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zoom RSS マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)

<<   作成日時 : 2008/07/03 14:17   >>

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太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、“ババル大虐殺 元大尉「すまない」”。

この報道は、福岡県の戦史研究家の武富登巳男氏が、偶然入手した、旧日本軍第五師団参謀部作製の極秘書類『ババル島事件関係書類綴』が発端となっている。同極秘書類は1987年7月に、『十五年戦争極秘資料集 第二集 ババル島事件関係書類』と題して不二出版によって復刻されている。

同書類綴では、戦争犯罪人の追及を避けるために、虐殺の実行者である第五師団歩兵第四十二連隊第十二中隊長から師団長宛ての報告内容が、改ざん・変更されていく過程が克明に記録されている。

この『朝日』報道を受け、インドネシアの有力誌『TEMPO』も、1986年12月3日号(No.42 Tahun XVI)で「Penaklukan di Pulau Babar」の見出しで、同虐殺事件を伝えている。

同極秘報告書では、第一次討伐(1944年11月3日〜9日?)で「約百名ヲ銃殺及捕へタル」、そして第二次討伐(1944年11日〜21日?)では「約四百名ハ現地ニ於テ銃殺」と記している。つまり、日本軍サイドの報告では、500名近くのエンプラワス村の村人が虐殺されたことになる。(注:同極秘報告書では村の人口は717名となっている)

一方、『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、1992年9月に現地で行った住民に対するインタビューの結果、多くが虐殺された人数として700名だったと証言、また同村が作成中だった虐殺名簿には704人の姓名が記載されていたとされる。

(注)日本軍の極秘報告書『ババル島事件関係書類綴』からは、“討伐”期間が1944年11月3日〜21日(四百名の銃殺は11月20日か?)と推定されるが、『上智アジア学』第10号(1992年)の「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」によれば、地元では1944年10月5日を、大量虐殺の日としているという。また、現MTB(南東マルク県)副県知事のバルナバス・オルノ氏も1996年に書き上げた同虐殺事件の全貌をまとめた文章の中で、大虐殺の発生日を1944年10月5日としている。尚、この一カ月以上もの“誤差”が何故に生じているのかは不明。



上の画像:MTB県副知事のバルナバス・オルノ(Drs. Barnabas Orno)さん。1943年生まれ。ババル島出身。ババル島で郡長を経験。妻は、戦時中、日本軍による住民虐殺事件が起きたババル島南部のエンプラワス村出身。1991年から、同虐殺事件に関して住民インタビューを開始、同時に資料収集を進め、1996年に『1944年ババル諸島の人権侵害に対する日本軍の残忍性を調査:ティウィ川は1944年10月5日の流血の悲劇の黙した証言者(Menelusuri Kekejaman Tentara Jepang Terhadap PELANGGARAN Hak Asasi Manusia Di Kepulauan Babar・Tahun 1944:Kali Tiwi Saksi Bisu TRAGEDI BERDARAH 5 Oktober 1944)』を書き上げたが未出版。






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ババル(Babar)島は、バンダ(Banda)海に浮かぶ、東西およそ30km、南北およそ30kmのオニギリのような形をした小島。ダーウィンからおよそ500kmの距離にあり、東のタニンバル諸島と並んで、太平洋戦争時代、日本軍の“最前線”として連合国軍と対峙した。同島には、陸軍の第5師団歩兵第42連隊(司令部はタニンバル諸島)の一部が駐屯していた。また、アンボンからは海軍の警備部隊が駐屯していた。


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MTB(西南東マルク)県政府が作成したババル諸島<ババル島を中心に周辺には西にウェタン(Wetan)島、北にダイ(Dai)島、北東にダウェラ(Dawera)島、ダウェロール(Daweloor)島、そして南東にマセラ(Masela)島などがある>の観光開発計画によれば、同島はマリン・リゾート、農園ツーリズム、ユーカリ・リゾートと並んで、日本軍による虐殺事件が起きたエンプラワス村は“歴史リゾート”を目指している。また、マセラ島周辺海域は原油とガスを埋蔵しているとされ、その開発もターゲットに据えている。


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以下は、バルナバス・オルノMTB県副知事とのインタビューの概要(尚、インタビューは2007年8月13日、MTB県の県庁副県知事執務室で行った)


『実を言うと、エンプラワスという名前の村があることは知っていたが、事件についてはまったく知らなかった。そして知らなかったから、本を書こうとも思っていなかった。少なくとも、1990年に今の妻とつきあい始める時までは。(エンプラワス村の)彼女の家で、当時はまだ義理の父候補で今は義父となった彼女のお父さんから、エンプラワス村で起きた日本軍による虐殺の悲劇に関して話を聞いた。義父は、その話をする時、幾度も言葉に詰まった。思い出して涙を抑えきれなかったからだ。なぜなら義父は実の兄弟や、両親そしてその他の村人たち全員が目の前で一斉掃射されたのだから』

『私は義父に尋ねた。1970年代、牧師が地元紙にエンプラワス村で虐殺された村人の数はおよそ700人と話したが、その通りか、と。義父は答えた。「700人程度ではない。なぜなら当時、エンプラワス村の人口は1,000人以上だったが、虐殺の後には100人も生き残っていなかった」と。私は時間をかけて、何度も、義父に知っていることを話すように仕向けた。全てのトラウマを吐き出して下さい、私はいつか事件について本を書きたいから、と頼みました。そして義父は最終的には全てを話してくれました。一方で、私は、事件について知っている他の村人たちから聞き取りを始めました。私の実の父の話も含めて。当時父はまだ子供だったけれど、人から聞いていた』

『父の話によれば、エンプラワス村のティウィ川で虐殺がまさに行われるという時、ワクパパピ村長など、近辺のすべての村長が招待された。そして(日本軍は)この中に兄弟など縁者はいるか?と村長らに尋ね、指名された者は自由の身になり、その他の者は虐殺された』

『1991年、私と妻は結婚した。私は公務員になって、マルク州政府の社会局に入った。まだババルに住んでいた頃、エンプラワスの村人は“日本軍の残り”という言い方があった。残りなんていう表現は間違いだ。彼らは日本軍に抵抗した立派な独立闘争貢献者であり、このインドネシア共和国から占領者を追い払おうとした英雄行為を国は認めなければいけない』

『1996年に独立記念日の催しの一つとして、ケイ諸島のトゥアルでババル島出身家族会が催された。そこで、アイデアが出た。旧日本軍による虐殺事件に関してセミナーをババル島で開こうと。目的は、賠償云々を言う前に、占領者に抵抗した崇高な島民がいた史実を、インドネシアの中央政府が知らなければならない、という観点だった。インドネシアの独立闘争の中で、南東マルク県(注:後にババル島は西南東マルク県に入る)にあっても、ババル島のエンプラワスの貢献などのように、マルク人も、ババル人も貢献したんだという史実を表面化させようと。そこでセミナーのための委員会ができ、私は事務局長になった。そしてババル島でセミナーが実施され、そのセミナーの結果は中央政府に届けた。その時の願いは、賠償問題よりも、まずは政府が、占領者を追い出そうとした抵抗運動に正しい評価を与えるということだった。そして、もしも可能ならば、中央政府が、彼らババルの犠牲者に対する補償に関して、地元に代わって努力してくれないか、と。そのセミナーの場では、毎年10月に、事件を記憶するための慰霊の日を定めることも合意した』

『エンプラワスの村人が日本軍に抵抗した理由は、それは余りにも理不尽な課税と、それから人間の尊厳に関わる酷い要求の二つだった。大東亜戦争の中、日本軍は現地で食料を調達。軍票で支払うこともあったが、支払わないこともあった。それを村人は“税”と捉えていた。農産物を始めヤギ、豚などの食料供出を、各村々に割り当てていた。日本軍は、さらに、まだ未婚の女性や美人の若妻をイアンフ(慰安婦)にしようとした。村々から集められた女性たちは(注:陸軍部隊の本部があった)ワクパパピで選別された。さらにエンプラワス村に義務付けられた納税の一つはタバコだった。エンプラワスはババル島で最高の品質のタバコ産地だった』

『悲劇の始まりはというと、シノハラ(注:極秘報告書によれば、シノハラとは海軍錦隊の嘱託だった篠原と思われる。シノハラがエンプラワス村にやってきたのは1944年10月27日とされる)はイタリアと言う名のスパイらと共に、慰安婦候補探しとタバコの調達の二つの用事で村にやってきた。村人は税のことは分っていた。供出物資の事は承諾していた。プロテスタントの牧師の家にやってきたシノハラは、村長らを呼び、そこで、要求を突きつけた。元々はこれぐらいと言っていたのに、今後はこれぐらい増加でタバコを供出せよと、酷い増量を求めた。村人は納得できない。さらにシノハラは娘と美人の人妻を出せとも要求した。イアンフ候補を急いでセレクションしろと』

『しかし、牧師や村長らは、それらの要求は呑めないと答えた。死んでも受け入れられないと。物資ならいいが女性は認めるわけにはいかない。タバコはいいが女性は人としての尊厳・威信から無理だと。それでトラブルになった。結果、シノハラとスパイらは村人に殺された。村人は予想した。シノハラらが帰らなければ、必ずや日本軍は報復してくるだろうと。これでは安全ではない。三日後ぐらいには日本軍が攻撃してくるだろうと。そこで、日本軍に抵抗しなければ、となった』

『当時の教会のデータによれば、当時エンプラワスは3つの集落で一村を形成、ババル島で一番大きな村だった。エンプラワス村長は近辺の村々に呼びかけて、一緒に日本軍へ抵抗しようと訴えた。尊厳と威信を守るため、日本軍と闘おうと。トゥトゥアワン村は同意。そしてマヌウェリ村も同調。アナルトゥール村も賛同。しかしココアリ村まで行った際、そこには日本軍のポストがあり、村人の計画は日本軍の知るところとなった。そこで、日本軍の襲撃前に、村人は山へと逃げた。エンプラワス村の家々はすべて焼かれてしまった』

『後日、日本軍は、使者を山へ送ったり、森の中に書いたものを貼り、村人に対して日本軍はもう怒ってはいない、和解したいから下山しなさいと呼びかけた。山にこもった村人たちは、夜のみ動き回り、食べ物を探し、苦しい生活を余儀なくされた。飢えで死んだ子供たちもいた。やがて日本軍の呼びかけを信じた村人の多くが下山を決めた。その時、日本軍は、これは和平なんだから、鋭利なものは持ってくるなと命令した。しかし100人ぐらいは山から下りなかった。和平はエンプラワス村近くのティウィ(Tiwi)川で行うと日本軍は言った。二陣に分かれて村人は山から下りてきた』

『下山した村人を日本軍は三つのグループに分けた。最初のグループは、抵抗などの虞のない男たち、女性そして子供ら。二つ目のグループは抵抗勢力になりそうな屈強な男たちで、彼らは後ろ手に縛られた。第三のグループは、長老や慰安婦候補の若い女性たち。日本軍はまず二番目のグループを最初に殺した。義父は当時7歳でそのグループにいたが遺体の陰で生き延びた。日本軍はまず強い男たちのグループを抹殺し、それから次のグループの番と考えていたようだが、最初のグループが殺されたことから、残りの村人が騒ぎ出し、その瞬間から誰彼問わず射殺を始めた』

『奇麗な水のティウィ川は血の川に変わった。子供らは上に放りあげられ、銃剣で刺された。助けてという悲鳴が響いた。義父は両親、兄弟が目の前で殺されるのを見た。死んでいようが死んでいなかろうが、川に投げ込まれた。妊婦の腹は銃剣で裂かれ、中の赤子まで刺された。義父の記憶によれば、初めの頃は20人ぐらいがまだ川の中で息をしていたとか。引き上げる前に、スパイ(注:日本軍に就いたインドネシア人)らは、死んだかどうかの確認をし、まだ息をしている者は、銃剣で息の根を止めた。やがて満足した日本軍はワクパパピへ帰って行った』

『私は、エンプラワス村で虐殺された人数は、700人程度ではないと断言する。いわんや日本軍が報告したような400人とう数値はまったく事実とかけ離れている。1,000人近くの数になる。私はそれら犠牲者の名簿を持っている。さらに慰安婦にされた女性たちの数やその設置場所に関するデータもすべて分っている。私は、すでに書き上げた内容をいつでも出版できる立場にいる。一方、賠償云々について私は発言する立場にはない。史実にどう向き合おうとするのか。そのことを日本に問いたい』



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シノハラ海軍嘱託から奪ったものとされる剣を手にするオルノ副知事


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『ババル島事件関係書類』(武富登巳男編・解説)十五年戦争極秘資料集A:1987年7月20日第一刷発行。発行所:不二出版


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昭和二十一年一月十七日、陸軍第五師団歩兵第四十二聯隊第十二中隊長の田代敏郎大尉が小堀金城第五師団長に報告した『ババル事件ニ関スル件報告』に始まる、同事件に関する一連の報告綴りの中に挿入されている「ババル島事件関係要図」(引用元:『ババル島事件関係書類』(武富登巳男編・解説)十五年戦争極秘資料集A:1987年7月20日第一刷発行。発行所:不二出版梶j


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衛星画像から見たババル島西部。テラ(Tela)村に日本海軍部隊が駐屯、旧エンプラワス村は虐殺事件発生現場。同村は戦後、南東に移動した。


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左上から順に「篠原嘱託宿舎所在地」、「海軍部隊所在地」、「海軍見張所」、「憲兵詰所」、「事件発生部落(エンプラワス村)」


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以下は、陸軍本部のあったワクパパピ村や、同村からエンプラワス村までの間にある各村の衛星画像


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【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html

タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html

タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

西南東マルク県政府公式Website
http://www.mtbkab.go.id/

インドネシア文化宮(GBI)活動記録
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html


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戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
{%夏海(チカチカ)hdeco%}終戦記念日の前日(2007.8.14)、マルク州西南東マルク県のセラル島のレミャン海岸に立った。ここは、日本軍が連合軍と対峙した、正真正銘、“最前線”だった。南の方角にはオーストラリアのダーウィンが位置する。レミャン海岸に夜間上陸した日本部隊は、陸路、東海岸に面するリンガット村に進駐した。リンガット村で、“戦後”が訪れていないことを実感した。陸地、海岸、そして海中に投棄された多量の弾薬と兵器。「村は破壊され、連合軍の爆撃で約200名の村人が死亡した... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/07/03 14:22
マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk(4)
{%夏海(チカチカ)hdeco%}スハルト政権の崩壊に始まったインドネシアの民主化と地方自治の向上。次から次へと新たな州が誕生。いわんや県となるとまさに雨後の筍の勢いで増え続けている。“多様性の統一”といえばインドネシアが独立以来掲げてきた国家スローガンだが、今や“多様性の共存”の時代を迎えている。SARA(Suku=民族、Agama=宗教、Ras=種族、Antargolongan=階層・グループ)を異とする人々が、言語、慣習、文化を同じくする民族集団(Suku Bangsa)... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/07/03 14:24
東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}まもなく太平洋戦争開戦67周年。インドネシア共和国は去る8月17日、独立63周年を祝った。いわゆる「先の大戦」が侵略戦争であったのか否かについて、航空自衛隊幕僚長の懸賞論文問題を契機に、世は論議に喧しい。こういったイッシューに関しては、たいていの場合、発言者の立場が問題視され、本質的な議論が巻き起こらない一面も否定できない。それは、靖国神社の公式参拝、私的参拝の違いにだけ強い関心を抱くメディアの、ステレオタイプな姿勢にも共通しているように思える... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/02 13:42
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}帝国海軍バボ(Babo)基地は、昭和18年(1943年)夏から19年初頭にかけて行われたニューギニア中部のホランジア(Hollandia:現在はパプア州の州都ジャヤプラ)地域における航空戦の補給のため建設された。陸海軍航空隊、高射砲隊、飛行場設定隊、陸、海軍通信隊など、常時200名ほどが駐屯していた。しかし、昭和19年(1944年)5月末の連合軍による大空襲により、地上の設備は全滅した。ホランジアの撤退(1944年4月)や同年5月のビアク(Bi... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/03 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2)
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2008/12/03 00:02
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バボ(Babo)は行政的には、西パプア州(Propinsi Papua Barat)のビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)バボ郡(Kecamatan Babo)に属する。バボ郡の郡都だ。ビントゥニ湾県は、旧マノクワリ県(Kab. Manokwari)の分割によって2003年6月に誕生したばかり。県の面積はおよそ18,660km2で、人口は約42,000人(2004年)。バボ郡の人口はおよそ13,000人。間もなく(2... ...続きを見る
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2008/12/04 00:00
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インドネシア文化宮
2008/12/05 00:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(5) Bandara Dai Nippon(5)
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2008/12/06 00:00
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2008/12/06 00:03
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2008/12/06 11:49
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{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本の海軍陸戦隊が昭和18年(1943年)3月〜4月に、ニューギニア島の要所を占領する以前、西部ニューギニアは蘭領ニューギニア(Nederlands Nieuw Guinea)、そして東半分の北半分がオーストラリアの信託統治領(それ以前はドイツ領)、南半分がオーストラリア領(それ以前は英国領)だった。いずれにせよ、日本軍がこの世界第二位の巨島に兵を進めるまで、同島は欧州列強の植民地の歴史を刻んでいた。 日本軍が侵攻する以前、ビントゥニ湾(Te... ...続きを見る
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2008/12/06 11:50
東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}まもなく太平洋戦争開戦67周年。インドネシア共和国は去る8月17日、独立63周年を祝った。いわゆる「先の大戦」が侵略戦争であったのか否かについて、航空自衛隊幕僚長の懸賞論文問題を契機に、世は論議に喧しい。こういったイッシューに関しては、たいていの場合、発言者の立場が問題視され、本質的な議論が巻き起こらない一面も否定できない。それは、靖国神社の公式参拝、私的参拝の違いにだけ強い関心を抱くメディアの、ステレオタイプな姿勢にも共通しているように思える... ...続きを見る
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2008/12/06 17:59
東部インドネシアの旧日本軍航空基地 (Bandara Dai Nippon)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}まもなく太平洋戦争開戦67周年。インドネシア共和国は去る8月17日、独立63周年を祝った。いわゆる「先の大戦」が侵略戦争であったのか否かについて、航空自衛隊幕僚長の懸賞論文問題を契機に、世は論議に喧しい。こういったイッシューに関しては、たいていの場合、発言者の立場が問題視され、本質的な議論が巻き起こらない一面も否定できない。それは、靖国神社の公式参拝、私的参拝の違いにだけ強い関心を抱くメディアの、ステレオタイプな姿勢にも共通しているように思える... ...続きを見る
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2008/12/06 18:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(2) Bandara Dai Nippon(2)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}帝国海軍バボ(Babo)基地は、昭和18年(1943年)夏から19年初頭にかけて行われたニューギニア中部のホランジア(Hollandia:現在はパプア州の州都ジャヤプラ)地域における航空戦の補給のため建設された。陸海軍航空隊、高射砲隊、飛行場設定隊、陸、海軍通信隊など、常時200名ほどが駐屯していた。しかし、昭和19年(1944年)5月末の連合軍による大空襲により、地上の設備は全滅した。ホランジアの撤退(1944年4月)や同年5月のビアク(Bi... ...続きを見る
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2008/12/06 18:08
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(3) Bandara Dai Nippon(3)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バボ(Babo)は行政的には、西パプア州(Propinsi Papua Barat)のビントゥニ湾県(Kabupaten Teluk Bintuni)バボ郡(Kecamatan Babo)に属する。バボ郡の郡都だ。ビントゥニ湾県は、旧マノクワリ県(Kab. Manokwari)の分割によって2003年6月に誕生したばかり。県の面積はおよそ18,660km2で、人口は約42,000人(2004年)。バボ郡の人口はおよそ13,000人。間もなく(2... ...続きを見る
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2008/12/06 18:27
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(6) Bandara Dai Nippon(6)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}まるで月の表面のような、大小様々なクレーター。それも、きちんと一列に並んでいるような箇所もある。水をたたえた、ラグーンの様な色をしたものもある。緑っぽく映るクレーターは草で覆われているのか。かすかに、直線の枠のような筋も見える。衛星画像に見るサガ(Saga:日本軍はそう呼んでいたが、現在同地にはサエンガ=Saenggaという名称が付いていることから察して、正しくはサエンガと発音すべきかもしれない。サエンガは現在、タングーガス田の輸出基地として巨... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/07 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(7) Bandara Dai Nippon(7)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}マノクワリ(Manokwari)は、西パプア州(Provinsi Papua Barat)の州都。人口は約15万。ここは、1855年2月5日、二人のドイツ人プロテスタント宣教師(Carel Willem Ottow・Johann Gottlob Gissler)が、目の前のマンシナム(Mansinam)島(注:日本軍は暁島と呼んでいた)に上陸して、同地にキリスト教を最初にもたらした、言わば“聖地”だ。西パプア州は、1999年の法律第45号による... ...続きを見る
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2008/12/08 18:53
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍司令部が置かれたマノクワリ。昭和19年(1944)4〜5月、連合軍が、日本軍の大飛行場群があった中部ニューギニアのホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ・Jayapura)を制圧、次いで、これまた日本軍の大飛行場群だったビアク(Biak)島を陥落させると、次はマノクワリへの上陸が高いとの判断に基づき、持久戦の態勢を整えるため、残った食糧との関連も含め、多くの兵を“転進”させることを決定した。7月初旬、マノクワリ駐屯... ...続きを見る
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2008/12/09 19:11
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(9) Bandara Dai Nippon(9)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17年(1942)年3月、日本軍(第16軍:司令官は今村均中将)はジャワ島に上陸、開戦92日目に、蘭印(オランダ領インドネシア)軍は降伏。同月末、大本営海軍部は、西部ニューギニアの要地を占領すべく連合艦隊に命令を下した。しかし、同年8月の連合軍のガダルカナル島上陸、それに続く、東部ニューギニア戦線の悪化。こうした状況下、大本営は、翌年(1943)8〜9月に「絶対国防圏」を固めた。すなわち南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、... ...続きを見る
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2008/12/10 18:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二方面軍並びに第二軍が統帥を発動する以前、飛行場設定部隊はいち早く西部ニューギニアに入り、フォーゲルコップ(オランダ語でVogelkop)半島(注:この地を日本軍は亀地区と呼称した)で偵察・調査を開始した。この任にあたったのは第19軍(司令部はアンボン:司令官は冨永信政中将。隷下に第48師団や第5師団、第48師団など)の第二野戦飛行場設定隊(山本勝大佐)。同隊は昭和18年(1943)10月、マノクワリへ進出、レンダニ(Rendani)に一か所... ...続きを見る
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2008/12/11 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「上司より指示せられた処では、軍の決戦時期が到来したならば約二個飛行師団を軍の正面に使用することとなるであろうとのことであった。然るに事実は余りにも甚だしく之れを裏切られた。軍として主力を賭すべきビアク島の戦闘最盛時に於て、軍の正面に協力したのは飛行第七師団の二十機内外のものが数機に分れて攻撃を反復し、海軍の飛行隊の数機が之れに協力して居った程度で極めて微温的であった。従って戦況に余り影響を及ぼす迄に行って居らなかったことは、期待の大きかっただ... ...続きを見る
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2008/12/12 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争の勃発からおよそ二ヶ月後、昭和17年(1942年)の2月初旬、大本営はニューギニア島の占領命令を下した。『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』(戦史業書:防衛庁防衛研修所戦史室著)によれば、「東部ニューギニアの要地をソロモン諸島要地と共に攻略し、豪州本土と同方面との連絡を遮断し、豪州東部北方海域を制圧すべし」との命令が、ラバウル方面占領の陸海軍部隊になされた。この命によって、日本軍は3月上旬、今日のPNG(パプアニュ... ...続きを見る
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2008/12/13 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}“絶対国防圏”----日本と南方資源要域及び両者間の連絡地帯を防衛するための、必要最小限の要域圏であって、それより内には絶対に敵の作戦拠点獲得を許さないとする考え方(『戦史業書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦:防衛庁防衛研修所戦史室著』朝雲新聞社刊の第一編「西部ニューギニア方面陸軍航空主力の決戦準備」より)。昭和18年(1943)9月末に大本営が、南太平洋方面の確保を断念し、絶対国防圏を決定すると、西部ニューギニア地域の航空基地の確保はさらに... ...続きを見る
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2008/12/14 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}マノクワリからベラウ地峡のイドレに向けた、約12,000名の第二軍将兵による“緑の地獄”転進作戦が行われた昭和19年7月〜11月の一年以上前、ベラウ地峡では、同地に横断道路を建設しようとする日本海軍の調査が行われた。第二軍がマノクワリにやってくる10ヵ月前のことだった。昭和18年2月23日〜4月27日、海軍ニューギニア調査隊測量班(調査員:海軍軍属 駒澤幸男以下22名。警護兵6名、パラオ島民12名、パプア人苦力110名の計150名から構成)は、... ...続きを見る
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2008/12/15 13:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍(マノクワリ:司令官は豊島房太郎中将)のイドレ(Idore)転進部隊約12,000名の将兵が、“地獄ヤカチ”そして“野たれヤカチ”と呼んだヤカチ(Yakati)地区---米軍は後に“緑の地獄”と名付けた。この地に、転進作戦前年の昭和18年(1943)2月〜8月、海軍ニューギニア調査隊が入った。フェールビンク(Geelvink)湾(現在はチェンドラワシ湾)からビィントゥニ(Bintuni)並びにベラウ(Berau)湾の間に位置する細長いベラ... ...続きを見る
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2008/12/16 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和19年(1944)4月22日、日本軍が建設した三つの飛行場があるセンタニ(Sentani)の東方約45kmに位置するホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ)へマッカーサー大将率いる連合軍が上陸。続いて、5月18日、海軍が造成した飛行場(滑走路の長さは1,500m、幅120m)があったワクデ(Wakde)島への上陸。連合軍は、前日(5月17日)には、同島対岸の、日本軍第36師団(師団長田上八郎中将)司令部が置かれたサル... ...続きを見る
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2008/12/17 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団第70中隊がアンボン方面から飛来し、8月8日に行った偵察飛行記録によれば、その規模は、長さ1,850m、幅約200mが整地され、長さ850mの滑走路が概成していた。さらに8月13日の同中隊の司偵捜索によれば、同島には長さ1,500m、幅200mの滑走路が概成し... ...続きを見る
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2008/12/18 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ソロン(Sorong)はニューギニア島の西端に位置する人口およそ144,000人(2003年統計)の都市。元はフォーゲルコップ半島の西半分を占めるソロン県の県都だったが、2000年2月28日、ソロン県から分離してソロン市として行政独立。ちなみにソロン県は2002年二つの県に分割された。一つは11の郡から構成されるソロン県で、その人口はおよそ79,000人。もう一つが14郡から成る南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan=略称... ...続きを見る
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2008/12/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を命じた。そして同年11月14日、同部隊はソロンの向かい側にあるサラワチ(Salawati)島のサマテ(Samate)に上陸した。設定隊は9月に豊橋で新設された乙(半機械化)編成部隊で、定員は150名、これに台湾人で構成された特設勤労団が約1,000名加わ... ...続きを見る
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2008/12/20 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}秋田県の南南西およそ4,360km。あるいは四国の室戸岬の真南約3,590km。西部ニューギニアの北およそ190km。そこに、太平洋戦史にもほとんど登場しない、忘れ去られた小さな島がある。その名をマピア諸島と言う。環礁の縁にできた四つの島から成る。この島で、秋田県で編成された帝国陸軍の一個中隊が玉砕を遂げている。歩兵第223連隊(注:秘匿名は「雪3524部隊」1942.7.24以降連隊長は吉野直靖大佐)の第7中隊だ。 『濠北を征く』によれば、... ...続きを見る
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2008/12/21 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}紀伊半島の南端潮岬から真南へおよそ3,800km。赤道を少し超えた所にビアク(Biak)島がある。ここに戦時中、日本軍は大飛行場群を建設し“絶対国防圏”の要衝とした。しかし、昭和19年(1944)5月27日、連合軍が上陸。8月20日まで続く死闘が繰り返され、玉砕の島としてニューギニア戦線史に刻まれている。ビアク島は、当時、第二方面軍司令官の阿南惟幾大将をして「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで言わしめた、日本軍にとって戦... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/22 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本兵が、乏しい水補給の中、赤道直下の炎熱下、ツルハシとモッコで造成したモクメル(Mokmer)飛行場(現在はフランス・カイシエポ空港)、そしてソリド(Sorido:第三モクメル)とボロコエ(第二モクメル)飛行場。しかし、これら三つの飛行場は、当初想定した大規模航空部隊を迎えることなく、完成を間近に、連合軍の手に落ちた。昭和19(1944)年5月27日、ビアク支隊[主力地上戦闘部隊は、約3,500名の第36師団第222連隊(青森県弘前編成・当時... ...続きを見る
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2008/12/23 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}連合軍は、ビアク(Biak)島上陸に先立つ一ヶ月の間に、計1,260トンもの爆弾を、まさにスコールのように、1万を超える日本軍将兵の頭上に降らせた。これ以前、連合軍は、昭和19(1944)年4月22日ホランジアへ上陸、日本軍が造成した3個の飛行場を占拠、修復を施し、5月中旬には、ビアク島進攻基地として航空部隊が使用を開始した。また、日本軍第36師団(雪兵団)が司令部を置いたサルミ(Sarmi)の東海上に浮かぶワクデ(Wakde)島にも5月18日... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「玉砕の島」の「玉砕の洞窟」。ビアク島の凄惨な戦いのシンボルが“西洞窟”だ。この西洞窟は、今ではビアク島随一の観光スポットと化している。それはちょうどハワイの真珠湾とアリゾナ記念館観光とも似ている。ビアクを慰霊で訪れる外国人は、やはり日本人が多い。そして必ず、西洞窟で祈りを捧げる。確かに、洞窟は、戦争初期においては、籠った多くの日本軍将兵の命を、敵軍の艦砲射撃や空爆から救った。しかし、制海権そして制空権をほぼ完璧に抑え、圧倒的優位に立つ軍事力で... ...続きを見る
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2008/12/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25)B
{%空港(ユラユラ)hdeco%}赤道のほぼ真下、南緯1度、東経136度に位置するビアク(Biak)島は、足の形によく似た島だ。島の南岸が踵(かかと)、そして東端がつま先にあたる。島の北側1/3は山岳地帯、残りは台地状。珊瑚礁が隆起してできた島で、特に南岸一帯には鍾乳洞が数え切れないほどある。日本軍が三つの飛行場を設定した、モクメル(Mokmer)村西方一帯は平地だが、飛行場地帯の東側海岸は、断崖絶壁の台地が続く。雨季は別として、乾季には水の確保が深刻な問題となる。連合軍が上陸... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/26 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ビアク(Biak)島の玉砕戦が余りにも有名で、その戦史に隠れがちだが、西隣にあるヌンホル(Numfor)島でも、実は壮絶・凄惨な戦いが繰り広げられた。しかも、ビアク島同様に、大本営は、この勾玉のような形をした小さな島に飛行場群を造成した。その数4基地。当初、日本軍は、西部ニューギニア本島のフェールヴィンク(Geelvink)湾の北側に点在するスハウテン(Schouten)諸島に飛行場を建設することに消極的だった。しかし、調査を進めるうちに、飛行... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/27 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ヌンホル島に日本軍の航空基地が完成・概成するやいなや、まさにビアク島の戦い同様に、連合軍は、事前の猛空爆に次いで、1944年7月2日、ヌンホル島に上陸してきた。エドウィン・パトリック(Edwin D. Patrick)少将率いる米第158戦闘連隊は、カメリ飛行場近辺の海岸に上陸。この前日(7月1日)、ヌンホル守備隊の上部組織である第二軍(在マノクワリ。豊島房太郎中将)は、連合軍のマノクワリへの上陸の可能性大とみて、司令部並びにおよそ半数の部隊の... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/28 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フェールヴィンク湾周辺では日本軍占領当初、陸海軍合計17個の飛行場設定が計画されたが、昭和18(1943)年8月時点で完成していたものはナビレ(Nabire)の海軍飛行場1個のみだった。この飛行場はその規模が、長さ1,200m、幅60mで、1943年4月15日に戦闘機用として、そして5月17日に中攻(中型陸上攻撃機)用として完成していた。ちなみに、第二軍がマノクワリに進駐する前年(1943)までに、海軍並びに陸軍第5師団が占領する西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/29 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}富士山から真南へ約4,117km。世界で二番目に大きいニューギニア島の北岸に位置するサルミ(Sarmi)がある。現在はインドネシア最東端のパプア州サルミ県の県都が置かれている。同県は2003年4月12日、ジャヤプラ(Jayapura:旧ホランジア)県から分離して新たな県となった。面積およそ17,740km2。10郡、84の村から構成され人口は約32,700人。サルミと言っても現在の日本人の多くにとっては、まず馴染みのない地名だが、東北地方のお年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/30 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)
{%上昇webry%}現在のサルミ半島部(衛星画像)。 ...続きを見る
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2008/12/31 00:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大本営は、昭和18(1943)年8〜9月頃「絶対国防圏」構想を固めた。要点は、南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラインを、国防上必要最小限の要域としたことだ。この決定に基づいて、南方軍隷下に第二方面軍(司令部はフィリピン・ミンダナオ島のダバオ:阿南惟幾大将)が新たに創設され、第二軍(豊島房太郎中将)が同年12月、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置いた。第二方面軍も第二軍も共に中国... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/02 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊島房太郎元第二軍司令官が『濠北を征く』の「第二軍の作戦一般」で述懐しているように、西部ニューギニアに進駐した第二軍は、遥か中国大陸から赤道直下の戦場(予定地)へ到着するやいなや、飛行場の建設に全精力を傾けた。まさに飛行場は「軍の任務達成の為の生命と心得ていた」。第二軍は、決戦時期が到来したのならば、大本営が約2飛行師団を送り込んでくるものと信じていた。「斯て半歳に至つて心血を注いで造成した飛行場も、大部分のものは我軍の利用する処とならず、敵を... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/03 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ワクデ(Wakde)島の飛行場は、昭和18(1943)年半ばには、長さ1,300m、幅120mの滑走路が完成していた。同島は前年の4月、日本海軍によって占領された。この飛行場は、海軍の第103設営隊(山田誠海軍技術少佐)が造成・整備したもので、同隊は1943年1月30日に上陸し、2月23日には滑走路が完成し、航空部隊が進出してきたとされる。この設営隊は重機も動員し、その結果わずか25日間で滑走路の急速設営を成し遂げた。 米軍の偵察飛行よれば、... ...続きを見る
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2009/01/04 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}サルミ(Sarmi)における日本軍と連合軍の対峙は、太平洋戦争において、戦術・戦略的な側面から見て、制空権と制海権がどれほどまでに勝敗を決定づけたかを物語る好例だろう。飛行場の早期建設を至上命題に、死に物狂いでその任務を達成するものの、その飛行場の存在そのものが自軍を玉砕状況に追い込んでいった。その光景を、仮に、眺めていた地元のパプア人がいたとしたならば、おそらく彼は、彼女はきっとこう目撃談を語るだろう。 ...続きを見る
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2009/01/05 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}飛行場は陸上とは限らない。西部ニューギニアの中央高地にある幾つかの湖は、大本営をして、水上基地として、そしてその周辺部は陸上の飛行場として注目された。昭和18(1943)年12月1日、第二方面軍(阿南幾惟大将)がフィリピン・ミンダナオ島のダバオで、そして第ニ軍(豊島房太郎中将)がマノクワリで統帥を発動する直前、アンボン(10月末)そしてマニラ(11月中旬)で、大本営派遣班も交え、現地部隊との会合が持たれ、第二方面軍並びに第ニ軍の作戦計画が練られた。... ...続きを見る
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2009/01/06 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側面も含めて、その全てを把握する、いわば総合学術探検の顔も持っていた。オランダやドイツ、英国そして豪州などは、古くからニューギニア島を植民地分割し、それなりに同島に関して情報を有していた。しかし、日本はそうではなかった。もちろん、明治時代より、単身、この地... ...続きを見る
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2009/01/07 00:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能であれば飛行場を建設する旨、下命した。これに基づいて、第36師団指揮下の日高岩男少佐を隊長とする『鰐工作隊』は、昭和19(1944)年2月中旬、サルミ(Sarmi)を発って、マンベラーモ(Mamberamo)川を遡上し、ハベマ(Habema)湖方面へと向かった... ...続きを見る
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2009/01/08 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解体され、第26海軍建設部が設立された)。この海軍民政府の要請に基づいて、昭和18(1943)年、学者を中心とした編成で、「海軍ニューギニア調査隊」が西部ニューギニア各地で地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。当然のことながら、この第... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/09 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/09 18:05
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋辯大佐)を、昭和18(1943)年2月19日、ミミカ(Mimika・現在はTimika)へ向け、次いで、翌々日の21日、歩兵第21連隊(原田憲義大佐)をアルー(Aru)諸島へ向け、スラバヤ港から出発させた。また第19軍司令官の冨永信政中将自身も2月19日、アン... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/10 23:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、それで日本軍には楽観論もあった。例えば、同年8月上旬、第5師団のバンダ海での部隊展開が順調に進んでいることを踏まえ、第5師団長の山本務中将は「現在の空海状況が一年続けばこの戦争に日本は勝つ」と日誌に記したとされる。この頃、日本軍は、西部ニューギニアでは、北岸ではホランジ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/12 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(42) Bandara Dai Nippon(42) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「飛べども飛べども果てしなく続く大密林、積乱雲、白雪の雪山山系」----第19軍の河村高級参謀は、西部ニューギニアで空中偵察した感想をそのように述べている。西部ニューギニア戦に参加し、好天に恵まれ、雪を抱くカルステンツ(Carstensz)峰(4884m)を望めた体験を持つ戦闘機や爆撃機の操縦者は少なくないだろう。赤道直下で見た冠雪の高峰に、富士山を想いおこし、あるいは祖国日本に想いを馳せたのかもしれない。マノクワリ(Manokwari)の演芸... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/12 23:57
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(43) Bandara Dai Nippon(43) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアが独立後、依然オランダ領として残った西部ニューギニア(当時のインドネシア名は西イリアン=Irian Barat。インドネシア併合後から2005年までイリアンジャヤ=Irian Jaya。現在はパプア)の“解放”を旗印に、1961年オランダ軍との武力衝突を始めた翌1962年1月5日、ハインリッヒ・ハーラー(Heinrich Harrer:1912年7月6日&#8211;2006年1月7日)は、東部ニューギニアのラエから飛行機でホランジ... ...続きを見る
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2009/01/13 23:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(44) Bandara Dai Nippon(44) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}1623年、オランダ王室に仕える航海者ヤン・カルステンツ(Jan Carstensz:Jan Carstenszoon)は、アラフラ海を航海中、偶然、北の山脈に雪を抱く峰々を目撃した。雲に覆われることが多い中央山脈だが、その日は幸運にも快晴だったのだろう。カルステンツはペラ号とアルンハイム号の二隻を率いてアラフラ海を航海中だった。帰国後、“赤道直下の雪山”のことを話した。しかしヨーロッパで彼の言葉を誰も信じる人はいなかった。それからおよそ300... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/14 22:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(45) Bandara Dai Nippon(45) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアそしてオセアニア地域で最高峰のジャヤ峰(Puncak Jaya:カルステンツ・ピラミッド=Carstensz Pyramid:4884m)。その“脇腹”で発見された、世界最大級の銅、金、銀鉱山。発見は1936年末。オランダ王立地理学協会(Royal Netherlands Geographical Society=RNGS)がスポンサーとなり、カルステンツ峰初登頂を目指した登山・探検隊(A.H.コライン(Colijn)博士を隊長に、... ...続きを見る
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2009/01/15 22:33
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(46) Bandara Dai Nippon(46) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「2月10日、午前中は氷河の測量で過した。その結果は驚くべきもので、25年間に、カルステンツ氷河は452m後退し、メーレン氷河は745mも後退していた」----1936年末、オランダ王立地理学協会(RNGS)が派遣した、A.H.コライン(Colijn)博士を隊長とする登山・探検隊がカルステンツ山群に入った時の報告と比較して、1962年2月、カルステンツ・ピラミッド(Carstensz Pyramid:ジャヤ峰=Puncak Jaya:4884m... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/16 22:43
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシア共和国の最東南端に位置するパプア州(Provinsi Papua)のメラウケ(Merauke)県は、東経141度ラインで隣国PNG(パプアニューギニア)と接し、トレス海峡を挟んでオーストラリアに隣接する。かつてのイリアンジャヤ(Irian Jaya)州時代は、同州最大の県であったが、2002年法律第26号に基づいて4県への分割が決まり、県の規模は縮小を余儀なくされた。メラウケ県以外の3県は、ボーヴェン・ディーグル県(Boven Di... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/17 23:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}中部ニューギニア北岸の要衝・ホランジア(Hollandia・現在のジャヤプラ)は、ガダルカナル島撤退と並ぶ、太平洋戦争における日本軍の象徴的敗北の一ヶ所となった。昭和19(1944)年4月22日、連合軍は意味ある抵抗を受けることなく、同地に上陸、西方のセンタニ(Sentani)湖周辺にあった日本軍の3個の飛行場を占拠した。また、ジャヤプラ近郊ですでに概成していた別の飛行場も占拠。 ホランジアは、1910年3月7日、オランダ人船長Sachseに... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/18 21:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍(海軍陸戦隊)がホランジア(現ジャヤプラ)を占拠したのは開戦四ヵ月後の昭和17(1942)年4月。ホランジアの西およそ40kmには大きなセンタニ(Sentani)湖があり、その北側には平地があり、ここが飛行場の設定に適していた。ビントゥニ湾のバボ(Babo)飛行場や西端のソロン(Sorong)のエフマン飛行場などのように、戦前からオランダが作った滑走路があり、日本軍が上陸後に拡張整備した飛行場もあるが、西部ニューギニアで日本海軍が新たに造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/19 22:26
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人、オーストラリア人、インドネシア人、そして地元のパプア人で構成されていたという。内、5名は帰還しなかった。1944年4月21日、早朝、突如、米海軍艦載機グラマンの第一陣がセンタニ湖上空に姿を現した。日本軍機で離陸できたものは6機。しかし、1機が無事帰還し... ...続きを見る
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2009/01/20 22:57
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(51) Bandara Dai Nippon(51)ケイ諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バンダ海に展開していた第16軍隷下の第48師団(海兵団:土橋勇逸中将)の任務を継承する形で、昭和18(1943)年2月、第19軍(冨永信政中将)隷下の第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、バンダ海域のアルー諸島、ケイ諸島、タニンバル諸島を占領し、北部オーストラリアに対する作戦を準備するため、東部ジャワのスラバヤから東へ向かった。第5師団の杉浦支隊(歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)は、これに先立ち、ジャワの第16軍(治集団)司令官原田熊吉中将から命令を... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/21 22:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(52) Bandara Dai Nippon(52)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島はかつてマルク州東南県(Kabupaten Maluk Tenggara)の一角を占めていたが、2004年初旬、アルー諸島県(Kabupaten Kepulauan Aru)として分離、新生県として独り歩きを始めた。ニューギニアの南西部、アラフラ海に浮かぶアルー諸島は古くから真珠養殖で知られていた。19世紀中頃から多くの日本人潜水夫がアルー諸島に渡った。アルー諸島県には合計187の島があるとされる。大きな島は、北からウォカム(Woka... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/22 23:45
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(53) Bandara Dai Nippon(53)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島本島の最南端に位置するトゥランガン(Trangan)島南東海岸付近のシア(Sia)に2個概成し、未だドカ飛行場の設定が始まる前、昭和18(1943)年6月、第5師団を隷下に置く第19軍の作戦主任参謀である皆元勝雄中佐は、自ら偵察機を操縦して、タニンバル諸島、そしてアルー諸島を訪れた。目的は、現地を指揮する西原修三大佐(タニンバル諸島防衛隊長・第5師団歩兵第42連隊長)と原田憲義大佐(アルー諸島防衛隊長・第5師団歩兵第21連隊長)と直接... ...続きを見る
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2009/01/23 23:23
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(54) Bandara Dai Nippon:54タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年3月末〜4月中旬、海軍陸戦隊は西部ニューギニアで、ファクファク、バボ、ソロン、テルナテ、マノクワリ、ムミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホランジアなどを占領した。ちなみに当時、陸軍部隊は西部ニューギニアには展開していなかった。さらに同年7月30日、海軍の第24特別根拠地隊は、バンダ海・アラフラ海で、アルー諸島、タニンバル諸島、ケイ諸島の攻略作戦を実施した。これ以前の戦況はと言えば、6月5日〜7日、ハワイ西方のミッドウェー海戦で、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/25 17:10
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(55) Bandara Dai Nippon:55タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タニンバル諸島セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。『セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/26 00:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(56) Bandara Dai Nippon(56)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、蘭印(オランダ領インドネシア)攻略作戦の緒戦として、まずボルネオ(現カリマンタン)東部の油田地帯であるタラカン(Tarakan)島と、セレベス(現スラウェシ)島北端のマナド(Manado:メナド)に対する上陸作戦が開始された。タラカン島には第16軍(今村均中将)隷下の坂口支隊(坂口靜夫少将指揮下の混第56歩兵団。歩兵第146連隊、装甲車隊、野砲兵第56連隊第1大隊などを基幹。兵力は5,200名、馬1,200頭、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/27 23:38
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるように、この地域は3世紀以上にも及ぶ被植民地支配の歴史を刻む。7世紀、中国では唐の時代、すでにマルク(Maluku)地域の香料を求めて中国船が来航していた。そして9世紀にはアラブ商人もやってきた。インドネシア史によれば、12世紀にはスマトラ島南部のスリウィ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/28 22:40
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。アンボン島の東隣のハルク島にも、陸軍は飛行場を新たに建設した。リアン(Liang)飛行場同様に、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)担任で、第28飛行場大隊が、昭和18(1943)年9月末、長さ1,400m、幅80mの滑走路を概成し、年末には掩体施設もお... ...続きを見る
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2009/01/29 23:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(Liang)飛行場を手がけた、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)隷下の第38飛行場大隊が担当。ハルク飛行場の着工とほぼ同時期に造成がなされた。昭和18(1943)年10月中旬には概成し(長さ1,200m、幅100m)、軽爆撃機が使用可能となった。その後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/30 22:32
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、も... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/31 22:17
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万人を超える人々が送り込まれた“監獄島”だった。B級政治犯とされた作家プラムディア・アナンタ・トゥル(Pramoedya Ananta Toer)も10数年間、ブル島で拘留生活を過した。ブル島のナムレア(Namlea)には開戦前に、すでにオランダ軍が建設し... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/01 21:54
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分は、“中立国”であるポルトガル領だったからだ。一方、ティモール(Timor・チモール)島は、いわゆるABCD包囲網にあって、ジャワ島攻略作戦を実施する上で、蘭印と豪州とを分断・遮断するために、日本軍にとって制圧しておきたい要地だった。 当時、大本営は、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/03 19:47
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ陸軍空挺部隊(挺進第2連隊・甲村武雄少佐)を降下させ、精油所などを制圧した。翌日、第16軍(今村均中将)隷下の第38師団(沼兵団・佐野忠義中将)は、ムシ川、テラ川、などを遡上してパレンバンに上陸。2月19日、金村支隊(第48師団の台湾歩兵第1連隊第3大隊... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/04 17:44
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プトン飛行場(現エルタリ空港)は海軍が修復した後(2本の滑走路があった)、昭和17(1942)年3月中旬から、まず海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)がオーストラリアのダーウィンを始めとする北部エリアに対する空爆基地として使用した。そのすぐ南には、第4飛行場設... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/05 21:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ上陸。同日未明、東方支隊隷下の第38師団歩兵第228連隊(土井定七大佐)の連隊長指揮下の第2大隊基幹(木村榮次郎少佐)が、同島東半分のポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)進攻作戦を開始した。第二次世界大戦で“中立”を表明したポルトガルの主権... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/06 20:37
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(67) Bandara Dai Nippon(67)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)の東部、ラウテン(Lautem)に日本軍が造成した飛行場は、いわゆる“秘密飛行場”だった。同地は、昭和17(1942)年の9月頃から第3飛行集団(菅原道大中将)隷下の第3飛行団長(塚田理喜智少将)が、指揮下の第73中隊(九九式軍偵察機)に命じて行った空からの偵察活動によって見つけた平らな高原地帯だった。そして、陸軍の第9野戦飛行場設定隊(河端融少佐)が、第4航空地区の陸上勤務隊の協力も得て、昭和... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/07 19:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭和18(1943)年4月20日、ポルトガル領ティモールのディリからフローレス(Flores)島へ移った。そして同年5月16日、バビ(Babi)島の対岸の本島に陸軍主用の飛行場を完成させ、そして翌6月19日、マウメレ(Maumere)にも飛行場を概成させた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/08 20:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表した。それによれば、小スンダ列島では、スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)に1ヵ所(海軍担当で概成)、さらにスンバ島に海軍担当で第1〜第4の計4ヵ所の新設。さらに陸軍担当でスンバ第5〜第6を新設。そしてスンバワ(Sumbawa)島では、ビ... ...続きを見る
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2009/02/09 18:23
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satarta... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/10 22:52
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前線諸島(アルー=Aru、ケイ=Kei、タニンバル=Tanimbar諸島)を陸軍の警備地域と決めると、陸上の防衛は主として陸軍が、海域・航空防衛は主として海軍が担当することになった。さらに同年12月、大本営が、ティモール(Timor)島を含めスンダ海一帯を... ...続きを見る
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2009/02/11 20:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合軍の反撃拠点となったオーストラリアと対峙する小スンダ列島でも、日本軍による飛行場の設定が急がれた。ティモール島と同様に、スンバ島、フローレス島、スンバワ島、バリ島などで幾つもの滑走路が新設された。 昭和18(1943)年9月、大本営陸軍部の命令で、内地... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/12 20:44
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島を除く)同様に、当初は海軍の作戦・管轄エリアだった。昭和17(1942)年5月、海軍第16戦隊指揮下の部隊と共に、ジャワ島を占領していた第16軍(今村均中将)隷下の第48師団(海兵団・土橋勇逸中将)の第47連隊第3大隊(宮地育三小佐)が、10日、ロンボク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/13 19:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新設飛行場を開いた。そしてスンバワ島では、海軍が2個(ビマとランバン=現スンバワ・ブサール)造成した。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/15 21:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第一位の誉に輝いたのは日本人。その数、359,827人。全体の18,06%を占める。この数値は、前年比で見ると、2.21%(7,789人)の増加だそうだ。ちなみに、第二位はオーストラリア人観光客で、その数313,313人(見事な並びの数値!)。これは、前年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/17 18:29
西南東マルク県セラル島の動画の怪 Video Pulau Selaru, MTB Maluku
{%映画館(movie)hdeco%}インドネシア文化宮(GBI)は、You Tube上に計567本の動画をアップしている。その中にあって、今日現在で第二位の再生回数を記録しているものが『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島Selaru Islands MTB Maluku Indonesia』と題する動画だ。今からおよそ3年前に投稿した。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/05/07 01:52
西南東マルク県セラル島の動画の怪2: Video Pulau Selaru, MTB Maluku
{%映画館(movie)hdeco%}去る5月7日付のインドネシア文化宮(GBI)ブログで紹介した動画『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島Selaru Islands MTB Maluku Indonesia』が、とうとうGBIが動画サイトYou Tubeにアップしている計568本の中でNo.1のヒット数を記録した。これまでの一位だった『Pameran Prajurit Jepang yg tak sempat dipulangkan ke tanah air dari P... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/05/19 21:52
西南東マルク県セラル島の動画の怪3: Video Pulau Selaru, MTB Maluku
{%映画館(movie)hdeco%}去る5月7日と5月20日付けのインドネシア文化宮(GBI)ブログで紹介したYou Tube掲載動画『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島 Selaru Islands MTB Maluku Indonesia』が、まもなく10万回再生を記録しようとしている。GBIがアップしている動画計587本の中でNo.1のヒット数だ。一方、2位は依然として『Pameran Prajurit Jepang yg tak sempat dipulangka... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/09/01 23:09
西南東マルク県セラル島の動画の怪5: Video Pulau Selaru, MTB Maluku
{%映画館(movie)hdeco%}インドネシア文化宮(GBI)がYou Tubeにアップしている動画は、すでに694本。これまで何度か、上位1〜2位のヒット数についてレポートした。1位が『日本軍が去って62年後の西南東マルク県セラル島 Selaru Islands MTB Maluku Indonesia』で、2位が『Pameran Prajurit Jepang yg tak sempat dipulangkan ke tanah air dari Papua(パプアからの未帰還... ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2013/05/10 20:07
動画「パプアからの未帰還兵展」が22万回の再生。Video PD-II & Papua
{%映画館(movie)hdeco%}インドネシア文化宮(GBI)がYou Tubeにアップしている動画は、すでに791本。これまで何度か、上位1〜2位のヒット数についてレポートしてきた。その内、再生回数が10万を超える動画は以下の二つ。 {%上昇webry%}2011年2月、西部ニューギニア・西パプア州ビントゥニ湾の洞窟で、「イドレ転進作戦」の犠牲者の遺骨を確認。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2013/12/28 18:16

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マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9) インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
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