マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)

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「セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。日本軍兵士による虐待は、それは酷いものだった。多くの女性が慰安婦にさせられた」---マルク州MTB(西南東マルク・Maluk Tenggara Barat)県の現県知事で、セラル島出身のビット・テマール(Bitto S Temmar)さんが語る。
「当時、私の父はセラル島のナムタブン(Namtabun)村の村長だったが、日本軍から村の若い女性をサムラキ(Saumlaki)へ送れと。そこで、父はお婆さんを送ったんだね。そしたら、怒った日本兵は、父の指の間に鉄棒を挟んで縛り上げたそうだ。父の世代は、私たち次の世代にそれらの話を伝え、そしてトラウマは引き継がれた。なんでも日本は戦後賠償をしたそうだが、それらの賠償金はすべてジャカルタへ行ってしまった。地方には何も来なかった。是非、日本政府に伝えてほしい。私たちは何も謝罪を要求するつもりは毛頭ない。私たちが言いたいのは、突然やってきて、突然去っていった中で起きた事に関して、少なくとも戦後に関心を払ってくれても良かったのではないかということです。言い換えれば、社会のリハビリに対する可能な援助をしてくれないか、ということです。ここは“忘れられた島々(Forgotten Islands)”とも言われる地域ですが、“忘れられない出来事”があるのです」と。







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インドネシアが独立して60数年。電気が入っていないばかりか、灯油の入手にも苦労するセラル島。小学校を卒業すると、村に残る以外に選択肢のない現状。テマール県知事は言う。「お金のことは二の次の問題です。まずは、思い、関心を持って欲しいということです。私が知っている限り、戦後、旧日本兵がセラル島を再訪したことはありません。私は、その昔セラル島に居ざるを得なかった、そうした旧日本兵たちが、あるいはその子孫たちがやってきて、今の世代と友好を築き上げて欲しいと願っています。援助ではなくても、旧日本兵の孫の世代が、この島に投資をしてくれないだろうか。例えば、電気の問題でいえば、太陽光発電などの技術を持ってきてくれると大変嬉しい。あるいは、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出してくれるとか、あるいは優秀な生徒を日本へ留学させてくれてもいい。終戦時、他の地域では、恨みから日本軍が攻撃を受けたこともありますが、この県の中で、セラル島やその他の島々にいた日本兵は、皆無事に祖国へ帰ることができました。そればかりか、実の兄は、日本兵に養子縁組される直前まで親密な間柄だった。時代が残虐性をもたらしたが、一時期とはいえ、日本人と地元民との間に、うまくは表現できないが、普通では考えられない友好や友情があったことも事実です」

サムラキ市内で、日本軍支配時代を知る少なくない人々から「セラル島は、今の県知事もそこの出身であることからも分かるが、勤勉で高いディシプリンを持った住民が多い。それは、日本軍が残したものであることは間違いない」との話を聞いた。連合軍と対峙する、正真正銘の“最前線”であったセラル島。サムラキから40馬力のエンジン2基装備のボートで出発。ヌス・タブン(Nus Tabun)島とマトゥクス(Matkus)島の間を抜けて、アンワール・マス(Angwar Mas)島を右手の見ながら約2時間。セラル島の中央付近のくびれ部分の北岸にある白浜(レミャン海岸)に到着。そこで、オジェック(オートバイタクシー)が来るのを待つ。浜の沖合、そして陸上の到る所に、日本軍が投棄した弾薬や機材が眠っているという。



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レミャン海岸から十数メートルの場所には未だに旧日本軍が投棄した弾薬や機材が眠る。ここは、掘り返された跡。地元民によれば、アンボンで宗教抗争が激しかった頃、手製爆弾を作るための材料として、この場に埋まっていた弾薬などが持ち去られたという。連合国との戦いの最前線に蓄積された日本軍の弾薬が、半世紀以上も経て活用されようと誰が想像できよう。レミャン海岸のずっと東に位置するナムタブン村では、2003年、沖合から打ち上げられた旧日本軍投棄の迫撃砲弾のような形をしたものを、魚料理の焚火の脚として使用し、爆発、二人の村人が亡くなった。いまだに“大東亜戦争”の遺物が村人を苦しめている


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椰子の実を干してある浜。この下にも旧日本軍の弾薬が眠っている。


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セラル島北岸の白砂の入り江(レミャン海岸)。日本軍の上陸地点。東風が強い季節には、北海岸がサムラキからの上陸点となる。一方、西風の季節には、サムラキからリンガット村に直接船で上陸することができる。近くの畑や村から人々が集まり、自転車を持っている者が、ここからバイクで30分ほどの距離にあるリンガット村まで、オジェックを呼びにいってくれた。下は、リンガット村に通じる道路。かつて日本軍の四輪車が走っていたそうだが、今はこの村に一台の四輪車もない。


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上はリンガット村役場。下は村長のユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)さん(36歳)。錆びた日本軍の鉄帽を手にする。

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リンガット村の長老たち。MTB県では、ほぼ全域で共通の慣習だが、村に入るよそ者は、入村儀式のためにソピ(椰子酒)を持参し、長老の祈りの後、皆で回し飲みしなければならない。この儀式を経て、初めて村の客人となる。


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“戦後初めて日本人がやってきた”との知らせに、一目見ようと集会場にやってきた村人。


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【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html

タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html

タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

西南東マルク県政府公式Website
http://www.mtbkab.go.id/

インドネシア文化宮(GBI)活動記録
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html






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