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zoom RSS パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1)

<<   作成日時 : 2007/06/04 01:20   >>

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日本の花と言えば、まず“桜(サクラ)”。春の到来を象徴する花だ。日本人の心を比喩する場合にも頻繁に登場する。パッと咲いてパッと散る。華やかではあるが、短命に終わるサクラの命運は、かつて「同期の桜」の一節で、大和魂の代名詞として使われたこともある。「さまざまのことおもひ出す桜哉」----松尾芭蕉は、桜の開花に、人の世を重ねてそう表現した。
それが故か、かつて太平洋戦争の時代、いわゆる南方に送られた日本軍兵士たちは、当地で見た、日本の桜に似た花に、望郷の想いを込めて、“○○桜”と命名することを厭わなかった。同様に、富士山に似た山に、やはり“◎◎富士”と命名したものだ。
インドネシアの最西端・アチェを舞台に描いたドキュメンタリー映画『二つの故国をつなぐ歌』(参照ブログ:http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200702/article_2.html)の主人公は、日本軍人と現地の女性との間に生まれ、“サクラ”と命名された。
しかし、旧日本軍が残した“サクラ”は、同国の最西端ばかりではなかった。インドネシアの最東端、現在のパプア州(西部ニューギニア)にも“サクラ”が残っている。ここもかつて日本軍が占拠し、連合国軍との間で壮絶な死闘を繰り返した地だ。
パプア出身で、現在はインドネシアの有力夕刊紙『Suara Pembaruan』の編集委員を務めるウォラス・クレナックさんが、“パプアのサクラ”の存在に関して、多数の画像と共に、リポートを送ってきた。「確かに日本の桜とは花びらや葉の形状が異なっている。でも、その木があるチェンドラワシ大学の学生たちは、開花が始まると、『サクラ祭りの季節がやってきた』と今でも気持ちが浮き立つ。地元民の話では、かつて日本軍兵士が植えたそうだ」と、ウォラス氏。



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パプア州の州都ジャヤプラ(Jayapura)は、かつてホーランジア(オランダの都)と呼ばれ、後にコタバル(新しい街)、そしてインドネシア併合後にはスカルノプラ(スカルノの都)と改称、そして歴史の推移と共に、現在のジャヤプラとその名を変えた。一方、地元の人々は、その昔よりポート・ヌンバイ(Port Numbay)と呼称していた。かつてのフンボルト湾(現在のジャワプラ湾・地元の人々はインビ=Imbi湾と呼んでいる)は、日本の春の時期、穏やかな海面を見せる。インドネシアの“辺境”と呼ばれた地は今では人口30万近くの都市に生まれ変わろうとしている。2007年には、埋立地に四つ星ホテルもオープンした(2007年5月、Wolas Krenak氏撮影)


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州都ジャヤプラの北側の位置する“Base G”海岸。日本軍が地雷を敷設した白砂の海岸に1944年4月22日、米豪の連合国軍が大量の艦船と共に上陸を開始した。その日、海面は穏やかだったに違いない。そして、“パプア桜”もその年の開花を始めたばかりだったのかもしれない。(2003年11月GBI撮影)


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国立チェンドラワシ(極楽鳥)大学の旧キャンパス。現在は教育学部の低学年学生の施設として使用されている。大学のメインキャンパスは、付近の小高い山岳部に移転している。“パプアの桜”は、この旧キャンパスの一角にある。(以下、Wolas Krenak氏2007年5月撮影)


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国立チェンドラワシ大学人類学博物館。パプア(旧イリアンジャヤ)州の民族文化を知る上で最高レベルの展示物を誇る。


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これが、旧日本兵が植えたとされる“パプアの桜”。アベプラ(Abepura)地区にある旧チェンドラワシ大学(Universitas Cenderawasih。略してUncen・ウンチェンと呼ばれる)のキャンパスに鎮座。“極楽鳥”の名を冠する大学に“桜”とは、なんともユートピア的な存在だ。「同期の桜」では、《咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散りましょ国のため》、そして《花の都の靖国神社、春の梢に咲いて会おう》と歌われたが、ここウンチェンでは、“ペスタ・サクラ(Pesta Sakura・桜祭り)”の主人公として、まさに“同期”を超えて、全学年で開花の季節を堪能しているそうだ。高さおよそ20メートル、根元の太さはおよそ55cm、枝の総数は8本で、各々の枝はやがて二つに分かれ、その先もやがて二つの小枝になっている。


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“旧日本兵が植えたサクラ”と言われているが、その真偽は定かではない。しかし、戦時中、遠く故国から5,000kmも南下したニューギニア島で目にした、“日本の桜”に酷似したこの樹木を、兵隊さんたちが“パプアの桜”と呼んだとしても、何ら不思議なことではない。インドネシアを始め、南太平洋一帯で咲く、火焔樹(かえんじゅ)は別名“南洋桜”とも呼ばれる。この“パプアの桜”が“南洋桜”なのか、それとも別種なのかについて判断する知識を筆者は持たない。図鑑などを見てみると、遠景では似ていても、個々の花びらの形状は、“南洋桜”とは著しく異なっているように見える。読者の知識をお借りしたいところだ。


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情報を寄せてくれたウォラス・クレナック氏。1955年5月5日、現在の西パプア州(Propinsi Papua Barat)の南ソロン県サウィアット地区ソドゥロフォヨ村生まれ。国立チェンドラワシ大学教育学部卒。地元紙の記者などを経て、現在は、首都ジャカルタで発行されている同国最大の夕刊紙『Suara Pembaruan(旧Sinar Harapan紙)』の地方担当の編集委員。



【参考ブログ&ホームページ】


早稲田大学探検部が新種生物との遭遇のためパプア州へ出発
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200702/article_4.html

大川誠一のGBIニュース(2000年9月20日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000920.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年9月9日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000909.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年9月8日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000908.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年9月3日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000903.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年8月30日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews00830.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年7月26日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000726.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年7月17日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000717.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年7月8日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000708.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年6月25日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000625.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年6月24日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000624.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年6月5日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000605.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年5月10日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000510.htm

大川誠一のGBIニュース(2000年2月14日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews000214.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年12月16日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews991216.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年12月9日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews991209.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年12月7日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews991207.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年11月26日)
http://www.harapan.co.jp/Indonesia/GBI/GBInews/GBInews991126.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年7月2日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990702.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年6月11日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990611.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年6月1日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990601.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年5月31日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990531.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年5月30日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990530.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年5月5日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990505.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年5月4日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990504.htm

ライラのイリアンジャヤだより(1999年3月4日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/laila20.htm

大川誠一のGBIニュース(1999年2月24日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990224.htm

ライラのイリアンジャヤだより(1999年1月25日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/laila15.htm

大川誠一のGBIニュース(1998年9月29日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews980929.htm

大川誠一のGBIニュース(1998年8月28日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews980828.htm

大川誠一のGBIニュース(1998年8月21日#2)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews980821%5F2.htm

大川誠一のGBIニュース(1998年8月19日)
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews980819.htm

アチェ刺繍展&アチェのドキュメンタリー映画上映会
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200706/article_2.html

アチェのドキュメンタリー映画上映会のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200705/article_4.html

映画『二つの故国をつなぐ歌』ジャカルタ上映&報告
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200704/article_6.html

映画『二つの故国をつなぐ歌』上映会のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200704/article_2.html

早春賦をテーマにした映画が完成しました!
http://soushunfu.blog89.fc2.com/

アチェ伝統刺繍文化展のお知らせ(Pameran Budaya Sulaman Aceh)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200704/article_1.html

映像で見るアチェの今昔
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200701/article_2.html

スマトラ島沖大地震・巨大津波二周年報道写真展のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200612/article_7.html

アチェ&早春賦(映画:二つの故国をつなぐ歌)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200702/article_2.html









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パプアの桜(No.2) Pohon Sakura Papua(No.2)
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インドネシア文化宮
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インドネシア文化宮
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インドネシア文化宮
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(8) Bandara Dai Nippon(8)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(10) Bandara Dai Nippon(10)
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(11) Bandara Dai Nippon(11)
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インドネシア文化宮
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東部インドネシアの旧日本軍航空基地(12) Bandara Dai Nippon(12)
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インドネシア文化宮
2008/12/13 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(13) Bandara Dai Nippon(13)
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インドネシア文化宮
2008/12/14 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(14) Bandara Dai Nippon(14)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}マノクワリからベラウ地峡のイドレに向けた、約12,000名の第二軍将兵による“緑の地獄”転進作戦が行われた昭和19年7月〜11月の一年以上前、ベラウ地峡では、同地に横断道路を建設しようとする日本海軍の調査が行われた。第二軍がマノクワリにやってくる10ヵ月前のことだった。昭和18年2月23日〜4月27日、海軍ニューギニア調査隊測量班(調査員:海軍軍属 駒澤幸男以下22名。警護兵6名、パラオ島民12名、パプア人苦力110名の計150名から構成)は、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/15 13:22
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(15) Bandara Dai Nippon(15)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍(マノクワリ:司令官は豊島房太郎中将)のイドレ(Idore)転進部隊約12,000名の将兵が、“地獄ヤカチ”そして“野たれヤカチ”と呼んだヤカチ(Yakati)地区---米軍は後に“緑の地獄”と名付けた。この地に、転進作戦前年の昭和18年(1943)2月〜8月、海軍ニューギニア調査隊が入った。フェールビンク(Geelvink)湾(現在はチェンドラワシ湾)からビィントゥニ(Bintuni)並びにベラウ(Berau)湾の間に位置する細長いベラ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/16 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(16) Bandara Dai Nippon(16)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和19年(1944)4月22日、日本軍が建設した三つの飛行場があるセンタニ(Sentani)の東方約45kmに位置するホランジア(Hollandia:現在のパプア州の州都ジャヤプラ)へマッカーサー大将率いる連合軍が上陸。続いて、5月18日、海軍が造成した飛行場(滑走路の長さは1,500m、幅120m)があったワクデ(Wakde)島への上陸。連合軍は、前日(5月17日)には、同島対岸の、日本軍第36師団(師団長田上八郎中将)司令部が置かれたサル... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/17 00:02
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{%空港(ユラユラ)hdeco%}ミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団第70中隊がアンボン方面から飛来し、8月8日に行った偵察飛行記録によれば、その規模は、長さ1,850m、幅約200mが整地され、長さ850mの滑走路が概成していた。さらに8月13日の同中隊の司偵捜索によれば、同島には長さ1,500m、幅200mの滑走路が概成し... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/18 00:03
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(17) Bandara Dai Nippon(17)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ミッドゥルバーグ(Middleburg:別名ミオス=Mios)島に造成された米軍飛行場は、ちょうど終戦の一年前にあたる昭和19年(1944)8月15日に使用が開始された。日本軍第7飛行師団第70中隊がアンボン方面から飛来し、8月8日に行った偵察飛行記録によれば、その規模は、長さ1,850m、幅約200mが整地され、長さ850mの滑走路が概成していた。さらに8月13日の同中隊の司偵捜索によれば、同島には長さ1,500m、幅200mの滑走路が概成し... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/18 00:03
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(18) Bandara Dai Nippon(18)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ソロン(Sorong)はニューギニア島の西端に位置する人口およそ144,000人(2003年統計)の都市。元はフォーゲルコップ半島の西半分を占めるソロン県の県都だったが、2000年2月28日、ソロン県から分離してソロン市として行政独立。ちなみにソロン県は2002年二つの県に分割された。一つは11の郡から構成されるソロン県で、その人口はおよそ79,000人。もう一つが14郡から成る南ソロン県(Kabupaten Sorong Selatan=略称... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/19 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を命じた。そして同年11月14日、同部隊はソロンの向かい側にあるサラワチ(Salawati)島のサマテ(Samate)に上陸した。設定隊は9月に豊橋で新設された乙(半機械化)編成部隊で、定員は150名、これに台湾人で構成された特設勤労団が約1,000名加わ... ...続きを見る
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2008/12/20 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を命じた。そして同年11月14日、同部隊はソロンの向かい側にあるサラワチ(Salawati)島のサマテ(Samate)に上陸した。設定隊は9月に豊橋で新設された乙(半機械化)編成部隊で、定員は150名、これに台湾人で構成された特設勤労団が約1,000名加わ... ...続きを見る
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2008/12/20 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(19) Bandara Dai Nippon(19)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18年(1943)10月、第19軍の命令により、第二野戦飛行場設定司令部(山本勝大佐)は、第百五野戦飛行場設定隊(山田義男少佐)に対して、ソロン(Sorong)地区における飛行場の建設の任を命じた。そして同年11月14日、同部隊はソロンの向かい側にあるサラワチ(Salawati)島のサマテ(Samate)に上陸した。設定隊は9月に豊橋で新設された乙(半機械化)編成部隊で、定員は150名、これに台湾人で構成された特設勤労団が約1,000名加わ... ...続きを見る
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2008/12/20 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(20) Bandara Dai Nippon(20)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}秋田県の南南西およそ4,360km。あるいは四国の室戸岬の真南約3,590km。西部ニューギニアの北およそ190km。そこに、太平洋戦史にもほとんど登場しない、忘れ去られた小さな島がある。その名をマピア諸島と言う。環礁の縁にできた四つの島から成る。この島で、秋田県で編成された帝国陸軍の一個中隊が玉砕を遂げている。歩兵第223連隊(注:秘匿名は「雪3524部隊」1942.7.24以降連隊長は吉野直靖大佐)の第7中隊だ。 『濠北を征く』によれば、... ...続きを見る
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2008/12/21 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}紀伊半島の南端潮岬から真南へおよそ3,800km。赤道を少し超えた所にビアク(Biak)島がある。ここに戦時中、日本軍は大飛行場群を建設し“絶対国防圏”の要衝とした。しかし、昭和19年(1944)5月27日、連合軍が上陸。8月20日まで続く死闘が繰り返され、玉砕の島としてニューギニア戦線史に刻まれている。ビアク島は、当時、第二方面軍司令官の阿南惟幾大将をして「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで言わしめた、日本軍にとって戦... ...続きを見る
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2008/12/22 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(21) Bandara Dai Nippon(21)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}紀伊半島の南端潮岬から真南へおよそ3,800km。赤道を少し超えた所にビアク(Biak)島がある。ここに戦時中、日本軍は大飛行場群を建設し“絶対国防圏”の要衝とした。しかし、昭和19年(1944)5月27日、連合軍が上陸。8月20日まで続く死闘が繰り返され、玉砕の島としてニューギニア戦線史に刻まれている。ビアク島は、当時、第二方面軍司令官の阿南惟幾大将をして「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで言わしめた、日本軍にとって戦... ...続きを見る
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2008/12/22 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(22) Bandara Dai Nippon(22)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本兵が、乏しい水補給の中、赤道直下の炎熱下、ツルハシとモッコで造成したモクメル(Mokmer)飛行場(現在はフランス・カイシエポ空港)、そしてソリド(Sorido:第三モクメル)とボロコエ(第二モクメル)飛行場。しかし、これら三つの飛行場は、当初想定した大規模航空部隊を迎えることなく、完成を間近に、連合軍の手に落ちた。昭和19(1944)年5月27日、ビアク支隊[主力地上戦闘部隊は、約3,500名の第36師団第222連隊(青森県弘前編成・当時... ...続きを見る
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2008/12/23 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(23) Bandara Dai Nippon(23)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}連合軍は、ビアク(Biak)島上陸に先立つ一ヶ月の間に、計1,260トンもの爆弾を、まさにスコールのように、1万を超える日本軍将兵の頭上に降らせた。これ以前、連合軍は、昭和19(1944)年4月22日ホランジアへ上陸、日本軍が造成した3個の飛行場を占拠、修復を施し、5月中旬には、ビアク島進攻基地として航空部隊が使用を開始した。また、日本軍第36師団(雪兵団)が司令部を置いたサルミ(Sarmi)の東海上に浮かぶワクデ(Wakde)島にも5月18日... ...続きを見る
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2008/12/24 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(24) Bandara Dai Nippon(24)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「玉砕の島」の「玉砕の洞窟」。ビアク島の凄惨な戦いのシンボルが“西洞窟”だ。この西洞窟は、今ではビアク島随一の観光スポットと化している。それはちょうどハワイの真珠湾とアリゾナ記念館観光とも似ている。ビアクを慰霊で訪れる外国人は、やはり日本人が多い。そして必ず、西洞窟で祈りを捧げる。確かに、洞窟は、戦争初期においては、籠った多くの日本軍将兵の命を、敵軍の艦砲射撃や空爆から救った。しかし、制海権そして制空権をほぼ完璧に抑え、圧倒的優位に立つ軍事力で... ...続きを見る
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2008/12/25 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(25) Bandara Dai Nippon(25)B
{%空港(ユラユラ)hdeco%}赤道のほぼ真下、南緯1度、東経136度に位置するビアク(Biak)島は、足の形によく似た島だ。島の南岸が踵(かかと)、そして東端がつま先にあたる。島の北側1/3は山岳地帯、残りは台地状。珊瑚礁が隆起してできた島で、特に南岸一帯には鍾乳洞が数え切れないほどある。日本軍が三つの飛行場を設定した、モクメル(Mokmer)村西方一帯は平地だが、飛行場地帯の東側海岸は、断崖絶壁の台地が続く。雨季は別として、乾季には水の確保が深刻な問題となる。連合軍が上陸... ...続きを見る
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2008/12/26 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(26) Bandara Dai Nippon(26)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ビアク(Biak)島の玉砕戦が余りにも有名で、その戦史に隠れがちだが、西隣にあるヌンホル(Numfor)島でも、実は壮絶・凄惨な戦いが繰り広げられた。しかも、ビアク島同様に、大本営は、この勾玉のような形をした小さな島に飛行場群を造成した。その数4基地。当初、日本軍は、西部ニューギニア本島のフェールヴィンク(Geelvink)湾の北側に点在するスハウテン(Schouten)諸島に飛行場を建設することに消極的だった。しかし、調査を進めるうちに、飛行... ...続きを見る
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2008/12/27 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(27) Bandara Dai Nippon(27)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ヌンホル島に日本軍の航空基地が完成・概成するやいなや、まさにビアク島の戦い同様に、連合軍は、事前の猛空爆に次いで、1944年7月2日、ヌンホル島に上陸してきた。エドウィン・パトリック(Edwin D. Patrick)少将率いる米第158戦闘連隊は、カメリ飛行場近辺の海岸に上陸。この前日(7月1日)、ヌンホル守備隊の上部組織である第二軍(在マノクワリ。豊島房太郎中将)は、連合軍のマノクワリへの上陸の可能性大とみて、司令部並びにおよそ半数の部隊の... ...続きを見る
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2008/12/28 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(28) Bandara Dai Nippon(28)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フェールヴィンク湾周辺では日本軍占領当初、陸海軍合計17個の飛行場設定が計画されたが、昭和18(1943)年8月時点で完成していたものはナビレ(Nabire)の海軍飛行場1個のみだった。この飛行場はその規模が、長さ1,200m、幅60mで、1943年4月15日に戦闘機用として、そして5月17日に中攻(中型陸上攻撃機)用として完成していた。ちなみに、第二軍がマノクワリに進駐する前年(1943)までに、海軍並びに陸軍第5師団が占領する西部ニューギニ... ...続きを見る
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2008/12/29 00:00
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(29) Bandara Dai Nippon(29)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}富士山から真南へ約4,117km。世界で二番目に大きいニューギニア島の北岸に位置するサルミ(Sarmi)がある。現在はインドネシア最東端のパプア州サルミ県の県都が置かれている。同県は2003年4月12日、ジャヤプラ(Jayapura:旧ホランジア)県から分離して新たな県となった。面積およそ17,740km2。10郡、84の村から構成され人口は約32,700人。サルミと言っても現在の日本人の多くにとっては、まず馴染みのない地名だが、東北地方のお年... ...続きを見る
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2008/12/30 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)
{%上昇webry%}現在のサルミ半島部(衛星画像)。 ...続きを見る
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2008/12/31 00:16
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)
{%上昇webry%}現在のサルミ半島部(衛星画像)。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/31 00:16
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)
{%上昇webry%}現在のサルミ半島部(衛星画像)。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2008/12/31 00:16
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(30) Bandara Dai Nippon(30)
{%上昇webry%}現在のサルミ半島部(衛星画像)。 ...続きを見る
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2008/12/31 00:17
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大本営は、昭和18(1943)年8〜9月頃「絶対国防圏」構想を固めた。要点は、南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラインを、国防上必要最小限の要域としたことだ。この決定に基づいて、南方軍隷下に第二方面軍(司令部はフィリピン・ミンダナオ島のダバオ:阿南惟幾大将)が新たに創設され、第二軍(豊島房太郎中将)が同年12月、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置いた。第二方面軍も第二軍も共に中国... ...続きを見る
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2009/01/02 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(31) Bandara Dai Nippon(31)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大本営は、昭和18(1943)年8〜9月頃「絶対国防圏」構想を固めた。要点は、南太平洋方面の確保を断念し、マリアナ、カロリン中西部、北西部ニューギニア、スンダ列島を結ぶラインを、国防上必要最小限の要域としたことだ。この決定に基づいて、南方軍隷下に第二方面軍(司令部はフィリピン・ミンダナオ島のダバオ:阿南惟幾大将)が新たに創設され、第二軍(豊島房太郎中将)が同年12月、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置いた。第二方面軍も第二軍も共に中国... ...続きを見る
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2009/01/02 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(32) Bandara Dai Nippon(32)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊島房太郎元第二軍司令官が『濠北を征く』の「第二軍の作戦一般」で述懐しているように、西部ニューギニアに進駐した第二軍は、遥か中国大陸から赤道直下の戦場(予定地)へ到着するやいなや、飛行場の建設に全精力を傾けた。まさに飛行場は「軍の任務達成の為の生命と心得ていた」。第二軍は、決戦時期が到来したのならば、大本営が約2飛行師団を送り込んでくるものと信じていた。「斯て半歳に至つて心血を注いで造成した飛行場も、大部分のものは我軍の利用する処とならず、敵を... ...続きを見る
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2009/01/03 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(33) Bandara Dai Nippon(33)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ワクデ(Wakde)島の飛行場は、昭和18(1943)年半ばには、長さ1,300m、幅120mの滑走路が完成していた。同島は前年の4月、日本海軍によって占領された。この飛行場は、海軍の第103設営隊(山田誠海軍技術少佐)が造成・整備したもので、同隊は1943年1月30日に上陸し、2月23日には滑走路が完成し、航空部隊が進出してきたとされる。この設営隊は重機も動員し、その結果わずか25日間で滑走路の急速設営を成し遂げた。 米軍の偵察飛行よれば、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/04 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(34) Bandara Dai Nippon(34)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}サルミ(Sarmi)における日本軍と連合軍の対峙は、太平洋戦争において、戦術・戦略的な側面から見て、制空権と制海権がどれほどまでに勝敗を決定づけたかを物語る好例だろう。飛行場の早期建設を至上命題に、死に物狂いでその任務を達成するものの、その飛行場の存在そのものが自軍を玉砕状況に追い込んでいった。その光景を、仮に、眺めていた地元のパプア人がいたとしたならば、おそらく彼は、彼女はきっとこう目撃談を語るだろう。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/05 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(35) Bandara Dai Nippon(35)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}飛行場は陸上とは限らない。西部ニューギニアの中央高地にある幾つかの湖は、大本営をして、水上基地として、そしてその周辺部は陸上の飛行場として注目された。昭和18(1943)年12月1日、第二方面軍(阿南幾惟大将)がフィリピン・ミンダナオ島のダバオで、そして第ニ軍(豊島房太郎中将)がマノクワリで統帥を発動する直前、アンボン(10月末)そしてマニラ(11月中旬)で、大本営派遣班も交え、現地部隊との会合が持たれ、第二方面軍並びに第ニ軍の作戦計画が練られた。... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/06 00:02
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(36) Bandara Dai Nippon(36)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}太平洋戦争は、ある意味で、日本人によるニューギニア探検の魁(さきがけ)の機会を与えた。しかも、その探検は、単に地理的探検に限らず、民族学的、文化人類学的、生物学的、そして資源・食糧の確保などの側面も含めて、その全てを把握する、いわば総合学術探検の顔も持っていた。オランダやドイツ、英国そして豪州などは、古くからニューギニア島を植民地分割し、それなりに同島に関して情報を有していた。しかし、日本はそうではなかった。もちろん、明治時代より、単身、この地... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/07 00:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(37) Bandara Dai Nippon(37)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}開戦2周年の昭和18(1943)年12月8日、「第二軍作戦準備要項」は、中央高地にあるハベマ湖(日本軍はハッペマ湖と呼んだ)とウィッセル湖(現在のパニアイ湖)周辺部で宣撫工作を実施し、可能であれば飛行場を建設する旨、下命した。これに基づいて、第36師団指揮下の日高岩男少佐を隊長とする『鰐工作隊』は、昭和19(1944)年2月中旬、サルミ(Sarmi)を発って、マンベラーモ(Mamberamo)川を遡上し、ハベマ(Habema)湖方面へと向かった... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/08 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(38) Bandara Dai Nippon(38)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第二軍の司令部があったマノクワリ(Manokwari)には、昭和17(1942)年10月13日、海軍の「ニューギニア民政府」が置かれた(総監は浜田海軍中将。但し二年後の2月1日、民政府は解体され、第26海軍建設部が設立された)。この海軍民政府の要請に基づいて、昭和18(1943)年、学者を中心とした編成で、「海軍ニューギニア調査隊」が西部ニューギニア各地で地質、鉱物、農業、植物、民族、動物、測量などの分野の調査を行った。当然のことながら、この第... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/09 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/09 18:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師... ...続きを見る
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2009/01/09 18:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(39) Bandara Dai Nippon(39)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争がハワイへの奇襲攻撃で幕を開けた時点で、大本営は、豪北方面(オーストラリアの北方地域)の作戦に関しては、取りあえず、ニューブリテン島のラバウル(Labaul)と、ティモール島西部のオランダ領チモールの占領のみが計画されていた(『戦史業書 豪北方面陸軍作戦』)。蘭印(オランダ領インドネシア)地域については、昭和17(1942)年3月1日、第16軍(今村均中将)がジャワ島上陸、そして東部のティモール島へは同年2月20日、東方支隊(第38師... ...続きを見る
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2009/01/09 18:07
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(40) Bandara Dai Nippon(40) カイマナ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}第19軍(冨永信政中将)隷下で、バンダ(Banda)海並びに西部ニューギニアの南西岸一帯を作戦地域とする第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、ジャワ島のマランに終結していた歩兵第11連隊(高橋辯大佐)を、昭和18(1943)年2月19日、ミミカ(Mimika・現在はTimika)へ向け、次いで、翌々日の21日、歩兵第21連隊(原田憲義大佐)をアルー(Aru)諸島へ向け、スラバヤ港から出発させた。また第19軍司令官の冨永信政中将自身も2月19日、アン... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/10 23:49
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(41) Bandara Dai Nippon(41) ミミカ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}歩兵第11連隊は、1943年5月11日、ミミカに長さ1,000m、幅50mの飛行場を完成させた。連合軍が中部ソロモンや東ニューギニアなどの南東方面で反攻を整えつつあったこの時期、それで日本軍には楽観論もあった。例えば、同年8月上旬、第5師団のバンダ海での部隊展開が順調に進んでいることを踏まえ、第5師団長の山本務中将は「現在の空海状況が一年続けばこの戦争に日本は勝つ」と日誌に記したとされる。この頃、日本軍は、西部ニューギニアでは、北岸ではホランジ... ...続きを見る
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2009/01/12 00:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(42) Bandara Dai Nippon(42) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「飛べども飛べども果てしなく続く大密林、積乱雲、白雪の雪山山系」----第19軍の河村高級参謀は、西部ニューギニアで空中偵察した感想をそのように述べている。西部ニューギニア戦に参加し、好天に恵まれ、雪を抱くカルステンツ(Carstensz)峰(4884m)を望めた体験を持つ戦闘機や爆撃機の操縦者は少なくないだろう。赤道直下で見た冠雪の高峰に、富士山を想いおこし、あるいは祖国日本に想いを馳せたのかもしれない。マノクワリ(Manokwari)の演芸... ...続きを見る
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2009/01/12 23:58
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(43) Bandara Dai Nippon(43) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアが独立後、依然オランダ領として残った西部ニューギニア(当時のインドネシア名は西イリアン=Irian Barat。インドネシア併合後から2005年までイリアンジャヤ=Irian Jaya。現在はパプア)の“解放”を旗印に、1961年オランダ軍との武力衝突を始めた翌1962年1月5日、ハインリッヒ・ハーラー(Heinrich Harrer:1912年7月6日&#8211;2006年1月7日)は、東部ニューギニアのラエから飛行機でホランジ... ...続きを見る
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2009/01/13 23:21
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(44) Bandara Dai Nippon(44) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}1623年、オランダ王室に仕える航海者ヤン・カルステンツ(Jan Carstensz:Jan Carstenszoon)は、アラフラ海を航海中、偶然、北の山脈に雪を抱く峰々を目撃した。雲に覆われることが多い中央山脈だが、その日は幸運にも快晴だったのだろう。カルステンツはペラ号とアルンハイム号の二隻を率いてアラフラ海を航海中だった。帰国後、“赤道直下の雪山”のことを話した。しかしヨーロッパで彼の言葉を誰も信じる人はいなかった。それからおよそ300... ...続きを見る
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2009/01/14 22:35
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(45) Bandara Dai Nippon(45) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシアそしてオセアニア地域で最高峰のジャヤ峰(Puncak Jaya:カルステンツ・ピラミッド=Carstensz Pyramid:4884m)。その“脇腹”で発見された、世界最大級の銅、金、銀鉱山。発見は1936年末。オランダ王立地理学協会(Royal Netherlands Geographical Society=RNGS)がスポンサーとなり、カルステンツ峰初登頂を目指した登山・探検隊(A.H.コライン(Colijn)博士を隊長に、... ...続きを見る
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2009/01/15 22:33
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(46) Bandara Dai Nippon(46) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}「2月10日、午前中は氷河の測量で過した。その結果は驚くべきもので、25年間に、カルステンツ氷河は452m後退し、メーレン氷河は745mも後退していた」----1936年末、オランダ王立地理学協会(RNGS)が派遣した、A.H.コライン(Colijn)博士を隊長とする登山・探検隊がカルステンツ山群に入った時の報告と比較して、1962年2月、カルステンツ・ピラミッド(Carstensz Pyramid:ジャヤ峰=Puncak Jaya:4884m... ...続きを見る
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2009/01/16 22:44
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(47) Bandara Dai Nippon(47) ジャヤ峰
{%空港(ユラユラ)hdeco%}インドネシア共和国の最東南端に位置するパプア州(Provinsi Papua)のメラウケ(Merauke)県は、東経141度ラインで隣国PNG(パプアニューギニア)と接し、トレス海峡を挟んでオーストラリアに隣接する。かつてのイリアンジャヤ(Irian Jaya)州時代は、同州最大の県であったが、2002年法律第26号に基づいて4県への分割が決まり、県の規模は縮小を余儀なくされた。メラウケ県以外の3県は、ボーヴェン・ディーグル県(Boven Di... ...続きを見る
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2009/01/17 23:13
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(48) Bandara Dai Nippon(48)
{%空港(ユラユラ)hdeco%}中部ニューギニア北岸の要衝・ホランジア(Hollandia・現在のジャヤプラ)は、ガダルカナル島撤退と並ぶ、太平洋戦争における日本軍の象徴的敗北の一ヶ所となった。昭和19(1944)年4月22日、連合軍は意味ある抵抗を受けることなく、同地に上陸、西方のセンタニ(Sentani)湖周辺にあった日本軍の3個の飛行場を占拠した。また、ジャヤプラ近郊ですでに概成していた別の飛行場も占拠。 ホランジアは、1910年3月7日、オランダ人船長Sachseに... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/18 21:49
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(49) Bandara Dai Nippon(49) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍(海軍陸戦隊)がホランジア(現ジャヤプラ)を占拠したのは開戦四ヵ月後の昭和17(1942)年4月。ホランジアの西およそ40kmには大きなセンタニ(Sentani)湖があり、その北側には平地があり、ここが飛行場の設定に適していた。ビントゥニ湾のバボ(Babo)飛行場や西端のソロン(Sorong)のエフマン飛行場などのように、戦前からオランダが作った滑走路があり、日本軍が上陸後に拡張整備した飛行場もあるが、西部ニューギニアで日本海軍が新たに造... ...続きを見る
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2009/01/19 22:28
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(50) Bandara Dai Nippon(50) ジャヤプラ
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米軍資料によれば、昭和19(1944)年4月22日の連合軍ホランジア(現在のジャヤプラ)上陸敢行に先立つ3月、潜水艦を使って、二組の偵察隊が密かに送り込まれた。計12名からなるチームはアメリカ人、オーストラリア人、インドネシア人、そして地元のパプア人で構成されていたという。内、5名は帰還しなかった。1944年4月21日、早朝、突如、米海軍艦載機グラマンの第一陣がセンタニ湖上空に姿を現した。日本軍機で離陸できたものは6機。しかし、1機が無事帰還し... ...続きを見る
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2009/01/20 22:59
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(51) Bandara Dai Nippon(51)ケイ諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バンダ海に展開していた第16軍隷下の第48師団(海兵団:土橋勇逸中将)の任務を継承する形で、昭和18(1943)年2月、第19軍(冨永信政中将)隷下の第5師団(鯉兵団:山本務中将)は、バンダ海域のアルー諸島、ケイ諸島、タニンバル諸島を占領し、北部オーストラリアに対する作戦を準備するため、東部ジャワのスラバヤから東へ向かった。第5師団の杉浦支隊(歩兵第21旅団長杉浦英吉少将)は、これに先立ち、ジャワの第16軍(治集団)司令官原田熊吉中将から命令を... ...続きを見る
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2009/01/21 22:17
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(52) Bandara Dai Nippon(52)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島はかつてマルク州東南県(Kabupaten Maluk Tenggara)の一角を占めていたが、2004年初旬、アルー諸島県(Kabupaten Kepulauan Aru)として分離、新生県として独り歩きを始めた。ニューギニアの南西部、アラフラ海に浮かぶアルー諸島は古くから真珠養殖で知られていた。19世紀中頃から多くの日本人潜水夫がアルー諸島に渡った。アルー諸島県には合計187の島があるとされる。大きな島は、北からウォカム(Woka... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/01/22 23:45
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(53) Bandara Dai Nippon(53)アルー諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アルー諸島本島の最南端に位置するトゥランガン(Trangan)島南東海岸付近のシア(Sia)に2個概成し、未だドカ飛行場の設定が始まる前、昭和18(1943)年6月、第5師団を隷下に置く第19軍の作戦主任参謀である皆元勝雄中佐は、自ら偵察機を操縦して、タニンバル諸島、そしてアルー諸島を訪れた。目的は、現地を指揮する西原修三大佐(タニンバル諸島防衛隊長・第5師団歩兵第42連隊長)と原田憲義大佐(アルー諸島防衛隊長・第5師団歩兵第21連隊長)と直接... ...続きを見る
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2009/01/23 23:25
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(54) Bandara Dai Nippon:54タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年3月末〜4月中旬、海軍陸戦隊は西部ニューギニアで、ファクファク、バボ、ソロン、テルナテ、マノクワリ、ムミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホランジアなどを占領した。ちなみに当時、陸軍部隊は西部ニューギニアには展開していなかった。さらに同年7月30日、海軍の第24特別根拠地隊は、バンダ海・アラフラ海で、アルー諸島、タニンバル諸島、ケイ諸島の攻略作戦を実施した。これ以前の戦況はと言えば、6月5日〜7日、ハワイ西方のミッドウェー海戦で、... ...続きを見る
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2009/01/25 17:10
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(55) Bandara Dai Nippon:55タニンバル諸島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}タニンバル諸島セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。『セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最... ...続きを見る
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2009/01/26 00:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(56) Bandara Dai Nippon(56)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年1月11日、蘭印(オランダ領インドネシア)攻略作戦の緒戦として、まずボルネオ(現カリマンタン)東部の油田地帯であるタラカン(Tarakan)島と、セレベス(現スラウェシ)島北端のマナド(Manado:メナド)に対する上陸作戦が開始された。タラカン島には第16軍(今村均中将)隷下の坂口支隊(坂口靜夫少将指揮下の混第56歩兵団。歩兵第146連隊、装甲車隊、野砲兵第56連隊第1大隊などを基幹。兵力は5,200名、馬1,200頭、... ...続きを見る
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2009/01/27 23:39
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(57) Bandara Dai Nippon(57)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}豊かな地域は、それが天然資源であり、香辛料であろうと、その昔より列強大国の牙の餌食にされてきた。アンボンを核とする、バンダ海周辺海域も例外ではない。オランダの東インド会社(VOC)に代表されるように、この地域は3世紀以上にも及ぶ被植民地支配の歴史を刻む。7世紀、中国では唐の時代、すでにマルク(Maluku)地域の香料を求めて中国船が来航していた。そして9世紀にはアラブ商人もやってきた。インドネシア史によれば、12世紀にはスマトラ島南部のスリウィ... ...続きを見る
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2009/01/28 22:40
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(58) Bandara Dai Nippon(58)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボン(Ambon)島の東、そしてセラム(Seram)島の南に、三つの小さな島が連なる。西からハルク(Haruku)島、サパルア(Saparua)島、そしてヌサラウト(Nusa Laut)島。アンボン島の東隣のハルク島にも、陸軍は飛行場を新たに建設した。リアン(Liang)飛行場同様に、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)担任で、第28飛行場大隊が、昭和18(1943)年9月末、長さ1,400m、幅80mの滑走路を概成し、年末には掩体施設もお... ...続きを見る
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2009/01/29 23:14
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(59) Bandara Dai Nippon(59)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}セラム(Seram)島中西部の南岸にアマハイ(Amahai)は位置する。エルパプティ(Elpaputih)湾の東南の岬付近に、陸軍は飛行場を造成・設定した。この飛行場は、アンボン島北端のリアン(Liang)飛行場を手がけた、第9航空地区司令部(赤澤正之烝大佐)隷下の第38飛行場大隊が担当。ハルク飛行場の着工とほぼ同時期に造成がなされた。昭和18(1943)年10月中旬には概成し(長さ1,200m、幅100m)、軽爆撃機が使用可能となった。その後... ...続きを見る
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2009/01/30 22:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、も... ...続きを見る
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2009/01/31 22:19
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(60) Bandara Dai Nippon(60)アンボン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンを占領した日本海軍は、セラム島北岸のブラ(Bula)にも飛行場を造った。ブラ(Bula)は、現在、マルク州東セラム県(Kabupaten Seram Bagian Timur)に属している。同県の人口は2005年で約82,000人。ブラは戦前から産油地だった。最初の油田発見は1896年。現在は2社が操業している。一つは、クウェートのKUPEC(Kuwait Foreign Petroleum Exploration Company)、も... ...続きを見る
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2009/01/31 22:19
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(61) Bandara Dai Nippon(61)ブル島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}アンボンの西およそ100kmに浮かぶブル(Buru)島。スハルト時代のインドネシアでは“恐怖の島”だった。ここは1965年の「9月30日事件」に連座したとしてB級政治犯(TAPOL)となった1万人を超える人々が送り込まれた“監獄島”だった。B級政治犯とされた作家プラムディア・アナンタ・トゥル(Pramoedya Ananta Toer)も10数年間、ブル島で拘留生活を過した。ブル島のナムレア(Namlea)には開戦前に、すでにオランダ軍が建設し... ...続きを見る
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2009/02/01 21:56
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(62) Bandara Dai Nippon(62)ティモール島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}米領フィリピンや英領マレー・シンガポールを制圧し、蘭印(オランダ領インドネシア)を攻略する、いわゆる南方進攻作戦は、その最大の目的が石油資源の確保だった(注:開戦約4ヵ月前の昭和16(1941)年7月末、米英蘭は対日全面禁輸を実施)。蘭印の石油資源、殊に当時東南アジア最大の規模を誇ったスマトラ島のパレンバン(Palembang)油田の制圧が主眼だった(当時のパレンバン油田の年間産出量はおよそ300万トン。一方、日本の年間所要量は約500万トン)... ...続きを見る
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2009/02/02 22:42
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(63) Bandara Dai Nippon(63)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}大東亜戦争の開戦時、大本営は豪北(オーストラリアの北方)方面では、ティモール島については、西半分の蘭領ティモールのみの占領を計画した。というのも、蘭領ティモール内にある飛び地(オクエシ)と東半分は、“中立国”であるポルトガル領だったからだ。一方、ティモール(Timor・チモール)島は、いわゆるABCD包囲網にあって、ジャワ島攻略作戦を実施する上で、蘭印と豪州とを分断・遮断するために、日本軍にとって制圧しておきたい要地だった。 当時、大本営は、... ...続きを見る
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2009/02/03 19:48
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(64) Bandara Dai Nippon(64)クーパン
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、西のクーパン(Kupang)、そして東のディリ(Dili)へ日本軍が同日上陸。これ以前、日本軍は、2月14日、スマトラ島南部のパレンバン(Palembang)へ陸軍空挺部隊(挺進第2連隊・甲村武雄少佐)を降下させ、精油所などを制圧した。翌日、第16軍(今村均中将)隷下の第38師団(沼兵団・佐野忠義中将)は、ムシ川、テラ川、などを遡上してパレンバンに上陸。2月19日、金村支隊(第48師団の台湾歩兵第1連隊第3大隊... ...続きを見る
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2009/02/04 17:45
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(65) Bandara Dai Nippon(65)ロテ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}日本軍によるティモール島占領以前、蘭領ティモール(ティモール島西部)には、すでにオランダが造ったクーパン(プトン)飛行場、そして中部地域にアタンブア(Atambua)飛行場があった。占領後、プトン飛行場(現エルタリ空港)は海軍が修復した後(2本の滑走路があった)、昭和17(1942)年3月中旬から、まず海軍第23航空戦隊(竹中龍造少将)がオーストラリアのダーウィンを始めとする北部エリアに対する空爆基地として使用した。そのすぐ南には、第4飛行場設... ...続きを見る
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2009/02/05 21:34
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(66) Bandara Dai Nippon(66)東ティモール
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年2月20日、日本軍・東方支隊(陸軍第38師団第38歩兵団長・伊東武夫少将)とパラシュート部隊を含む海軍部隊が、ティモール島西部の、蘭領ティモールのクーパン(Kupang)へ上陸。同日未明、東方支隊隷下の第38師団歩兵第228連隊(土井定七大佐)の連隊長指揮下の第2大隊基幹(木村榮次郎少佐)が、同島東半分のポルトガル領ティモール(現東ティモール民主共和国)進攻作戦を開始した。第二次世界大戦で“中立”を表明したポルトガルの主権... ...続きを見る
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2009/02/06 20:38
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(68) Bandara Dai Nippon(68)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}ティモール島で飛行場の新設や拡張を終えた第4野戦飛行場設定隊(注:クーパンのプトン飛行場の南に陸軍用の飛行場を設定後、同島の東半分に位置するポルトガル領ティモールで各地の飛行場造成に協力)は、昭和18(1943)年4月20日、ポルトガル領ティモールのディリからフローレス(Flores)島へ移った。そして同年5月16日、バビ(Babi)島の対岸の本島に陸軍主用の飛行場を完成させ、そして翌6月19日、マウメレ(Maumere)にも飛行場を概成させた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/08 20:01
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(69) Bandara Dai Nippon(69)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和18(1943)年9月30日、大本営は航空作戦に関して「中・南部太平洋方面陸海軍中央協定」を指示した。この中で、濠北(オーストラリア北方域)方面における航空基地整備に関する分担リストも発表した。それによれば、小スンダ列島では、スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)に1ヵ所(海軍担当で概成)、さらにスンバ島に海軍担当で第1〜第4の計4ヵ所の新設。さらに陸軍担当でスンバ第5〜第6を新設。そしてスンバワ(Sumbawa)島では、ビ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/09 18:25
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satarta... ...続きを見る
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2009/02/10 22:54
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(70) Bandara Dai Nippon(70)フローレス島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}フローレス(Flores)島には現在計6ヵ所に飛行場がある。西からコモド・ラブハンバジョ(Komodo Labuhanbajo)空港。フローレス島の西隣に位置する、世界自然遺産のコモドドラゴンが生息するコモド(Komodo)島へ渡るために最も近い空港だ。滑走路の長さは1,650m、幅は30mで、ジェット機のF-28型機が離着陸可能。次いで、マンガライ(Manggarai)県の県都であるルーテン(Ruteng)にあるサタルタチック(Satarta... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/10 22:55
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(71) Bandara Dai Nippon(71)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}昭和17(1942)年10月時点で、スンバ(Sumba)島には海軍警備隊の兵が約300名駐屯していた。しかし大本営が同年10月15日、「大陸命第702号」を通じて、小スンダ列島全域とアラフラ海前線諸島(アルー=Aru、ケイ=Kei、タニンバル=Tanimbar諸島)を陸軍の警備地域と決めると、陸上の防衛は主として陸軍が、海域・航空防衛は主として海軍が担当することになった。さらに同年12月、大本営が、ティモール(Timor)島を含めスンダ海一帯を... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/11 20:08
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(72) Bandara Dai Nippon(72)スンバ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}スンバ(Sumba)島のワインガプ(Waingapu)を含め、同島の東部地域における飛行場の建設は海軍によって行われたが、西部地域ではその任を陸軍が背負った。インド洋とティモール海を挟んで、連合軍の反撃拠点となったオーストラリアと対峙する小スンダ列島でも、日本軍による飛行場の設定が急がれた。ティモール島と同様に、スンバ島、フローレス島、スンバワ島、バリ島などで幾つもの滑走路が新設された。 昭和18(1943)年9月、大本営陸軍部の命令で、内地... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/12 20:45
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(73) Bandara Dai Nippon(73)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}バリ(Bali)島の東のロンボク(Lombok)島のさらに東。そこにスンバワ(Sumbawa)島がある。日本軍(海軍)はここに2個の飛行場を建設した。スンバワ島は、他の小スンダ列島(ティモール島を除く)同様に、当初は海軍の作戦・管轄エリアだった。昭和17(1942)年5月、海軍第16戦隊指揮下の部隊と共に、ジャワ島を占領していた第16軍(今村均中将)隷下の第48師団(海兵団・土橋勇逸中将)の第47連隊第3大隊(宮地育三小佐)が、10日、ロンボク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/13 19:29
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(74) Bandara Dai Nippon(74)スンバワ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}小スンダ列島では、フローレス島の2個の新設飛行場(マウメレとバビ)を陸軍が担当。スンバ島では、海軍が東部のワインガプとメロロ付近に計3個、西部地区のワイコロには陸軍が1個(滑走路は計3本か?)新設飛行場を開いた。そしてスンバワ島では、海軍が2個(ビマとランバン=現スンバワ・ブサール)造成した。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/15 21:15
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(75) Bandara Dai Nippon(75)バリ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}年間およそ200万人の外国人観光客で賑わう“神々の島(Pulau Dewata)”バリ島。バリ州政府統計局の発表によれば、2008年同島を訪れた観光客は1,992,299人。そして見事(!?)第一位の誉に輝いたのは日本人。その数、359,827人。全体の18,06%を占める。この数値は、前年比で見ると、2.21%(7,789人)の増加だそうだ。ちなみに、第二位はオーストラリア人観光客で、その数313,313人(見事な並びの数値!)。これは、前年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/02/17 18:30
「ニューギニア未帰還兵展--私を祖国日本へ帰らせてください」開催のお知らせ
お母様、お父様、お変りございませんでしょうか。 お婆様、お爺様 お元気でしょうか。 兄上様、姉上様、そしてご家族の皆様、達者でお暮らしでしょうか。 叔母様、叔父様、そしてご家族の皆様、お変わりありませんでしょうか。 戦友の皆々様方、日本は立派なお国になりましたでしょうか。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/26 10:59
『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』2
{%メガホンhdeco%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私を祖国日本へ帰らせてください』を開催する。西部ニューギニア(パプア州)の戦史、そして玉砕... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/27 23:19
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』3 ビアク島日誌
{%ノートwebry%}一万数千名の犠牲者を出したビアク島の戦い。終戦後、マノクワリの日本軍と連合軍との合同捜索隊が同島に入った。しかし、生存兵わずか八名を収容できたのみだった。その生存者の一名が、連合軍の厳しい監視をかいくぐり日本に持ち帰り、遺族に手渡した一冊のノート。それが、第36師団歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊附の陸軍主計中尉浅野寛氏(陸軍経理学校第二期乙種学生)が書き記した日記帳だった。 日記の開始は「五月三十日」(注:1944年5月30日のこと。この三日前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/07/30 11:30
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』4 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/01 20:25
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』5 ビアク島戦史
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦 史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。西部ニューギニア(パプア州)最大の凄惨な激戦地ビ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/02 22:25
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』6 ビアク島からの遺留品
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。水筒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 03:33
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』7 ビアク島からの遺留品2
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 11:56
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』8 ビアク島からの遺留品3
{%爆弾webry%}まもなく戦後65年目に入る。しかし、いまだに祖国日本へ帰還することができない、西部ニューギニアに瞑る少なくとも3万名の旧日本兵。戦後、同胞に遺骸を拾われることなく、珊瑚礁台地の洞窟、深いジャングル、そして湿地帯などに放置されている。2009年8月8日〜9月30日、インドネシア文化宮(GBI)は、岩手県奥州市の「太平洋戦史館」と共催で、『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を 開催する。 玉砕の島・ビアク島で見つかる数々の遺留品。飯盒... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/04 13:42
今日からスタート『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』
{%爆弾webry%}今日、2009年8月8日(土)から『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まります。間もなく戦後65年目に入ります。しかし、激戦地だった西部ニューギニア(現在のインドネシア・パプア州、中パプア州、西パプア州)には、今でも少なくとも3万名を超える旧日本兵の遺骸が、放置されたままで、まさに“野垂れ死に”の観を呈しています。“祖国”のためと、赤道を越えた日本軍、そして日本軍と共に南下した朝鮮半島や台湾出身者、さらに日本軍に協力したインドネ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/07 19:15
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 が始まる
{%爆弾webry%}広島と長崎の64回目の“原爆の日”を挟む8月8日(土)、インドネシア文化宮(GBI)で『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』が始まった。世はお盆の帰省ラッシュのスタート。展示会初日、会場には共催者である「太平洋戦史館(岩手県奥州市)」の関東在住の会員の皆さんが駆けつけてくれた。その一人、相模原市在住の座間淳子さんは、去る7月、西部ニューギニアのかつての激戦地であるサルミやビアク島などの慰霊巡拝の旅に参加した。サルミ東方の“玉砕の島”ワクデ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 15:32
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』11ビアク島戦史
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』は、主に、“玉砕の島”ビアク(Biak)島の未帰還兵に焦点を当てている。1万を超す兵が戦死したが、いまだに約6,000人の遺骸が収集されていない。まだ“遺骨”にさえなっていない。以下このビアク島の戦史をインドネシア語の動画で辿る。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/09 23:56
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 12 ビアク島へ
{%爆弾webry%}『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』のスタート二日目の8月10日。展示主要対象地であるビアク(Biak)島に向けて五日後に出発するという、京都産業大学の安田和彦教授ご夫妻がやってきた。これまでインドネシア各地を旅行しているが、西部ニューギニアは初訪問。しかも訪問地は“玉砕の島”ビアク。 戦時中、大本営は当初、第2方面軍(阿南惟幾大将)隷下の第2軍(豊嶋房太郎中将)、その隷下の第36師団(雪兵団:田上八郎中将)を当初、西部ニューギニアの... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/10 20:01
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』13
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、身内を西部ニューギニアで亡くした方々がたくさん駆けつけている。もしや、展示されている遺留品の中に、身内の物が含まれていないか?どこで、どのように戦死・戦病死したのか、何か手掛かりを得られるのでは?そんな思いで関東一円から、インドネシア文化宮(GBI)を目指して集まっている。 その中のお一人、町田市の川口美代子さんは幼い頃、実父の小坂岩吉兵長をニュギニア本島北岸を亡くした。戦後、昭和21年... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/12 19:29
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』14
{%やしの木webry%}終戦から満64年。2009年8月15日(土)正午。東京・九段の日本武道館で、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われた。“戦後”は65年目に入った。終戦の年に19歳で徴兵検査を受けた人も、今では83歳。あの日はますます遠ざかっている。 以下は同追悼式典における天皇陛下と首相の言葉。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/15 17:17
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 14 小野寺中尉の水筒
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で涙を見ない日はない。開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』を目指して、親族を西部ニューギニアで亡くされた方々が多く訪れている。64回目の終戦記念日が数日前に過ぎたとはいえ、それはカレンダー上での出来事。心の奥底には“戦後”が未だ訪れていないと思わせる抜けないトゲが残っている。あれから64年も経ったというのに。 「義父はビアク島で亡くなったとされています。義母が生きていた時には、テレビで旧日本兵の話... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 00:50
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』 16 飯盒・鈴木信太
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「鈴木信太」とフルネームが刻まれた飯盒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。「鈴木」の二文字は、大きく二重線で刻まれ、「信太」は、少し小さめで一本の線。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは決して多くはなく、たい... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/20 18:37
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』17飯盒の内蓋 渡辺貞雄
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「渡辺貞雄」とフルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/22 16:59
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』18 水筒 長野一彦
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「長野一彦」とフルネームが刻まれた水筒がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千と言... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 11:34
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』19 飯盒の内蓋 中島愼希一?
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がホランジア(現ジャヤプラ)西方のゲニェム(ゲニム=Genyem)地区で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「中島慎市」あるいは「中島愼市」、もしくは「中島慎希一」か「中島愼希一」とも読める、フルネームが刻まれた飯盒の内蓋がある。姓と名がほぼ判読可能にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 12:17
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』20 飯盒の内蓋 久保金治
{%爆弾webry%}「太平洋戦史館」がビアク島で収集し、現在インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展--私たちは帰りたい。祖国日本へ』で展示されている数々の旧日本軍将兵の水筒、飯盒などの遺留品。その中に、「久保金治」とフルネームが刻まれた飯盒の蓋がある。姓と名までもが明確にも関わらず、未だ遺族に関する情報が得られていない。当時、フルネームを飯盒や水筒に書くことは稀で、たいていは苗字のみだった。 “玉砕の”ビアク(Biak)島で戦死した将兵の数は1万数千... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/23 13:16
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21 金属カップ 杉本
{%爆弾webry%}およそお洒落な形のカップに似合わない、銃弾貫通の跡。「太平洋戦史館」(岩手県奥州市)が、玉砕のビアク(Biak)島で見つけた金属製のカップ。誰が、何を飲むために使っていたのだろうか。いや、すくなくとも「誰」かは知れている。底に『杉沢』と刻まれている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/24 22:46
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)Goa Jepang, Pulau Biak, Papua
京都産業大学の安田和彦教授が今夏、パプア州のビアク島を訪れた。インドネシア共和国が第64回独立記念日を迎えた2009年8月17日早朝、首都ジャカルタからおよそ6時間の夜間飛行の末、安田さん夫妻は“玉砕の島”ビアク(Biak)島に到着。戦時中、この島では第2軍直轄の、歩兵第222連隊(葛目直幸大佐:雪3523部隊=青森編成)を主力とするビアク支隊が海軍部隊と共に、連合軍と対峙。激戦は、1万数千の将兵・軍属の命を奪った。歩兵第222連隊の原隊である第36師団(通称雪兵団)は、青森県弘前... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 00:39
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)2 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}「(注:昭和19年)六月二十一日頃になると、西洞窟は殆ど完全に包囲され、敵は至近から戦車砲、火焔放射器及点火ドラム缶等で洞窟内を攻撃する様になった。洞窟入口附近の戦闘は酸鼻を極め、支隊長(注:第36師団歩兵第222連隊長の葛目直幸大佐)は玉砕を覚悟したが、西原大隊の増援、千田少将の意見具申、鹿野副官、渡辺大尉(第一大隊長代理)の諌止等に依り決意を翻し、二十二日夜暗を利用して西洞窟を脱出することになった。脱出に先立ち独歩不能の重症患者約百数十名は、全員必勝を確信... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/30 14:59
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)3 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}戦後は終わっていない(安田和彦) ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/08/31 02:39
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)4 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}あの戦争が残したもの(安田和彦) あの戦争とは何を指すのか。それは生まれ育った時代、そして国籍によって異なるのだろうが、“戦後”20年も経ってから青森県で生まれた私にとって、あの戦争とは太平洋戦争もしくは大東亜戦争のことだ。今夏、“玉砕の島”と呼ばれるビアク島を訪れ、戦争が残したものを数々目にした。ビアク島には“戦後”そして“戦中”が共存していた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/01 12:12
“玉砕の”ビアク島訪問記(By 安田和彦)5 Goa Jepang Pulau Biak Papua
{%爆弾webry%}海のビアク(安田和彦)) 赤道直下の南太平洋、チェンドラワシ(極楽鳥)湾に浮かぶビアク島。そこで、豊かで美しい海の姿に出会った。ビアク・ヌンホル県の県都ビアク市内の魚市場。天気が良くて出漁のあった日には、必ずオープン。私達が訪れた8月中旬、市場には色々な魚が並んでいた。カツオ、マグロ、サヨリ、そしてタイ、ハタ、アジ、エビ。活きたウミガメまでも。近くでは、ぶつ切りにした魚を炭火で焼いている屋台があり、結構繁盛している。バイクでやってきた市民が、一匹、二匹と買っ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/02 01:46
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「読売新聞」が報道
{%爆弾webry%}「読売新聞」がインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に関して、「日本は迎えに来ていない 激戦ビアク島 帰れぬ遺骨」と題する記事を都民版に掲載した2009年9月3日の朝、東京・銀座のホテルで、元インドネシア共和国教育文化大臣(1993-1998)のワルディマン・ジョヨネゴロ(Wardiman Djojonegoro)氏と朝食を共にした。ワルディマンさんは昨年、日本政府の秋の叙勲で、日本・インドネシア国間... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/03 17:48
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』21故田中應海大尉
{%爆弾webry%}ホランジア(現ジャヤプラ)の陥落(1944年4月22日連合軍上陸)に続くサルミへの“地獄の転進”作戦。やがて連合軍は、第2方面軍司令官っだた阿南惟幾大将をして「ここを失うは空母10隻を失うに等しい」とまで言わしめたビアク島へ上陸(1944年5月27日)。第6飛行師団を核とするサルミ転進部隊は、直線距離でおよそ230kmの敗走行軍で、主に飢餓と病魔によって5,000名を超える将兵が屍となった。ジャヤプラ・サルミ間は、まさに“白骨街道”と化した。さらに、サルミ地区... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 13:33
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』22 岩渕宣輝が東京へ
{%爆弾webry%}「あのォー、ビアク島の遺留品の中にYの苗字の物はないでしょうか?」----フィリピンのルソン島で実兄を亡くした、現在84歳の女性から電話があった。航空部隊に所属していたという兄の戦死の通知は、一枚の白い紙切れだった。「ルソン島ってビアク島の近くでしょうか?もしや、兄がそのビアク島にもいたかもと思って....」。「Yの遺品があれば、両親のお墓に入れてあげたいと思っていますが...」 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/04 21:51
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』23 故瀧澤吉治准尉
瀧澤吉治。大正7(1918)年8月13日、瀧澤吉助の長男として岩手県盛岡生まれ。 瀧澤吉治。昭和19年(1944)年5月30日、西部ニューギニアのトムで戦死。 瀧澤吉治。20歳と4ヶ月で入隊。25歳と9ヶ月で戦死。 瀧澤吉治。平成21(2009)年9月初旬現在、未帰還兵。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/05 22:21
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』24 岩渕宣輝が語る
{%メガホンhdeco%}2009年9月6日(日)、太平洋戦史館の岩渕宣輝会長理事が、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』会場を訪れ、西部ニューギニアに放置されたままの旧日本兵の遺骸の現状についてミニ講義を行った。戦後65年目に入ったが、西部ニューギニアには、いまだに“戦後”が来ない3万を超える将兵が瞑っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/06 20:15
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』25 故岩渕金次郎准尉
{%爆弾webry%}「ひいじいちゃんと太平洋戦争」----2009年9月6日(日)、インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』に、表題のファイルを持った少年がやってきた。東京・中野区立南中学校1年生の上野健太君(12歳)。野球部員だそうで、毬栗頭がなんとも頼もしい。祖母の曽屋真紀子さん66歳)そして母の上野睦子さん(41歳)も一緒だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/08 01:30
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(2)
{%爆弾webry%}昭和19(1944)年4月22日、連合軍はホランジア(現ジャヤプラ)へ上陸するが、その前月末、ホランジアには第4航空軍(寺本熊市中将)司令部と、その隷下にある第6飛行師団(板花義一中将)が東部ニューギニアのウェワク(Wewak)から後退してきていた。そして、瀧澤吉治曹長が戦闘機整備要員として所属する、第4航空軍隷下の第6飛行師団傘下の第14飛行団(徳永賢治大佐)隷下の飛行第68戦隊も、同年3月中旬、空中勤務者(パイロット)の主力と整備員の一部計約50名が(おそ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/11 14:57
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』26 故瀧澤吉治准尉(3)
{%爆弾webry%}『薄れゆく悲劇 西部ニューギニア戦線(池見坦著)』によれば、ゴアイに駐屯していた池見氏を含む工作機関(鰐機関:内山守衛中尉指揮下)は4月27日に、ゲニム西方の村(村名不明)で、ゲニムから転進してくる「哀れな日本兵」の姿に接している。乞食同然の姿。銃を持つ者は皆無。手には杖、腰には飯盒と鞘なしの帯剣。この記憶に間違いがなければ、これら日本兵は、4月26日ゲニムを発った第1梯団とも想像される。あるいは、デムタかデパプレ方面から、もっと早くサルミに向けて出発した一団... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/12 18:30
『ニューギニア未帰還兵展』を10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした」-... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/13 15:51
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』27 故瀧澤吉治准尉(4)
{%爆弾webry%}瀧澤吉治曹長はいったいどこで戦死したのか?そしてその日はいつか? 岩手県保健福祉部地域福祉課が原本を基に証明するところによれば、瀧澤(飛行第68戦隊=襲第9151部隊)は昭和19年5月30日、西部ニューギニアのトム付近で戦死となっている。原本を作成した調製官は飛行第68戦隊長代理の陸軍少佐田崎次夫(但し、田崎少佐は西部ニューギニアには転進せずに、当時東部ニューギニアのウエワク南方山中にいたことから推測して、直接情報を基に記したものとは思えない)。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/15 20:00
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』28 故田中梅男伍長
{%爆弾webry%}今日、民主党政権が旗揚げした。期待と不安---とマスコミは描く。どんな未来像が生まれるのかは別にして、日本政治史が新たなページを記し始めたことは確かだ。その歴史の執筆者は、鳩山由紀夫総理。一方、自由民主党は、雌伏の時代を刻み始めた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 01:45
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(1) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}歴史に残る太平洋戦争の激戦地、ビアク(Biak)島。西部ニューギニアの北岸沖合いに浮び、面積は約1,800km2。足の形によく似たこの島は珊瑚礁の隆起でできたため、無数の鍾乳洞があり、それらはそのまま日本軍の応戦陣地として利用された。ビアク島の戦没者はおよそ13,000名。当時、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将が「ビアクを敵に委すれば空母10隻を敵に与えるに等しい」とまで表現した、絶対国防圏外郭の、航空大決戦を前提とした戦略上の最重要拠点だった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/17 22:34
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(2) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊は、『海軍設営隊の太平洋戦争(光人社刊:1996年4月)』の著者で元海軍第203設営隊の技術大尉佐用泰司氏によれば“不運な設営隊”だった。「この不運な設営隊は、ニューギニア北岸のビアク島に進出することになっていた。しかし、便船の関係で、一時カウ(注:ハルマヘラ島)の対岸ロロバタに揚陸し、つぎの便船を待って、ビアク島に進出することとなった。その待機期間、彼らはカウ、ロロバタ地区の設営に協力していた」。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 00:44
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(3) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(昭和18(1943)年11月15日、横須賀で編成。部隊長は永田亀雄海軍技術少佐。隊員数860名。所属艦隊は第四南遣艦隊・山縣正郷中将。派遣元は海軍横須賀施設部)のわずか60数名の生き残り将兵の一人である同隊書記の小林福市は、その著『永田部隊の最後(ビアク島)』の中で次のように記している。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/19 18:48
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(4) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}海軍第202設営隊(永田亀雄海軍技術少佐)は、第4南遣艦隊(山縣正郷中将・司令部はアンボン)から派遣された白石義雄、桑原三郎両海軍技術大尉の現地調査を基に、当初ビアク島のボスネック海岸裏手の高台に3ヶ所の飛行場建設を命じられていた。ボスネックは、まさに昭和19(1944)年5月27日、連合軍が上陸した海岸そのものだった。しかし、同設営隊の本隊主力がビアク島に到着したのは4月中旬以降〜5月初旬。一方、連合軍は4月22日、ビアクの東南東約530kmのホランジア(現... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/20 15:55
『ニューギニア未帰還兵展』10月30日まで延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}去る8月8日から9月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』。想定外の、実に多くの方々が展示会場に駆けつけています。その多くは、戦後64年間、ずっと肉親の“最期”に関する情報を探し続けてきました。しかし、戦死の正確な場所はおろか、戦死日さえ疑惑に包まれた「戦死公報」は、遺族の気持ちを納得させるものではありませんでした。いわんや、遺骨はおろか遺品さえも戻ってはきませんでした。「国から手渡されたものは、氏名を書いた一枚の紙が入っている白い木箱だけでした... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/23 12:03
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(5) 故小池省吾軍属
{%爆弾webry%}1944年5月27日の連合軍ビアク島上陸後、海軍第202設営隊の軍属工員約720名並びに指揮部隊など総計860名(但し内60数名は捕虜となり戦後帰還)はどのような運命をたどったのか?これを知る唯一の手がかりが、元同設営隊の海軍書記であった帰還兵・小林福市(故人)の手記にある。『濠北を征く』(濠北方面遺骨引揚促進会・昭和31年8月20日発行)の同氏による記録『海軍ニ〇ニ設営隊の奮闘』によれば次のような経緯を辿っている。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/25 13:49
『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を「東京新聞」が報道
{%爆弾webry%}開催期間を一ヵ月延長し、10月30日までの予定で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。未だ“戦後”を実感することのできない多くの人々が、インドネシア文化宮(GBI)に足を運ぶ。『東京新聞』が今朝(2009年9月28日)、「ニューギニア戦線 遺品展に反響」、「最期知りたい思い切実」の見出しで、同展について特報面で大きく取り上げた。『読売新聞』、『朝日新聞』に次ぐ報道に、来宮者は引きもきらない。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/28 18:48
『ニューギニア未帰還兵展』 朝鮮人戦死者名簿
{%爆弾webry%}開催中の『ニューギニア未帰還兵展』に菊池英昭さん(67歳)が「朝鮮人戦死者名簿」を持ってやってきた。立川市在住の菊池さんは、10年の歳月を費やし、旧日本軍の軍人・軍属として日中戦争・太平洋戦争で戦死した約2万1千名の名簿を作り上げた。出版計画は、今のところ“頓挫”しているそうだが、遠くない将来日の目を見るとのことだ。 先の大戦に、多くの朝鮮半島出身者、そして台湾人、さらにインドネシア人、インド人などが日本軍の軍人・軍属・兵補などの立場で従軍している。そして、... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/09/30 01:04
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(6) 武内満多男 
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で10月30日までの日程で開催中の『ニューギニア未帰還兵展』を訪れた、元海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐)の隊員だった東京・練馬区在住の武内満多男さん(83歳)から同隊に関する貴重な資料提供を受けた。同氏とのインタビュー内容は後日紹介するとして、資料によってこれまで不明だった数々の謎解きが可能となった。海軍第202設営隊は、およそ230を数える海軍設営隊の中でも、最初の“玉砕部隊”として不幸な名誉を残している。しかし、その要員数... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/04 19:10
『ニューギニア未帰還兵展』 海軍第202設営隊(7) 戦死公報の謎
{%爆弾webry%}『海軍設営隊の太平洋戦争 航空基地築城の展開と活躍』(光人社・1996年4月26日発行)の著者で、元海軍第203設営隊(岩下久哉技術少佐・ハルマヘラ島で基地設営)の西部ニューギニア・ソロン派遣隊長だった佐用泰司元海軍技術大尉によれば、「海軍第202設営隊(永田亀雄技術少佐・昭和18年11月15日海軍横須賀施設部編成)」は、“玉砕設営隊”の第一号だった。一部およそ130名がハルマヘラ島に取り残されたが、約1,000名の隊員が昭和19(1944)年6〜7月、ビアク... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/05 20:29
海軍第202設営隊(1) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 11:15
海軍第202設営隊(2) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/08 19:54
海軍第202設営隊(3) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/09 15:02
海軍第202設営隊(4)武内満多男の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/11 12:22
海軍第202設営隊(5) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/20 22:49
海軍第202設営隊(6) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/21 16:45
海軍第202設営隊(7) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 09:50
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再延長。Pameran Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/10/24 17:53
海軍第202設営隊(8) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 01:48
海軍第202設営隊(小林光雄氏の絵日記証言)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 02:50
第35師団野戦病院(東第2931部隊第3分隊)故永井寿三郎氏提供写真 ヌンホル島
{%爆弾webry%}再々延長して2009年12月19日までインドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。再延長の最終日、2009年10月30日、『亡き父のアルバムの中に、大戦中にニューギニアで戦死した戦友たちが写っている写真がありました。もしや、ご遺族の方々の中に、身内の消息を探している方がいるのではないかと思って持参しました』---そう言って、横浜市か... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/01 16:50
海軍第202設営隊(9) 武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/02 11:02
海軍第202設営隊(10)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/03 14:01
『ニューギニア未帰還兵展』12月19日まで再々延長。Pameran s/d 19 Des 09
{%爆弾webry%}開催期間を一ヶ月間延長して、去る8月8日から10月30日までの予定で実施中の『ニューギニア未帰還兵展』。戦後65年も経過したのにも関わらず、未だ祖国へ還れない、ニューギニアに瞑る幾多の旧日本軍将兵の霊。そして、「いつ、どこで、どのように亡くなったのか?」を究明したいと願う遺族。夫を、父を、兄を、弟を、そして伯父(叔父)の最期の地を必死で探し求めている妻、子、兄弟姉妹、そして姪と甥。 赤紙一枚で出征し、白紙一枚の戦死公報。ニューギニアで亡くなった方々のお墓に安... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/04 09:51
海軍第202設営隊(11)武内満多男の証言(動画)Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)で開催中の『ニューギニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』。西部ニューギニアに戦後65年間、瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊(永田亀雄少佐)」の将兵・軍属およそ1,000名がいる。彼らはビアク(Biak)島で亡くなった。連合軍のビアク上陸(1944年5月27日)によって、上陸を果たせなかった第202設営隊の約130名は、遠く西方のハルマヘラ島で終戦ま... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/05 12:11
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(1)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/08 21:03
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(2)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/10 13:29
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(3)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/12 10:11
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(4)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/13 08:50
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(5)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/14 16:29
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(6)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/15 00:32
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(7)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/18 09:39
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(8)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/19 10:30
海軍第202設営隊絵日記(1)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 11:38
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(9)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/20 23:59
海軍第202設営隊絵日記(2)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/22 09:56
陸軍海上機動第2旅団(巡旅団)西部ニューギニア戦 石井春義の証言(10)
{%爆弾webry%}いわば日本軍の海兵隊。海上機動旅団。上陸作戦の専門部隊としての性格を有していた。海上機動第2旅団(通称号:巡旅団=めぐりりょだん・玉田美郎少将・約5,500名)は、昭和19年5月、北支から南方へ送られた。当初は連合軍が上陸したビアク(Biak)島への逆上陸部隊として三度にわたって派遣される予定だった(渾作戦)が、実現しなかった。そして西部ニューギニア西端のソロン(Sorong)に上陸、主にサラワティ島やワイゲオ島の警備に当たったが、多くの兵が飢餓・病魔に倒れた... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 10:59
海軍第202設営隊絵日記(3)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/23 21:15
海軍第202設営隊絵日記(4)小林光雄の戦 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/26 10:59
海軍第202設営隊絵日記(5)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/27 22:10
海軍第202設営隊絵日記(6)小林光雄の証言 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/11/29 13:21
海軍第202設営隊絵日記(7)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/01 09:52
海軍第202設営隊絵日記(8)小林光雄の戦記 Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/02 09:53
海軍第202設営隊(1)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/05 11:07
海軍第202設営隊(2)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/06 11:23
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(1) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 10:47
ビアク島マンドン・イブディの旧日本軍洞窟(2) Gua Dai Nippon Biak
{%爆弾webry%}今から13年前。1997年5月、“玉砕の島”ビアク島を訪ねた時の写真が資料棚から出てきた。フィルムで撮影したもので、多少変色している。画像は、その3年前の1994年10月、地主のパウルス・カフィアール(Paulus.A.Kafiar)さんによって発見されたとされるマンドン(Mandon)・イブディ(Ibdi)の断崖にある、内部が5室構造の鍾乳洞を写し出している。 ビアク島といえば、1万数千名の日本軍将兵や台湾人、朝鮮半島出身の軍属、そしてインドネシア人兵補や... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/07 11:00
海軍第202設営隊(3)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/09 12:22
海軍第202設営隊(4)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/10 21:48
海軍第202設営隊(5)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/12 14:41
☆12月17日:西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式のお知らせ☆
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席できますので、是非ご参加下さい。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/13 14:32
海軍第202設営隊(6)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/14 10:34
12月17日、西部ニューギニア遺骨収集団遺骨引渡式:291柱が無言の祖国帰還
{%メガホンhdeco%}来る12月17日(木)、今年二回目の、厚生労働省派遣による西部ニューギニア地区遺骨収集団が帰国し、東京・千代田区三番町にあります「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にて遺骨引渡式が行われます。今回はビアク島、ホーランジア(現ジャヤプラ)、ヌンホル島からの祖国帰還となります。過去最多の291柱が還ってくる予定です。 長年同地の遺骨調査に従事し、今回の収集団にも参加した岩手県奥州市のNPO『太平洋戦史館』のメンバーから遺骨が国に引き渡されます。事前予約無しで自由に出席でき... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/15 12:29
東西ニューギニアから計702名の遺骨が祖国帰還
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インドネシア文化宮
2009/12/17 21:55
海軍第202設営隊(7)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/18 14:13
海軍第202設営隊(8)小林光雄の証言(動画) Pasukan 202 AL Dai Nippon
{%爆弾webry%}インドネシア文化宮(GBI)では2009年8〜12月、『ニューギ ニア未帰還兵展---私たちは帰りたい。祖国日本へ』を実施。西部ニューギニアに戦後 65年間瞑り続ける、およそ3万の未帰還兵の遺骸。この中には、海軍最初の玉砕設営隊と称せられる「海軍第202設営隊 (永田亀雄少佐)」がいる。 およそ1,000名の将兵・軍属がビアク(Biak)島で亡くなった。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/19 09:53
2010年にも始まるワクデ島の遺骨収集 Pulau Wakde & Prajurit Jepang
{%爆弾webry%}3月に次いで今年二回目となった、厚生労働省による西部ニューギニア域戦没者遺骨収集団が去る12月17日帰国した。3月の108柱のおよそ2.7倍に当たる291柱が無言の祖国帰還を果たした。彼らは、現在のパプア州の州都ジャヤプラ(Jayapura・旧ホランジア)近郊のプアイ村で見つかった77柱、そして玉砕の島として戦史に残るビアク(Biak)島で確認された214柱の旧日本軍将兵・軍属の遺骨・遺灰だ。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/20 18:27
三橋國民 『64年目の夏 鎮魂のニューギニア』 Kunitami Mitsuhashi
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/24 19:32
三橋國民 鎮魂のニューギニア(1) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に陣地を構えた。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/26 12:56
三橋國民 鎮魂のニューギニア(2) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/28 08:56
三橋國民 鎮魂のニューギニア(3) Kunitami Mitsuhashi & Papua
{%爆弾webry%}日展参与で造形美術家の三橋國民氏は、2009年8月11日〜16日、銀座鳩居堂画廊で、次いで9月1日〜6日、八王子のいちょうホールで『64年目の夏 鎮魂のニューギニア 三橋國民 2009』展示会を開いた。 2010年に90歳になる三橋氏は、戦時中、野戦高射砲第74大隊第2中隊の隊員として西部ニューギニアのサラワティ(Sarawati)島のサマテ(Samate)に暮らした。戦友はことごとく戦死。40名中2名の生還だった。ニューギニアでの戦争体験を原点に、戦後、造... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/29 12:12
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(109) Bandara DaiNippon(109)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/30 11:04
東部インドネシアの旧日本軍航空基地(110) Bandara DaiNippon(110)ボルネオ島
{%空港(ユラユラ)hdeco%}2008年12月2日に連載を開始した『東部インドネシアの旧日本軍航空基地(Bandara Dai Nippon)』シリーズは、 西部ニューギニアのバボ(Babo)を第1号に、2009年5月19日のボルネオ島の第108号まで回を重ね、以降、ロテ島の伝統楽器ササンドゥ特集や『ニューギニア未帰還兵展』などのシリーズのため中断していた。太平洋戦争の開戦から68周年。ますます遠のく“先の大戦”の記憶。たとえ幾万の旧日本軍将兵・軍属の遺骨が、特に西部ニューギニ... ...続きを見る
インドネシア文化宮
2009/12/31 01:09
スンバ島の“サクラ”満開 Bunga Sakura Pulau Sumba
{%サクラ(チカチカ)hdeco%}5年前のことだが、インドネシア最東端のパプア州の州都で、市民が“パプアのSakura(桜)”と呼ぶ樹木があることを紹介した。正しくは桜の木ではないのだが、その花弁と樹木全体にたわわに咲いている姿が、日本の桜を彷彿させることから「我が郷土にもサクラがある」と誇っていた。 ...続きを見る
インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
2012/11/26 01:32

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パプアの桜(No.1) Pohon Sakura Papua(No.1) インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)/BIGLOBEウェブリブログ
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