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help リーダーに追加 RSS アチェのサクラさんが来日・上映会&懇親会(Sakura Aceh ke Negeri Sakura)

<<   作成日時 : 2008/04/12 12:00   >>

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サクラさん(左)とディーヴァちゃん


 春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず

 氷解け去り 葦は角ぐむ
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空
  今日もきのうも 雪の空

 春と聞かねば 知らでありしを
  聞けば急かるる 胸の思を
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か


(早春賦:作詞→吉丸一昌、作曲→中田章。1913年発表)



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インドネシア文化宮(GBI)で行われた『アチェ伝統刺繍文化展』(2007.4.14〜6.16)のオープニングで特別上映したドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌」は、同年5月10日に、ジャカルタの国際交流基金ジャカルタ日本文化センターで上映され、さらに同年9月1日〜2日、『アチェ州教育の日』の文化イベントとして、州都バンダアチェの州教育局ホールでも上映会が催されました。

そして、今月、同ドキュメンタリー映画の主人公であるサクラさん、そして孫のディーヴァちゃんが日本にやってきます。2008年4月29日に、長野県安曇野市で行われる早春賦祭りに参加するための来日です。
サクラさんらの来日を機に、インドネシア文化宮(GBI)では、同映画の制作会社である潟ニモトと共催で、GBI第78期インドネシア理解講座として、以下の日程で、再上映会並びにサクラさんご一家をお迎えして懇親会を開きます。皆様のご参加をお待ちしています。



日時】2008年4月26日(土)15:00〜18:00
内容】「二つの故国をつなぐ歌(日本語版)」上映&サクラさんの講演(母の国インドネシア・父の国日本)
場所】インドネシア文化宮(GBI)。JR高田馬場駅より徒歩約6分。富士大学図書館前正門向かい。
参加費】無料
申し込み】氏名、住所、電話番号(携帯を含む)を明記してメールにて(okawa@mxg.mesh.ne.jp) 尚、スペースに限りがありますので、必ず事前予約をお願い致します。
備考】開催中の日イ友好年認定事業『ヌサンタラ・テキスタイル展』も併せてお楽しみ下さい。また美味しいアチェのガヨ・コーヒーも堪能してください。




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サクラさん(左)と吉丸昌昭さん、そしてディーヴァちゃん(ユニモト提供)


二つの故国をつなぐ歌」のあらすじ

2004年12月、スマトラ島沖大地震&巨大津波で未曾有の大被害を受けたアチェ州。このスマトラ島北端の地で、終戦8日前に旧日本兵とアチェ人の母親との間に生を受けたサクラさん。そしてその孫のディーヴァちゃん。父の消息を何十年もかけて探し続けたサクラさん。ようやく耳にしたのは、父が亡くなっていたとの報だった。亡き父は、実は、早春賦の作詞者の次男だった。津波で家屋ばかりか孫も失ったサクラさん。“どんなに辛くても、早春賦の歌詞のように、希望を捨てずに未来を見つめて生きる”---以来、サクラさんは、アチェで次世代へ『早春賦』の心を伝えていこうと決意。祖母から習い、ディーヴァちゃんらが歌い継ぐ『早春賦』が、被災から二年目を迎えた州都バンダアチェに静かに響く。
(この映画を制作したプロデューサーの吉丸昌昭さんは、作詞者の吉丸一昌の孫にあたり、サクラさんとはいとこ関係)



2007年4月12日付け読売新聞の記事


日本の祖父がつくった早春賦 歌うインドネシア女性
いとこがドキュメンタリー制作



春の訪れを待ちわびる思いをうたった叙情歌「早春賦」を口ずさむ女性が、インドネシア・スマトラ島バンダアチェにいる。女性の名はサクラ・ナルカヤさん(61)。父親は曲の作詞者・吉丸一昌の二男で、先の大戦中に現地で日本の国策会社に勤めていた。サクラさんと、一緒に歌う孫娘を追ったドキュメンタリー映画「二つの故国をつなぐ歌〜Diva 早春賦をうたう」を、映像制作会社社長でサクラさんのいとこに当たる吉丸昌昭さん(67)が制作した。
サクラさんが生まれたのは、終戦直前の1945年8月7日。父親は当時、日本の国策会社の現地支店長で、終戦後間もなく、「必ず迎えに来る」と書いた紙を残して日本へ引き揚げた。だが、その後、音信は途絶えてしまったという。
74年、戦争中にバンダアチェに駐留していた男性が日本から訪れた。ニュースを聞きつけたサクラさんは、その男性を訪ねて父を捜してほしいと依頼。日本の新聞でも紹介されて父親の身元が分かったが、既に亡くなっていた。
サクラさんは10年後に初来日を果たし、父親の家族と対面した。吉丸さんの父親は吉丸一昌の長男。インドネシアからやって来た「いとこ」と初めて会った吉丸さんは、「不思議な気持ちだった」と振り返る。
サクラさんは「7歳のころから、なぜ父がいないのか考えていた」と語った。バンダアチェで日本人に出会うたびに父のことを尋ねていたといい、サクラさんの母は再婚し、新しい父親となった人も自分を大事にしてくれたとも話した。吉丸さんは「彼女は戦争の落とし子。大切にしてあげたいと思った」。お土産として「早春賦」のテープを渡し、自分たちの祖父に当たる人物が作詞したのだと説明した。
サクラさんと家族が住むバンダアチェは、2004年暮れのインドネシア・スマトラ島沖地震の際に津波に襲われた。身を案じた吉丸さんは、数か月後に現地に入った。ほぼ20年ぶりに再会したサクラさんは「早春賦」を口ずさむようになっており、孫娘のディーバさん(11)にも教えていた。津波でディーバさんの妹を亡くし、失意の中で自分を励まそうと歌うことが増えたのだという。
常に温かいバンダアチェに暮らすサクラさんに、春の訪れを待ちわびる歌の意味を伝えるのは難しいと思っていたが、彼女は、日本の祖父がつくった歌を心の支えにしていた。「早春賦は人生の応援歌。彼女はこの歌詞のように生きてきた」と吉丸さんは思う。捜し続けた父の身元が分かった時には既に父はこの世に亡く、その後も津波で被災するなど決して平たんな人生ではなかったが、「寒い季節を耐えた後に、木々は芽吹いていくのです」。
テレビカメラマンだった吉丸さんは、インドネシアを訪れた時などに撮りためてきた映像をまとめ、今回の作品を制作した。サクラさんがディーバさんに自らの半生を語っていく様子に、「早春賦」の歌詞が絡められている。



【第78期インドネシア理解講座の光景】

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涙ぐみながら半生を語るサクラさん


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サクラさんとディーヴァちゃん


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NHKラジオジャパンの取材を受けるサクラさんとディーヴァちゃん


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映画プロデューサーの吉丸昌昭氏が映画製作の背景説明



【サクラさんのスピーチ全文】


まず初めに、このように皆様とお会いできる機会を与えてくださった神様に感謝申し上げたいと思います。また、孫のディーヴァ共々、安曇野市で行われる第25回早春賦祭りに招待してくださった関係者の皆様にもお礼の言葉を申し上げます。
皆様、私は、私の人生がこんなにまでユニークなものであることを夢にも思いませんでした。この体験は、孫の子供の世代まで記憶されていくことでしょう。
この素晴らしい機会を通じて、私はとても感動的、特に、何十年にもわたって、未だ見ぬ父を探し続ける努力をした、私の半生についてお話したいと思います。1945年8月の広島への原爆投下と廃墟の日本。その日本のどこに暮らしているのかも分からなかった、私の実の父。
このお話は『父の国日本、母の国インドネシア』とでも題しましょうか。二つの祖国に暮らす兄弟・親族関係の糸を再び繋ぐために過ぎた、時のお話です。
私、池尻昌言(イケジリ・マサノブ)サクラは、クタラジャ(現在のバンダアチェ)で1945年8月7日に生まれました。父の池尻昌言は日本人、そして母のエマフリダ・ソロンガン・イケジリ(Emafrida Sorongan Ikejiri。愛称エマ)は、マナドの血を引くアチェ人です。
ドキュメンタリー映画『二つの故国をつなぐ歌(Lagu Menyambung Dua Tanah Air)』は、一人の日本兵である父と、マナド生まれのアチェ人である母との間に生まれた私、そして私と同じ父を持つ日本在住の姉真紀子との姉妹関係と友好を描き出しています。
映像制作会社であるユニモトの吉丸昌昭さんによって制作されたこの映画は、あの大混乱の戦争の恨みを乗り越えた、人道・人間性を伝える物語です。
私と真紀子は、いわば“戦争の犠牲者”と言えるでしょう。しかし、それがため、やがて私たちは血の繋がりをもとに、姉妹関係を結わくことになりました。
私の父は、1941年、一日本兵としてアチェに派遣されました。そして、マナド系アチェ人の娘、すなわち私の母ですが、と結婚しました。
私が生後五ヶ月の時、父は連合国に敗れた日本へ戻りました。最初、私の父はアチェに留まって、北スマトラへ逃げようとの気持ちもあったようです。隠れている間、生き延びるために、父は貝殻の容器に入った痒み止めの薬(疥癬薬)を作って、メダンの市場で売っていたそうです。
しかし、最終的にはその逃亡は知るところとなり、日本へ帰国せざるを得なくなりました。でも、父は、サクラはアチェにいるエマフリダとの結婚で生まれた実の子だと、正式に表明しました。父は、手紙も残しました。父の日本への帰国は、同時にバンダアチェの子供と妻との関係を終わらせることになりました。
祖国日本で、父はまったく新たな生活を始めました。私と母とを日本へ連れて行くという約束は、実際のところは、父が死ぬまでに果たされることはありませんでした。
私が七歳になって、母はアチェ人男性で、軍人の、イスカンダールムダ師団勤務のフセン(Husen)という名の少佐と再婚しました。
義父と母のエマは私を成人になるまで育て上げ、そして1965年、20歳だった私を、当時29歳だったズルキフリ・ナルカヤ(Zulkifli Narukaya)というアチェ人男性と結婚させてくれました。当時、夫は何も持っていない小さな事業家でした。
私たちは、まさにゼロからの出発で生活に必死でした。家庭を築く中、最愛の夫から、私の実の父の所在を探し求めるようにと、応援そして後押しを得ました。結婚後、四人の子供に恵まれました。1966年に生まれた長男のムハマッド・ドニ・ジュマディラ・ナルカヤ(Muhammad Doni Jumadillah Narukaya)、1968年に生まれた長女のドゥイヤナ・イカ・フィトゥリ(Dwiyana Ika Fitri)、1969年生まれの次男のデヴィ・ラフマトゥシャ・プトゥラ・ナルカヤ(Devi Rahmatsyah Putra Narukaya)、そして1971年に生まれた次女のディアン・アグスティアサリ・ナルカヤ(Dian Agustiasari Narukaya)です。
これらの子供たちは皆すでに家庭を持ち、11人の孫にも恵まれました。最初の子供はロサリナ・ユリアンティ・イブラヒム・ハサンと結婚し、4人の子(Radian Syukrillah Narukaya, Rabani Syahhidullah, M.Razzaqsyah, Seicha Narukaya)を授かりました。
二番目の子供は、インドネシア空軍パイロットのスゲン・ハルヨノと結婚し、二人の子供(Aria Cakra Haryono, Ardelia Vidia Riana Haryono)を授かりました。
三番目の子供は、ヌルル・ライラ・サリ(Ir. Nurul Laila Sari)と結婚し現在はジャカルタに住んでいます。そして3人の子供(Michiko Mazaya Narukaya, Kenzi, Masanobu)を授かりました。
そして末っ子は、国立シーアクアラ大学工学部講師のムハマッド・ディルハムシャ工学博士(Dr. Ir. Muhammad Dirhamsyah)と結婚し、バンダアチェに住んでいます。そして4人の子供に恵まれました。ダイシ・カリスマ・キスタ(Daisy Karisma Qista)とディーヴァ・ファラヒヤ・イケナシャ(Diva Farahiya Ikenasya)、そして津波で亡くなったディラ(Dira)、そしてディンダ・ユンナ・ヌール・シャドゥリナ(Dinda Yumna Nur Syadrina)です。
皆様。
1945年以降、日本へ戻った父の消息を探す努力の中で、私はありとあらゆる方法をとり、そして何十年も費やしました。旅行者やその他の日本人がアチェにやってくるたびに、私はいつも日本にいる父親の住所を探してくださいと頼み続けました。最愛の父と会えることを願って。
ある時、日本からやってきた元日本兵の竹田さんと出会い、私のそれまでの人生のすべて、そして日本に父親がいることをお話しました。後に、私が話したことが毎日新聞に掲載され、そして私と同じ父を持つ姉、すなわち末浪真紀子が記事を読んで、直接竹田さんに連絡してきました。
姉の真紀子の話によれば、亡くなる前に父は、サクラという名の子供がアチェにいる、と伝えたそうです。その時以来、私と姉の真紀子との姉妹関係・親交の橋が、手紙や電話を通じて築かれました。1974年、真紀子姉さんがアチェに私に会うためにやってきました。そしてついに私たちは感動的な出会いの時を持ちました。そして真紀子姉さんは日本へ戻りました。
1984年、私の祖父であり早春賦の作詞者である吉丸一昌教授の歌碑建立式典出席のため初めて日本に招待されました。この歌は、私たちすべてに、この人生の中で、どのような試練に直面しても強く立ち向かうことを思い起こさせます。そして、この歌のおかげで、立ち上げる強い勇気が湧いてきます。
祖父作詞のこの歌は、日本の学校で必修の唱歌になっていると聞きました。そしてこの歌に秘められた道徳的な求めは、私と真紀子との人生訓になっています。つまり、人は苦難の中にあっても耐えなければいけないという教えです。なぜならば、その向こうに、やがて幸福が待っているからです。
私自身、これまで幾度もとても辛い試練に会いました。小さいときから、私には会える父がいなかったのです。そして2004年11月12日、夫が亡くなり、そして同じ年の12月26日には、私がとっても可愛がっていた孫のディラが、5歳でこの世を去ったのです。アチェを襲った地震と津波被害によってです。さらに、バンダアチェのブランオイ地区にあった私の家も壊滅の難を受けました。 
親愛なる皆様。
(前回の訪問で)日本へ到着した折、姉の真紀子から最愛の父池尻昌言は1972年に他界したことを聞きました。それ故、私は直ちにこの日出ずる国日本で眠る父の墓に向かいました。日本に暫く滞在した後、アチェに戻りました。そして1988年、夫ともにバンダアチェに一軒のホテルを建てました。チャクラドゥニャ・ホテル(Hotel Cakradonya)です。それは大変な苦労でした。色々な方から資金援助の信用を得て、そして丁子(ちょうじ)売買やツバメの巣事業で生み出した資金を使いました。その間、喜びと悲しみの中、一生懸命努力しました。私の母のエマフリダも、七年前に亡くなるまでずっと支えてくれました。母は今、バンダアチェのラムジャバット地区のお墓で眠っています。そしてこの過去数年の間は、相談役兼所有者として、ホテルを管理運営し、生活を送っています。
敬愛する皆様。
この機会に、二人の姉妹の物語を、感動的なドキュメンタリー映画に取り上げてくれた吉丸昌昭プロデューサー、そして大川さん(インドネシア語版で協力)にお礼を申し上げます。第二次世界大戦の激烈の中に生まれた人間性の側面は、これからここインドネシア文化宮(GBI)で上映されますドキュメンタリー映画の“赤い糸”になりました。
映画『二つの故国をつなぐ歌』の存在によって、私の世代、そして次の世代が、先祖のルーツはどこにあるのかを忘れずに、孫の子たちが命を終えても、ずっとずっと親密な関係が続くことを願ってやみません。
謹んで、この機会(来日と懇親会)を作っていただいた日本政府とGBI代表にお礼を申し上げます。聞くところによりますと、この映画は日本政府から推奨されているそうです。私と真紀子の父、池尻昌言は、日本でとても有名な作詞者・吉丸一昌の子供です。この映画を制作したプロダクションハウスの潟ニモトは、日本の文化庁(芸術文化振興基金)から、制作資金助成を受けました。このドキュメンタリー映画の撮影地は、バンダアチェと日本で、2005年〜2007年にロケが行われました。
長くなりましたが、皆様、ご静聴どうもありがとうございました。




【インドネシア文化宮の位置】東京都新宿区下落合1-6-8




【参考ブログ】


インドネシア文化宮(GBI)活動記録
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_2.html

インドネシア文化宮活動記録(インドネシア語)Kegiatan GBI
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200610/article_4.html

アチェの画家マフディさんの個展(Pameran Mahdi Abdullah di NAD)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200802/article_2.html

アジア創造美術展始まる(Pameran Asia Creative Art Exhibition 2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200801/article_2.html

アチェとパプア絵画を国立新美術館で展示(Asia Creation Art Exhibition)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200712/article_1.html

アチェ津波絵画&風刺漫画を義援金に(マフディ・アブドゥラ氏の作品)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200711/article_5.html

アチェ津波被災三周年企画展のお知らせ(Pameran Aceh 3 thn Tsunami)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200711/article_4.html

アチェの津波ポールとアンボンの津波防災啓蒙看板(Tugu Tsunami Aceh) 
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200711/article_3.html

バンダアチェの樹木の運命(2) Nasib pohon2 Banda Aceh(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200711/article_2.html

バンダアチェの樹木の運命(1) Nasib pohon2 Banda Aceh(1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200711/article_1.html

アチェ教育映画上映会のお知らせ(Pemutaran Film2 Aceh)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200710/article_1.html

アチェに死す(3) Kuburan Warga Jepang di Aceh(3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_5.html

アチェに死す(2)Kuburan Warga Jepang di Aceh(2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_4.html

アチェに死す(1) Kuburan Warga Jepang di Aceh(1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_3.html

アチェで日本のドキュメンタリー&アニメ映画を上映(Pemutaran Film di Aceh)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200709/article_1.html

ドキュメンタリー映画『二つの故国をつなぐ歌』がアチェで上映(Film Jepang ke Aceh)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_10.html

アチェのドキュメンタリー映画上映会のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200705/article_4.html

映画『二つの故国をつなぐ歌』ジャカルタ上映&報告
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200704/article_6.html

映画『二つの故国をつなぐ歌』上映会のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200704/article_2.html

早春賦をテーマにした映画が完成しました!
http://soushunfu.blog89.fc2.com/

アチェ伝統刺繍文化展のお知らせ(Pameran Budaya Sulaman Aceh)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200704/article_1.html

映像で見るアチェの今昔
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200701/article_2.html

スマトラ島沖大地震・巨大津波二周年報道写真展のお知らせ
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200612/article_7.html

アチェ&早春賦(映画:二つの故国をつなぐ歌)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200702/article_2.html

2007年8月30日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載された映画上映会に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=1&topik=13&beritaid=33867

2007年4月15日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載された展示会に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=1&topik=20&beritaid=27584

2006年12月26日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載された展示会に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=2&topik=39&beritaid=23554

2006年3月1日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載されたジャパン・アチェ・ネット(JAN)と同紙による津波記録本出版に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=1&topik=26&beritaid=15801

2005年12月26日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載された展示会に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=2&topik=39&beritaid=14753

2005年10月20日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載されたアチェ詩集本「慟哭の歌」出版に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=3&topik=46&beritaid=13505

2005年8月23日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載されたジャパン・アチェ・ネット(JAN)と同紙との協力関係に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=1&topik=46&beritaid=12183

2005年8月20日付け「Serambi Indonesia」紙に掲載されたジャパン・アチェ・ネット(JAN)と同紙による津波記録本出版に関する記事
http://www.serambinews.com/old/index.php?aksi=bacaberita&rubrik=3&topik=20&beritaid=12116



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