マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)

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日本軍が進駐した時8~16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。

まず、日本軍は1942年3月に、一大隊規模で、セラル島の北岸のレミャン海岸に夜間上陸した。そしてリンガット村を始め各村へ移動。リンガット村では教会を本部として使用した。(海軍か陸軍かは記憶が曖昧だが)ナカムラ部隊は、自転車、戦車、トラックなどの四輪車を持ち込んだ。
リンガット村西方の滑走路は1942年に建設を開始、その年、日本軍機が飛んできた。建設には村人が強制労働で駆り出された。日本軍は直ちに学校を作り、日本語や君が代などの歌を教えた。村は、連合国軍の爆撃を何度か受け、200~300名の村人が亡くなった。日本軍の軍医も、その爆撃で死んだ。彼の墓は今でも残っていると思う。
敗戦後、日本軍は1945年9月頃、島を去った。武器類は、この近辺で地中に埋めたり、焼いたりした。弾薬の多くは海中へ投棄した。レミャン海岸の海中と浜の地中には、たくさんの自転車、戦車、そして銃、迫撃弾、100kg爆弾などが捨てられた。リンガット村東方の北海岸の村ナムタブンでは、2003年、日本軍が残した、そういった弾薬類とは知らずに、迫撃砲弾のようなものを、村人が魚を焼くための焚火の脚として使用し、それが爆発して二人死んでしまった。
何年か前に、地中から日本軍が埋めていった鉄製の箱が見つかった。その中には、(日本語だから)読めないドキュメントが詰まっていた。しかし、ほとんど腐っていたため、保管せずに捨ててしまった。
リンガット村に駐留していた部隊は:「ニシハラ部隊」そして「ナカムラ部隊」だった。二人の部隊長以外で、まだ記憶している日本兵の氏名は:「ヒロハタ」、「サイキ」、「コタケ」、「ミソベ」、「イレシド(イシド?)」、「スギタ」、「オイダ」、「イケダ」、「サノ」など。


『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、第5師団(別名:鯉師団、司令部はケイ島のトゥアル)の歩兵第42聯隊(司令部タニンバル、リンガット?)の隊長は「西原修三大佐(43.7~44.3.1)→吉川章大佐(44.3.1~)」とある。現住民が言うところの「ニシハラ部隊」とはこの「西原修三大佐」指揮下の部隊と思われる。






ユスフ村長のアレンジで、日本軍時代を知る5人の長老に集まってもらった、同日中に県都のサムラキに戻らなくてはならない時間的制約のため、インタビューできたのは、当日(2007年8月14日)参加可能な方たち5名のみだった。しかし実際には、女性を含め、もっと多くの老人が当時の様子を語ることができるという。以下、① 当時、あなたは日本軍とどのような関わりを持ちましたか?② 日本政府もしくは日本国民への要望は?---の二つの質問に対する回答。


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ガスパル・スムレスコス(Gaspar Sumreskosu)さん(80歳)


①「わしは、いわゆる肉体労働者として日本軍に徴用された。石を、砂を、木材を運んだものさ。ニッポンとインドネシアはSama-sama Joto(お互い上等)だった。ところで教わった日本の歌を披露してもいいかな?」---ガスパルさんが唄った。
踊り踊るならチョイト、日ノ本(hinomoto)照らす ヨイヨイ、花の都の 花の都の真ん中で、サテ、ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ....”
(注)名曲『東京音頭』だが、原作だと「ハァ 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ....」なのだが、軍の替え歌だったのだろうか、歌詞の「東京音頭」の部分が「日ノ本照らす」になっている。それとも、ガスパルさん、別の歌の歌詞と混同してしまったのか。。。?
②「これといって今の日本に要望はない。日本とインドネシアは共に上等だったんだから」




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ヨシアス・イララトゥ(Yosias Iraratu)さん(80歳)

①「わしは、ナカムラ司令官付きの台所番をやっていた。1941年に学校を卒業後したんだが、その後やってきたナカムラ司令官のご飯作りをしたんだ。ナカムラはとっても良い人だった。わしは、台所で残りご飯を食べさせてもらった。仕事の内容は主に、水汲み、そして炊事だった」
②「日本には額は別問題として、この村のために援助を期待したい」



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ヨーヘン・ボレトゥナバン(Yorhen Boretnaban)さん(80歳)


①「わしも、炊事係をやっていた。日本の軍人は芋が好きだった。何ていう名前か忘れちまったが、黄色い野菜も好きだった(カボチャか?)。日本軍はお金を払ってくれた。軍票だ。もう残っちゃいないな軍票は。あの頃みんな使ってしまったから」
②「日本軍が来て、教会が壊された。その賠償金だけでも村に支払ってくれないか」



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ウルバヌス・ランコラタットゥ(Urbanus Rangkoratat)さん(73歳)

①「日本軍が来た時はまだ子供だったから、日本軍が開校したSR(Sekolah Rakyat・国民学校)に3年通った。私の日本人の友人はタラダだった。私は何も仕事というようなものはしなかった。だって“kodomo(子供)”だったから。いつもいつも、タラダと遊んでばかりいた。SRの教師はインドネシアだった。歌は日本兵から習ったけれども」---と言うや、ガスパルさん同様に一気に歌い上げた。
見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ
『愛国行進曲』だ。「私は日本兵士が好きだった。なぜなら生活は悪くなかったし。。。」「しかし、父親は連合軍の空爆で死んだ。空爆ではこの村で300人近くが死んだ」
②「日本軍がいたために村人が失った財産を弁償してほしい」



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ルカス・ララットマセ(Lukas Raratmasse)さん(75歳)


①「いわゆる苦力(クーリー)みたいな手伝いをした。主に魚獲りをした。でもある日、魚を隠したと誤解され、日本兵から叩かれたこともある。実際はそうじゃなくて日本兵のために保管していたのに」
②「村人が失った財産分の賠償金を支払ってもらいたい」



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【参考ブログ】


マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html

マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html

マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html

マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html

マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html

マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html

タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html

タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html

タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

西南東マルク県政府公式Website
http://www.mtbkab.go.id/

インドネシア文化宮(GBI)活動記録
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html



この記事へのコメント

Gigi (チコ)
2008年08月22日 08:38
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Grahabudayaindonesia
2008年08月22日 10:00
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