランジア(現在のジャヤプラ)に上陸。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/19 19:32
サルミ転進作戦出発点のゲニェム。マルティヌス氏が語る2 WWCR Marthinus Buaim
{%爆弾webry%}パプア州の州都ジャヤプラ西方およそ60Kmに位置するゲニェム(Genyem)。センタニ湖(Danau Sentani)の西端にあたるブロワイ(Broway・日本軍はブルワイと呼称)からは約24Km西方。西部ニューギニア戦を語るとき、忘れることのできない地名だ。昭和19(1944)年4月、連合国軍がホランジア(現在のジャヤプラ)に上陸。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2016/02/20 17:23

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