マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)

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太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)11月に、ババル(Babar)島のエンプラワス(Emplawas)村で、日本軍による住民400名以上にものぼる虐殺事件が起きていたことは、それから42年も経った1986年11月23日付の『朝日新聞』報道で初めて知られることになった。同紙には以下のような見出しが並んだ。“旧日本軍、住民400人を虐殺 インドネシアのババル島”、“極秘報告書が明るみに”、“戦史研究家が入手 憲兵殺され「討伐」”、“銃撃三時間 村一つ消す”、“ババル大虐殺 元大尉「すまない」”。

この報道は、福岡県の戦史研究家の武富登巳男氏が、偶然入手した、旧日本軍第五師団参謀部作製の極秘書類『ババル島事件関係書類綴』が発端となっている。同極秘書類は1987年7月に、『十五年戦争極秘資料集 第二集 ババル島事件関係書類』と題して不二出版によって復刻されている。

同書類綴では、戦争犯罪人の追及を避けるために、虐殺の実行者である第五師団歩兵第四十二連隊第十二中隊長から師団長宛ての報告内容が、改ざん・変更されていく過程が克明に記録されている。

この『朝日』報道を受け、インドネシアの有力誌『TEMPO』も、1986年12月3日号(No.42 Tahun XVI)で「Penaklukan di Pulau Babar」の見出しで、同虐殺事件を伝えている。

同極秘報告書では、第一次討伐(1944年11月3日~9日?)で「約百名ヲ銃殺及捕へタル」、そして第二次討伐(1944年11日~21日?)では「約四百名ハ現地ニ於テ銃殺」と記している。つまり、日本軍サイドの報告では、500名近くのエンプラワス村の村人が虐殺されたことになる。(注:同極秘報告書では村の人口は717名となっている)

一方、『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、1992年9月に現地で行った住民に対するインタビューの結果、多くが虐殺された人数として700名だったと証言、また同村が作成中だった虐殺名簿には704人の姓名が記載されていたとされる。

(注)日本軍の極秘報告書『ババル島事件関係書類綴』からは、“討伐”期間が1944年11月3日~21日(四百名の銃殺は11月20日か?)と推定されるが、『上智アジア学』第10号(1992年)の「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」によれば、地元では1944年10月5日を、大量虐殺の日としているという。また、現MTB(南東マルク県)副県知事のバルナバス・オルノ氏も1996年に書き上げた同虐殺事件の全貌をまとめた文章の中で、大虐殺の発生日を1944年10月5日としている。尚、この一カ月以上もの“誤差”が何故に生じているのかは不明。



上の画像:MTB県副知事のバルナバス・オルノ(Drs. Barnabas Orno)さん。1943年生まれ。ババル島出身。ババル島で郡長を経験。妻は、戦時中、日本軍による住民虐殺事件が起きたババル島南部のエンプラワス村出身。1991年から、同虐殺事件に関して住民インタビューを開始、同時に資料収集を進め、1996年に『1944年ババル諸島の人権侵害に対する日本軍の残忍性を調査:ティウィ川は1944年10月5日の流血の悲劇の黙した証言者(Menelusuri Kekejaman Tentara Jepang Terhadap PELANGGARAN Hak Asasi Manusia Di Kepulauan Babar・Tahun 1944:Kali Tiwi Saksi Bisu TRAGEDI BERDARAH 5 Oktober 1944)』を書き上げたが未出版。






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ババル(Babar)島は、バンダ(Banda)海に浮かぶ、東西およそ30km、南北およそ30kmのオニギリのような形をした小島。ダーウィンからおよそ500kmの距離にあり、東のタニンバル諸島と並んで、太平洋戦争時代、日本軍の“最前線”として連合国軍と対峙した。同島には、陸軍の第5師団歩兵第42連隊(司令部はタニンバル諸島)の一部が駐屯していた。また、アンボンからは海軍の警備部隊が駐屯していた。


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MTB(西南東マルク)県政府が作成したババル諸島<ババル島を中心に周辺には西にウェタン(Wetan)島、北にダイ(Dai)島、北東にダウェラ(Dawera)島、ダウェロール(Daweloor)島、そして南東にマセラ(Masela)島などがある>の観光開発計画によれば、同島はマリン・リゾート、農園ツーリズム、ユーカリ・リゾートと並んで、日本軍による虐殺事件が起きたエンプラワス村は“歴史リゾート”を目指している。また、マセラ島周辺海域は原油とガスを埋蔵しているとされ、その開発もターゲットに据えている。


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以下は、バルナバス・オルノMTB県副知事とのインタビューの概要(尚、インタビューは2007年8月13日、MTB県の県庁副県知事執務室で行った)


『実を言うと、エンプラワスという名前の村があることは知っていたが、事件についてはまったく知らなかった。そして知らなかったから、本を書こうとも思っていなかった。少なくとも、1990年に今の妻とつきあい始める時までは。(エンプラワス村の)彼女の家で、当時はまだ義理の父候補で今は義父となった彼女のお父さんから、エンプラワス村で起きた日本軍による虐殺の悲劇に関して話を聞いた。義父は、その話をする時、幾度も言葉に詰まった。思い出して涙を抑えきれなかったからだ。なぜなら義父は実の兄弟や、両親そしてその他の村人たち全員が目の前で一斉掃射されたのだから』

『私は義父に尋ねた。1970年代、牧師が地元紙にエンプラワス村で虐殺された村人の数はおよそ700人と話したが、その通りか、と。義父は答えた。「700人程度ではない。なぜなら当時、エンプラワス村の人口は1,000人以上だったが、虐殺の後には100人も生き残っていなかった」と。私は時間をかけて、何度も、義父に知っていることを話すように仕向けた。全てのトラウマを吐き出して下さい、私はいつか事件について本を書きたいから、と頼みました。そして義父は最終的には全てを話してくれました。一方で、私は、事件について知っている他の村人たちから聞き取りを始めました。私の実の父の話も含めて。当時父はまだ子供だったけれど、人から聞いていた』

『父の話によれば、エンプラワス村のティウィ川で虐殺がまさに行われるという時、ワクパパピ村長など、近辺のすべての村長が招待された。そして(日本軍は)この中に兄弟など縁者はいるか?と村長らに尋ね、指名された者は自由の身になり、その他の者は虐殺された』

『1991年、私と妻は結婚した。私は公務員になって、マルク州政府の社会局に入った。まだババルに住んでいた頃、エンプラワスの村人は“日本軍の残り”という言い方があった。残りなんていう表現は間違いだ。彼らは日本軍に抵抗した立派な独立闘争貢献者であり、このインドネシア共和国から占領者を追い払おうとした英雄行為を国は認めなければいけない』

『1996年に独立記念日の催しの一つとして、ケイ諸島のトゥアルでババル島出身家族会が催された。そこで、アイデアが出た。旧日本軍による虐殺事件に関してセミナーをババル島で開こうと。目的は、賠償云々を言う前に、占領者に抵抗した崇高な島民がいた史実を、インドネシアの中央政府が知らなければならない、という観点だった。インドネシアの独立闘争の中で、南東マルク県(注:後にババル島は西南東マルク県に入る)にあっても、ババル島のエンプラワスの貢献などのように、マルク人も、ババル人も貢献したんだという史実を表面化させようと。そこでセミナーのための委員会ができ、私は事務局長になった。そしてババル島でセミナーが実施され、そのセミナーの結果は中央政府に届けた。その時の願いは、賠償問題よりも、まずは政府が、占領者を追い出そうとした抵抗運動に正しい評価を与えるということだった。そして、もしも可能ならば、中央政府が、彼らババルの犠牲者に対する補償に関して、地元に代わって努力してくれないか、と。そのセミナーの場では、毎年10月に、事件を記憶するための慰霊の日を定めることも合意した』

『エンプラワスの村人が日本軍に抵抗した理由は、それは余りにも理不尽な課税と、それから人間の尊厳に関わる酷い要求の二つだった。大東亜戦争の中、日本軍は現地で食料を調達。軍票で支払うこともあったが、支払わないこともあった。それを村人は“税”と捉えていた。農産物を始めヤギ、豚などの食料供出を、各村々に割り当てていた。日本軍は、さらに、まだ未婚の女性や美人の若妻をイアンフ(慰安婦)にしようとした。村々から集められた女性たちは(注:陸軍部隊の本部があった)ワクパパピで選別された。さらにエンプラワス村に義務付けられた納税の一つはタバコだった。エンプラワスはババル島で最高の品質のタバコ産地だった』

『悲劇の始まりはというと、シノハラ(注:極秘報告書によれば、シノハラとは海軍錦隊の嘱託だった篠原と思われる。シノハラがエンプラワス村にやってきたのは1944年10月27日とされる)はイタリアと言う名のスパイらと共に、慰安婦候補探しとタバコの調達の二つの用事で村にやってきた。村人は税のことは分っていた。供出物資の事は承諾していた。プロテスタントの牧師の家にやってきたシノハラは、村長らを呼び、そこで、要求を突きつけた。元々はこれぐらいと言っていたのに、今後はこれぐらい増加でタバコを供出せよと、酷い増量を求めた。村人は納得できない。さらにシノハラは娘と美人の人妻を出せとも要求した。イアンフ候補を急いでセレクションしろと』

『しかし、牧師や村長らは、それらの要求は呑めないと答えた。死んでも受け入れられないと。物資ならいいが女性は認めるわけにはいかない。タバコはいいが女性は人としての尊厳・威信から無理だと。それでトラブルになった。結果、シノハラとスパイらは村人に殺された。村人は予想した。シノハラらが帰らなければ、必ずや日本軍は報復してくるだろうと。これでは安全ではない。三日後ぐらいには日本軍が攻撃してくるだろうと。そこで、日本軍に抵抗しなければ、となった』

『当時の教会のデータによれば、当時エンプラワスは3つの集落で一村を形成、ババル島で一番大きな村だった。エンプラワス村長は近辺の村々に呼びかけて、一緒に日本軍へ抵抗しようと訴えた。尊厳と威信を守るため、日本軍と闘おうと。トゥトゥアワン村は同意。そしてマヌウェリ村も同調。アナルトゥール村も賛同。しかしココアリ村まで行った際、そこには日本軍のポストがあり、村人の計画は日本軍の知るところとなった。そこで、日本軍の襲撃前に、村人は山へと逃げた。エンプラワス村の家々はすべて焼かれてしまった』

『後日、日本軍は、使者を山へ送ったり、森の中に書いたものを貼り、村人に対して日本軍はもう怒ってはいない、和解したいから下山しなさいと呼びかけた。山にこもった村人たちは、夜のみ動き回り、食べ物を探し、苦しい生活を余儀なくされた。飢えで死んだ子供たちもいた。やがて日本軍の呼びかけを信じた村人の多くが下山を決めた。その時、日本軍は、これは和平なんだから、鋭利なものは持ってくるなと命令した。しかし100人ぐらいは山から下りなかった。和平はエンプラワス村近くのティウィ(Tiwi)川で行うと日本軍は言った。二陣に分かれて村人は山から下りてきた』

『下山した村人を日本軍は三つのグループに分けた。最初のグループは、抵抗などの虞のない男たち、女性そして子供ら。二つ目のグループは抵抗勢力になりそうな屈強な男たちで、彼らは後ろ手に縛られた。第三のグループは、長老や慰安婦候補の若い女性たち。日本軍はまず二番目のグループを最初に殺した。義父は当時7歳でそのグループにいたが遺体の陰で生き延びた。日本軍はまず強い男たちのグループを抹殺し、それから次のグループの番と考えていたようだが、最初のグループが殺されたことから、残りの村人が騒ぎ出し、その瞬間から誰彼問わず射殺を始めた』

『奇麗な水のティウィ川は血の川に変わった。子供らは上に放りあげられ、銃剣で刺された。助けてという悲鳴が響いた。義父は両親、兄弟が目の前で殺されるのを見た。死んでいようが死んでいなかろうが、川に投げ込まれた。妊婦の腹は銃剣で裂かれ、中の赤子まで刺された。義父の記憶によれば、初めの頃は20人ぐらいがまだ川の中で息をしていたとか。引き上げる前に、スパイ(注:日本軍に就いたインドネシア人)らは、死んだかどうかの確認をし、まだ息をしている者は、銃剣で息の根を止めた。やがて満足した日本軍はワクパパピへ帰って行った』

『私は、エンプラワス村で虐殺された人数は、700人程度ではないと断言する。いわんや日本軍が報告したような400人とう数値はまったく事実とかけ離れている。1,000人近くの数になる。私はそれら犠牲者の名簿を持っている。さらに慰安婦にされた女性たちの数やその設置場所に関するデータもすべて分っている。私は、すでに書き上げた内容をいつでも出版できる立場にいる。一方、賠償云々について私は発言する立場にはない。史実にどう向き合おうとするのか。そのことを日本に問いたい』



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シノハラ海軍嘱託から奪ったものとされる剣を手にするオルノ副知事


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『ババル島事件関係書類』(武富登巳男編・解説)十五年戦争極秘資料集②:1987年7月20日第一刷発行。発行所:不二出版㈱


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昭和二十一年一月十七日、陸軍第五師団歩兵第四十二聯隊第十二中隊長の田代敏郎大尉が小堀金城第五師団長に報告した『ババル事件ニ関スル件報告』に始まる、同事件に関する一連の報告綴りの中に挿入されている「ババル島事件関係要図」(引用元:『ババル島事件関係書類』(武富登巳男編・解説)十五年戦争極秘資料集②:1987年7月20日第一刷発行。発行所:不二出版㈱)


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衛星画像から見たババル島西部。テラ(Tela)村に日本海軍部隊が駐屯、旧エンプラワス村は虐殺事件発生現場。同村は戦後、南東に移動した。


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左上から順に「篠原嘱託宿舎所在地」、「海軍部隊所在地」、「海軍見張所」、「憲兵詰所」、「事件発生部落(エンプラワス村)」


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以下は、陸軍本部のあったワクパパピ村や、同村からエンプラワス村までの間にある各村の衛星画像


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【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html

タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html

タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

西南東マルク県政府公式Website
http://www.mtbkab.go.id/

インドネシア文化宮(GBI)活動記録
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html


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